第六章 祝祭(GALA) その2
〝ママ〟の指示に従って、神田の裏道を縫うように走った。ビルの隙間に大正や昭和初期から続く古い木造建築が点在した。蕎麦屋や鮟鱇鍋、和菓子屋の看板が目についた。
狭い通りにコイン・パーキングが並んでいた。前方から姿を現したロング・ホイールベースのジャガーが、駐車した車両を避けながら進んできた。
大きな車体をギリギリで擦り抜けた。パーキング・メーターの間を縫って、蒼穹は自転車を進めた。
古い印刷所と立ち食い蕎麦屋の間が五差路になっていた。斜めに合流する路地の先に、走り抜ける自転車便の仲間が見えた。腰に結んだ赤いバンダナが目立っていた。
追いかける半グレ集団の姿がビルの隙間を走り抜けていく。
そういえば、しばらく蒼穹はモバイル・フォンのカメラに撮影されていなかった。〝ママ〟の思惑通りに情報が錯綜して、敵も混乱している様子だ。
司町を抜けて内神田に入った。最初から本郷通を抜けて神田橋を目指すルートが最短だった。だが、〝ママ〟の指示に従って、他人目を避けて裏通りを走った。
「そろそろ、皇居が近いわよね」
『首都高速の高架下を通って、一つ目の信号を右折して。次の信号が本郷通りに繋がるわ。幹線道路だから、気付かれないうちに一気に走り抜けて。突き当りの内堀通りを左折よ。メイン・ストリートだけど、皇居外苑を抜けるから、警備が厳しくて、不良どもは簡単に近付けない』
〝ママ〟の説明を聞いて、目的地に近付いたと実感した。蒼穹に協力して東京都内を走り回っている仲間たちに感謝した。
だけど、油断はできない。最後の最後で覆される可能性は未知数だ。
〈でも、タイミングよく〝ウォール街を占拠せよ〟ばりの集会が開かれているのかしら〉
蒼穹は急に不安になった。
〈先まわりして思い悩んでも、何の足しにもならないわ〉
ペダルを強く踏み込み、蒼穹は〝ママ〟に訊いた。
「今日のデモの予定は? 許可申請は出されているよね」
『〝SPAi‐S〟という団体が路上使用許可を取っているわ。〝学生平和会議〟の頭文字らしいけど、主に安全保障関連法案の反対と社会保障の充実をスローガンに、デモ活動を続けているようね』
プレカリアートを問題視する点が、凛華と同じだ。右翼と左翼に立場が分かれていながら、同一の考えを持っている点に、蒼穹は驚かされた。
心情的左翼と自称する凛華だから不思議ではないが、国家と国民を憂えている点で追求すると、右も左も、一周して同じ争点に達するものかも知れない。
〈そういえば、新宿西口広場では、反戦スタンディングの老婦人とも親しくしていたわね〉
頭に思い浮かべた凛華の姿を、一旦、横に置いた。〝聞いていない〟と不審がられないように、トーンを上げて、蒼穹は〝ママ〟に答えた。
「ずいぶん格好いいネーミングね。〝スパイス〟か。イメージ主導なのね」
凛華の『政論社』も周東の『秋黎会』にしても、右翼はどこか野暮ったく、堅苦しい感じだ。戦闘服、街宣車、スピーカーから流れる濁声のアジテーション。
学生の人気が左翼に集まりやすい理由だ。
『主張には難しい論理が含まれていないようよ。〝とにかく、デモに参加しよう〟がスローガンで、〝平和への願いを、まず声に出す〟運動を展開しているわね。言葉をビートに載せて、ラップに換えて伝えているわ』
ラップという展開はどうなのか。深く考えていないように、蒼穹は捉えた。
しかし、考えてみると、凛華もグース・ダウンを使って思いを伝えているし、周東はGトラッドで、芸術家の立場から主義を主張している。
言葉を伝える方法は、形ではないのかもしれない。
〝SPAi‐S〟の活動が見たいと蒼穹は思った。
〈構えなくとも、自然な形で参加できる活動かもね〉
蒼穹は顔を上げて、デモ行進の気配を探った。都市全体が冷めていた。風を切って走る蒼穹の頬に、不安が突き刺さる。耳を澄ませてもシュプレヒコールは聞こえない。
〈実際にデモが実施されていない可能性だって、あるからなあ〉
道は内堀通りに突き当たった。皇居が新緑に包まれて広がっている。
目の前を横切る車の合間を縫って、蒼穹は左折した。遠慮ない車の流れに負けないように、歯を食い縛って自転車を突っ込んだ。
勢いをつけすぎた。隣を走る紙ロールを積んだ大型トラックに急接近した。小さな自転車の車体など、巨体のトラックは相手にしなかった。
