第七章 重力(GRAVITY) その1
狡猾な表情を近付けて、椛島会長が顔に刻まれた深い傷を歪めた。
東池袋で目にした『リチャード三世』のポスターを連想して、思わず蒼穹は身を引いた。
「しばらく可愛がった〝登龍〟から手を退こうと、孫たちが謀略を計っている。権堂と一緒に止めて欲しいんだがな」
嗄れた声が、老いて乾いた唇から擦り抜けて聞こえた。暗い洞窟から響くような低音だった。
「奴らは会長を刺した犯人が〝登龍〟の三下だと勘違いしている。向日葵が〝登龍〟を利用して会長に近付いたからな」
感情を殺した声で、権堂が椛島会長の話に補足した。
疑問が浮かんだ。余計だと思いながらも、率直に蒼穹は椛島会長に訊ねた。
「手を切って困るほど〝登龍〟は重要な相手なのですか?」
「正直、面倒な奴らだ。こちらは面倒を見てやっとるつもりだがな。対等だと思い込んでおる。三下まで、ろくに挨拶すらしない」
顔を顰め、椛島会長が蟀谷に手を当てた。
蒼穹には理解ができなかった。そもそも、剛劉会と登龍の関係が解らない。
〈登龍は、剛劉会の下部組織ではなかったのか?〉
探りを入れようと思った。声を潜めて、蒼穹は身を乗り出した。
「関係が切れて、都合良いわけですね。でも、関係を切りたいんなら、なぜ謀略を止める必要があるのですか?」
「時機が悪いんだ。会長の襲撃が半グレの仕業だと信じる若中連中が、登龍を潰せとイキまいている。小競り合いになって死人でも出れば、ソタイの格好の餌食になるだけだ。組潰しと半グレ解体を目指した連中に、鼻息荒い勢いでガサ入れを喰らう」
椛島会長に替わって、権堂が答えた。両膝の間で、権堂は何度も手を組み直した。椛島会長の前では話し難い話らしい。
場の空気を気にせずに、へらへらした調子で銀次が口を挟んだ。
「つまらん内部のいざこざで、剛劉会を潰すわけにはいかねえんだよ。わかるよなあ、ねえちゃんにだって。だからこそ今は、登龍と最終決戦を目論見て、画策している〝お坊ちゃん〟たちに手を退いて頂かねえといけねえんだよ」
「なあにね、難しいことはないんだ。あんたはメッセンジャーの役割を果たしてもらえばいい。権堂と孫とは、馬が合わんのでな。あんたが間に入って欲しいんだ」
身分を弁えない銀次の態度に苦笑いして、椛島会長が覆い隠すように話を繋ぐ。
「どうして私ですか? 悪玉が見つかったのだから、向日葵さんに謝罪させて、丸く治めれば良い話ですよね」
蒼穹は仕事を受けかねていた。ヤクザの手先にだけは、なりたくない。〝TQサーブ〟の利用規約にも、暴力団関係の依頼だけは受けない決まりになっている。
返答を渋っていると、顔を背けたままで、向日葵が唸るように低い声で呟いた。
「悪玉って、なによ。勝手に決めつけないでよ。あたしではないわ。グロースターなんて、これっぽっちも知らないわ」
「私の会社に配送指示をしたでしょう。〝切断した小指〟や〝切り落とした髪〟で綯った絞首刑のロープを小包にして送り付けたわよね」
蒼穹の言葉を聞いて、「はあ? なに、それ?」と眉を顰める。振り向いた向日葵が不機嫌な声を出した。
「言いがかりだわね。あたしは確かにベッドで添い寝している会長を刺したわよ。でも、他には、なんもしてないわ」
予想外の答に、蒼穹は困惑した。向日葵でなくて、誰が小指や髪を送りつけられるのか。
「でも、その指は?」
意地悪な表情を浮かべ、向日葵が嬉々として笑う。
「確かに、小指や髪を切って叩きつけたわよ。嫌がらせのためにね。いけ好かない奴だからさ。あたしがどんなに俊作を愛しているか、見せつけてやったんだ」
一般的な心中立てではなかった。一途に愛する相手ではなく、脅すほど嫌う相手では、立場が逆転していた。
「誰に送り付けたの? 権堂さんではなかったの?」
思わず声が大きくなった。
