第一章 アジテーション その2
1
青葉を拉致した黒いミニ・バンが、京王・井の頭線の高架下を抜けた。赤信号の直前だった。急ハンドルで右前方のバス・ターミナルに突っ込んでいく。
スキッドしながら、ミニ・バンが車体を転回させた。ドリフトしながら対向車線に飛び出した。ブレーキングで走行ラインの乱れを調整しながら、すぐにまた左折。
井の頭線沿いの路地に走り込んだ。
〝ウェーブ通り〟の看板がある路地だ。
慌てて逃げる歩行者の間を擦り抜けながら、ミニ・バンが強引に姿を消していく。
チェーン・キーを外した。蒼穹は自転車のサドルに跨った。前籠には、入れた記憶のない小包が入っていた。手に取って確認する余裕はない。
ペダルを逆回転、軸足を使って井の頭線の高架下に向かって車体を方向転換させた。
蒼穹の愛車は、クランクとギアを換えていた。固定ギアのピスト・バイク仕様になっている。
制動装置の付いていないピスト・バイクは日本では違法だ。両親からの激しい反対もあった。
東京でメッセンジャーを再開させた経緯は、両親には内緒だった。
通勤に自転車が必要と説き伏せた。唯一、許可が下りたママチャリを手に入れた。
平坦なニューヨークと違い、東京は坂が多い。固定ギア仕様のピスト・バイクよりも、本来は変速ギアが向いている。
反面、変速ギアだとチェーンが外れやすい。だから、至急便の配達には、向いていない。
機能のデメリットは、鍛えた体力でカバーする。
蒼穹は、サドルから腰を浮かした。ハムストリングと大臀筋を頭の中に意識する。
クランクに最大級のトルクを伝えるために、股関節を中心に、最高の配分でペダルを回転させた。
溢れる歩行者の間を縫い、蒼穹は信号が点滅し始めた高架下の横断歩道に飛び込んだ。
歩行者にぶつからないギリギリのラインで、加速しながら通りを渡り切る。
高架になった井の頭線の渋谷駅が頭上から圧し掛かってくる。高架を支える丸い柱が威圧的に走行を阻んでいた。
歩道の点字ブロックを走り抜けた。震動で、前籠に入った小包が飛び跳ねて転がった。
箱の合わせ目に浮き出した染みが見えたが、歩行者の間を擦り抜けるために注視ができない。
車体を傾けながら、蒼穹は〝ウェーブ通り〟に飛び込んだ。
2
狭い車道の道端に停めた営業のバンが、走行の障害になっていた。歩道からはみ出した歩行者の数は思ったよりも少ない。
通りの先に、暴走する黒いミニ・バンの姿が見えた。クランクになった通りの死角に、黒い車体が消えていく。
〈追いついて確認しなければ〉
クランクの先は五差路になっている。
どこに曲がったかだけでも確かめる必要があった。
レンガ状のブロックを敷き詰めた路面がネックだった。ガタガタと振動をまともに拾って走り難い。安定の悪い路面だった。
腰を浮かし、体重を掛けてハンドルを押さえつけた。限界に達するまで、蒼穹はペダルを踏み続ける。
遊びなく車輪と直結したチェーンが、飛ぶ鳥のように一直線に蒼穹の身体を走らせる。
クランクに飛び込む手前に、横断通路があった。道に並行して聳える巨大ショッピング・モールの東館と西館を繋ぐ通路だ。
エアロ・パーツで飾り立てた大型ワゴン車が、右側から姿を現した。
〈急ブレーキを掛けても止まれない〉蒼穹は判断した。
そもそも、フル・スピードでブレーキを掛ければ、ピスト仕様の愛車は派手に転倒する。
ワゴン車より先に交差点を抜けるために、ペダルを高回転させた。
蒼穹の猛突進に大型ワゴンが怯んだ。残された隙間を縫って、蒼穹は車体をバンクさせた。左に進路を膨らませて、自転車がワゴンの鼻先を横切った。
