第八章 グロースター(GLOUCESTER) その3
次に青葉の姿が闇に浮かび上がったとき、蒼穹は漠然と違和感を覚えた。
何度か消失と出現が繰り返された。現実とは違う夢の中のような、曖昧な感覚。ようやく蒼穹は、気が付いた。
出現するたびに、落下する位置が微妙にずれていた。
上空から始まった墜落は、加速度を付けて地上に迫っていた。消失と出現の間隔が短くなった。青葉の姿がストロボの点滅になった。
突然、落下が停まった。ガラス張りのビルの屋上付近に近付いていた。
青葉の姿が明瞭に形を現した。
風圧で髪が上空に靡いていた。重力に抗うように広げた両腕が、ゆっくりと上昇気流に吹き上げられていた。
羽織った大きめの迷彩シャツが、はためいている。緩く膝を曲げた脚が、所在なげに宙に浮いていた。
突然の暗転。バンドの演奏が始まった。
大音量のロックが響いた。凛華のステージではなかった。駅前広場を挟み、対峙する位置に停められた秋黎会の街宣車だった。
屋根の上のステージがスポット・ライトに照らし出された。
三人組のギター・バンドだった。黒いライダー・スーツに身を包んでいた。長身のメンバーが飛び跳ねながら、音楽を盛り上げた。
扇動する勢いはグース・ダウンに負けない。演奏と同時に、交差点を取り囲むマルチ・ビジョンが一斉に映像を映し出した。
〈嘘っ、私なの……〉
無数の動画が、モザイクのように組み合わされていた。再構成された動画が、それぞれ同時に動いていた。
すべてが蒼穹の動画だった。自転車に跨ってペダルを高回転させる蒼穹の姿が、大小入り混じったパズル・ピースの中で生き生きと甦った。
蒼穹の映像が、左回りにゆっくりと動き始めた。
流れる映像は、それぞれが独自の速度を持って動いていた。大きな河が場所によって流れる速度を変えるように、決してバラバラではなく、大きな調和を作り出していた。
回転する映像は、マルチ・ビジョンに映し出されない場所でも、同じ間隔を保って存在した。
勢いを増す左回りの回転が、ぶつかり合う直前のモッシュ・ピットを連想させた。
疾走する映像に紛れて、違う映像がマルチ・ビジョンに浮かび上がった。
〝無名の反逆者〟〝バベルの塔〟〝フォーク・ゲリラ〟〝東京裁判の東條英機〟
〝六十年安保闘争〟〝秋葉原無差別殺傷事件〟すべての画像が加速度を付けて画像を結んでは消えていく。
すべてが悪漢によって指示された、場所に纏わる言論統制の履歴だった。画像が終わると、
『CRY OUT!』腹に響く低音と共に、文字が表示された。
リード・ギターの即興演奏が始まった。ドライブ感に溢れるフレーズが、群衆を煽り立てた。誰もが知らずに足を踏み、肩を揺さぶっていた。
自転車を停めた蒼穹の姿が、回転する映像に加わった。左向きの流れに逆らって、単独で右回りに空間を遡っていく。
自転車にチェーン・キーを掛けて荷物を抱え、空中庭園に向かって駆け出していく姿が、遡る映像に加わった。
クラヴ・マガを駆使して半グレの敵を倒していく姿。サンドイッチを頬張り、紅茶のボトルを傾ける姿と、遡る映像が次々と続いた。
青葉が拉致される直前から撮られたさまざまな蒼穹の行動が、映像となって駅前広場を取り囲むマルチ・ビジョンの上を流れていく。
〈誰が撮ったの?〉
〝走る女戦士〟として、SNS上で話題になる前から蒼穹の行動が把握されていた。撮影された内容を考えると、政論社か秋黎会のメンバーの可能性が高い。
〈やはり周東がグロースターだったのか〉
