第一章 アジテーション その1
1
清宮凛華が所属する右翼団体の政論社は、毎週日曜日の午後二時に、渋谷駅前スクランブル交差点で街宣活動を行う。
ハチ公像に近いガード・レールに自転車を駐めて、蒼穹は花壇の端に腰掛けた。
近くに高性能の競技用自転車が駐められていた。
羨ましく思いながら、蒼穹は持ち主を探した。
該当する人物は見当たらなかった。へなちょこな感じの青年がガイドレールの方向に歩いているだけだった。
メッセンジャー・バッグから昼食を取り出した。
食べながら、通り過ぎる様々な人たちを眺めた。
いちゃつきながら通り過ぎる恋人たち。
男連れで、キョロキョロと周りを眺めている背の高い若者たち。彼らは間違いなくナンパの相手を探している。
声を掛けられて、嬉しそうな声を上げるカワイイ格好の少女たち。形だけは嫌がる様子を装うが、内心は、やったとガッツポーズを決めている。
片足を引き摺りながら歩くチンピラ。黄色い派手な柄シャツを着込んでいる。何が不満なのか顰めっ面のままだ。
チンピラが、ナンパ中の若者たちと衝突しそうになった。行く手を阻まれたチンピラが唾を吐いて因縁をつけた。
背の高い若者たちが、あっさりと頭を下げて道を譲り、事態は一応の決着を迎えた。
〈何事もなくてよかった〉
蒼穹は深く息を吐く。周囲には立ち止まり、凛華の街宣を待つ人が増え始めていた。
午前中の仕事の緊張が、身体全体を強張らせていた。
ポケットの中のラッキー・コインに触れた。ポリス・カーに踏まれて一枚が曲がった、二枚のコインだ。
事故に遭ったのだから不幸のコインかも知れない。でも、次は、もっと良い幸運が用意されていると信じている。
〈お願いだから、昼食だけは、ゆっくりと摂らせてね〉
このまましばらくディスパッチャーから無線が入らないように、と蒼穹は祈る。休み時間の間に、凛華の街宣活動だけは堪能したい。
凛華の街宣活動は、バンド演奏で始まる。
所属する『グース・ダウン』は正統なハード・ロックの新鋭バンドだ。インディーズながら、動画サイトを賑わしていた。
厳つい体格の戦闘服を着た男たちのバンド演奏を従えて、黒いメイド服に包まれた、いかにも美少女といった容姿の凛華が、マイクを掴んでシャウトを決める。
力強いメッセージに合わせて、フリルの付いた白いエプロンと長い髪が揺れる。柔と剛を併せ持つ、強烈なギャップが『グース・ダウン』の魅力だ。
主義主張を掲げた幟が、屈強な右翼の隊員に掴まれて、所狭しと風に靡いている。詰めかけたファンが、固唾を飲んで一点を見詰めていた。
街宣車の上で、間もなく凛華のステージが始まる。
まだ凛華の姿は見えない。興奮気味の気持ちを落ち着かせるために、街宣車の中でボンベから高濃度酸素を吸入しているはずだ。
酸欠状態の凛華が、演奏の準備を進めている。想像しただけでも蒼穹の期待は高まった。
演奏が始まるまでに、緊張する胃の中にサンドウィッチを押し込む必要があった。
街宣の準備をするメンバーたちから離れて、白い戦闘服の大男が蒼穹に近付いた。
「また、来ていたのか。国を愛する気持ちに賛同して戴いて嬉しいけどな、あまり、根を詰めるな。公安から目を付けられるからな」
男は周東賢悟、政論社と競い合う右翼団体、秋黎会代表を務める漢だ。
凛華のバンド『グース・ダウン』の熱烈なファンであり、同時にトータルな意味でプロデュースを担当している。
蒼穹は残ったサンドウィッチを包み直してバッグに仕舞った。
「別に、マークされたって構わないわ。周東さんだって、公安の調査対象なんでしょう」
「俺の場合は、顕在右翼だからな。もはや調べ残した場所もないほどに、捜査され尽している。それでも何か事件があると、意味もなくガサ入れされる。あれは、もう脅し以外の何ものでもないな――」
