第四章 亡霊(GHOST) その3
戸山公園を走り抜けて、明治通りに向かった。
広場を囲むベンチに座って、ホームレスらしい老人が取り留めのない会話を続けていた。
子犬を連れて散歩する親子連れの横を、フル・スピードで追い抜いた。
実験用の白衣を着た学生たちがいた。印刷したレジュメの束を抱えている。出口の車止めに座って、笑いながら難しい話をし合っていた。
かつて、両親が大学進学を勧めていた。
渡米せずに両親の考えに従っていたら、また別の生き方があったかと思う。
でも、今の自分の生き方が、蒼穹は一番好きだ。精いっぱい生きている気持ちがする。
口を固く結んで、学生たちの横を走り抜けた。
「もうすぐ、公園を抜けるわ。〝巣鴨プリズン〟まで、あと、どれくらい?」
『あと十分くらいね。ところで、公園の中は何もなかった?』
無線でルートを確認すると、〝ママ〟が意味不明の質問をした。
「どうしたの? 〝登龍〟の襲撃予告でも、あったの?」
『嘘、嘘。冗談よ。検索していたら、心霊スポットの記事が出ていたから言ってみただけ』
心霊スポットと聞いて、蒼穹は背筋が冷たくなった。
現実なら何でも対応するが、オカルトは嫌いだ。基本的に信じていない。だが、理解不能な状況では、対処しようがない。
「イヤだな、気付かないうちに取り憑かれていたりしないわよね」
『ずっと前の話だから、関係ないわ――』〝ママ〟が短く笑うと説明を続けた。『――茂みの中を彷徨う白衣の男女とか、呻き声が聞こえるとか、噂がたくさんあるのよ。決定的な話は、実際に大量の人骨が見つかった現実と、公園の場所に旧日本陸軍軍医学校の跡地が含まれていた事実ね。人体実験で有名な〝七三一部隊〟との関連が噂されたけど、確証はなかったみたい』
〈もう、やめてよ〉と蒼穹は身震いした。ヤバい場所は早く抜け出そうとペダルを強く踏んだ。
「〝巣鴨プリズン〟だって充分に怖い心霊スポットなのよ。余計な呪いまで追加しないでよ。私だって、怖いんだから」
『冗談よ。ごめんね、揶揄って。でも、心霊とは別に気になる情報が見つかったの。〝Gトラッド〟〝周東賢悟〟で画像検索したら、おかしな女の画像が入っていたの』
凛華だけでなく、周東がプロデュースする対象は、広範囲に渡っている。周東の名前で女性がヒットしても、不思議はない。だが、思いがけない関連が見つかった可能性もある。
気になった蒼穹は、即座に〝ママ〟に訊いた。
「何が気になったの? 〝ママ〟は、今回の事件に関連があると思うんでしょう」
『直接の関係は不明だけど、〝周東賢悟〟を追っかけているみたいなの。それも、ちょっと、度を越した感じなのよ』
言葉の端々から、〝ママ〟が底知れない不安に駆られている様子が窺えた。案外、予想外のヒットかも知れない。昂る気持ちを静めて、蒼穹は〝ママ〟に訊いた。
「どんな感じの女性? 画像を送ってくれる?」
『了解よ。すぐに送るわ』
ほとんど間を置かずに、モバイル・フォンに画像が届いた。
コスプレをしている姿のようだ。
宇宙防衛軍といったデザイン。ピンクの軍服に、横にハート・マークの付いた同じくピンクのベレー帽を被っていた。
髪はストレートの金髪で、ショート・ボブに纏めている。目に入りそうな長さの前髪。下から吊り上がった目線が、鋭く見上げていた。
濃い目のアイ・ラインが、表情のキツさを強調している。
決して美人ではなかった。だが、アニメのヒロインらしく、印象的に化粧を纏めていた。
『ハンドル・ネームは〝日陰の向日葵〟。書き込まれた文章を読むと、ストリッパーみたいね。〝周東賢悟〟と直接の関係はないけど、一方的に愛情表現をぶつけているわ。かなり重度のストーカーみたいよ』
「もしかして、小指の切断について、書き込まれてはいないかしら?」
