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メッセンジャーによろしく  作者: 柴門秀文
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第五章 呪われた胎(Gebärmutter) その3

 ベースボール・キャップの女に、行く手を塞がれた。ミニ・バンまで、残りわずかの場所だった。

 女越しに、開いているドアの中を覗き込んだ。シートに座る若い男女の脚が見えた。青葉と、雄太の弟だ。

 痩せぎすの身体を動かして、女が視界を遮った。大きな口を開けて、ベースボール・キャップの女が笑う。顔半分が剥き出しの味噌っ歯になった。

「キキッ」と奇妙な声を上げ、中指を立てて女が挑発した。

「退いてよ。あなたに用はないわ」

 前回の戦いでは、驕りが蒼穹を敗北に結び付けた。

 甚振られる雄太を気にして生まれた間隙につけ込まれた。相手が少年だと思い込み、女だと気付くのに遅れた。どれも大きな失点だった。

〈もう、隙を突かれたりしない〉

 挑発に乗らずに護身術の原点に帰る。相手が攻撃を仕掛けてくるまで、先走りは禁物だ。

 ベースボール・キャップの女を見据えながら、ミニ・バンに向かって一歩ずつ歩を進めた。女戦士ではなく、メッセンジャーの蒼穹として。

 女の姿を確かめた。ペンダント付きのネックレス・チェーンを首から下げていた。長さを変えて三本のチェーンが胸の前で交差(クロス)している。

〈一本だけなら、すぐに切れそうだが、三本まとめれば使える〉

 敵の動きを想定しながら、対応する戦法を考えた。

 ゆっくりと、蒼穹は息を吐いた。余計な感情が、身体の中から抜けていく。

 挑発に乗らない蒼穹の態度に、ベースボール・キャップの女が焦りを見せた。笑顔の口元が緊張で引き攣った。

 女が動いた。近付く蒼穹を停めようと、拳を固め、前に踏み出した。女がストレート・パンチを繰り出した。飛び込んでくる拳を避け、蒼穹は身体を捻った。

 女のネックレス・チェーンを掴んだ。腰を沈める動きに合わせて、蒼穹はチェーンを引き下げた。手応えがあった。

 不意を突かれたベースボール・キャップの女が、慌てた表情を見せた。

 膝のバネを使って、蒼穹は飛び上がった。前のめりになった女の首筋に、全体重を掛けて肘打ちを喰らわした。

 塗装を施した地下駐車場の冷たい床に、女が俯せに倒れた。勢い付けて顔面が床に衝突する。(ひしゃ)げた音がした。間髪を入れず、蒼穹は女の腹を蹴り上げた。

 腹を押さえながら、女が仰向けに転がった。とどめに勢いを付けて腹を踏みつけた。「ぐふっ」と言葉にならない音が女の口から(こぼ)れた。

 蒼穹はミニ・バンに駆け寄った。開いているドアの前で、中にいる青葉に向かって手を差し出した。

「逃げよう! これ以上、ここにいると危険よ」

「逃げてもいいが、外に出ては危険だ。仲間(あいつら)が必ず連れ戻す」

 青葉の代わりに若い男の声がした。

 いきなり手を掴まれた。蒼穹はミニ・バンの車内に引きずり込まれた。

 ストレートの金髪に、片目だけ入れた白いカラー・コンタクト。若い男が、訴え懸けるように蒼穹を見詰めていた。

 蒼穹の背後で、スライド・ドアが閉まった。

 後ろ手に結束バンドで親指を縛られた雄太が、三列目のシートに転がされていた。トランク部分に載せられた、競技用の自転車(トラック・レーサー)の車輪が座席の上に覗いている。