肩を竦めて周東が苦笑した。大柄の男が見せる憎めない仕草は、どうにも可愛く見える。
「――蒼穹だって、親御さんの手前、自宅のガサ入れは困るだろう」
首を横に振って蒼穹は周東に答えた。
「ニューヨークでワーキング・ビザ無しの就労がバレたわ。強制送還された身だもの。何を今さら、って感じよ」
「強制送還されても、親に隠れてまでメッセンジャーを続ける理由って、何だ? 普通に配達の仕事だろう、って俺には思えるけどな」
〝普通に配達の仕事だ〟と他の人に言われたら、即座に反発するところだ。だが、相手が周東だと、すんなりと受け入れてしまう。
不思議な魅力を周東は持っている。
違いは、周東が右翼の論者である事実にある。権力者に向き合う際には、激しい論戦を繰り広げる場合がある。だが、基本的に周東は他人の言葉を良く聴いた。
良い論者は、良い傾聴者であるべきだ。周東の座右の銘だ。
「疾走感……かな。限られた時間内でのミッションを、配送指示やチーム間の情報と、ナビゲーション・システムを駆使して、完遂する。時間を短縮できたときの快感は、最高よ」
「凛華から聞いたよ。ニューヨークで、ポリス・カーに跳ねられたそうだな。よく、生還できたものだ。強運に感心するね」
見詰める周東の真っ直ぐな視線に照れて、蒼穹は顔が熱くなった。恥ずかしさを誤魔化すために、掌で顔を扇ぐ。
何かを見つけた表情を浮かべて、周東が蒼穹に向かって手を伸ばした。間近まで寄ってくる周東の息遣いを首筋に感じる。
鼓動が激しくなった。
2
「バッグを閉め忘れているぞ」
背中のバッグに周東の指が触れた。熱くなった頬を手で包まれるものと勘違いしていた。
年上の周東を相手におかしな妄想をした。自分が恥ずかしかった。口を尖らせて息を吐き、固まって停まっていた掌で、火照った頬を必死に扇いだ。
「とっさに動けた理由は、クラヴ・マガだと思うな。向こうでずっと習っていたからだわ」
「クラヴ・マガか。ずいぶん本格的な護身術を習っていたんだな」
固い話で、ひとまず恥ずかしい状況を誤魔化した。
タイミングを合わせたように、『グース・ダウン』がチューニングを始めた。
バス・ドラムと、ベースの重低音のサウンドが、スクランブル交差点をざわつかせた。
〈助かった。これで、ようやく周東に見つめられなくて済む〉
路上を疾走する姿以外は、見詰められ慣れていない。
周東の視線が凛華の街宣車に移った。顔を上げて、蒼穹も凛華の姿を探す。
街宣車上のステージに登ったバンドのメンバーが一心に調整を続けていた。
ギタリストを連れてメイン・ボーカルの凛華がステージに登る。指慣らしに、ギタリストが速弾きのパッセージを鳴らす。
演奏開始を待ち侘びていた聴衆が、歓声を上げた。
マイク・スタンドに片手を掛け、凛華が口元に笑みを浮かべた。
「衛星を撃ち落とせ!」
先走りして叫んだ熱狂的なファンに凛華が苦笑した。人差し指を立て、左右に振った。
『まだよ、後でね』の形に凛華の口が動いた。
失笑と共に、歓声が上がった。興奮は今すぐにでも噴き上がる準備ができている。
〝衛星を撃ち落とせ!〟とは、バンドの演奏が最高潮に達したときに凛華が叫ぶアジテーションの言葉だ。
GIG(グローバル・インフォーメーション・グリッド計画:戦術用途の偵察衛星の利用計画)と、セッションを意味するGIGの掛け詞になっている。
衛星落としの合言葉は、暗に、大国の情報戦に潰される小国の悲惨さを風刺している。大国からの完全な独立が、政論社の主張だ。
興奮する聴衆の中に、明らかに温度差の違う人物が点在した。
「今日もまた、〝お客さん〟でいっぱいだ」
「公安なの?」
前回、周東から教えられた公安警察のメンバーを、蒼穹は確認した。
左翼集団の集会に潜入する場合には、公安刑事は完全に存在を隠す必要がある。発見されれば、命まで危険に曝されるからだ。