騙された悔しさが蒼穹の心に広がった。
最初から、蒼穹は周東に操られていた。グース・ダウンの演奏を待つ間に近付いてきたときから、周東は、すべてのシナリオを企んでいたのだ。
切断された〝日陰の向日葵〟の小指を自転車の前籠に仕込む行動も、メッセンジャー・バッグに発信機を取り付ける行為も、周東の立場ならば容易に実践が可能だ。
蒼穹は激しく頭を振った。
仕組まれた無意味な行動に振り回されていたと思うと、全てが空しくなった。
〈何のために危険を冒し、何のために全力を挙げて、依頼品の配送を続けたのか〉
頭を抱え、すべてを消し去ろうと、蒼穹は強く目を瞑る。
「上を見て!」歓声が上がった。瞼を開けて、蒼穹は頭上を見上げた。
研ぎ澄まされた槍のような複数のサーチライトが、一斉に夜空を突き刺した。
消えていた落下する青葉の姿が、突き立てられた光の間に、再び現れた。枝を離れた木の葉が舞い落ちるように、左右に揺れながらゆっくりと路上に向かって落ちてくる。
地上に迫った青葉の姿は、バラバラの欠片で構成されていた。欠損した暗がりの部分からも青葉の姿が想像できるほど、それぞれの画像が見事に同調されていた。
映像は上空のドローンがぶら下げた反響板に、分割して投影されていた。緻密に計算された演出は、IT機器を最大限に活用した芸術家である周東の仕事に他ならない。
青葉の映像が、マルチ・ビジョンにも映し出された。左右に揺らぎながら落下する青葉の姿が、動き続ける蒼穹の画像の前をゆっくりと遮っていく。
サーチライトの柱が一斉に向きを変えた。それぞれ勝手な方向に動き始めた光の槍が群衆を突き刺した。ドラムスの連打。痛みを伴うほどの閃光が、路上を包み込む。
すべての影が白い光の中に消えた。
ベースが新しいリズムを刻んだ。軽快なテンポのロックン・ロール。路上ライブでは初めて耳にするイントロだった。
昇華するように閃光が消えた。残された暗がりの中に、新たなスポット・ライトが当てられた。
緊張した表情で、迷彩シャツを羽織った青葉が現れた。小柄な身体には大きめに見えるアコースティック・ギターを抱えて光の中に立っていた。
目を伏せたままで青葉が口を結び、手首を振ってリズムを取った。
イントロの最終部からカッティングを強調した奏法で、バンドの演奏に加わった。自在な演奏だった。単独ライブで路上の足を停めさせていた実力を見せ付けられた。
伏せていた視線を青葉が上げた。強い視線で観客を見詰め、マイクに向かう。
バンドのリズムに乗って、青葉が口を開いた。声を振り絞り、叫ぶように青葉が歌い始める。
軽快で親しみやすいメロディーだった。反して、歌詞は先導的で辛辣だ。〝息を殺せ〟〝自分を騙して生きろ〟などの強い言葉が、心に突き刺さっていく。
凛華のハード・ロックとは違う小気味良い刺激が、蒼穹の心と身体を内側から強く揺さ振った。利用された虚しさは完全に吹き飛んでいた。
〈このままで、心地良い波動に身を委ねていたい〉
曲はサビの部分に突入した。
〝高い塔に登れ!〟〝重力を感じ取れ!〟〝声を上げろ〟
青葉が投げかけるメッセージがボルテージを上げていく。
アジテーションがピークを迎えた。強調された字体で、扇動する言葉がマルチ・ビジョンに次々と表示されていく。
凛華の影響を感じた。凛華がプレカリアート問題に向き合う語調と同じだ。間違いなく、作詞に凛華が関わっている。
全てが青葉のメジャー・デビューに向けたプロモーションだった。蒼穹は苦笑した。
