第四章 亡霊(GHOST) その1
駐車場のループを登って地上に出た。交差点を左折して都庁方面に進む。
青空に湧き上がった白く光る雲が、眩しく蒼穹の網膜を焼いた。
連れ去られた青葉と雄太がどこに行ったか、さっぱり見当がつかなかった。
指定された次の依頼場所も、〝ロンドン塔〟〝監獄〟と漠然としたキーワードが解っただけで、具体的な場所が定まっていない。
「ねえ〝ママ〟解らないの。キーワードが該当する場所って、どこ?」
『〝絞首刑〟なら東京拘置所かな。小菅まで所要時間は約一時間。どうかな』
無線から聞こえる〝ママ〟の回答も、納得できるほどの決定打ではない。
とにかく、ひとまずは半グレと警察官の追っ手から逃げ切る必要があった。
新宿駅西口の周辺から、一刻も早く離れたかった。竹籠のような紡錘形のビルを横目に見ながら、蒼穹はクランクの回転を上げた。
自転車に問題は、全然なかった。半グレたちに甚振られた身体はギシギシと痛んだが、ペダルを回す動作を阻害するまでには至っていない。
「渋谷のスクランブル交差点から目黒天空庭園、天空庭園から新宿西口地下広場と、どれも十五分程度の距離だったわ。今までの指定場所に比べると小菅じゃ遠すぎる気がする。それに、拘置所を指定されても、簡単に中には入れないし」
『確かに、ソラの指摘通りだわね。十五分くらいの場所なら池袋かな? でも、牢獄なんてないし……。ちょっと待ってよ。〝ロンドン塔〟〝リチャード三世〟〝幼い皇太子〟よね。おかしいなあ。いずれにしても〝絞首刑〟とは関係ないわよ』
〝ママ〟の返事が、しばらく途絶えた。キーワードを何度も口の中で転がす声が微かに伝わってくる。
耳を澄ますと、一心にパソコンのキーボードを叩く音が聞こえる。関連する事項を、片っ端から調べている様子だった。
交差点を突っ切った。工業大学のビルの陰から都庁が見え始めた。駅前から続く通りが、もうすぐ丁字路になって突き当たる。
丁字路の先は、足元から地表に出た地下通路がメインの通りとなる。強引に断ち切られた通りが、崖っぷちのように、先の存在を失っていた。
時間を掛けて詳しく調べている余裕はなかった。立ち止まれば、それだけ警察官に職質を喰らうリスクが高くなる。
〝右か左か?〟丁字路をどちらに曲がるかを、早く決める必要があった。
突き当りに取り付けられた、右左折を指示する黄色い表示板が迫ってきた。気を揉む様子で、無線から〝ママ〟の声が届いた。
『〝ロンドン塔〟って国王一族の処刑が行われた場所よね。でも絞首刑は庶民の処刑方法だから〝王となる身に相応しい場所〟ではない。〝王〟を首長に置き換えてみたらどうかしら。日本の総理大臣で、絞首刑になった人物がいるわよね』
「〝東條英機〟か。処刑された場所は〝巣鴨プリズン〟よね。解ったわ〝ママ〟巣鴨駅まで行けばいいのかしら」
丁字路が直前まで迫っていた。右折するなら並行して走る宅配便のトラックが邪魔だ。
『巣鴨駅じゃなくってね、東池袋だわ。サンシャイン・シティと隣接する東池袋中央公園が〝巣鴨プリズン〟の跡地になるようよ。近くに〝東條英機〟が埋葬された雑司ヶ谷霊園もあるわ』
「了解よ〝ママ〟。最短ルートを探すわ。何か補足する情報があったら、教えて」
無線を終了すると、蒼穹はサドルから腰を浮かした。高い位置からペダルを深く踏み下ろす。スピードを上げて、一気に宅配便の鼻先に飛び出した。
交差点の手前で、信号が黄色に変わる。赤信号に変わる寸前に車体を傾け、強引に丁字路を右折した。
走行が安定する瞬間を待って、蒼穹はモバイル・フォンのナビゲーションを呼び出した。
〈少し遠回りになったわね。でも、これくらいのロスなら、すぐに取り戻せるわ〉
並走する車の流れを気にしながら操作を進める。結果より先に無線が入った。
『しばらく直進よ。新宿警察署の交差点を右に曲がって、すぐに左折。そこから百人町まで向かうわ』
無線と共に地図の画像が送られてきた。〝ママ〟の手早さに、蒼穹は心から感謝した。
「了解したわ。ところで〝ママ〟、他にグロースターからの連絡はないの?」
グロースターの指示は依頼品に添えられた短い文だけだった。漠然とし過ぎて、導き出した答に確信が持てなかった。間違ったら、どうするつもりなのか。