ところが、右翼集会の場合は違う。周東のような皮肉ではなく、同じ反共産主義の同志として、本気で来賓待遇される場合がある。
「あんたは変わっているな。普通に生活していれば右翼や公安警察の情報なんて知る機会もなかったのにな」
「でも、面白いわよ。知らなかった日常に触れる生活は」
顔を見上げると、頼もしそうな表情で周東が笑い返してくれた。
「あまり良い話ではないけどな。悪い話ばっかりだ」
周東の言葉に頭を振って、蒼穹はすぐに前向きの反応を示す。
「メッセンジャーの仕事中でも、日常では知り得なかった事実に、何度も直面したわ。良い意味でも、悪い意味でもね。どうしようもなく嫌な話もあるけど、いつでも思うように決めているのよ。〝せっかくだから、楽しんじゃえ〟って」
「〝楽しんじゃえ〟か、さすが、前向きな凛華のファンだ。君みたいな同志が増えれば俺たちも、やり易くなるのだがな」
苦笑して、蒼穹は首を横に振った。
「同志は無理よ。私は『グース・ダウン』のファンであって、右翼の思想は何ひとつも知らないもの」
「知らないなら、学べばいい。簡単だよ、日本を愛する気持ちや、自分の強い思いを、言葉にすればいいんだ」
強引な勧誘を、蒼穹は「無理、無理」と、笑ってやり過ごした。
チューニングが終わった。ドラムスがスティックを振り上げてテンポを刻んだ。
「ワン、ツー!」
街宣車の上で、演奏が始まった。重低音のベースと切れのいいギターが、噴き上げる熱風のように興奮を一気に盛り上げた。
話し掛けようとする周東に掌を差し出して断った。
演奏に乗って蒼穹は立ち上がった。全身でリズムを刻む。演奏の熱気に少しでも乗り遅れたらもったいない。
前奏が最高潮を迎えた。いきなりのブレイク。
一瞬の静寂を突いて、凛華のボーカルが積み上げられたスピーカーを震わせた。
歓声が上がった。スクランブル交差点前の空間が、興奮に包まれた。日常とは違うエネルギーに溢れていく。
立ち上がる聴衆と、腕を振り上げる若者たち。
観客中央にいきなり発生したモッシュ・ピット。
煽情的な歌詞と、全身を使って引き込もうとする凛華の派手なアクションが、聴衆の熱気を、どこまでも高めていく。
頭を激しく振りながら、路上の興奮が凛華の音楽世界と一体になる。
『新しいドアを開け!』『限界など、ぶち破れ!』
繰り返されるアジテーション。無表情だった公安までリズムに合わせて身体を揺らす。
3
断ち切るように一曲目が終了。
語りを入れずに二曲目も激しいリズムのハード・ロックが続いた。
興奮する交差点の様子を覗き込みながら、何も知らない歩行者が通り過ぎていく。交番の前に立った制服警官が、時折、様子を眺めながらも、見て見ない振りをしている。
普通のストリート・ミュージシャンなら、即刻、道路交通法違反で中止を命じられるところだ。だが、凛華の演奏を中断させようとする警察官はいない。
「特別扱いなのさ。公安の調査対象になっているが、俺たち右翼は行動に責任を持っている。逃げ隠れしないからな」
大音量のロックに遮られながら、大声で周東が蒼穹に説明した。
「協力関係にある、という意味?」
「少し違うな。いざ事件が起こると、嫌がらせに思えるほどド派手なガサ入れがあるし、逮捕の手段だって選びはしない。だけど、俺たちは事前に〝何かやるときは、何かやる〟と仄めかす。公安の奴らが欲しがっている情報は、陰に隠れた潜在右翼の存在だ。実際に事件を起こすのは、団体に属さない〝一般人〟だからな」
凛華の演奏を目で追いながら、周東が口元を歪めて笑う。痛い思いをさせられた経験は、一度や二度ではなさそうだ。
「つまらない違反で、しょっ引くより、恩を売っておいて、関連する〝シンパ〟を探し出したほうが、効果があるって話ね」