〈周東さんにしてやられたのね〉
新宿での拉致も、仕組まれた演出だった。蒼穹は周東に顔を向けた。
『やめろ! やめろ!』
両手を広げ、激しく頭を振りながら怜人が叫んだ。大音量の演奏に遮られて言葉が聞こえない。
周東の姿が怜人の陰から視界に現れた。怜人を停めようと、足を踏み出した。
背後から金髪メッシュが近付いていた。残忍な笑みを浮かべて、金髪メッシュが鉄パイプを振り上げた。
照明を反射させて、鉄パイプの鋭い光が蒼穹の網膜に突き刺さる。
〈だめ! 逃げて〉
背筋が凍り付いた。駆け出した蒼穹は、両目を見開いたままで感覚が停止した。
青葉の演奏がフィルターを掛けたように、現実から遠ざかる。
『くたばれ、右翼野郎!』金髪メッシュの口が動いた。せせら笑うように金髪メッシュの顔が歪み、凶悪な悪魔の醜悪な表情になった。
振り上げた鉄パイプに驚き、群衆を押さえていた戦闘服のメンバーが足を踏み出した。周東に向かって大声で叫ぶ。髪を緑色に染めた隊員だった。
周東の後頭部めがけて、金髪メッシュが鉄パイプを振り下ろした。
部下の言葉に振り返った周到が腕で頭を庇った。
鉄パイプが、周東の腕をへし折った。顔が激痛に歪んだ。腕を抱えて、路上に蹲る。顔を上げ、口を大きく開けて周東が叫声を上げた。
激しいダメージに苦悶する姿が、蒼穹の記憶に焼き付いた。
顔を顰め、金髪メッシュが周東を罵倒した。再び振り上げられる鉄パイプ。次は確実に息の根を止めるつもりだ。
「やめて!」と叫びながら、蒼穹は金髪メッシュに向かって駆け出した。
戦闘服姿の緑色の隊員が金髪メッシュに飛び掛かった。腰にタックルした隊員の背中に鉄パイプが振り下ろされた。
激痛に堪えながらも、緑色の隊員がしがみ付いて離れない。
群衆を押さえていた戦闘服の円が崩れた。一斉に金髪メッシュに飛び掛かった。
登龍の半グレたちも黙って観てはいない。崩れた群衆の壁を飛び出して、戦闘服の秋黎会のメンバーと乱闘になった。
乱状態となった。警察官の警笛が響き渡った。拡声器のアナウンスが乱闘と演奏を停止するように警告を繰り返す。
観客に対しても「立ち止まらないで、移動しなさい。通行の邪魔になります」の勧告が繰り返された。
機動隊が群衆を割って入り込んできた。
「演奏を止めなさい」警告は青葉の演奏にも向けられた。止めようとする警察官と向き合って、雄太が抗議の声を上げた。
「やめるな、演奏を続けろ」雄太が青葉を振り返って叫ぶ。困惑する表情で青葉が演奏を続けた。
遅れを取った蒼穹はダッシュした。乱闘を取り囲んだ機動隊に行く手を遮られた。
〈メッセンジャーだもの、このまま、停められて堪るもんですか〉
無謀だと解っていながらも、引っ込みがつかなくなっていた。何もせずに、強い力に負けたくはなかった。
言葉にならない怒りを大声で叫んだ。機動隊の直前で、蒼穹は足を踏み切った。ジャンプした蒼穹の耳に、青葉がマイクを奪われる音が響いた。
振り返った機動隊員の呆れた顔が目に焼き付いた。
重力に抗えずに蒼穹の身体が機動隊員の中に堕ちていく。捕まえようと機動隊員たちの無数の手が待ち構えていた。
無力を思い知らされただけだった。無力でも手を前に伸ばさずにはいられなかった。
時間が停まって感じられた。ゆっくりと落ちる蒼穹の身体が、機動隊員たちの手に捕まった。
これ以上、前には進めない。蒼穹は、悔しさに滲み出す熱い涙を感じていた。