〈具体的な依頼の指示がない理由は、何だろうか〉
まるで、ゲームでも楽しんでいるみたいだ。インターネットに流された蒼穹の画像を見ながら次の手を考える。謎の人物を想像して、蒼穹は背筋が凍えた。
後方から街宣車の流す軍歌が聞こえてきた。凛華の街宣車だった。
騒々しい音楽に、蒼穹は頼もしさを覚えた。一人で正体の知れない相手と闘っていたのなら、心が折れて前に進めなかったに違いない。
蒼穹には、凛華や周東、〝ママ〟やメッセンジャーの仲間がいる。
振り返ると、パッシングする街宣車の窓越しに、得意顔を見せたスキン・ヘッドの運転手が見えた。
〈今のところ渋滞はないから、速度に差がないみたいね〉
負けず嫌いの気持ちをバネにして、蒼穹は全力でペダルを踏んだ。
前方をゆっくりと走る観光バスが塞いでいた。車線を換えて大きな車体を追い越した。
交差点の頭上に巨大なリングが造られていた。まるで見えない力を集めるレンズのようだ。中空に浮かぶ不思議な建築物が、傷だらけの蒼穹にパワーをくれる。
ナビの画像は直進を示していた。新宿警察署は、この先だ。
通りは緩やかに右斜めに進んでいた。看板を載せた営業車と競い合いながら交差点を抜けた。
前方の空が厚い雲に覆われていた。吹き付ける風に、冷たさが混じる。風の動きが、突然の雨を予感させた。心なしか、雲の中に黒い陰りが見える。
〈お願いだから、雨は降らないでね〉
路面の状況が悪くなれば、転倒のリスクも高くなる。何よりも、視界の悪化は、確実に速度を落とす結果に繋がる。
先行きの不安を気にするほど、状況の展開が読めていなかった。遅れを取れば取るほど、青葉と雄太の身の保証は危うくなる。
〝ママ〟が送ってきた地図の画像を確かめた。最短は次の交差点を右折して、一本先の路地に入る道筋だ。
新宿警察署を左に見て、先の交差点を右折した。警察署前のためか、並走する営業車が無理な競争をやめた。中央の車線を営業車に譲り、蒼穹は歩道際の車線を選択した。
ナビの指示通りに、すぐに左の路地に入った。しばらく直進が続く。このまま、もう一度だけ隣の路地に移動すれば、百人町のガードまで斜めに突っ切るルートが確保できる。
腰を浮かし、ペダルを強く踏み込んだ。飲食店の入った低層のビルが視界の端を流れ去る。新宿西口で地下駐車場に消えた青葉の後姿を、蒼穹は思い浮かべた。
羽織った大きめの迷彩シャツがはためいていた。雄太に似た華奢な身体つきの若い男が、寄り添って手を引いていた。
青葉は何を考えていたのか?
〈もしかして、青葉とグロースターは同一人物なのか?〉
突拍子もない考えが、蒼穹の頭の中に浮かんだ。
道玄坂の路地裏では、青葉はミニ・バンの外にいた。新宿西口地下広場でも同様に、若い男と逃げていた。
拉致された身にしては、自由過ぎないか。
青葉が主犯もしくは協力者で、誘拐自体が狂言だとしたら。指示を繰り返し、蒼穹を休ませずに走らせる理由は、何だ?
馬鹿馬鹿しいと、蒼穹は小さく頭を振った。
自転車を走らせる蒼穹の動画が、次々とアップロードされている事実を思い起こした。
追い掛けているはずの青葉が、蒼穹の動画をアップロードなんかできはしない。
半グレ集団に甚振られた姿も、漠然とした指示に翻弄されている現在の様子も、遠慮なく衆目に晒されているはずだ。
〈ボコされて腫れた顔を目にしたネット・ユーザーは、痛々しくて可哀想だと思ってくれるだろうか〉
面白がって、中傷しているのだろうな。
画面を隠すほど大量に流れる中傷のコメントを想像して、少し気持ちが萎える。一人でも理不尽な暴力に抗議するコメントがあればいいなと、蒼穹は痛切に思う。
短い一言でもあれば、勇気が貰える。気持ちを変えて、蒼穹は思いを巡らせた。
〈雄太の弟がグロースターならどうだ? 〝登龍〟との関係を利用して〝剛劉会〟を牛耳ろうとしている弟ならば、雄太を抑えるために青葉を利用できる〉
雄太を抑えただけで、何かが変わるのか。もともと跡目の継承に否定的な雄太だ。しかも、わざわざ牽制しなくても、跡目は弟に譲ったと話していた。
牽制でなければ、何か他の企みのために青葉が必要なのか?