「公安警察は情報収集が基本だからな。交番警官が余計な取り調べをしないように、公安が守っている。街宣車が赤信号で交差点に進入しても捕まらない。あれと同じだ」
周東が口にした〝潜在右翼〟〝一般人〟の言葉が、蒼穹の耳に残った。
蒼穹は集まった聴衆を見回した。蒼穹も、事件を起こす〝潜在右翼〟として取り扱われているのか、と心配になる。
気のせいか、周東に教えられた公安警察のメンバーが、蒼穹を監視して見えた。
集まった大半は右翼関係者だが、残りは一般の若者だった。ラフな格好の若者たちの中に、自分が〝潜在右翼〟扱いにされている事実を知る者など、何人いることか。
「個人情報保護だなんて国民に向かってたいそうな命令をしているくせに、全くのお題目ですか……」
独り言を呟くと、凛華の「衛星を撃ち落とせ!」コールが始まった。
偵察衛星に引っ掛けた、個人を無視した情報収集に対する抗議だ。周東の説明を意識すると、凛華が掛け声に込めた本当のメッセージが、より強く心に迫ってくる。
「ショット・ザ・GIG・ダウン!」
「衛星を撃ち落とせ!」
掛け合いコールで煽り立てる凛華と、興奮する若者たち。確実に温度差を見せる公安警察の他に、蒼穹は不審な人物を聴衆の中に見つけた。
大柄の男だった。武闘派の雰囲気を持っていた。右翼のメンバーではなかった。政論社と秋黎会の中には、知る顔がいない。
だいいち、格好から明らかに政治結社の印象とは違っていた。
男は、メタルのサングラスで顔を隠していた。ダーク・スーツにノー・ネクタイ。ワイシャツの釦は胸まで外し、太い金鎖のネックレスを襟元に光らせていた。
袖口から覗く、対になった金のブレスレット。
明らかに暴力団関係者だった。
〈何のために? もしかして、街宣を妨害しようとしているの?〉
不審な思いを告げようと、蒼穹は周東を見上げた。
4
突然、鼓膜を突き刺す高音のハウリングが路上に響いた。続いて、スピーカーの電源が落ちた。
〈何? 何が起こったの?〉
無音になった空間に、交差点の反対側で路上ライブを続ける少女とギターの生音が聞こえた。日曜日のスクランブル交差点で、凛華と人気を分ける戸田青葉だった。
青葉の歌声が聞こえたのは一瞬だった。
再び、重低音のサウンドが、スクランブル交差点を包んだ。『グース・ダウン』の楽曲だった。しかし、響いた場所は凛華のステージではなかった。
頭上から響く爆音のハード・ロック。出所は不明だ。聴衆がそれぞれに顔を動かして、交差点を取り囲むビル群を見回した。
振り返った凛華が動きを停めた。交差点を取り囲むようにビルの壁面に設置された巨大ビジョンが、一斉に映像を変えた。
まるですべてのビジョンが凛華を取り込むように見えた。
爆音のロックに乗せて白一色に変わったスクリーンに、荒々しい筆致で黒い太文字が書き出された。
『すべてのGは呪われよ!』
巨大なスクリーンの枠から、はみ出しそうなほど狂気に満ちたメッセージ。蒼穹は視線を奪われた。
再び巻き起こった高音のハウリング。
呆気にとられた群衆の視線を嘲うように、太文字が巨大化して迫り、画面をすべて黒く塗り潰した。
耳を貫く急ブレーキの高音が、交差点に響いた。
「やめて! 何をするの」
悲鳴と共に、少女の叫ぶ声がした。
マルチ・ビジョンの下に黒いミニ・バンが斜めに停まっていた。
車内から飛び出した黒ずくめの男たちが、抵抗する青葉を、強引に車内に連れ込んだ。
タイヤを激しく鳴かせながら、車が急発進した。
異常な走行に驚いて対向車が急停車した。隙間を縫って、ミニ・バンが交差点を走り抜ける。街宣車の陰を走り去る黒い車体。
閉まり切らないスライド・ドアから、助けを求める青葉の必死な表情が見えた。
〈追い掛けなくちゃ。どこに行くのか、突き止めてやるわ〉
蒼穹は全力で駆け出した。ガード・レールに沿って駐めた自転車が、蒼穹を待っていた。