コンと小さな音が耳に届いた。
メッセンジャー・バッグの固定ベルトが、一本だけ外れていた。蒼穹が巻き起こした旋風に揺れて、ベルトの留め具がワゴン車に当たった音だった。
「馬鹿野郎! やりやがったな」
怒号と共に、耳を劈くほどけたたましくエア・ホーンが掻き鳴らされた。横断通路の狭い空間に反響して、騒音は鼓膜を破る衝撃に変わる。
停まるわけにはいかなかった。構っていたらミニ・バンを見失ってしまう。何より、話し合って解る相手ではない。
片手を上げて、一方的に謝意を表した。体勢を戻して、新たな坂道に突入した。坂を登るミニ・バンのテール・ランプが、赤く光った。
3
加速をつけて、坂道を突っ走る。路面が滑り止めの付いた粗いコンクリートになった。
腰を上げた。腰を左右に振りながら、負荷が増えたぶん強く、強引にペダルを踏み続けた。
改造マフラーの派手な響きを噴き上げて、改造ワゴンが追い掛けてくる。
「待て! この野郎、逃げるんじゃねえ」
野太い怒号が、走る背中を追ってくる。蒼穹は、さらにスピードを上げた。命の危険さえ覚えるほどの勢いだった。
坂の途中に、花屋のトラックが駐まっていた。蒼穹に気付かずに、トラックがウインカーを出した。動き始めて斜めになった大きな車体が、狭い進路を塞いだ。
いちゃつきながら歩いている男女が、蒼穹の思い描いた走行ライン上に入り込んできた。
「どいて、どいて、どいて!」蒼穹は大声で叫んだ。振り向いた女が、突進する蒼穹に気付き、驚いた表情で口に掌を当てた。
派手なエンジン・ノイズと怒号を巻き起こしながら、改造ワゴンが勢い込んで、蒼穹の後ろから追ってくる。
迫力に怯えて、女が足を停めた。慌てた男が女の手を引いて右端に逃げ出した。
〈チャンスだ! 突っ込め〉
ありったけの力を振り絞って、蒼穹は自転車のクランクを高速回転させた。
トラックの鼻先に〝貸店舗〟の張り紙が付いたシャッターが迫っていた。隙間は、かなり狭い。
〈大丈夫。自分を信じて!〉
最短のラインを想定して、蒼穹はトラックとシャッターの隙間に飛び込んだ。自転車が走り抜ける風圧で、シャッターが揺れて音を立てた。
侵入者に気付いたトラックの運転手が慌ててブレーキを掛けた。トラックの鼻先が一瞬だけ沈み込んで、また元に戻る。
反動で揺れを繰り返すトラックの前を、衝突するギリギリで走り抜けた。バンパーと接近した脛の辺りに、微かな擦過の感触があった。
「くそっ、退け! 邪魔するんじゃねえぞ。この野郎!」
改造ワゴンが、急ブレーキを掛けた。タイヤが派手にスキッドする。悲鳴が坂道全体を包んだ。
ワゴン車の中から怒鳴り散らす声が、道を塞ぐトラック越しに聞こえてきた。
体勢を戻しながら、蒼穹は苦笑した。短く息を吐く。
〈大げさなのよ、ストラップが当たったくらいで〉
4
トラックをやり過ごすと、道が開けた。坂を登った先が、斜めに曲がっていた。もうすぐ黒いミニ・バンが坂を登り切る。
メッセンジャー・バッグに取り付けた無線に向かって、蒼穹は声を張り上げた。
「ねえ、〝ママ〟GPSで確かめて。この先で道が見えなくなるけど、交差点はどうなっているの?」
〝ママ〟はディスパッチャーの主任でシングル・マザーだ。ちょっと太めのダイナマイト・ボディだが、渋谷、新宿の路地という路地を知り尽くしている強者だ。
『仕事じゃないわよね、ソラ。何をしているの? ずいぶんスピードを上げているのね』
「詳しい話は後でするわ。車を追い掛けているの。逃がすわけにはいかないのよ」
