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メッセンジャーによろしく  作者: 柴門秀文
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第六章 祝祭(GALA) その5

 デモのギャラリーと赤信号に足を停めた群衆に遮られて、〝日陰の向日葵〟との間に、隔たりができた。

 信号待ちの雑踏は、身動きができないほど間隔が詰っていた。

 ハンディ・カメラを構えて交差点内の小競り合いを撮影しようと焦る記者たちが、変わらない信号に苛立ちを見せている。

 隙あらば現場に近付こうと、誰もが車の流れを見計らっていた。自分の立ち位置を確保しようと、意地でも不動の姿勢を崩さない野次馬も集まっている。

「通してください」

 肩先を差し込みながら、強引に蒼穹は前に進んだ。

 蒼穹がネット上の〝女戦士〟と気付いて、モバイル・フォンのレンズを向ける若者が現れた。肩が触れるほど近接した位置から、強引にモバイル・フォンを突き出してくる。

 真似をする若者が増えていく。若者に限らず様々な年齢の男女が、蒼穹の前に小さなレンズを向けた。

 正直言って邪魔だった。掌を翳し、無神経なレンズを遮ると、

「顔を隠すな、バカ野郎!」「何様のつもりだ。調子に乗るなよ」

 少し離れた位置から、無名の正義が怒鳴り声を上げた。

〈そっくりそのまま返すわよ〉

 足を停めて振り返ると、突き出されるモバイル・フォンの数が激増した。怒鳴り声を上げる匿名の英雄たちも、明らかに増えていた。

〈話しても無駄だ〉

 群衆が理不尽な方向に感情を(たかぶ)らせ始めていた。ネット上では蒼穹の人間性を巡って、〝祭り〟状態が繰り広げられているはずだ。

 ヒーローが一転して悪玉(ヒール)に変わる。ネット上のみならず、マスコミでも散々見せつけられた中傷が、まさか蒼穹自身に向けられるとは、想像もしていなかった。

「押さないでよ。危ない!」

 前を塞いだ女が、わざとらしく悲鳴を上げる。「ごめんなさい」と口にして前に進むと、

「聞こえねえのか? 無視するんじゃねえぞ、こらあ」

 胸を突き出して威嚇しながら、年配の男が興奮して怒鳴り始めた。無視して方向を変えると、脇にぴったりとくっ付きながら怒号を繰り返す。

「通してください」

 思わず拳を握る自分に気付いて、蒼穹は息を吐いた。昂る気持ちを、なんとか抑える。

 一般人の、しかも年配の男を殴り倒したら、理由を問わずに袋叩きに遭いかねない。この場だけでなく、社会からも完全に抹殺されそうな勢いだ。

〈慎重にね、蒼穹。何をすべきか、見失わないようにしなくっちゃ〉

 群衆の怖さを蒼穹は実感した。それぞれ別々の方向に向かっていたはずの群衆が、何かしらの切っ掛けによって、同じ方向に同調する瞬間がある。

 ニューヨークの教会を勧めたユダヤ人の友人が、〝ミュンヘン一揆〟の話を例に説明してくれた。

 当時は興味もなく聞き流していたが、まさか東京に戻って実感するとは思わなかった。

 一発の銃声と顫動するメッセージによって、ビヤホールに集まった群衆がヒトラーの主張する〝国家主義革命〟に意識を同化させた。

 一揆は、失敗した。だが、獄中生活でヒトラーは『我が闘争』を書き上げ、ナチス党を強大な権力に引き上げる切っ掛けとなった。

 興奮する男を避けながら、口を閉じ無言で人混みを擦り抜けた。

 いつの間にか諦めた年配の男が姿を消した。捨て台詞を吐いていたが、興奮しすぎて何を言っているのか理解不能だった。

 信号が変わった。先頭から崩れ始める群衆。向日葵の姿が見えなくなった。高く差し上げられたモバイル・フォンの合間から、見え隠れする権堂と銀次の頭部が見えた。

 強引に群衆を掻き分けて、蒼穹は進んだ。横断歩道を渡り終えたピンクの軍服が、ビルに沿った歩道を移動する姿が見えた。

 両脇を権堂と銀次に挟まれて、引き摺られながら進んでいく。腕を鷲掴みされていた。

 振り返って、向日葵が何かを訴えようとしていた。でも、表情が確認できるほどの身動きは許されていなかった。

