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メッセンジャーによろしく  作者: 柴門秀文
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第五章 呪われた胎(Gebärmutter) その2

 無人発券機の横を擦り抜けて、地下に続く坂道(エントランス)を降りていく。

 直線の部分を利用して、前を走る軽ワゴンを追い越した。乗っていた子供が気付き、面白がった。蒼穹を指差して、子供が手を振った。

 運転席を覗いた。驚いたTシャツの父親が緊張してブレーキを掛けていた。

 急な坂道を、ペダルを踏みながら蒼穹は下った。アメ車のピックアップ・トラックが、大きな図体で前方を塞いでいる。

 ブレーキに指を掛け、ギリギリまでスピードを上げた。

 駐車場のフロアに入った。ピックアップ・トラックが場内に方向を変えた。

〈近くに、黒いミニ・バンはないわよね〉

 素早く確認した。車体を傾け、蒼穹はピックアップ・トラックを追い越した。

 ピックアップ・トラックのハンドリングに合わせて、塗装された通路の床が甲高い音を立てた。左右に駐車された車種を確認しながら、蒼穹は全速力で突き当りを左に曲がる。

〈あれは?〉

 柱の陰に隠れる消える黒い車体が見えた。

 車種は判らないが、青葉を拉致したミニ・バンだと直感した。蒼穹はペダルを踏む爪先に力を込めた。サドルから腰を上げ、前傾姿勢で思い切りクランクを高回転させた。

 周囲の車にも注意を払った。追い掛けているつもりで、本命を見落としては意味がない。

 途中に、見覚えがある黒のミニ・バンは見当たらなかった。

 コーナーが近付いた。黒い車体のテールが消えた場所だ。

 ブレーキを掛けて減速した。自転車(ママチャリ)と共に身体をバンクさせて、コーナーに飛び込んだ。

 塗装された床面の冷気を左頬に感じる。絶妙なバランスで、蒼穹はコーナーを曲がり切った。

 ミニ・バンは、すでに次のコーナーに達していた。左に曲がるミニ・バンのドアに、不自然な形で粘着テープが貼られている。

〈見つけた! 周東さんを連れ込んだ車はどこ? 前を走っているはずだけど〉

 ミニ・バンを追って次の通路に飛び込んだ。

 予想通り、ミニ・バンの前にシルバーのBMWが走っていた。

 蒼穹の姿を見つけ、逃げ出すようにミニ・バンが速度を上げる。パッシング・ライトがBMWのリア部分に反射して光った。

〈逃がして堪るものですか〉

 塗装された床面とタイヤが(こす)れる甲高い悲鳴が響いた。地下駐車場の閉じられた空間全体が緊張した。排気ガスの刺激臭が、追い掛ける蒼穹を包み込む。

 息を止め、全力でペダルを踏み込んだ。最高速でクランクを回す。駐車された様々な車が、流れるように後ろに吹っ飛んで行く。

 配管剥き出しの天井から、蛍光灯が(まば)らに下がっていた。薄暗い空間で、白い光が我関せずの冷たい表情を見せている。

〈お願いだから、誰も走って来ないでよ〉

 ミニ・バンのテールを追って、次のコーナーを曲がる。二台の車が走り抜けた直後だから、対向車が前方を完全に塞ぐ状況は考えられない。

 歩行者がいないことに祈って、蒼穹は新しい視界に目を凝らした。驚いた表情で、家族連れが駐車スペースに逃げ込んでいく。

 驚いた表情で幼い女の子が足を止める。抱えるように持っていたオレンジの袋が床に落ちた。袋が破れて、橙色のオレンジが通路に転がり出す。

 女の子が母親の手を離れた。オレンジを追って、通路に迷い出る。

 BMWも、ミニ・バンも、通り過ぎた直後だった。まさか後ろから自転車が追い掛けてくるなんて思いもしないはずだ。

「出ちゃダメ!」

 悲鳴と共に、若い母親が我が子を追って通路に駆け出してきた。上品で高級そうなブランドの服を着ていた。眠った赤ん坊を抱いている。

 母親が小走りに駆け寄った。抱えるように女の子を庇いながら、通路の真ん中にしゃがみ込む。

 想定した走行ラインを塞いでいた。しゃがみ込んだ親子が蒼穹の目前に迫る。

 急激なブレーキは危険だった。タイヤが滑り出し、コントロールを失う恐れがある。

 ペダルを強く踏み込んだ。バランスを崩さないようにしっかりとハンドルを握って、蒼穹は強引に走行ラインを変えた。

〈お願いだから、中途半端に動き出さないでよ〉

