第四章 亡霊(GHOST) その4
明治通りを走り、神田川を越えた。豊島区に入ってすぐの交差点を右折して、都電荒川線の踏切を渡る。次の交差点を左折して、しばらく裏路地を辿って北に向かった。
道は再び荒川線の線路に沿って続いた。鬼子母神駅を過ぎると、緩やかな登り坂になる。
右手に雑司ヶ谷霊園が見え、突き当りに都電雑司が谷の小さな駅が現れた。
駅前を右折して霊園前の細くカーブする路地を走る。〈ここに東条英機の墓があるのか〉〝ママ〟から聞いた情報を思い出す。
〈不思議な因縁があるのか、いや、ただの偶然だろうな〉
気味の悪い想像を、蒼穹は苦笑して誤魔化した。
右側に古臭い建物の交番が現れた。自転車に乗った老人と、シルバー・カーを押しながら歩く老婆の姿があった。
老人たちの横を、驚かせないように気を付けながら通り抜けた。
池袋駅前の人混みを避けて、裏通りからサンシャイン・シティに向かうルートだった。
池袋駅から少し離れるだけで、思いがけないほど閑散とした光景が続いた。池袋駅周辺の人混みに溢れた都会の印象からは、天と地ほどに懸け離れた雰囲気だ。
普段の蒼穹の配達は、ビジネス街が中心になる。
時間短縮のために、ビル間の路地を抜ける場合が多い。だが、今回のような古い町並みを走る経験は少ない。
〈東京は不思議な街だわよね〉
自転車を疾駆させながら、蒼穹はしみじみと思う。
新しく洗練された都市部から離れると、人影も少なく、古くから残された裏路地が入り組みながら続いている。
最新のファッションを身に着けて最先端の仕事をこなすビジネスマンとは別の場所で、昔ながらの生活を続ける生粋の東京人が存在する。
裏路地ばかり走っていると、永遠に抜け出せない時間の迷路に閉じ込められた気がした。
離れた通りから、緊急走行するパトカーのサイレンが響いてきた。吉岡の覆面パトカーだけでなく、四方八方から幾台ものパトカーが東池袋に向けて集まっていた。
〈現場を荒らさないでって、お願いしたのに〉
警察が探し出すよりも先に、周東の行方を突き止めたかった。ペダルを踏みこむ足に、蒼穹は力を籠めた。
警察に見つけ出され、規制線を張り巡らされてしまえば、一般人の介入は不可能になる。情報のルートが閉ざされる前に、一連の事件の構造を周東の口から訊き出したい。
顔を上げ、蒼穹は前方を見据えた。高速回転する自転車のチェーンに不安はない。
ビルの合間を横切る首都高速の高架の上に、サンシャイン60が姿を見せた。建設当時は東洋一を誇ったとされる高層ビルも、時を重ねた今では、精彩を欠いている。
建設当時とは言っても、蒼穹が生まれて育ってきた年月の二倍以上も昔だ。後発の存在感があるビルに次々と追い越されても、不思議はない。
天空庭園を目にして以来、抱き続けている〝バベルの塔〟のイメージを、蒼穹は目の前の高層ビルに投影した。
神の国に近付きながらも、到達し得なかったバベルの塔が、ここにもあった。都市は常にさらなる高みを求め、新たな挑戦を繰り返して行く。
バベルの塔の姿こそ、虚栄に満ちた支配者の辿り着く場所だ。
剛劉会の跡目争いも、同じだ。競い合い、抗争の果てに到達した高みであっても、すぐに新たな敵が現れる。支配者の座は、永遠に留まることが許されない不安定な場所だ。
権力抗争には終わりがない。手打ちして終焉を迎えても、永遠の安定などありえない。
道玄坂と天空庭園で目にした、雄太に対する権堂と銀次の言動が、脳裏に蘇った。
雄太が剛劉会の跡目相続の有力候補だと知りながら、権堂と銀次の採った態度は、服従とは懸け離れていた。
ボコされた後から登場していては、ボディ・ガードの役割など果たせない。天空庭園の銀次に至っては、雄太を脅し、飛び出しナイフまで向けていた。
〝ボディ・ガードの役割を無理やりに命じられたが、積極的な実行に移すには、不服がある〟といった印象だった。権堂の行動には、明らかな戸惑いが感じられた。
曖昧な立場を取り続けていたが、組織に対する疑問や不満は、間違いなく抱いていた。
〈権堂も、混乱に乗じて権力の座を狙っている人物の一人だ〉
蒼穹は確信した。おそらく、銀次も権堂に対して同様の思いがあるはずだ。