〝TQサーブ〟の事務所では、モバイル・フォンのGPS機能を利用して、瞬時にメッセンジャーの現在位置を確認できる。
蒼穹の緊迫した声の調子に勘を働かせた〝ママ〟が、納得した調子で即答した。
『路地が斜め左に曲がっているでしょう。先に、左に入る丁字路があるわ。ライブ・ハウスの前よ。ライブ・ハウスの先に玉川通りと道玄坂を結ぶ道路が交差するわね。片側六メートルの道路よ。右に折れると、少し坂を降りて、すぐに道玄坂上交番前の交差点に出るわ』
玉川通りに出るつもりなら、渋谷駅前でバス・ターミナルを抜けなくとも、直進すれば良かったはずだ。
〈右折して道玄坂に出るつもりね。道玄坂に出たら、左折して神泉駅に向かうか、直進して、円山町か? そうね、見失ったら円山町だわね。ラブ・ホテルに逃げ込む可能性が高いものね〉
蒼穹はクランクを高速回転させた。交差点まで大きな障害物は見当たらない。
坂道になど負けていられなかった。蒼穹は死に物狂いで自転車のスピードを上げた。
ピスト・バイク仕様の愛車は、どこまでも蒼穹の期待に応えてくれる。
力を使えば使うほど従順に速度が上がっていく。改造したクランクとチェーンは、相当な高回転でも、壊れる心配はない。
坂を登り切り、交差点を右折した。道玄坂に続く道の先にミニ・バンの黒い車体が消えようとしていた。ウインカーを点滅していなかった。
〈やはり、円山町に逃げ込むつもりね。よかった、なんとか、ギリギリ間に合った〉
道は、わずかに下り坂になった。ミニ・バンを追って、蒼穹は速度を上げた。
風に乗って、一瞬だけ怪しげな匂いがした。匂いの元は判らなかった。路上に放置された生ゴミが饐えて悪臭を立てているような匂いだった。
前籠の中で小包が裏返っていた。中身が気になったが、交差点が目前に迫っていた。
5
蒼穹は顔を上げて道路の状況を確認した。道玄坂は登りも下りも、渋滞していた。身動きを止めた車列の間を見計らって、黒いミニ・バンが対向車線に飛び出した。
タイヤを鳴らしながら、赤信号を無視して、交差点に突っ込んだ。電子ホーンと派手な排気音に反応して、交差点の反対側にある交番から警官が飛び出してきた。
「黒のバン! 停まりなさい」
交番のスピーカーから警告が響いた。信号は赤のままだった。変わる気配が見えない。交差している道玄坂が渋滞しているとはいえ、続けて飛び込むには躊躇いがあった。
警察官に捕まっては、元も子もない。しかし、円山町に続く道は、すぐにカーブを描いて先が見晴らせなくなる。
大人しく青信号を待っていては、肝心のミニ・バンを見失いかねない。
〈行くっきゃないわね〉
警察官から最も離れる曲線を思い描いた。ミニ・バンに続いて、蒼穹は交差点に飛び込んだ。
「待ちなさい! 信号を守りなさい」
警笛と共に、警察官が横断歩道を渡ってきた。蒼穹は腰を上げ、ペダルを強く踏み込んだ。渋滞を擦り抜けて交差点を渡り終えた。
警察官に注目している隙に、ミニ・バンが姿を消していた。
〈まいった。見失ったわ……〉
ひとまず、警察官の追跡を撒く必要があった。このまま立ち止まるわけにはいかない。
直進すると、進入禁止の標識が前方に現れた。手前に右に折れる道と、突き当りを左に曲がる選択があった。
『左折したら一方通行に従う限り、すぐに道玄坂に戻るわよ。円山町からは離れるけれど、まともに考えれば、右折しか選択はないわ』
「オッケー、〝ママ〟車の走行に合わせた道順を教えてね」