〝重度のストーカー〟と聞いて、蒼穹は頭の中に吉原遊女の話を思い浮かべた。言葉が思い浮かばずに、〝ママ〟に訊く。少し間を置いて答が返ってきた。
『〝愛情の証を贈った〟と書き込まれているわ。気になったので〝小指〟と〝愛情の証〟で、検索してみたのよ。〝切断した小指〟を送る行為を〝心中立て〟と呼ぶらしいわよ。〝心中立て〟には、〝切指〟の他にも、〝断髪〟や〝入れ墨〟があるみたいよ。今回の依頼品は毛髪で綯った〝絞首刑のロープ〟だったのでしょう』
〝切指〟と〝断髪〟。周東に送られた依頼品の意味が、繋がった。
「ビンゴだわ〝ママ〟。もう少し〝日陰の向日葵〟に関する情報を探してみて」
『了解よ。でも、ネットの情報だけでは、量も内容も限られているわ。詳しい人に頼るのも、一つの方法だと思うわよ』
即答はできなかった。情報通なら周東だが、囚われの身では、頼る術はない。
公園を出ると、公営住宅と大学のビルに挟まれた細い通りが続いた。片側一車線ずつだ。緑地帯で中央が分離されていた。蒼穹は、ゆっくりと走るトラックを追い越した。
明治通りに入った。赤信号を避けて、蒼穹は歩道を走った。
ヤクザがらみの事件だから、権堂に訊けば、すぐに答が得られる気がした。
だが、さすがに突き倒して逃げている相手に訊ねるわけにはいかないし、連絡する術もない。
厄介だし答が得られない可能性もあるが、刑事の吉岡を頼る選択しか、策はなさそうだ。
走りながら、蒼穹は登録した吉岡の携帯電話を呼び出した。
『はい、吉岡』と短く返事があった。
「周東さんの素性で、関連しそうな人物がいました」
『誰だ? 関連する人物とは?』
関心を持った吉岡が食いつく。蒼穹は〝切断された小指〟と〝断髪〟で作られた〝絞首刑のロープ〟の話から、順を追って説明した。
「約束して欲しいんです。提供した情報に関する分だけでも、捜査して判明した情報を教えて下さい。約束できないなら、情報提供はお断りします」
『大上段に構えないでくれよ。具体的な捜査内容は教えられないけどな。概略で良ければ、内緒で教えられるかもしれないから』
人づきあいが悪そうな第一印象に相応しく、吉岡が下手糞な説明をした。困った声で曖昧に言葉を濁しながらも、吉岡は決して具体的な約束をしない。
責任逃れの詭弁に過ぎなかった。だが、少なくとも提供した分だけは情報を教えてくれそうだ。
〈まあ、いいか〉と決断をして、蒼穹はモバイル・フォンに向かって情報を提供した。
「周東さんはストーカー被害に遭っています。〝日陰の向日葵〟と名乗る女性からです。インターネットで検索すると、一方的な愛情表現が執拗に繰り返されています。コメントの中に〝心中立て〟を意識した表現がありました。私が知る内容はここまでです。〝日陰の向日葵〟がどんな女性で、何を目しているのか、外見以外に具体的には何も解っていません」
『なるほど。被害者の戸田青葉が拉致されてから、自転車便、つまり君、青木蒼穹を利用して、我々が行方を追っている周東賢悟に荷物が届けられている。〝日陰の向日葵〟が〝心中立て〟を実行しているなら、送られた〝切断された指〟や〝絞首刑のロープを模して綯った髪の束〟が意味を持つ。確かに、意味は繋がるな。でも……』
吉岡が声のトーンを落とした。完全には納得できない様子だ。
「〝でも、すべての解決に繋がるわけではない〟ですよね。私も〝日陰の向日葵〟の特定がすべての解決に繋がるとは思っていません。でも、一つずつでも謎を解決していかなければ、何も前に進まないですよね」
『君の言う通りだな。〝日陰の向日葵〟の人物が特定されて、周東賢悟に対するストーカー行為が確認されても、どんなふうに〝今回の事件〟に関わっているのかは解らないからなあ。とにかく調べさせてもらう。確かに〝一つずつでも謎を解決していく必要〟があるからな』
吉岡が話した〝今回の事件〟の内容が、蒼穹の追っている〝事件〟と違う点については、あえて触れなかった。