登場人物が、それぞれに違う方向を向いて、自分のバベルの塔を目指していた。そのせいで事件の中心人物が見えてこない。
〈誰が、何のために一連の事件を起こしているのか? 剛劉会の跡目争いと戸田青葉の拉致が、いったいどこで繋がっていくのか?〉
首都高速道路の高架が目前に迫っていた。事件に気を取られて自転車の速度が落ちた。
腰を浮かして、蒼穹はクランクの回転速度を上げた。
風に散らされそうになりながら、メッセンジャー・バッグから無線の声が響く。
『朗報よ〝ソラ〟。周東賢悟と戸田青葉の接点が見つかったわ』
「関係が判ったの? 青葉は剛劉会とも関係もあるの?」
雄太兄弟以外に青葉と剛劉会の関係が見えてくれば、事件の全容が今より明確になる。蒼穹は〝ママ〟の話に期待した。
『ごめんね。具体的な関係までは分からないのよ。接点だけ。でもね、有効な情報だと思うわ。この春に戸田青葉は周東の訪問を受けているの。具体的な内容は分からないけど、プロデュースの申し出みたいね。青葉がSNSのサイトにコメントを残していたの』
「聞いていなかったなあ。『すごい才能がいる』とは聞かされていたけど」
凛華のプロデュースを引き受けている以上、青葉を仕事の対象としても不思議はない。
だが、同じ渋谷をテリトリーとして路上で活動する二人だ。同時にプロデュースする選択は、アリなのか?
〈意識していないにしても、ライバルの立場にある二人が、どう思うかな〉
『聞いていなくて当然よ。青葉は周東の申し出を断ったみたいよ。路上ライブを中心とする現在のスタイルを、しばらくは続けるつもりだ、って』
「どんなプロデュースを申し込んだのかしらね。実際にプロデュースしている凛華のグース・ダウンだって、路上ライブが中心だけど」
周東が主催するGトラッドは、IT機器を利用した現代美術活動を展開している。
申し出た企画がアヴァンギャルドな味わいのプロモートだとしたら、青葉の了解を得られなくても納得できる。
グース・ダウンのプロモーション・ビデオは、シンプルなモノトーンを強調した映像で構成されていた。
時折、ちらっと混じる控えめな赤色が、先鋭的な周東の美的感覚を現していた。
〈路上ライブの臨場感に溢れる投稿画像のほうが、加工され、巧妙に組み立て、虚構を作り上げる周東の作風より、青葉の魅力を正しく表現しているように思えるものなあ〉
首都高速の高架下を抜けると、光景は一転して、最新の都市の姿に変貌した。真新しい建物が正面に聳えていた。
池袋駅から続く通りを左折して歩道を走った。すぐ先の信号が赤だった。点滅を始めた歩行者用の青信号が変わる前に、自転車をバンクさせて、横断歩道に飛び込んだ。
渡り切ろうと小走りになった歩行者の隣を擦り抜け、蒼穹は路地に飛び込んだ。
歩道の端にチラシを配る青年の姿が見えた。芝居の呼び込みだった。ビルに併設されている劇場で上演しているらしい。
走り抜ける瞬間に、入口に掲示された看板を見た。
〝シェークスピア〟〝リチャード三世〟の文字が、蒼穹の視界に飛び込んできた。文字と同時に、黒衣を纏ったグロテスクな人物の姿が、蒼穹の心を惹いた。
〈グロースターだ〉蒼穹は確信した。
急ブレーキを掛けて蒼穹は自転車を停めた。急いでいるが、どうしても停まって確認したかった。イメージに過ぎないにしても、闘っている相手を心に留めたい。
クランクを逆回転させて、看板の前に戻った。
ポスターに描かれた〝リチャード三世〟は、染みが浮いた老人の姿をしていた。手入れもせず伸ばした髪に、人骨を組んだ王冠を被っていた。
背を丸め、前傾した姿勢で王の座についていた。深い皺が刻まれた顔から、上目遣いに睨みつける瞳が、不気味に光っている。
ひねくれた残忍な性格が滲み出してくるような、いかにも不快な人物像だった。
〈さすがに、こんな人は、周りにいないわよね〉
短く息を吐いて笑うと、蒼穹は再びペダルを強く踏み込んだ。
関心があると期待したチラシ配りの青年が、目の前にチラシを差し出した。蒼穹は掌を上げて断った。さすがにチラシを眺めている余裕はない。
ジャンプして歩道を降りて、前を走る軽ワゴンを追い抜いた。立ち止まった遅れは、間もなく取り戻せるはずだ。
専門学校の横を走り抜けた。