「一緒に来てもらうよ。すべてを知りたいんだろう」

 覚悟しろよと言わんばかりに、男が意地悪な表情を歪めて苦笑して見せた。センター・コンソールを乗り越えて、男が運転席に移動する。

「早く逃げて、あなたには関係ないわ」

 二列目シートの奥から、青葉が話し懸けた。必要以上の感情を削ぎ落とし、投げやりな雰囲気が強く感じられた。

 蒼穹はドア・オープナーのレバーを引いた。

 ロックが掛かっていた。チャイルド・ロックだった。内側からでは、ドアは開かない。

「どうして、あんたが? 捕まったのか」

 蒼穹に気付いた雄太が、目を開けて驚きの表情を見せた。

「僕が招待したのさ。たった一人で、危険に立ち向かっていては気の毒だ」

 エンジンを掛け、振り返った男が、馬鹿にしたように笑う。

「やめろ、怜人。この人は関係ない」

「無関係ではないさ。外部との繋がりは、すべてこの人(メッセンジャー)を通して行われている」

 怜人と呼ばれたこの男が、剛劉会の跡目を争う雄太の弟に間違いなかった。

 車外ではミニ・バンの様子に気づいた金髪メッシュが、振り返って何かを叫んでいた。

 状況を知らない弟分たちが、ぽかんと口を開けている。

 形相を変えて金髪メッシュが怒鳴った。慌てた男たちが、権堂と銀次を残してミニ・バンに向かって駆け寄った。

 バックにギアが入った。

 上擦ったエンジン音を立てて、猛烈な勢いでミニ・バンが後退した。

 ベースボール・キャップの女が轢かれそうになる。大慌てで四つん這いになって逃げ出した。

 空いている駐車スペースを見つけて、怜人が急ハンドルを切った。雄太の自転車が側板にぶつかって音を立てた。

 怜人が強くブレーキが踏んだ。身体が背凭れから浮いた。停車と同時に、ギアがDレンジに入る。

 自転車のタイヤがリア・ウィンドウにぶつかった。身体が背凭れに押し付けられる。甲高いスキッド音とともに、今度は横に重力()が掛かる。

 ドアに身体が押し付けた。縛られた雄太が座席の上を滑る。

 塗装された路面を掴みきれずに、フル・パワーでタイヤが空転。左右にテールが揺れる。

 ゴムの焦げた匂いが、車内にも流れてきた。

 背凭れに腕を掛けて、蒼穹はリア・ウィンドウを振り返った。

 追いかけてくる半グレ集団の後方で、権堂が苦笑しながら見送っていた。駐車場の床に何かを叩きつけるように、銀次が大きく腕を振った。

 悔しがって顔を背け、忌々しそうに、いきなり唾を吐いた。

 金髪メッシュがBMWに乗り込んだ。ドアを閉める音が遠く聞こえた。

 急ブレーキが掛かった。身体が前に振り出された。暗いコンクリートの壁が間近に迫っていた。矢印の表示板が貼られている。

 矢印の反対方向に急ハンドルが切られた。突き当りを曲がり、怜人が再び急加速した。

 一方通行に逆らって、ミニ・バンが暴走した。反対側から車が来ないように、蒼穹は祈った。

 祈った(はな)から、フルサイズのダッジ・バンが姿を現した。意地でも通路を譲ろうとはしない。バカでかい車体に、怜人が舌打ちした。

 車を蛇行させながらアクセルを踏み続けた。クラクションを掻き鳴らし、パッシングを繰り返した。根負けしたダッジが僅かに道を開けて停車した。

 駐車スペースに割り込むようにして、僅かな隙間に、無理やり怜人がミニ・バンの車体をねじ込んだ。

 走り抜ける最後にバンと鈍い音が車内に響いた。振動と共にテールが滑る。左右にぶれる車体を立て直すために、怜人がアクセルを強く踏み込んだ。

 地下駐車場にダッジ・バンのエア・ホーンが鳴り響いた。振り返ると、激しい勢いで遠ざかる駐車場の路面に、大きなバンパーが外れて転がっていた。

 前方に出口の表示が現れた。ドリフトして、角を曲がる。通路の先に、ぽっかりと開いた駐車場の出口が見えた。

 追いかける半グレが姿を消した。安心したのも束の間だった。曲がった角から、猛スピードでBMWが飛び出してきた。

 ミニ・バンが出口に突っ込んだ。重心が背中に移動する。追いつかれてたまるかと、怜人が床までアクセルを踏みつけた。

 轟音を響かせながら、ミニ・バンが急な坂を登っていく。

 小さくなる駐車場のフロアを振り返った。自転車(ママチャリ)を置き去りにした。やむなく受け入れた結果を、蒼穹は激しく悔やんだ。

〈すべてが終わったら、取りに戻ろう。それまで盗まれなければいいが〉

 特別にチューン・アップしたピスト・バイク仕様の自転車(ママチャリ)だ。乗りこなせる人間は、蒼穹以外にはいない。だからといって、盗まれて、捨てられたのでは、悔しさはひとしおだ。