 不安定になる重力のバランスを強引に取り戻した。大きくラインを変えることはできなかった。均衡を崩して転倒を余儀なくされる。

 転がったオレンジの間を縫って自転車(ママチャリ)が駆け抜ける。少しでもタイヤが掠ったらお終いだ。

 自分を信じて、蒼穹は、しゃがみ込む親子の脇を擦り抜けた。

〈ミニ・バンは? BMWは、どこに行った?〉

 遅れを取った。猛スピードでお互いに接近しながら、二台の車は次々と下のフロアに向かう通路に飛び込んでいく。

 蒼穹はサドルから腰を上げた。身体全体で自転車の速度を上げた。通り過ぎた親子が気になったが、振り返る余裕などはまるでない。

〈自分の身を挺して、あのお母さんは女の子を護っていたな〉

 ニューヨークから戻った蒼穹を、両親が叱った。血相を変えて、メッセンジャーの仕事に反対した。

〈一方的な干渉だ〉と煩わしく思っていたが、娘を庇う母親を目にして考えが変わった。

 蒼穹(じぶん)も、かなり一方的だった。

〈まあいい。今は、走り続けなければ。途中でなんかは停まれない〉

 下降する狭い通路に飛び込んだ。ミニ・バンのテールが、猛烈な勢いで下の階に向かっていた。タイヤをスキッドさせて、到着したフロアにBMWが消えて行く。

 ペダルを踏みながら、蒼穹は急な坂道を最高速で駆け下りた。ピスト・バイク仕様の蒼穹の自転車は空回りをしない。走っている間は、クランクを回し続ける必要がある。

 どうせだから、スピードを上げた。

 BMWが消えたフロアから、バーンと激しいクラッシュ音が響いた。

 走行する他の車両と接触した様子だった。ガラスの飛び散る音が聞こえた。下手をすると通路を塞がれた恐れがある。

 坂を下りきる前に、ブレーキを掛けた。フロアに飛び出した途端に、事故の破片を踏んで転倒では、サマにならない。

 フロアの手前でスピードを緩めた。自転車を斜めに滑らせて、蒼穹は片足を突いた。

 クラッシュは、通路の先、次のコーナーで起きていた。コーナーを曲がるBMWの側面に、黒いレクサスが突っ込んでいた。

 不自然な衝突だった。側面を目がけて、故意に突っ込んでいる。

 BMWから、やさぐれた風体の男たちが姿を現した。金髪メッシュの長髪(ロンゲ)に顎鬚を短く整えた男が、リーダー格だった。

 黒いジャケットの前を開けていた。シャツを着ていない。鍛え抜かれた胸筋を剥き出しに晒していた。捲り上げた袖から筋肉質の太い腕が伸びている。

 他にも背が高いレスラー体形の男と、体格はデカいが、イマイチ締まりがよろしくないデブがいた。

 レスラー体形の男は、包みきれない筋肉を黒いタンクトップで覆っていた。デブは付け根から袖を切り落としたGジャン姿だ。

 男たちに混じって、ベースボール・キャップの女がいた。雀斑(そばかす)だらけの顔に味噌っ歯。特徴のあるファニー・フェイスを忘れはしない。

 味わった屈辱が鮮烈に蘇った。蒼穹は奥歯で苦々しい思いを噛み締めた。

〈今度こそ、負けないわ〉

 睨みつけた蒼穹に気付き、ベースボール・キャップの女が、蓮っ葉な嘲笑を浮かべた。中指を立てて、女が蒼穹を挑発する。

 男たちは追突したレクサスを取り囲んで、それぞれに怒号を上げた。面白がってせせら笑いながら、立て続けに、ボディを蹴飛ばした。

 鋼板の凹む音が、天井の低い駐車場に響き渡った。

 ボコボコになったレクサスのドアが開いた。

「うるせえな、この野郎! 調子こきやがって。どんだけ手ェ出したら、気が済むんだあ」

 怒鳴り散らしながら、黄色い柄シャツ姿の銀次が現れた。銀次が素早く腕を振り上げる。近くにいたレスラー体形の男が、鈍い声を上げた。

 手首を押さえたレスラー体形の指の間から、ドロリとした黒い血が滲み出す。

 銀次とレスラー体形の男を残して、男たちが間合いを開けた。

 手にしたナイフを振り降ろして、銀次が刃先に付着した血糊を飛ばした。手の甲に飛んだ血飛沫を顔に近付けて匂いを嗅ぐと、隈取をするように頬に擦り付けた。

 残忍な表情で口を曲げ、銀次が薄ら笑いを浮かべる。

 男たちの間から、次々と金属音が聞こえた。手にした飛び出しナイフの刃が光っている。

 ジーンズのポケットからナイフを取り出すと、手首を切られたレスラー体形が身構えた。襲い掛かるための踏み足に、迷いがあった。

 このまま逃げては男のメンツが立たない。レスラー体形の弱腰を銀次が見抜いた。皮肉を込めて、「へへっ」と声に出して笑う。