右斜めに曲がった通りの先に、サンシャイン・シティの建物が壁となっていた。首都高速の東池袋インターのランプが、段差を付けて壁の前を塞いでいる。
指定された〝王となる身に最も相応しい場所〟は、前方を塞ぐビル群を回り込んだ奥にあった。地図を見ながら、蒼穹は気が逸った。
送られた画像に残された痛々しい周東の姿を思い浮かべた。車のトランクに閉じ込められた周東の顔には、明らかに激しく殴られた跡があった。
周東を捕えた相手は、残忍なグロースターに間違いなかった。
関係者の中に、蒼穹は追及すべき相手を探した。外見から当て嵌めるとしたら、顔が無残に腫れ上がった雄太だろうか。残忍な性格ならば、人格の破綻した銀次か。
存在感から考えれば、周東も権堂も充分に当て嵌まる。だが、周東は囚われの身だし、権堂も、事件に対する積極的な関与が今一つ感じ取れない。
醜い面を除外して考えれば、支配的な立場にある雄太の弟も、有力な候補だ。
半グレ集団の〝登龍〟を操っている事実も、剛劉会の跡目を狙い、雄太から長子の権利を騙し取った点も、王の座に固執したリチャード三世と被る部分が多い。
〈グロースターは、王の幼い代継を二人、ロンドン塔に送って殺害したのよね〉
王の二人の代継ならば、該当する人物は、雄太と弟だ。形だけでも、グロースターが〝リチャード三世〟を模倣しているなら、代継の一人がグロースターには成り得ない。
あとは、女性ばかりだ。対象にはならない。
サンシャイン・シティに突き当たった。蒼穹は、周回する通りを横断した。首都高ランプの下を潜って、ビル沿いの歩道に乗り上げる。
目指す〝巣鴨プリズン〟まで、あと少しだ。
低い高速ランプに頭上を遮られて、歩道は薄暗い。人影が少なかった。池袋駅からサンシャイン通りに溢れる人混みとは比べ物にならないくらい、歩道は閑散としている。
ビルに沿って交差点を右折した。
頭上を覆う高速ランプが左右に分かれ、視界が開けた。煉瓦張りの壁や屋上庭園に向かう階段を横目に見ながら、木立に包まれた公園入口を目指す。
公園前の歩道に沿って、赤色灯を回転させたパトカーが並んで駐まっていた。
東池袋中央公園内では、制服警官が二人組になり、分散して捜索を始めていた。規制線が張り巡らされていない状況からみても、周東の身柄は、まだ確保されていない。
交差点を渡り、駐車場前に自転車を駐めた。点滅を始めた歩行者用信号が赤に変わる前に、蒼穹は全力で横断歩道を駆け抜けた。
公園内に入り、まずは吉岡の姿を探した。情報の提供者なのだから、少しくらい蒼穹に状況を教えてくれても良いはずだ。
吉岡と立川は背が高い。目立つはずだが、木立の中に隠れたらしく、姿が見当たらない。
無線に向かって、蒼穹は〝ママ〟に連絡した。
「〝巣鴨プリズン〟に着いたわ。どこに行ったらいい?」
『〝王となる身に相応しい場所〟のキーワードと〝髪の束で作った絞首刑のロープ〟が手懸りだからね。絞首刑台があった場所が、まずは考えられるわね』
巣鴨プリズンの建物が撤去された跡地に、サンシャイン・シティと東池袋中央公園が造られている。
〈現在の公園の中で、どこが絞首刑台跡か、判るの?〉
蒼穹は公園内を見回した。
「判らないわよ。どこにあるの?」
『公園の案内板を探して。慰霊碑が記載されているはずだから。〝碑〟と書かれた場所よ。慰霊碑が据えられた場所の上に、絞首刑台があったらしいわ』
案内板を探して〝碑〟の位置を確認した。
自転車を駐めた交差点に接する木立の中に、慰霊碑の場所が表示されていた。蒼穹は木立の中に走った。
自然石のような形状の石碑だった。彫られた〝永久平和を願って〟の文字の下に花立てが置かれ、新しい花が供えられていた。
〈何か手懸りはないのかしら〉
慰霊碑の後ろに回った。石碑の近くには何もなかった。蒼穹は周囲を見回した。石碑を囲む灌木の植込みに隠れて、不審な小包が置かれていた。
「あったわ、〝ママ〟。依頼品だわ」
手を伸ばそうとすると、肩を掴まれた。
「ダメだよ。〝ソラ〟ちゃん。証拠品を素手で触らないでね」
タメ口を利きながら、痩せた長身の男が軽薄な笑みを浮かべた。立川だった。立川の背後には、困った表情の吉岡が立っていた。




