第三章 ゲリラ(GUERRILLA) その5
警笛を吹き鳴らしながら、制服警官が逃げ出した半グレの集団を追い掛けていった。
控えめな化粧の匂いがした。意識を取り戻した蒼穹は、年配の女性の腕の中にいた。誰かの腕に抱き起こされた経験は、ニューヨークで事故に遭って以来だった。
「何をやっているの、あなた。女性が暴力で闘うなんて、間違っているわよ」
凛とした表情と、落ち着いた声が印象的だった。
地下広場の柱を背にして〝反戦スタンディング〟を続けていた老婦人だった。
小柄で華奢な姿からは、かつてギターを弾き群衆を扇動したフォーク・ゲリラの姿など想像できない。
おそらく今は、六十代半ばを過ぎた年齢のはずだ。天空庭園で受け取った写真の反対側にいた当事者の一人だと考えると、不思議な気がした。
頭は銀髪になり、頬に刻まれた皺が年齢を感じさせた。だが、時の経過は、活動家の生き方を変えるほどの力を持ってはいなかった。
過去と現在が今、蒼穹の目前で同時に存在した。
五十年近く前に地下広場で繰り広げられた機動隊によるフォーク・ゲリラの強制排除。凄惨な現場でも、若き日の老婦人は同じ行動を採ったに違いない。
地下の空間に充満した催涙ガスと悲鳴。高圧的な怒号が飛び交うかつての状況を、蒼穹は想像した。
歌声と共感で世界を変えようとした一人の女性が、権力の強大な暴力に打ち倒された同志を助けようと叫び声を上げる。
〝反戦スタンディング〟は、高齢の域に達した婦人が、やむなく選択した手段ではない。
ギターと歌を権力で強制排除された日から、肉声で語る術を封じられた。以来、無言の抵抗を繰り返してきた。不合理に抵抗する立ち位置は、昔から少しも変わっていない。
〈私も暴力になんか、負けてはいられない〉
自転車便の意地と青葉を救う使命感が、蒼穹の中で再び燃え上がった。
周囲を見回すと、甚振られていたはずの雄太が見当たらない。
〈もしかして〝登龍〟の連中に連れ去られたのか?〉
騒動に紛れて、青葉を乗せたミニ・バンの姿が消えていた。
立ち上がって、走り出す必要があった。蒼穹は婦人の腕から身を起こした。身体中が、悲鳴を上げていた。
関節が、錆び付いた蝶番のような鈍い軋み音を立てた。痛めつけられた腹と顔に、刺すような激痛が走る。
顔が腫れていると思うと、かなり落ち込んだ。
痛みに顰めた蒼穹の顔に気付いて、婦人が首を横に振った。
「動いちゃだめよ。骨折や内臓に損傷があるかもしれないから」
「大丈夫です。自転車便のために身体は鍛えています」
蒼穹は笑って答えた。激痛は走ったが、気持ちが高揚したぶん、我慢ができた。
「どうして無理をするの。自分を痛めつけてまで、やり遂げる意義があるのかしら」
婦人の言葉に力を受けて、蒼穹は笑顔を作って頷いて見せる。
「配達迅速、TQサーブは、依頼者の要望に全力で応えなくちゃいけないんです」
冗談交じりに強がった蒼穹を見ながら、婦人が呆れた顔を見せた。
「届けるべき何かがあるのね。でも、解らないわ。そこまで身体を張って走り続ける理由が」
「貴女だって、闘争を続けていますよね」
顔の腫れに痛みを感じながら笑顔を作った蒼穹は、婦人に言葉を返した。心が通じた。打ち解けた婦人が苦笑した。
「私は暴力なんて使っていないわよ。無抵抗でも主張は伝えられるのよ」
「了解しました。理解したつもりです」
片手を上げて、蒼穹は笑顔たっぷりに頷いた。
思いを共有できた。屈託のない笑顔で、婦人が「よし、それでいいのよ」と、ふざけて見せた。
地下広場から続く階段を、戦闘服の周東が駆け降りてきた。
メイド服の凛華を先頭に、特攻服を着た政論社の隊員が集団を作って現れた。
駐車場のフロアに到着すると、周東が周囲を見回した。
「いたぞ! 警官に追われている」
周東を先頭に、屈強な体格の男たちが、共に半グレ集団の逃げた方向に駆け出した。地下駐車場が地鳴りのような足音と怒号に包まれる。
隊員たちは、それぞれ、手に鉄パイプや木刀を握っていた。
街宣車を運転していたスキン・ヘッドの隊員がいた。蒼穹と目を合わせてバツが悪い表情を見せた。
〈どう、自転車のほうが速かったでしょう〉
誇らしい顔を作って、蒼穹はスキン・ヘッドを見返した。腫れ上がった顔が痛んだが、気持ちは最高だった。
小走りで蒼穹の元に近付いた凛華が、婦人と顔を合わせて会釈した。
「お久しぶりです、晴さん」
「〝立ち上がるプレカリアート集会〟で、お会いしてから半年くらいかしらね。でも元気で頑張っていらっしゃるようね。渋谷の演奏は聴きに行ったわよ」