「さあね、教えたくないわ。自分で調べてみたら」
口を曲げて向日葵が背中を向けた。再びシートに蹲る。
周東の顔が、真っ先に思い浮かんだ。渋谷の駅前広場で最初に〝切断された小指〟の入った小包を受け取った相手は周東だ。
向日葵が蒼穹の配送に関わっていないのなら、受け取った小指を使って、周東が自作自演をした疑いが生まれる。
最初の小包は、凛華のステージを見ている間に、こっそりと自転車の前籠に置かれていた。演奏前に、間違いなく周東が蒼穹に近付いていた。
歩道に駐めた自転車に立ち寄って、前籠に小包を仕込む行為なら、可能だ。
〈他に誰か、近くにいなかったか?〉
向日葵はいなかった。ピンク尽くめの特異な格好が近くにいれば、さすがに蒼穹も気付いているはずだ。
〈だが、コスプレを着替えていたら? 軍服を脱いで、金髪のウィッグを外していたら、どうだ? しかも、過去に〝向日葵〟には会っていない〉
普段着の向日葵が近くにいても、雑踏に紛れて記憶に残るはずがない。
〈でも、さっきの言葉を信じる限り、向日葵はTQサーブを利用してはいない。存在すら知らなかったはずだ〉
しかも、送り付けた相手が蒼穹だとしたら、いけ好かない相手が蒼穹という話になる。
蒼穹には心当たりがなかった。〝ママ〟に見せられた画像を見るまで、向日葵の存在など知る由もなかった。
〈他に誰か、いなかったか? ……そうだ〉
凛華の演奏が始まる前、蒼穹は権堂の姿を群衆の中に見つけていた。
まだ権堂の存在を知らなかったが、いかにも場違いなヤクザの風体だったので、覚えている。しかし、向日葵は送り付けた相手が権堂ではないと暗に示唆している。
蒼穹をメッセンジャーに選んだ理由も、偶然だとは思えなかった。当初はメッセンジャー・バッグに表示されたアドレスを見て連絡してきたと考えたが、安易すぎる。
偶然が重なるたびに、確率は天文学的な数値に近付いていく。
誰かが、明確な意図をもって計画的に進めなければ偶然も起こり得ない。
〈誰なのだ。心中立てを装って、得になる人物とは?〉
すべては群衆の中で発生した青葉の拉致から始まった。いや、正確に言えば、スクランブル交差点を囲むマルチ・ビジョンのジャックが始まりだ。
『すべてのGは呪われよ!』
シェークスピア演劇のセリフを捩った言葉の意味に翻弄されながら、蒼穹は路地を走った。マルチ・ビジョン・ジャックの首謀者がグロースターだと思ってきた。
〈もしも根本から想定が間違っているとしたら?〉
今さら軌道修正はできるだろうか。
モバイル・フォンが短く振動した。〝ママ〟からのメールだ。
画面を見られないように逸らしながら、蒼穹は通信文を確認した。
『G、見つかったよ。意外な画像』
下矢印の方向にスクロール。東京近郊の鉄道路線図が現れた。
『解らなければ、コレ』
次の下矢印を辿ると、マップにギザギザの太線が現れた。渋谷を出てから、蒼穹が走った道筋だった。ほとんど山手線に絡みつくように走っていた。
〈思ったよりも、狭い範囲だわよね〉
TQサーブのテリトリーも、ほぼ同じで、山手線の内側か近隣だ。
『二つの画像を重ねてみて』
特別な画像は現れなかった。離して眺めると、なにやら違和感を覚えた。
〈G……だ! 見つけた〉
蒼穹自身の走った軌跡が、山手線を強調させていた。環状の路線を中央総武線が横切っている。神田=御茶ノ水の路線を加えると、形状が巨大な〝G〟に見える。
JR環状線と言論統制、向日葵の心中立てを利用したグロースターが意図する関連が次第に見えてきた。
だが、何のために関連付けるのか? 肝心の問題が不明のままだ。
権堂が携帯電話を開いた。受信があった。ぶっきら棒に相槌を打ちながら、権堂が必要な事項だけを告げた。
「お坊ちゃんの居場所が判った。渋谷だ。スクランブル交差点。行くぞ」
