第七章 重力(GRAVITY) その2
首都高速環状線を走り、谷町ジャンクションで、車が首都高速渋谷線に入った。
強引な運転で、銀次が前を走る車両を次々と追い越していく。前面の潰れた黒塗りのレクサスの存在は、脅威以外の何物でもない。
競い合う車両は、一台としていなかった。
わずかに、権堂と同業が疑われる車両だけが邪魔をしようと試みた。だが、接触のリスクを顧みない異常な銀次の運転に呆れて、すぐに無駄な競い合いを止めた。
立体交差するランプが、頭上を塞いだ。パイプと木製パネルで覆われた天井に、蒼穹は圧迫感を感じた。
〈天井が崩落する危機を感じている人は、私だけなのかな〉
東京の道路は、いつもどこかで工事をしている。進化し続けていると表現すれば格好が良いが、要するに、いつまでも未完成、不完全なままだ。
自転車便の仕事でも障害となるケースが多い。
表面づらは取り繕われているが、歩行者や自転車に不便を押し付る場面に、やたらと出くわした。
立体交差が終わり、高速道路を挟み込むように立ち並ぶ古い雑居ビルの壁が途切れた。
円形に建てられた広告塔の大型パネルに、モバイル・フォンのイメージ写真が表示されていた。最先端のモードに着飾った国籍不明の美人モデルが、中空に視線を逸らしている。
広告塔の背後に、未来的なフォルムの巨大インテリジェント・ビルが、空に向かって雄姿を見せ付けていた。
〈まさに、バベルの塔だわ〉
不完全さゆえに拭いきれない崩落の危機と、完全だからこそ湧き上がる破壊の衝動。
東京がグロースターの指定した〝G〟だとしたら、都市の破壊が呪詛の目的なのか?
配達先に指定された場所と用意された物品から連想される対象は、建築物や都市とは明らかに違う。物的な事象というよりも、人に関する内容に思える。
〈動画サイトを見ている誰かが、ヒントをくれないかな〉
絶対的な信頼は置けないが、新しい視点を期待した。どこかにヒントがあるはずだ。
蒼穹はモバイル・フォンを取り出した。権堂が渋い顔をした。
「何をしている。おかしな行動をするなよ」
「サイトを見ているだけよ。いけないの?」
それ以上に権堂の追及は、なかった。蒼穹は動画サイトを開いた。〝女戦士〟〝自転車便〟を指定して検索を掛けた。
蒼穹の横顔を映した再生リストがずらりと並ぶ。親指でスクロールした。
自転車を走らせる蒼穹の姿に混じって、交戦する姿や、半グレの女に倒され、囲まれてボコされる惨めな姿が現れる。
寄って集って情け容赦なく蹴りを入れられる動画には、『閲覧注意』の文字が付記されていた。
『かわいそすぎる』『許せねえ』のコメントに並んで、『調子に乗るから悪い』『ナニサマのつもり?』など感情的な批判も、かなりの数が上げられていた。
再生された動画の罵声と繰り返し蹴り上げられる鈍い音。蒼穹自身の唸り声を聞いていると、悔しさが蘇って涙が込み上げてきた。
負けたくないからこそ我慢してきた。辛い思いが、次々と蘇ってくる。
蒼穹は向日葵の様子を覗き見た。横を向いて背中を見せていた。
〈ダメよ。見られていないからと弱気になっては〉
一度でも崩れると、ずるずると手の付けられない状況まで追い込まれそうだった。
「どうした? ずいぶんおとなしいじゃねえか」
面白がった様子で権堂が声を掛けた。蒼穹は自分を取り戻した。
〈ヤクザの前で弱気を見せてどうするのだ〉
弱みに付け込まれて、利用される結果が見えている。洟を啜って、「戦い方を検討していただけよ」と、強い口調で蒼穹は権堂を跳ね除けた。
動画を切る瞬間に、小さな声が聞こえた。怒鳴り声に紛れて今まで気付かなかったが、女の声だった。
蒼穹を倒した半グレ女の声にしては、音域が低かった。小声ながら、腹の底から出していた。