気の置けない関係を感じさせる柔らかな笑みが、ハルさんと呼ばれた婦人の顔に浮かんだ。蒼穹を支える腕に気付いて、凛華が再び頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございます。この子は友達で、グース・ダウンの大切なファンなんです」
「凛華ちゃんの……」へえー、と驚いた声を上げ「どうりで勇ましいと思ったわ。負けず劣らず信念に一直線だものね」と面白がって見せた。
照れ笑いをすると、膝を折って凛華が蒼穹に向き合った。痛めつけられた怪我を気遣いながら、凛華が蒼穹の顔に手を触れた。
「痛い!」ハルさんの前では痛みを我慢したが、凛華に会って余計な構えが取れた。
「大丈夫なの? ずいぶん本気で殴られたみたいね。酷いわ。女の子の顔を甚振るなんて許せない」
眉根に皺を刻んで、凛華が不快感を顕わにした。
蒼穹は他人事のように、頷いて見せた。負けた相手が女性だったとは、プライドに懸けて言いたくない。
「次々と大男を倒していましたよ。勇敢だけど、無謀ですね。凛華さんからも、危険を回避するように注意してくださいね」
ハルさんが困った顔で告げる。尖らせた眉を緩めて、凛華が笑顔を見せた。
「心配戴いて、すみません。言い聞かせますけど、この子は私と同じバカなんです。自分の気持ちを誤魔化して生きるのが苦手なんですよ」
「バカですか? そうですね」
言葉尻が気になったが、〈凛華と同じならば〉と納得した。蒼穹は愛想笑いをした。
「凛華さんに似ていては困ったものですね。でも、凛華さんは自分の言葉を語れる、数少ない日本人女性ですものね。頑張ってください。自分の強い思いを、国家や組織に無理やり捻じ曲げられないようにね」
応援の言葉を口にしながら、ハルさんが半グレ集団の逃げた方向を気にした。婦人の様子に気付いた凛華が、立ち上がって蒼穹に向かって手を差し出した。
「逃げるわよ。警察官が戻ってくると足止めを喰らうから、面倒よ」
ハルさんが凛華の言葉に同調して、遠くを見遣りながら頷いた。
「不良たちを取り逃したら、必ず戻ってくるわよ。配達があると言っていたわね。急ぎなさい。この場所は私が取り繕うから」
「ありがとう。恩に着ます」
立ち上がり、凛華と共に走り出そうとした蒼穹を引き留めて、ハルさんが訊いた。
「もしかして、メッセンジャーさんって、貴女かしら?」
「自転車便のライダーはメッセンジャーと呼ばれますが。何ですか?」
諒解したハルさんが、笑顔を作って蒼穹に目配せした。
「従いて来て。〝メッセンジャーの人に渡してくれ〟って頼まれた預かり物があるの」
蒼穹と凛華の先に立って、ハルさんが緊張した面持ちで地下広場に向かう階段を登った。
年齢に似合わず、ハル婦人が健脚だった。蒼穹は思いつくままに、ハルさんに訊いた。
「失礼ですけど、ハルさんって、お幾つですか?」
「嘘でしょう。年齢を訊くの? 私だって女性よ。でも、西口地下フォーク・ゲリラのときには、二十歳だったわ。計算すれば、わかるわよね」
現在でも反戦運動を続けている活力を考えると、健脚の陰には情熱と努力が見えてくる。
話を聞いていた凛華が笑う。
「幾つになっても主張を忘れないなんて、ハルさんも私たちと同じバカですよね」
「凛華ちゃんの言う通りかもね。でも、しばらく活動から離れていた時期があるのよ。けっこう長い時間よ。戻った今、思うのよ。とにかく続ける気力が大切だって」
階段を登ると、白い照明に照らし出された地下広場が現れた。青葉の姿を追い掛けて、急ぎ足で通り過ぎたときとは、まるで違った場所に見えた。
かつて、この場所で反戦を主張し、現在も復帰して同じ主張を繰り返す人たちがいる。
プレカリアート問題と向き合って、凛華も人権を主張し続けている。形こそ違っても権力に対する抵抗の姿勢は同じだ。
〈私は、何ができているんだろう〉
ハルさんに従いて地下広場を横切りながら、蒼穹は思った。
蒼穹自身は何も主張できていない。
「こら、青木蒼穹。何か、詰まらない話を考えて落ち込んでいるな」
凛華が蒼穹の背中を叩いた。
「だって、ハルさんも、凛華も主張する言葉を持っているのに……」
「私には何もない……なんて言わないでよ。バカね。皆が皆、同じ主張を持つ必要なんかないのよ。ソラは、ソラで強い思いがあるでしょう。例えば、連れ去られた青葉を取り戻すために、犯人からの要求に応えているみたいにね」
振り返りながら、ハルさんが真剣な面持ちで補足する。
「理不尽な現実に抵抗する気持ちがあればいいのよ。言葉が必要ならば自然と生まれてくるわ。だから、絶対に目や耳を塞がないでね。力に負けて、心に生まれた言葉を無理やり飲み込んではダメよ」