指示に従って、和風の瓦塀を巡らせたラブ・ホテルの角を右に曲がった。ミニ・バンの姿は見えなかった。心なしか、左前方から排気音が聞こえた気がした。
『次の交差点を直進。狭いけど、突き当りが右に折れているから、道なりに。手前の交差点で左折すると、元の道玄坂に戻るしか、ルートはなくなるからね』
「道なんか見えないわよ。狭すぎないかな? ミニ・バンが通れるの?」
突き当りを右に入った。直前になるまで、道がある事実さえ気付かない狭さだ。
おまけに、狭い路上に電柱や看板がはみ出している。
『慣れていれば、通れる幅はあるわ。逃げ込むからには土地鑑があるはずだから大丈夫。信じて、ソラ。不安があると、タイムが遅れるわよ』
「解ったわ〝ママ〟。信頼しているわ」
軽い笑い声が、無線から聞こえた。力いっぱいペダルを回しながら、蒼穹は少しだけ心が和んだ。
太めのダイナマイト・ボディから出る声は、いつも柔らかくて優しさに満ちている。
『手前を左折してね。直進だと狭いままだから、おそらく次で左に曲がるわ。二つ目の角を左折して。直進すると、一方通行で道玄坂に戻るからね』
〝ママ〟が指示をした手前の丁字路に毒々しい色のラブ・ホテルの看板が乱立していた。
蒼穹は、ふと怪しい気持ちがした。一方通行の出口だが、テール・ランプの赤い光が、視界の端に残った。
6
丁字路を走り抜けたとき、怒鳴り声と顔を殴る音が聞こえた。
ペダルを逆回転させて急ブレーキ。斜めに滑りながら、蒼穹は自転車を停めた。
怒号と殴る音が続いていた。蒼穹は声を潜めて、無線に告げた。
「何か、ヤバいかも知れないわ。〝ママ〟連絡したら、すぐに110番通報してね」
『了解。だけど、無理はしないで』
自転車をバックさせて、慎重に路地を覗いた。
ミニ・バンが、一方通行を逆走して停まっていた。黒い車体の前方に競技用の自転車と華奢な身体つきの青年が倒れていた。
覆面をした黒ずくめの男たちが二人がかりで、倒れた青年を甚振っていた。
「何をしているの」
蒼穹は悲鳴と共に大声を上げた。黒ずくめの男たちを牽制するためだ。無線に向かって〝ママ〟に110番通報を頼むと、全力でミニ・バンに向かって自転車を走らせた。
ミニ・バンの反対側に、大きめの迷彩シャツを羽織った青葉の姿が見えた。怪我をしている様子には見えなかった。
蒼穹は安堵した。走りながら、さらに大声を上げた。
「やめて! 警察を呼ぶわよ」
青年を甚振っていた男の一人が、蒼穹を見た。鋭い視線が突き刺さる。口元に意地悪な笑みを浮かべ、男が再び青年を殴り始めた。蒼穹の存在は無視だった。
血塗れになりながら、青年が泣きじゃくっていた。顔を背けながらも、思いがけず青葉は冷静な表情のままだった。
遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた。
〈〝ママ〟が連絡してくれたのね。良かったわ〉
男たちが攻撃の手を緩めたら、青葉を奪って、一刻も早く立ち去ろうと思った。
しかし、男たちは暴行の手を緩めなかった。まるで楽しむように倒れた青年の腹を蹴り続けている。
「いい加減にしてよ。警察が来るからね」
自転車を降りた。蒼穹はミニ・バンに向かって警戒しながら歩く。
路地の先、古いラブ・ホテルの横から、大柄の男が現れた。蒼穹は足を停めた。男の姿には見覚えがあった。
凛華の街宣演奏を見ていた暴力団員だった。背広を両肩に掛けて羽織っていた。腰巾着のチンピラを一人、連れていた。黄色いアロハ・シャツを着た、軽い男だった。
拳を握り、妙に落ち着いた様子で、暴力団員が男たちに近付いていった。