荷台に積まれた巨大な紙ロールの山が、蒼穹のすぐ脇を走り抜けていく。背が高い側面の煽りが乱気流を作り出した。渦巻く風が、自転車をトラック側に引き寄せる。
全力でペダルを踏んだ。一度は抜かれそうになったトラックを追い上げた。トラックの鼻先に、蒼穹は飛び出した。大型トラックが、車線を換えて左に折れていく。
お堀を囲む石垣が見えた。皇居外苑に入るとビルがなくなり、右手に櫓が見えた。視界が広がった。新緑の樹木に囲まれた、どこまでも平坦な空間が広がっている。
左手に御幸通りが繋がっていた。通りの先に東京駅の赤レンガが見える。遠くに走り抜ける自転車便と、翻る赤いバンダナが見えた。
〈みんな、ありがとう〉心で感謝しながら、蒼穹は軽快にペダルを踏んだ。
間隔を空けて植えられた松林が果て知れず広がっていた。奥に繁る背の高い樹木で隠された先に皇居が存在する。
風は凪いでいた。滲み出した汗を乾かそうと、蒼穹はスピードを上げた。
モバイル・フォンが鳴った。凛華からだった。
速度を落とし、通話ボタンを押した。タイヤ径の小さいママチャリと違って、走行安定性の高いトラック・レーサーは、手放し走行が容易だ。
『皇居前広場のメッセンジャーさんですか? あなたが、本当のソラさんですよね?』
揶揄う調子で、凛華の声が聞こえた。エンジンと軍歌の音がバックで鳴り響いている。
「本物の蒼穹ですが。番号を、お間違えですか?」
空惚けて、蒼穹は答えた。しばらく続いた緊張が少し解れた。
『インターネット上に、クローン・ソラさんが大量発生しているわよ。混乱しているみたいよ、ネット・ユーザーも半グレたちも』
「配送指示の〝ママ〟が、メッセンジャー仲間に呼び掛けてくれたの。凄いでしょう」
自慢できる仲間たちを持って幸運だった。普段はそれぞれ別行動だが、緊急の情報交換をするなど、チームの結束は強い。
『良い仲間を持ったわね。羨ましい。ところで、今現在、走行している場所は、どの辺りなの?』
「すぐ先に二重橋前の信号が見えるわ。どうして場所を訊くの」
右側に碁笥のような形をした車止めが並べられ、奥まで玉砂利の通路が続いていた。
『今までに指示された場所を考え直してみたの。それぞれが、過去に言論統制が行われた場所か、イメージされる場所なのね。今も日比谷公園に向かっているけど、〝ウォール街を占拠せよ〟に続いた東京行動は、極端な弾圧が行われていないのよ』
「皇居前広場では、何か、言論統制に関係する事件があったの?」
何も起こらない場所に思えた。群衆の集まる姿は見られなかった。皇居参観の夫婦連れやランニング中の姿が点在するだけだ。事件の兆しは微塵も感じられない。
『民衆のデモで戦後初の死者を出した場所よ。デモが崩れ、皇居前広場に雪崩れ込んだデモ隊と警察で騒乱状態となった。昭和二十七年に起きた〝血のメーデー〟と呼ばれる事件だわ。死亡した二人のうち、一人は警官の拳銃で撃たれたの』
「確かに、関係がありそうね。でも、東池袋の〝巣鴨プリズン〟では、言語統制を行った戦犯の刑場だったわ。連想する内容が少しずつ変わっているのではないかしら。言論統制の批判だけではなくて、統制の先に何かを意味付けているような気がするわ」
蒼穹の問題提起に『意味付けかあ』と、凛華が言葉を詰まらせた。
配達先の変化だけではなくて、蒼穹には他にも心に引っ掛かる疑問があった。
「でも、ねえ、どう考えても解らないんだけど、〝切断された小指〟や〝髪で綯った絞首刑のロープ〟〝命の刺青〟が言論統制と、どんなふうに繋がるのかしらね」
『〝心中立て〟の件ね。よくわからないわね。関係ありそうだけど、どこかズレている気もするわね』
周東なら、どんなふうに考えるだろうか。秋葉原で別れたが、暴行を受けた身体は大丈夫なのか。
「周東さんは? 近くにいないの?」
『私の街宣車には乗っていないわよ。連絡を受けて秋葉原に着いたとき、待っていた人物は剛劉会の跡継ぎだけだったわよ』
振り返ったとき、姿を消して見えたのは、やはり間違いではなかった。周東は、どこに行ったのか。あのとき、金髪メッシュの半グレが、間違いなく誰かを探していた。
捕まっていなければいいが。
周東が消えた経緯を考えれば、消えた時機は金髪メッシュの到着よりも前だ。自主的に姿を消したはずだった。
〈犯人に繋がる何かを、周東は知っている〉
何も知らなければ、拉致監禁される必要はない。
考えてばかりで、周囲から注意が離れていた。車線変更した営業のバンが前を塞いでいる。ブレーキ・ランプが赤く光った。片手でハンドルを握り、車線を換えた。