新宿西口地下広場でスタンディングを実行していた、ハルさんの声とも違う。
ハルさんはフォーク・ゲリラで鍛えた腹から響く声を持っていたが、包み込まれるような優しい声だった。
動画に残された声は、冷たさを感じるほど強く、ナイフのように研ぎ澄まされている。
『もういいわ。思い知ったでしょう』
ところどころが罵声に掻き消されていたが、通しで聞き直すと、女の声が半グレたちを指示していた。
〈グロースターは、女だったのか?〉
東池袋で蒼穹を狙った金髪メッシュの大男が、てっきり登龍の頭だと思っていた。
暴走する男たちを牽制する様子を聞き返すと、声だけの女のほうが、役者が何枚も上だった。
声色が誰かに似ていた。断定はできないが、どこかで聞いた記憶があった。
〈誰だろう? 〝ママ〟? ではないわね。凛華? まさか、隣にいる向日葵ではないわよね?〉
聞き覚えのある女の声だとすれば、数えるほどしか思い当たらない。
〈身近な場所に、敵がいたのか〉
蒼穹の動きを探り、動画を撮り続けていたからには、身近な人物が絡んでいるはずだ。
西新宿の地下では野次馬もいなかった。近距離で鮮明に撮影できた人物は、登龍のメンバーに他ならない。
身内に登龍のメンバーがいたとなると、蒼穹が続けてきた配達の仕事が、仕組まれた、ただの茶番だった可能性が出てくる。
〈何のために?〉
『登龍の壊滅を孫が企てている』と椛島会長が話した。
『怜人が登龍をバック・ボーンにしている』と、雄太が話していた。同じ兄弟のはずだが、『青葉をあいつに取られた』とも話していた。
〈もしかして、声の主は、青葉なの?〉
蒼穹は青葉の声を思い返した。直に言葉を取り交わした記憶は、道玄坂の裏路地で、『逃げるわよ。一緒に走って』と耳元に囁いたときから、数えるほどしかない。
『私は、まだ逃げられない……』と、意外な言葉を青葉が残していた。雄太や怜人との関係を否定した時の声の響きを思い出す。
〈確かに青葉に似ている。だが、断定はできない〉
できるならば青葉ではないようにと、蒼穹は祈った。
青葉を救うために、巨大なGを描く都心の路上を、蒼穹は走り回った。当の青葉が登龍のメンバーだったとしたら、すべてが無駄だったことになる。
蒼穹はメッセンジャー・バッグを肩から降ろした。巣鴨プリズンに向かう路上で気付いたピン・バッチの存在を確かめた。
『ガンバレ!』と書かれたプレートが付いていた。裏に発信機の存在が確認できた。でも、悪意で取り付けられたものではなさそうだ。
拉致された周東が危険に陥らないようにと取り外さなかったが、考えすぎだったようだ。
〈身内の仕業だわね、これは〉
おそらく〝ママ〟ではない。モバイル・フォンの位置データを拾って、〝ママ〟は逐一、蒼穹の動きを把握している。発信機の必要はない。
考えられる人物は、凛華か周東、取り付ける可能性は薄いが、雄太の三人だ。
〈何を企んでいるのかしら?〉
考えながら、蒼穹は窓外を流れ去る景色に目を移した。
高樹町のインター・チェンジが近付いていた。別れていくランプに、渋谷駅方面と表示されていた。追い越し車線に飛び込み、銀次が速度を落としたポルシェを追い越した。
後続車が慌ててスピード・ダウンした。ヤバい車と気付いて間隔を空ける。
銀次が、どこまでも車速を上げていく。一旦、渋谷駅を通り過ぎ、渋谷ランプで首都高速道路を降りて駅前に戻るつもりらしい。
蒼穹は再び動画サイトに視線を戻した。お勧め動画のリストに、気になる写真を見つけた。前の動画が終了して、画面の右下に現れた。
戦車の前に立ちはだかる〝無名の反逆者〟の姿だった。大きく〝SPAi‐S〟の文字が重ね描きされていた。
画面をスクロールさせると、次々と路上の抵抗の姿が現れた。