吉岡が追っている事件は明らかに剛劉会会長の襲撃事件であり、付随して剛劉会の跡目相続と半グレ集団の登龍との小競り合いが問題となっている。
対して、蒼穹が追っている事件は、あくまでも戸田青葉の拉致誘拐であり、付随する問題として、襲撃事件と同様に、跡目相続と半グレ集団が関係する。
共通する部分で、椛島雄太と弟、周東の三人が関わっていた。
周東と剛劉会の関係は良く解らない。だが、組織犯罪対策部の刑事が情報を調べている状況を考えると、雄太の叔父の線が有力だ。
「急がなくちゃいけないので、情報提供は、ここまでです。お返しの情報の件は、お願いしますね」
『ちょっと待って。急ぐ理由って、何だ? 戸田青葉の失踪の件だよな。もしかして、他にも何か事件があるのか?』
少し悩んで、蒼穹は打ち明ける決心をした。警察の介入はできるだけ避けたかったが、蒼穹単独の力では限界がある。
「周東さんが拉致されています。暴行されて車のトランクに詰め込まれた周東さんの画像が送られてきました」
『周東が襲われた? トランクに詰め込まれた画像があるのか? 大切な話は、先に言ってくれよな。周東は襲撃事件のキーマンだぜ。対処が遅れれば遅れるだけ、命の危険にまで発展しかねないんだからな』
もどかしい展開に、吉岡は激しく苛立っていた。穏やかな言葉遣いで話そうとすればするほど、却って語気が強まり、怒りまで感じさせた。
吉岡の勢いに気後れした蒼穹は、子供じみた言い訳になった。
「吉岡さんたちと別れてから、確認した事実です。出元を調べたから〝日陰の向日葵〟の情報に辿り着けたんですよ。すぐに連絡したのに、感謝されるどころか、怒られるなんて」
『でもさ、隠していただろう。念のために僕が確認しなければ、話すつもりなどなかったんだよな。……まあいい。言い争っている時間はない。画像を送ってくれ。隠している情報は他にないだろうな。周東の命が懸かっているんだからさ、隠さないで、ぜんぶ出してくれよ』
情報を送って欲しいと告げて、吉岡が立川に替わる。
『アドレスを教えるから、送信して。警部補どのはインターネットが、まるでダメだからさ』
「あなたに送るの? 吉岡さんのアドレスを教えて欲しいんだけど」
嫌な予感がして、立川にはメールを送りたくなかった。
『警部補どのは頑固で携帯もガラ系だからさ、送ってもらっても解像度が悪いんだよね』
〈嫌だな〉蒼穹は思ったが、送信しても参考にならない携帯では無駄だ。
蒼穹は自転車を停めた。渋々、立川のアドレスを聞いて画像を送信した。
「私的な目的で使用しないでくださいよ。使ったら、訴えますからね」
『まさか、使うわけないよ』
ははは、と軽薄に笑い、立川が吉岡と通話を替わる。
『現在、君が向かっている場所は、どこだ? 犯人から指示されているのだろう』
「東池袋よ。サンシャイン・シティ横の東池袋中央公園に向かっている。だけど、具体的な指示は出されていないわ。〝王となる身に最も相応しい場所〟と曖昧なキーワードが指定されているだけなの。でも、私の動きは犯人にも知られているのよ。修正の指示が出ていないから、今のところ、目的地は間違っていないはずだわ」
隠し立てしても、いずれ知られることだ。蒼穹は包み隠さずに答えた。
『解った。先に東池袋中央公園に行く』
「嫌だと言っても、行くんでしょう。どうぞ、ご自由に。でも、次の指示が途絶えないように、現場を荒らすのだけはやめてくださいね」
緊急走行の覆面パトカーと張り合って勝てる自信は、なかった。とにかく、全力で最短コースを走るだけだ。
何よりも、警察の介入が表面沙汰になり、グロースターからの情報が途絶える結果は避けたかった。
だけど、現在のままでは、吉岡の言う通り、周東の生命が危ない。
サドルから腰を上げてペダルを漕ぎながら、蒼穹は言いしれない不安に包まれていた。