営業のバンが左折して視界から消えた。車線を戻しながら、「ごめんね。もうすぐ目的地だから」と、凛華に詫びて、蒼穹はモバイル・フォンを終話させた。
しばらく遠くに見えていた垂直に切り立ったビル群が近付いた。石垣が堤になって皇居外苑の終わりを示していた。
風が吹いた。内堀の水面が漣を立てて、細かく砕かれた光を周囲に散らした。
内堀を渡り終えると、左側に日比谷公園が現れた。交差点が近付いた。片側四車線あるうちの三車線が右折車線となって分かれた。残された一車線が直進と左折になった。
右折して次を左に折れると警視庁本部庁舎のある桜田通りになる。
直進して交差点を突き抜けた。片側二車線と道幅が狭くなった。左側路肩にブルーの塗料で自転車専用車線が区分されていた。
違法駐車する車が、塗装の上を我が物顔で塞いでいる。
右側の奥に煉瓦造りの洋館が垣間見えた。法務省の赤煉瓦棟だ。明治時代を彷彿させる時代錯誤の建造物が法務省の象徴だとは、皮肉に思える。
顔を上げて、蒼穹は通りの先を確認した。検察庁、公安調査庁、東京地方検察庁と同じ形状の無機質なビルが続く。
「日比谷公園の西側に着いたわ。どこに行ったらいい?」
蒼穹は無線で〝ママ〟に訊いた。待機していたように〝ママ〟が即答した。
『日比谷野音で〝SPAi‐S〟が主宰する抗議集会が開かれているはずよ。公園の外れまで進んだ角のところよ。もう少し直進して』
聳える庁舎に午後の陽射しが遮られて、公園の中まで影が入り込んでいた。公園に目立った人影は、集まっていない。問題になりそうな状況は、確認できなかった。
後ろから、自転車のベルが聞こえた。一台だけではなく、距離を置いてさらに複数台のベルが蒼穹の自転車を追い掛けてくる。
振り返ると、二台の自転車が蒼穹に追走していた。
「無事だったかい、ソラ。もう大丈夫だよ、安心して。皆が心配して集まっているからね」
スピードを上げ、並走したマウンテン・バイクには見覚えがあった。〝TQサーブ〟先輩メッセンジャーの哲さんだった。
赤いサイクル・ジャージにレーパン。腰に赤いバンダナを靡かせている。双子のヤンチャ坊主のパパで、走りの確かさでは会社で一番の信頼を受けている人物だ。
「ありがとう。心配を懸けて、すみません。でも、ヤバい連中が絡んでいるので、絶対に危険には近付かないでくださいね」
笑い掛ける哲さんに蒼穹は注意を促した。
もう一台、並走したオンロード・バイクから、カジュアルな格好をした同期のミチロウが声を出して笑う。
「僕たちは走るだけだからさ、女戦士のソラには敵わないさ。でも、君だって無理しちゃいけないゾ。ヤバい連中なんだよな。できるだけソラも近付かないことさ」
「解っていますよ」
蒼穹は苦笑した。巻き込まれた以上、近付かないわけにはいかない。だからといって、あえて口答えする必要はない。
日比谷野音が近付いた。霞が関方面から、さらにメッセンジャーが走り込む姿が見えた。
単独だった仲間たちが、二台、三台と集まり始めていた。それぞれのグループが蒼穹に向かって結集した。
片手を上げて哲さんが挨拶した。多くは蒼穹には見覚えがない姿だった。おそらく競合他社のメンバーだ。蒼穹の想像をはるかに超えた人数が集まっていた。
〈一つのデモ隊が結成できるのでは〉と考えて、声に出さずに蒼穹は笑った。
「やっぱり凄いな〝ママ〟の求心力は」
蒼穹に向かってミチロウが笑う。
曖昧に笑って蒼穹は話を逸らした。公園の中から騒然とした雰囲気が伝わっていた。群衆の息遣いが強く感じられた。シュプレヒコールと呼ぶより、音楽に近い感覚だった。
ラップに載せて、まだ知らぬ誰かがメッセージを主張していた。
〈やはり、連想する内容は少しずつ変わっている〉蒼穹は確実に時代観の違いを感じた。
公園の入口が近付いた。蒼穹は緊張した。辿り着く野音の先が知りたかった。グロースターが何を考えて、何を求めているのか興味があった。
〈青葉は、どうしただろうか〉
蒼穹は心配になった。怜人に守られて、逃げ切れていればいいが。
中途半端な立場の権堂と銀次が気になった。この先どのように絡んでくるのか。
いずれにせよ、確実に終幕に近付いているはずだ。日比谷野音に向けて、メッセンジャーの仲間たちも集まっていた。
ジャンプして歩道に乗り上げた。
自転車を降りて、蒼穹は公園入口に向かって駆け出した。