「無駄だからさ、やめなよ。今度は、手首を落としちゃうかもよ」

「ふざけんな。(ちんば)野郎!」

〝跛〟の言葉に銀次が顔を引き攣らせた。触れてはいけない部分だった。一切の軽薄な表情が、銀次から消えた。

「うぜえんだよ、この糞野郎が」

 狂気を孕んだ鋭い視線で、レスラー体形を銀次が見据えた。

 レスラー体形の顔に恐怖の色が浮かんだ。「うおーっ」と大声を上げて、男の巨体が銀次に襲い掛かる。

 銀次の身体が、障碍(しょうがい)の残った足の側に傾いた。バランスが崩れて見えた。

〈足が(もつ)れたの?〉

 ナイフで刺される銀次の姿を想像して、蒼穹は思わず掌を握る。拳の中が汗ばんでいた。

 銀次に向かって突進するレスラー体形の顔に、勝利を確信した笑みが浮かんだ。

「くらえ」ナイフを握った太い腕が、銀次に向かって突き出された。

 身体を傾けた。男の腕の下を、するりと銀次が擦り抜けた。岩間を抜ける燕のように、自然で鮮やかな動きだった。

 光が走った。肘の内側を、銀次のナイフが正確に切り裂いていた。

 零れるように血糊が吹き出した。レスラー体形の手からナイフが落ちる。床に転がったナイフが甲高い金属の音を立てた。

 床に膝を突き、レスラー体形が銀次を振り返った。右腕がだらりと下がっていた。肘から先が動かなかった。腕の神経が完全に切断されていた。

「可哀想だからさ、手首は残してやったよ。でも、もう使えないだろうな。良かったな。これで、跛の俺と同類だ」

 身体の障碍を利用して、銀次は武器に変えていた。ヤクザ者ながら大したものだ。蒼穹は感心した。弱みを強みに変える発想は、護身術の基本だ。

 動かなくなった腕を、男が動かそうとした。必死になっていた。だが、どうやっても動かない。状況を受け入れたレスラー体形が、腕を押さえて絶望の声を上げた。

 金髪メッシュと締まりのないデブが、銀次との間合いを詰めた。デブの握ったナイフが、照明を反射して駐車場の薄暗がりで鈍く光る。

 ミニ・バンのドアが開き、青葉を拉致した男たちが姿を現した。顰めっ面の痩せ型長身と、四角い顔に古傷のある大柄の男だ。

 痩せ型は手首と太腿に、大柄の男は胸に、それぞれ血に汚れた布を巻いていた。

 ざわざわと邪気の蠢く気配が狭い空間を満たしていた。それぞれが、仲間を傷つけられた報復を果たそうとしている。

 取り囲む男たちの輪が狭まった。血を払うために銀次がナイフを振り降ろした。にやけた表情で腕を下げ、改めて身構えもしない。

 今すぐ、どこから男たちが飛び込んできても、おかしくなかった。

やっちまえ(ダーセイ)!」

 誰からとなく声が上がった。全員が一斉に銀次に襲い掛かった。銀次が奇声を発しながら、ナイフを振り回した。男たちが距離を置いて飛び退いた。

 緊張が走った。

「たいがいにせいや。これ以上、話を大ごとにするな。半グレと暴力団の抗争じゃ、ソタイの思うつぼに嵌るだけだ」

 権堂が拳銃を構えていた。リーダー格の金髪メッシュに照準を合わせている。

 金髪メッシュが顔を(しか)める。捻り出すように、不慣れな日本語で嫌な声を出す。

「都合の良い話ばかりするな。落とし前もつけずにケツを割られた日にゃ、俺たちだって立つ瀬がねえ」

 睨み合いは終わる気配がなかった。蒼穹は周東の安否が心配だった。

 二人組が降りたミニ・バンのドアが開いたままだった。青葉が車内にいるはずだ。

 連れ出そうとして一度は拒絶された。だが、話がややこしくなった今でも同じ考えとは限らない。

 しかも、男たちと一緒にいた青葉なら、周東の幽閉された場所を知っている可能性がある。

 音を立てないように、慎重に自転車を倒した。男たちに気付かれないように足音を潜める。蒼穹はミニ・バンに近付いた。

 あと数メートルのところで、ベースボール・キャップの女に気付かれた。目が合った。味噌っ歯を剥き出しにして、ベースボール・キャップの女がにんまりと笑う。

〈しまった、急ごう〉

 ミニ・バンに向かって、蒼穹は全力で駆け出した。面白がった表情で、ベースボール・キャップの女が蒼穹に向かって動き始めた。

〈捕まるわけにはいかない〉

 蒼穹はポケットの中のラッキー・コインに触れた。塗装された路面を蹴って、蒼穹はスピードを上げた。


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