権堂が銀次に指示した。面倒だと言いたげな表情で、口を曲げた銀次がドアを開けた。
「来いよ。お前がいなくちゃ、何も始まんねえ」
車道に降りた銀次が、蒼穹に向かって手招きした。拒むつもりはなかった。結末を知る権利は、メッセンジャー役の蒼穹にだってあるはずだ。
「私は自転車で行きたい」
「馬鹿野郎、逃げていいですか、と訊くようなもんだ」
笑いながら鋭い目で銀次が睨む。強い力で蒼穹の手首を掴んだ。手首を回して、蒼穹は銀次の手を振り解いた。
「解ったわ。手を掴まなくても、一人で歩けるから」
蒼穹は「退いて」と銀次を睨み、車から降りた。
「それじゃ、親父さん。行きます」権堂が会長に挨拶をして、向日葵の手首を掴んだ。「お前も来い。これ以上あれこれ親父さんの手を煩わすわけにはいかねえ」
「ほっといてよ。あたしなんて、どうなってもいいんだから」
ヒステリーになって、向日葵が権堂に抵抗した。有無も言わせずに、権堂が向日葵の頬を張った。
「お前が良いかどうかの問題じゃねえ。また親父さんに刃物を向けられちゃ、困るんだ」
座席に崩れた向日葵の腕を、権堂が強引に引いた。怯えて震える向日葵が権堂の顔を覗き込み、縋るように訊いた。
「殺すの? 当然だよね。会長を殺そうとしたんだものね」
権堂は無表情のままだった。無言で乱暴に向日葵の腕を引く。激しく抵抗しながらも、向日葵の身体がシートの上を引き摺られた。
「あまり派手にするなよ。閨で刺されたなんて、恥ずかしくていけねえ」
一部始終を見ていた椛島会長が、口を曲げて苦笑した。
「ありがとうございます。すんません、馬鹿な情婦で」
抵抗する向日葵に力尽くで頭を下げさせると、権堂が車の外に出た。車の外に引き摺り出されてもなお、向日葵が抵抗を繰り返した。
荷物でも引き摺るように、権堂が向日葵の身体をレクサスに向かって運んだ。
「どうするんですか、そいつ。連れて行くんですか?」
運転席のドアを開けた銀次が振り返って、いかにも嫌そうに口を開いた。
「放っておくわけには、いかねえ。会長を狙った女だ」
後部ドアを引き開けて、権堂が向日葵をレクサスの車内に押し込んだ。物でも扱うように乱暴だった。蒼穹は権堂に抗議した。
「酷すぎませんか? あなたを愛している女性なんですよ」
「殺されるより、マシだ」
必要以上に説明はなかった。ドアに手を掛けたままで、権堂が「乗れ」と蒼穹に短く指示をした。
無駄に時間を懸ける訳にはいかなかった。雄太と怜人が渋谷から姿を消す可能性だって大いにある。
権堂の指示に従って、蒼穹は車内に入った。隣に権堂が乗り込んでくる。窮屈だが我慢するしか方法はなかった。
「渋谷で何をしているんですか? 雄太くんと怜人くんは」
「さあな。若い奴らの考えは、まるでわからねえ」
権堂が渋い声を出した。運転席から振り返った銀次が残酷な表情で嬉しそうに笑う。
「戦争でも考えているんじゃあねえか。頭をぶっ殺しても、半グレに仁義はねえからな」
蒼穹の隣で権堂が静かに首を横に振る。
「戦争は、できねえな。親父が組の連中を抑えているからな」
「ま、どうでもいいや。発車しますよ、兄貴。急ぎますから、どっかに掴まってください」
エンジンを掛けると、いきなり車を発進させた。乱暴な運転だった。一時停止を無視して大通りに突っ込んだ。信号に構わず、交差点をUターン。
異常な走り方に、競い合う車はなかった。財務省の角を左折して首都高速環状線の霞が関インターを目指していた。
タイヤを鳴らし、車が交差点を曲がるたびに、捨て鉢になった向日葵の身体がドアに叩きつけられた。
掴まる場所などなかった。蒼穹はシートに身体を埋めていた。
両手両足を使って何とかシートの端にしがみ付き、狂気じみた車の動きに堪えていた。