 デモ隊と街宣車の小競り合いを眺める野次馬の集団を抜けると、通りは閑散とした官庁街の歩道に姿を変えた。今日は日曜日だったと、蒼穹は改めて気付く。

『ねえ、ソラ。どこにいるの?』

 無線から〝ママ〟の声が響いた。気付いた権堂が振り向いて、すぐにまた前を向いた。

『従いて来いよ』と口の形を作って、冷笑しながら銀次が挑発する。

「経済産業省の通りを虎の門方面に向かっているわ。新たに拉致された女性を追っている」

『どうなの? めぼしい手掛かりはあった?』

〝ママ〟から先に、質問された。〝グロースター〟からの連絡が途絶えているためだ。

〝日陰の向日葵〟を連れ去る権堂と銀次が、経済産業省の外れを右に曲がった。慌てて走りながら、蒼穹は〝グロースター〟から届いた小包と伝言の中身を順番に思い返した。

〝切断された小指〟は向日葵で間違いない。左手を厚く覆った包帯が証拠だ。

〝絞首刑のロープ〟を綯った髪は黒色だった。向日葵は金髪だ。ショート・ボブだから、ロープを()うだけの長さがない。

〈でも、ウィッグなら、どうかしら? コスプレイヤーだから地毛でないケースも考えられるわ〉

 ウィッグを外せば、断髪の証拠が確認できるかもしれない。

 周東に対するストーカー行為を繰り返し、執拗にメールを送り付けていた。

〝命〟の刺青も、心中立ての一種だ。

 ただ一つ、〝フォーク・ゲリラ〟の写真だけが違っていた。〝日陰の向日葵〟との関係が。見出せなかった。

 本人から関係を訊き出したかった。成功すれば、もう一歩くらいは真相に迫れるはずだ。

〈真相を知りたい。私が振り回されている理由にも解答が欲しい〉

 角を曲がると、道の両側にパーキング・メーターが並んでいた。赤いポストが見えた。ポストの先に、権堂の黒いレクサスが駐まっていた。

 すぐ前に、キャデラックのリムジンが、強烈な印象で存在を主張していた。ボディ・カラーは、レクサスと同じ黒色だ。

〝日陰の向日葵〟を引き摺った権堂と銀次が、レクサスの横を通り過ぎた。リムジンに向かって歩いていく。

 権堂が近付くと、運転席から黒い背広を着た若い衆が飛び出してきた。深々と頭を下げて、後部シートのドアを開けた。

 ドアの内側に向かって、両足を広げ、権堂が深くお辞儀をした。

 両手両足をバタつかせて向日葵が抵抗した。

「失礼します、親分。女を連れて来ました」

 女の腕を捻り上げて、権堂が強引に車内に引き摺り込んだ。銀次が珍しく真顔で強引に向日葵の背中を押した。

 権堂との間に向日葵を挟んで、銀次がリムジンの車内に乗り込んだ。

「ちょっと待って! 話が訊きたいのよ」

 ドアを閉めようとする若い衆に向かって、蒼穹は全力で駆け出した。荷物を載せたトラックが、蒼穹の目前を横切った。蒼穹は足を停めた。

 トラックが去り、視界が確保できた。リムジンのドアを閉め、若い衆が蒼穹に視線を向けた。車の窓が開き、言葉を掛けられた若い衆が頭を下げた。

「お前! 来い、親分が会われるそうだ」

 蒼穹に向かって若い衆が声を掛けた。再び歩き始めた蒼穹は、今度は慎重になった。

〈ヤクザの親分と車の中で会う選択は、どう考えても危険だわ。リスクが大きすぎる〉

 強引に押さえ込まれて、覚醒剤を打たれる姿を蒼穹は想像した。性的な乱暴を受ける可能性だって、あり得る。

〈馬鹿らしい。今の時点で、私を呼んで乱暴する必要なんてないはずよ。跡目争いの騒動に便乗して、剛劉会潰しの口実を警察に与えるようなものだ〉

 つまらない想像を否定した。相手の動向を探りながら、蒼穹は一足ずつ歩を進めた。

 黒いレクサスの横を通り過ぎた。フロント部分を潰した車の姿を横目で確認した。東池袋の地下駐車場で、BMWを止めるために強引に突っ込んだ姿を、蒼穹は思い出した。

 まともではなかった。目的を遂げるためには、どんな手段でも躊躇せずに行動に移す。感情を強く外に出さない権堂の姿を思い起こすと、恐怖はさらに倍増した。

 若い衆が車の反対側に回り、取っ手を引いてドアを開けた。

 勿体ぶった格好で、権堂が路上に姿を現した。

「早く来い。親分がお待ちかねだ」

「おかしな行為はしないと約束してくれますか? 私は〝日陰の向日葵〟さんに話を訊きたかっただけなんです」