先に襲撃された剛劉会の会長との関係が、あるのか?
〈ひょっとして、青葉は会長の孫娘なの?〉
考えられない設定だが、見方を変えれば、あり得ない話でもない。
極道の家系に反発して、青葉が家を出た。プロ活動に入るために、素性を隠して路上ライブを繰り返していた。
瀕死の状態になった会長が跡目を継がせるために、青葉を探している。
〈違う、違う! 剛劉会の跡目を継ぐのは、雄太のはずだ。女が跡目を継ぐなんて、漫画じゃあるまいし、ありえない〉
そもそも、拉致した犯人も奪還を阻止している相手も、雄太の弟が関係する半グレ集団のメンバーだ。跡目継承が重要なら、剛劉会の権堂や銀二が、もっと積極的に動くはずだ。
どう見ても、権堂と銀二は傍観者の立場を崩していなかった。
跡目争いの話を訊ねたとき、雄太は自分が〝次代会長ではないし、候補ですらない〟と断言した。
〝跡目の権利は、以前から弟に譲っている〟〝弟が青葉を奪おうとしている〟とも話した。
〈雄太の話を信じる限り、青葉が正式に剛劉会の跡目を継承するための重要な鍵になっている。予想が正しければ、青葉の身の安全は保障されていることになる。ただし、あくまでも予想が正しければ、の話だ〉
四つ角の手前で、ポケットの中のモバイル・フォンが振動した。
交差する路地を確認した。モバイル・フォンを取り出して回線を繋いだ。
受話器の向こう側から、凛華が大声で話した。街宣車の中でも軍歌がうるさくて会話にならないらしい。
『路地に入ったでしょう。確認したわ。街宣車は図体がデカ過ぎるから、大通りを使うわね。新宿大ガードを潜って、明治通りに抜ける。先に東池袋に向かうわね』
「東池袋には、私が先に着くけど、二番手で良ければ、どうぞ、ご自由に――」軽口を叩いた蒼穹は、続いて口調を変えた。「――ところで、周東さんはいるかな? 聞きたいことがあるのよ」
剛劉会の話は、もともと周東から聞いた情報だ。どこまで詳しく知っているかわからないが、知っている限りでも、雄太と弟、青葉の関係について訊き出したかった。
『街宣車には乗っていないわよ。新宿駅で半グレの連中を追いかけていったもの』
「凛華ちゃんは、まさか剛劉会の内部事情なんて、知らないわよね」
ダメもとで訊いてみた。電話の向こうで、隊員に確認を取る凛華の声がした。
『私は知らないけど、ドライバーが詳しいみたいよ。知り合いが剛劉会にいるらしいから』
「話が訊きたいの。替わってくれる」
凛華に頼むと、聞き覚えのある声に替わった。
『協力しても良いですけど、到着の時間から、協力した時間を差し引いて頂けるんですよね』
声の特徴も話の内容も、間違いなくスキン・ヘッドの運転手だった。
「それはダメよ。私だって自転車を漕ぎながらだもの――」軽い冗談に少し心が落ち着いた。真剣な声に戻して、蒼穹は話を続けた。「――剛劉会の内部事情を知っている? 跡目相続についてだけど」
『へなちょこ息子の噂話だったら、儂じゃなくても、誰だって知っていますよ』
雄太を形容した〝へなちょこ息子〟の言葉に、蒼穹は思わず声を出して笑った。
「〝へなちょこ息子〟の話を教えてちょうだい。お願い」
交差する路地を走り抜けながら、蒼穹は無線機に向かって焦る気持ちをぶつけた。
前方に人影が見えた。単なる通行人ではなさそうだった。
背広を着て、体格が良かった。しかし、ヤクザではなかった。人影の後方に赤色灯を回転させた銀色のセダンが駐まっていた。
「急いで説明して。前方に刑事がいるの」
何を今さらと蒼穹は思った。道玄坂では呼んでも来てくれなかったくせに。
〈脇道はないの? 邪魔なんですけど〉
時間のロスだけど戻る選択以外になかった。蒼穹はブレーキを掛けて停まり、車体を倒し、ギアを回転させて方向転換した。
〈しまった。嵌められた〉
後方の路地から姿を現したもう一人の刑事が、苦笑しながら蒼穹に向かって近付いた。