 ベースボール・キャップの女と競い合ったせいで、鍵を掛けていなかった。蒼穹にできることは、誰もママチャリに興味を持たないように願うだけだ。

 坂の上に料金自動支払機の黄色いバーが見えた。一直線に車に向かって迫ってくる。派手にタイヤをスキッドさせて、シルバーのBMWが後ろから飛び込んできた。

 駐車券の挿入を要求する間延びした声が流れた。要求を無視して、ミニ・バンがトラ模様のバーを突き破った。

 折れ曲がりながら跳ね上がったバーを、フロント・ガラスが()ぎ取った。宙を舞ったバーの残骸が、路上に転がり落ちて、バウンドした。

 駐車場出口の前に設置された信号機が、黄色から赤に変わる。

 アクセルを踏み込み、怜人がクラクションを掻き鳴らした。ヘッド・ライトを点けていた。インパネの中で遠目の青い表示が光っている。

 尋常でないクラクションの騒音に、車道の車両が慎重になっていた。急停車したタクシーの鼻先を掠め、甲高い音でタイヤを鳴らしてミニ・バンが左折した。

 猛スピードで直進して、サンシャイン・シティの外れの交差点に突っ込んだ。対向車の勢いを削いで強引に右折する。突き当たった都道音羽池袋線に、左折で飛び込んだ。

 そのまま首都高速に沿って、通りを爆走した。護国寺入口方面に向かっていた。

「行く先は秋葉原なの? やっぱり〝向日葵(ひまわり)〟が怪しいのね」

 蒼穹は怜人に訊いた。前を向いたままで首を横に振り、怜人が否定した。

「僕に送られる情報は、おそらく君と同じだ。従うだけなんだ。次の指示が〝日陰の向日葵〟だから、秋葉原に行く。怪しいかどうか、確信はない」

「あなたがグロースターではなかったの?」

 前方の様子を確認しながら、怜人が「違う」と否定した。小刻みにハンドルを動かしながら、折あらば前を走る車を追い抜こうと狙っている。

 三列目シートに転がされた雄太が、話に加わった。

「グロースターは、僕たちとは別人だよ。いずれにせよ、跡目相続に関わり合う人物だけど、該当者は思い浮かばない」

〝該当者〟の言葉に、蒼穹は周東を思い浮かべた。

〈隠さないで、はっきり言ってくれればいいのに〉

「親戚は、いないの? シェークスピアを意識しているんなら、グロースターは親戚だと思うけど」

 もどかしさに耐えられずに、蒼穹は意見を口にした。雄太があっさりと頭を振って否定した。

「叔父さんなら、いる。だけど、対象外だね。ヤクザの家系を嫌って、家を出た人だ。跡目を狙って工作する気など、毛頭ない」

「でも、あの人は野心家だから、手放しで〝良い人だ〟なんて言い切れないわ」

 青葉が口を挟んだ。表情には、想像した人物に対する嫌悪が感じられた。

〈青葉は、雄太と怜人の兄弟の仲を引き裂く共通の恋人のはずだ。嫌悪感を覚えるほど近しい関係者が二人の親戚に存在するのに違いない〉

「あなたは、この二人と、どんな関係なの?」

 思わず口に出して、蒼穹は青葉に訊いた。

「……勘違いしないで。怪しい関係ではないわ」

 最初は口ごもりながらも、青葉が強い言葉で主張した。蒼穹の疑問は、かえって曖昧(あいまい)になっただけだ。

 雄太が口にした〝跡目の権利と共に青葉まで奪おうとした〟〝青葉を巻き込まなければ、雄太が跡目争いに巻き込まれなかった〟の言葉を思い出す。

 怪しい関係でないとすれば、青葉が椛島会長の孫娘だという解釈も、あながち間違ってはいない。

「もしかしたら、あなたは二人の妹なの?」

「それは……」

 青葉が言葉を詰まらせる。

〈はっきりしてよ〉

 言葉に出そうとした。身を乗り出した蒼穹は、激しい衝突音と共にシートに戻された。

 ミニ・バンがバランスを崩して蛇行した。左右に激しく、身体が揺さ振られた。姿勢を取り戻すために、怜人が床までアクセルを踏み込んだ。

「ちくしょう。追突しやがった」

 ハンドルを抱えて歯を食い縛り、怜人が力ずくで調整を試みた。

 蒼穹はリア・ウィンドウを振り返った。BMWが間近に迫っていた。金髪メッシュの表情まで、はっきり見えるほど近い。

 上目遣いに蒼穹を睨みながら、金髪メッシュが口元に凶暴な笑みを浮かべていた。

 男の顔が、さらに近付いた。もう一度、追突するつもりだ。

「しっかり掴まっていろよ!」

 怜人が叫んだ。身体が横に振られた。急ブレーキと共に、怜人がサイド・ブレーキを引く。外の光景が回転するように、目まぐるしく変わった。

 スピン・ターンしたミニ・バンが、荒川線東池袋駅手前の路地に飛び込んだ。スピードを落とさずに、首都高速の高架線下を潜る。

 後方からタイヤの鳴る音が聞こえた。BMWが追い掛けてくる。

 舌打ちして歯を食い縛った怜人が、フル・スピードで次の角に突っ込んだ。


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