第七章 重力(GRAVITY) その4
突き当たった坂道には、見覚えがあった。
〈また、振り出しに戻ったか〉
拉致された蒼穹を追って、最初に走った路地だった。メッセンジャー・バッグのベルトが触れたと怒鳴られ、追ってきた大型ワゴン車を振り切った場所だ。
貸店舗のシャッターを横目に、蒼穹は坂道を急ぎ足で降りた。
不思議な力に導かれていた。すべての要素がスクランブル交差点に集められ、終結する。すべては渋谷から始まった。渋谷での終幕が自然だ。
開幕の舞台で蒼穹は権堂を見かけていた。特徴がある極道そのものの格好だから、強く記憶に残されている。
午後二時過ぎ、凛華が二曲目の演奏を終えたときだった。
始まった〝衛星を撃ち落とせ!〟コールの嵐の中で、権堂が姿を現した。ハウリングと共にスピーカーの電源が落ちる直前だった。
蒼穹は横に並び、ともに坂を下る権堂に訊いた。
「凛華のステージに来ていたわよね。興味があるの?」
「凛華? ……ああ、街宣の姉ちゃん……か」
権堂が関心なさそうに言い切った。考えすぎだった。凛華が目的ではなかった。
「ステージが目的でないなら、どうしてあの時間に、スクランブル交差点にいたの?」
「ヤボ用だ。お前らには関係ない」
渋い顔で、権堂が言い切った。その先の回答は、期待できなかった。権藤は眉を顰め切っていた。
青葉の拉致を阻止しようとしたのか? それとも取り囲むマルチ・ビジョンをジャックした『すべてのGは呪われよ!』のメッセージを阻止する目的だったのか?
駅に向かう人影が増えていた。最初に青葉を拉致したミニ・バンを追い掛けたときには数えるほどだった歩行者が、坂の下で群れを作っていた。
路地の先、バス・ターミナルの手前で、詰まった人波が確実に停滞していた。途中には、あからさまに極悪な雰囲気を醸し出した半グレ集団の姿が見える。
「ショッピング・モールの中を突っ切るぞ、いいな」
「詰まったら、どうするの? 屋内は不利よ。道を替えようにも、脇道がなくなるわ」
心配する蒼穹に呆れ顔を見せて、権堂が苦笑した。
「どうした、女戦士。付け焼刃が剥げたのか? バックヤードだって、駅のコンコースだって、道なんかいくらだってあるぞ。いざとなったら、オフィス階を抜けたっていい」
権堂の指摘通りだった。無理を無理だと考えていては、何もできない。信じて進まない限り、開いている道だって、見えなくなる。
掌底で蟀谷を叩いて、蒼穹は頭を振った。人一倍の負けん気が、冷笑になって込み上げてきた。
「情けないわね、ヤクザ者に講釈を受けるなんて。面白くないけど、従うわ。行きましょう、走るわよ」
「ヤクザ者だと、面白くないだと――」片眉を上げて蒼穹を睨み、権堂が鼻で笑う。「――まあいい、それでこそ、女戦士の面目躍如だ。自転車に乗っているときは、お前ら、どんな場所だって走ってきたろうが。できないなんて、どの口がぬかす」
口を曲げて権堂の言葉を無視し、蒼穹は東棟入口に向かって急いだ。
「ヤクザのくせに、いつまでも喋らないで。箔が落ちるわよ」
〝付け焼刃が剥げた〟のお返しだった。権堂が片方の口を上げて面白がった。
大型ワゴン車が現れた交差点から、ショッピング・モールに飛び込んだ。
突然、現れた蒼穹の姿に驚いた表情の通行人が、いきなりモバイル・フォンを構えた。動揺が広がり、向けられるモバイル・フォンの数が急激に増えた。
通行人が確実に増えていた。蒼穹を囲む人垣以外は、ほとんどがJR渋谷駅に向かう人たちだ。権堂が人混みを掻き分けて道を開けた。
モバイル・フォンに内蔵されたカメラ用のフラッシュ・ライトが点灯し、シャッター音が鳴り響く。騒動の中を、権堂に続いて蒼穹は走った。
「ずいぶんな人気だな。アイドル並みだ」
「迷惑なだけよ。プライバシーなんて、皆無だわ」
モールの中央に配置されたエスカレーターに飛び込んで、動く踏段を駆け登った。京王井の頭線渋谷駅の改札フロアが見えてくる。抽象の壁画が飾られている。