七十年安保闘争や、ハルさんが関係してきた新宿西口地下広場の反戦フォーク・ゲリラ事件。東京裁判の東條英機や、メイド喫茶の奇妙な接客サービス。
拳を突き上げながら、路上をデモ行進する市民の群れが、続く動画リストに表示されていた。
地味な色彩の動画の中に、ひときわ原色が目立つアイコンを蒼穹は見つけた。
〝いま、声を上げなくても良いのですか?〟
キャッチ・コピーの背景は、フランス革命をテーマにした映画だった。
赤い軍服を着た青年たちが、高く積み上げられたバリケードの上で、フランスの三色旗を振り、大きく口を開けて革命の歌を合唱している。
青年たちを囲み、共に拳を上げる群衆の姿が、バリケードを幾重にも覆っていた。
動画の選択に意図を感じた。蒼穹の行動を含めて、すべての動画が一方向に向かっていた。
〈Gって、もしかして、群衆なの?〉
蒼穹はふと考えた。群衆を呪う言葉なら、マルチ・ビジョンに映し出された〝すべてのGは呪われよ〟の意味が成り立つ。
呪詛の一文が、スクランブル交差点を取り囲むすべてのマルチ・ビジョンを占拠して流された。次の瞬間に、青葉が公衆の面前で拉致され、群衆の意識が一つに向いた。
〈Gは群衆ばかりでなく、群衆を引き寄せる重力をも掛けた詞ではないか〉
重力に導かれるままに、渋谷の雑踏から始まって、最終的に蒼穹は、また渋谷に戻ろうとしていた。
渋谷駅に隣接する高層ビルが聳え立っていた。幾つもの箱を組み合わせたような個性的なビルから駅ビルに向かって、ガラス張りの横断歩道橋が伸びていた。
スクランブル交差点は、建造物に隠されて直接は見えなかった。
ハチ公口の様子が見たいと思い、蒼穹は視線を動かした。駅ビルが邪魔をして見えないが、様子がいつもと違って見えた。
スクランブル交差点に向かう歩道が、群衆で溢れていた。身動きができない様相だった。
駅方面に向けて、右翼団体の街宣車が路肩に列を作って並んでいた。通りの先にプラカードを掲げたデモ隊の姿も見える。
シュプレヒコールと街宣車が鳴らす軍歌が、重なり合って響いていた。
〈凛華や周東の街宣車も集まっているだろうか〉
何かは判らないが、渋谷駅周辺が騒然となっていた。上空に群がる報道陣のヘリコプターが、緊張感を更に高めている。
無線が響いた。剛劉会の車にいるうちは無線をしないと約束したはずの〝ママ〟の声が聞こえた。
『大変よ、ソラ。渋谷駅前が大変なことになっているわ』
「どうしたの〝ママ〟。私も、いま首都高速の上から見ている。どうしてこんなにたくさんの人が集まっているの?」
声を潜めながら蒼穹は〝ママ〟に訊いた。
『スクランブル交差点で何かが起こると、集合を求める怪文書がインターネットを通じて大量に流されているの。一般だけでなく、右翼や左翼の団体あてにも、それぞれに合わせた宣言文が送られているのよ』
意味が解らなかった。動画サイトを閉じて、渋谷駅前を検索した。
〝いま、声を上げなくても良いのですか?〟のメッセージが、検索結果にずらりと並び、様々な予想外の出来事を憶測するコメントが添えられていた。
グロースターの使った〝G〟は、やはり群衆を現していた。
渋谷ランプの表示が現れた。蒼穹は先を焦った。一刻でも早く、スクランブル交差点に辿り着かなければ、すべてが台無しになる。
「急いでよ。何をモタモタ走っているのよ」
蒼穹はハンドルを握る銀次に八つ当たりした。
「馬鹿野郎! これ以上、どうやって速く走れと言うんだ。空でも飛ぶのか」
怒鳴られた銀次が怒鳴り返した。
「自転車なら、もっと早く走れるわ。とにかく、急いで!」
無理は承知だった。だが、少しでも遅れると、周東や雄太の身に危険が迫ると感じていた。前席の座席を掴みながら、蒼穹は苛立つ心を制御できないでいた。