 立ち止まって蒼穹は、権堂の出方を見計らった。呆れた表情で権堂が苦笑した。

「あほ、たかが自転車便(メッセンジャー)だろうが。得にもならんことを、親分はしない」

「でも……」

 蒼穹の返事も聞かずに、権堂がリムジンの車内に戻った。選択の余地はなかった。ドアを開けたままで、若い衆が『車内に入れ』と、無言で蒼穹に目配せをした。

〈ええい、〝常に前向き〟だわ〉

 意を決して、蒼穹は前に進んだ。気付かれないように〝ママ〟に無線を繋ぐ。

「今から、剛劉会の車に乗り込むわ。会長に会うの。無線を繋いだままにするから、会話を録音してね」

『了解。くれぐれも無理はしないでね』

 蒼穹は失笑した。ヤクザの車に乗り込む以上に危険な行為があるとは思えない。

「連絡が途切れたり、暴行が行われたりしたら〝ソタイ〟の吉岡さんに連絡して、場所を伝えて」

『解ったわ。とにかく、終わるまでは、こちらから連絡を取らない。気付かれると困るからね』

 若い衆を睨みながら、蒼穹はリムジンに近付いた。緊張して足が覚束なかった。落ち着くためにポケットに手を入れ、曲がったラッキー・コインを弄った。

 ポケットから手を出した。指に引っ掛かって動いたコインが、ポケットから脱け落ちた。路上で甲高い音が鳴った。

〈拙い……〉

 蒼穹は血の気が引いた。曲がったコインが、駐車するトラックの下に転がって見えなくなった。この期に及んで、探している余裕はない。

 蒼穹は、ゆっくりと大きく息を吐いた。

〈大丈夫よ。何とかなるわ〉

 自分に言い聞かせて、蒼穹はドアの前に立った。

「入りなさい。心配しなくても、素人の娘さんには手を出さんよ」

 (しゃが)れてドスの利いた声が、車内から聞こえた。思いがけず理知的で穏やかな口調だった。

口調が穏やかだからと言って、簡単に受け入れられるわけではない。

 外見はいかに取り繕っても、暴力団は悪事が生業(なりわい)だ。心中立てに走った向日葵の凄惨な現状は、暴力団との繋がりが生んだ悲劇に他ならない。

 腰を屈めて、蒼穹はリムジンの車内を覗き込んだ。

 革張りのシートに大柄な老人が座っていた。イタリア仕立てのストライプの背広に、白いマフラー。ボルサリーノを斜に被っていた。

 視線が合った。鋭い目に見据えられて、蒼穹は身動きができなくなった。頬に深く刻まれた皺を歪ませて、老人が頷いた。引き攣った古傷が皺の間に強調されていた。

「椛島会長だ。乗れ」

 若い衆が蒼穹の背中を押した。不安を抱えながら、蒼穹はリムジンに乗った。

「お騒がせしたね。痛い思いをしたが、なんとか、厄介事は収まった。馬鹿な女だよ、儂などを刺しても、何も変わらんのにな」

 椛島会長の奥に、不貞寝するような格好で向日葵がシートに身体を沈めていた。対面シートから権堂が身を乗り出している。

 権堂に思い切り頬を張られた様子だった。髪が乱れ、向日葵の頬は赤く腫れていた。

「〝俊ちゃん〟を(ないがし)ろにするからよ」

「うるせえ。黙れ、バカ女」

 襟首を掴み、権堂が向日葵に手を振り上げた。面白がった銀次が声を堪えて皮肉に笑う。どうやら、〝俊ちゃん〟とは権堂らしい。

 赦しを乞う哀れな表情を浮かべて、向日葵が怯えた目で権堂を見上げた。

「このクソジジイが悪いのよ。同じ息子なのに、どうして家を出た賢悟(あいつ)ばかりを大切にするの? おかしいでしょう、〝俊ちゃん〟は剛劉会のために忠実に尽くしているのよ」

「馬鹿野郎! 物事には順番があるんだ。椛島会長は筋を通されているだけだ」

 権堂が向日葵を張り倒す。

「やめろ、権堂。大概にしてやれ。先にやるべき問題があるだろう――」

 苦笑しながら、椛島会長が権堂の顔を覗き込んだ。椛島会長は続いて蒼穹に顔を向けた。

「――あんたにも、やってもらうことがある。お願いできるか?」

「私に……ですか?」

 意味も分からずに受け入れる訳にはいかなかった。蒼穹は迷いながら、椛島会長の顔を見上げた。

〈ラッキー・コインを探せばよかった〉

 後悔しても、事態が変わりはしなかった。


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