壁画を背にして、三階まで吹き抜けになった視界の開けたガラスの壁があった。ガラスの壁に向かって、人垣ができている。
スクランブル交差点がわずかに覗ける場所だ。スクランブル交差点で〝何かが起こる〟と、怪文書が示していた。
「退け」権堂が肩を差し入れて人混みに割り込んでいく。
文句を言いたげに振り返った通行人が、権堂の姿に怯えて道を譲る。
「すみません、通してください」と、蒼穹は何度も頭を下げ、権堂の後に従った。
「ソラさんですよね?」
気付いた通行人から声が掛けられた。人混みからモバイル・フォンが蒼穹に向けられた。「ええ……ですが」対応に困った蒼穹は、レンズを無視して遣り過ごそうとした。
モバイル・フォンを構えたオタク風の中年男が、塞ぐように前に回り込む。
腕捲りしたワイシャツに、ショルダーバッグを斜め掛けしていた。センター分けした長めの髪が、太めの顔と黒縁眼鏡を強調した。
蒼穹は、男の姿を〝無名の反逆者〟の映像と重ね合わせた。
モバイル・フォン越しに男が訊いた。いつの間にか詰問の口調になっていた。
「何があるんだ? スクランブル交差点で」
「知らないわ。こっちが訊きたい」
中年男のしつこさに苛立ちを隠せなくなった。冷たく言い切ると、中年男がいきなりキレ始めた。
モバイル・フォンを構えたままで、男が狂ったように怒鳴り始めた。
「あんたねえ、無責任なんだよ。自分で巻き起こしたんだろうが、この騒動を。釈明しないの? みんなね、困っているんだよ。何とか言えよ、この野郎!」
掴み懸からんばかりの中年男との間に、権堂が身体を差し込んだ。男からモバイル・フォンを取り上げて、目の前に持ち上げた。
珍しいものでも見るように、表裏を確かめると、あっさりと床に叩きつけて壊した。
「何をするんだ、あんた」
「悪いな、手が滑っちまった」
中年男が呆けた顔をした。怯えた表情を浮かべながら、男が反撃に入った。
「今度はヤクザの登場か。脅したって、負けないからな。力で大衆を押さえ込めると思ったら、間違いだ。僕たちは絶対に……」
「うるせえ。少しは黙れ」
身体で隠すようにして、権堂が男の鳩尾に拳を叩き込んだ。人混みの中に男が尻餅を搗いた。怯えて身体が逃げ出しながら、口だけは勇猛に声を出し続ける。
「横暴だ。個人の権利をないがしろにしている。暴力反対! 謝罪しろ。全国民が、あんたらの言動を見ているんだからな」
モバイル・フォンが乱立していた。もうじき、確実に非難の動画がネット上に氾濫する。溜息が出そうになったが、蒼穹は堪えた。
小事に構っている余裕など今はない。
「来い。急ぐぞ」
出口に向かおうとする権堂を止めて、蒼穹は、なおもガラスの壁に向かった。
「全体の様子を把握したいの」
呆れた顔で、権堂が眉を顰めた。モバイル・フォンの波が行く手を阻んでいた。掻き分けるように、権堂が蒼穹の進路を切り開いていく。
非難の声が、人混みの中から上がった。中年男の発言が切っ掛けになり、群衆が蒼穹の逆風になり始めていた。
「群衆は切っ掛けによって、化け物に変わるからな」
人波を掻き分けながら、権堂が柄に合わない諫言を吐いた。
〈確かに、今この状況下で一番手強い相手は群衆だ〉
隠れた化け物の存在が蒼穹を怯ませたが、停まってはいられない。ピスト・バイクは、ペダルを止めると転倒する。先に先にと進まなければいけないのだ。
人混みと乱立するモバイル・フォンの林を縫って、権堂がガラスの壁に蒼穹を導いた。
外は夕暮れに差し掛かっていた。ガラス越しに覗いたスクランブル交差点の光景は、薄暗く沈み始めていた。
駅ビルに遮られて見えないが、ハチ公前は群衆で溢れているはずだ。
歩道にはみ出した人波だけでも、通常の往来を阻害していた。
通り沿いに並んで停められた黒い街宣車の群れが、群衆を囲う壁に見えた。政論社の車両が置かれていた。昼にライブを行った場所だ。