凛華とハルさん。二人の言葉が支えになった。
〈依頼品を受け取ったら、また走り出そう。次の指示があるはずだ〉
過去に起きた弾圧の事実を知らずに黙々と地下広場を通り過ぎる人波。擦り抜けながら蒼穹は歩く。
今ここで伝えたい言葉を叫んだら、どれだけの人が振り返ってくれるのか。
途方もなくあてのない反応に、へこたれずに主張を繰り返す凛華やハルさんの芯の強さが羨ましい。
歩きながら、後ろを歩く凛華に訊いた。
「ねえ、どうして、そんなに強く生きられるの?」
「バカねぇ。ソラだって、負けないくらい強いわよ」
凛華が笑って、蒼穹の背中を小突いた。蒼穹は苦笑して返した。いつまでもメゲていたら、蒼穹のモットーの〝常に前向き〟が聞いて呆れる。
「少し待ってね」
最初にハルさんを見かけた柱の近くには、別のメンバーがプラカードを掲げて〝スタンディング〟を続けていた。
足元に置かれた手荷物を動かして、ハルさんが中から小包を取り出した。
切断された小指が入っていた箱と同じ大きさだった。
「若い女の子から預かったのよ。女の子も誰かに頼まれたみたいだったわ」
ハルさんから渡された小包の周囲に染みがないか確かめて、蒼穹は念のために匂いを嗅いだ。不快な匂いは感じられなかった。
箱の表面にマーカーで殴り書きされた〝→〟〝G〟〝↓〟の文字。
「〝グロースター〟さんから〝グース・ダウン〟さんにプレミアム・ラッシュでお届けです。開けてください。何が入っているか、早く見たいわ」
冗談めかして、蒼穹は腕を伸ばして小包を凛華に差し出した。
「嫌だなあ。手首が入っていたら、どうしよう」
「匂いがしないから、少なくとも腐乱してはいないわ。前回が写真だったから、必ずしも身体の一部とは限らないしね――」
蒼穹は小包を振って見せた。箱の中で何かが転がる音がした。カサカサと軽い音だった。
地下広場の奥に二人組の制服警官が現れた。左右を見回しながら、人混みの間を進んで来た。被害者の蒼穹を探している様子だった。
「――急ごう。警察官が来るわ」蒼穹は言葉を続けた。
眉を顰めて小包を受け取ると、凛華が粘着テープを剥がした。黒い紐が入っていた。
「人の髪の毛で綯った紐かしら。先が輪になっているわ」
「手紙は入っていないかしら? 箱の底を探してみて」
凛華が箱の中から折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
〝→〟に続いて、『王となる身に最も相応しい場所』と書かれていた。
「『王となる身に最も相応しい場所』って、どこかしら? 思い当たる場所はないの?」
凛華の問い掛けに、蒼穹は首を傾げて見せた。手懸りは何も思いつかなかった。
「うろ覚えだけど、私は聴いた記憶があるわ。確か、演劇の台詞だったと思うわよ」
何かを思い出したような表情で、ハルさんが気兼ねしながら口を挟んできた。蒼穹は今回の発端となった『すべてのGは呪われよ!』の言葉を思い出した。
「もしかしてシェークスピアですか? 『リチャード三世』ではないですか?」
「そうそう、演目は『リチャード三世』よ。悪漢グロースター公リチャードが、幼い皇太子に告げた台詞だわ。戴冠式まで暮らす場所として、ロンドン塔を指定したのよ」
〈ロンドン塔? 監獄なの?〉
監獄ならば、先が輪になった紐は意味を持つ。納得して蒼穹は凛華に告げた。
「絞首刑のロープのつもりだわ。次の依頼場所は、どうやら監獄のようね」
警察官の足が速まった。蒼穹の姿を見つけた様子だった。凛華も警察官の様子に気付いていた。
「急ごう。捕まると厄介よ」
凛華が箱を閉じた。目配せして蒼穹は警察官と反対側の出口を探した。近くには、なさそうだった。歩いて逃げても、どこまで逃げ切れるか自信はない。
自転車を駐めた場所は、警察官の位置より手前にあった。
「ひとまず、私は自転車で逃げるわ。行先は後から電話する。街宣車で注意を引いてくれたら、助かるわ」
駆け出した蒼穹は、振り返って凛華に告げた。ハルさんに礼を言うと、手を振って応えてくれた。
「信念を持って頑張ってね。何があっても、権力より主張する民衆の言葉のほうが強いんだからね」
「ありがとう。ハルさんも頑張って!」
頷いた蒼穹は、ガード・レールに駐めた自転車に向かって全力で走った。気が付いた警察官が、負けじと走り出した。距離的に微妙だったが、捕まるわけにはいかなかった。
〈プレミアム・ラッシュを成功させないと、青葉の命が危ない〉
警察官に負けまいと、蒼穹はさらに限界を超えて、走る速度を上げた。