屋根の上に作られた演説台にスポット・ライトが当たっていた。
凛華の姿が見えない。
交差点の様子を見物する車で、通りが渋滞していた。無数の車幅灯がぼんやりと並んでいた。ずらりと並んだ真っ赤なブレーキ・ランプが時おり眩しく輝いた。
上空で、何かが光った。宵闇に沈む前に、雲間から差し込んだ光が、ビルの窓に反射したのだろう。
ビルの上空には報道のヘリコプターが何機も飛んでいる。機体からの反射も考えられた。
「もう良いわ。現場に行きましょう」
蒼穹は素っ気なく言い切った。
「ずいぶんな態度だな。あんたは、お嬢様か?」
「お嬢様じゃないわ。ただの自転車便」
肩を竦め、権堂が苦笑した。今度は蒼穹が先に立って人波に切り込んでいく。
ガラス越しでは、音も匂いも伝わってこなかった。風や、気温など、もっと、実際の空気を感じたい。
何かが起こる気配は、確実にスクランブル交差点に存在する。
実際に感じなければ、用意された出来事を見逃す恐れがあった。
〈メッセンジャーに選ばれた私には、時代の流れに立ち会う義務があるのよ〉
連絡通路を渡り終えた。ハチ公口に降りる階段に足を向けた。階段前まで人混みが溢れていた。ほとんど先に進まない状態だった。
「バス・ターミナル側に降りるぞ。このままじゃ、埒が明かない」
権堂に腕を引かれた。目的のハチ公前広場から離れるが、とにかく駅から出る必要があった。踝を返し、権堂の後を追って蒼穹は走った。他の客が押し寄せる前に外に出たい。
バス・ターミナル側の出口にも人垣ができていたが、動かないほどではなかった。
恫喝して道を開けさせる権堂に続いて階段を降りた。スクランブル交差点口に向かって人垣が形成されていた。
ハチ公口に向かう階段と同様に、もはや先に進まない状態だ。
「車道を抜けましょう。街宣車まで辿り着ければ、何とかなるわ」
ハチ公前広場の横には、政論社の街宣車が停まっている。凛華が守ってくれると蒼穹は信じていた。
「気をつけろよ。車に轢かれるんじゃねえぞ」
車道に飛び出すと、権堂が振り返った。
「似合わないわよ、優しい言葉は。大丈夫、自転車便を舐めないで」
連絡通路から見えた通り、車道は渋滞していた。車はライトを照らしていた。並んだ真っ赤なブレーキ・ランプが、夜の訪れを実感させた。
駅ビルに合わせてカーブした車道の端を、権堂に続いて走った。
横断歩道に食み出した人混みを避けて大きく車道側に出た。動き出したタクシーがクラクションを鳴らした。車体を蹴って、権堂が睨みを利かせた。
「馬鹿野郎! 調子に乗んなよ」
開けようとした窓が慌てて閉まった。運転手が知らない振りをして、表情を凍らせた。
「余計なことをしないで。もっと急いで」
蒼穹が叱ると、面白くない顔で権堂が唾を吐く。
連絡通路の下を抜けた。視界が開けた。もはや駅前の空間が、入りきれないほど群衆で溢れている。
〈こんな密集状態で、グロースターは何をしようと考えているのか〉
〝剛劉会潰し〟の言葉が、蒼穹の脳裏に浮かんだ。
今ここで剛劉会と登龍の抗争が起こったら、どれほどの一般人が巻き込まれるのか?
そもそも、大きな争いができる状況には思えなかった。
凛華の街宣車からバス・ドラムと、ベースの重低音のサウンドが響いた。街宣車上のステージに登ったバンドのメンバーが調整を始めていた。
「いよいよ祭りの始まりか」
権堂が呟いた。これから起こる筋書きが何か、知っているように蒼穹には聞こえた。
チューニングの音に被さるように、低くうねる音が駅前の空間を覆っていた。羽音のようだった。暗くなった空に、無数の黒い影が浮かんでいた。
「ドローンなの? 誰かが撮影でもしているの?」
半端な数ではなかった。スクランブル交差点の上を幾重にも覆って、黒い影が不気味に空中に停止していた。
意味が解らなかった。空を見上げていた。チューニングを終えたドラムスが、開演のテンポを刻んだ。




