プロローグ
1
並走するニューヨーク市地下鉄と競いながら、青木蒼穹は全速力でウイリアムズ・バーグ橋を渡った。
日差しを反射させた車窓が、鉄橋のトラスに遮られて切れ切れに光る。遠ざかる地下鉄の車両を見送りながら、蒼穹は力強く自転車のペダルを踏んだ。
時計を確認した。ロウアー・イースト・サイドの目的地に着くまでにあと二分。
遅れる訳にはいかない。
依頼主の要請はプレミアム・ラッシュ、要するに超特急便だ。
蒼穹は、自転車のペダルを踏み続けた。回転するチェーンが、風を切って乾いた音を立てる。
愛車は固定ギア仕様のピスト・バイクだ。空回りはしない。
走り続ける限り、足を動かす必要がある。
『状況はどうだ? まだテネメント(長屋)は見えないか』
メッセンジャー・バッグの肩紐に取り付けた無線から、配送指示の声が聞こえる。
「大丈夫、心配しないで。目標らしきオンボロのビルが視界に入ったわ」
腰を少し上げ、全身の力を込めて蒼穹はペダルを踏み込んだ。
風を受けて新緑の街路樹が揺れていた。後ろに流れていく風景と爽やかな初夏の風が、メッセンジャー・ガールのテンションをどこまでも高めてくれる。
昨日ばっさりと切った短い髪が、ヘルメットの下で、涼しさを巻き込んで揺れる。
〈気っ持ちいいっ。サイコーっ!〉
蒼穹のモットーは〝常に前向き〟だ。
〈先を見ないで諦めるなんて、もったいない〉
通りの先にテネメント・ビルが近付く。依頼人の自宅かどうかを、ストリート・ビューで確認した。
ピスト・バイクは加速したままだ。最後の最後までスピードは緩めない。
依頼の緊急性を考えると、たとえ一分一秒でも無駄にはできない。
〈間違いない。約束の部屋は、右端のエントランスから入った三階部分だ〉
駐車する自動車の隙間を縫って、減速せずに歩道に突っ込んだ。クランクを逆回転させ、横スライディングで、街灯のポールに横付けした。
頑丈なチェーン・ロックをバッグから抜いて、フレームに巻き付けた。
古い鋳物の匂いがした。街灯のひんやりと冷たい感触が緊張を高めてくれる。
歩道に突き出た階段を駆け登った。テネメントのエントランスに蒼穹は飛び込んだ。
2
朽ちかけた木材と古い塗料の匂いがした。吹き抜けになった階段ホールを回るようにして上階に駆け登った。
今日まで過ぎてきた歴史が、足元でギシギシと音を立てる。
古い悪漢映画に出てきそうな、怪しげな雰囲気だった。
勝手に想像しながら、蒼穹はワクワクする。
かつては移民の貧しい家庭が集まって逞しく生きた古いアパートメントだった。現在は、ソーホーの高級化によって移り住んだ芸術家やデザイナーが多く住んでいる。
時代は変わる。変わりながらも、貧しさの先に描いた幸せな未来だけは、いつも存在し続けてきた。
指定された三階に到着した。蒼穹は表示された情報を確かめた。
年季の入った真鍮のプレートを見ながら、部屋番号を突き合わせていく。
〈あったわ。ここね〉
スマホをポケットに仕舞った。蒼穹はドア横のブザーを押した。古臭い映画のような潰れた音がした。
返事がない。蒼穹はドアをノックした。
「配達迅速、BQラッシュが到着です。至急の依頼品を受け取りに来ました」
マニュアル通りに、オーバー・アクションで笑顔を作る。
「遅かったわね。本当に大丈夫なの? 間に合うかしら」
オカマ口調のスラングが聞こえた。文句を言いながらドアを開け、黒人の男が姿を現した。
日本人の中でも小柄な蒼穹を、大男が見おろした。
パンクな格好だった。服全体に鋲打ちされた皮のジャンパーとパンツ。トサカのように尖らせて固めたモヒカンが、凶悪な雰囲気を醸し出す。
怯んでいる余裕はなかった。あくまでもファッションと割り切った。
蒼穹は強気な視線で相手を見据えた。
いざとなったら、護身用に習っているクラヴ・マガが頼りだ。クラヴ・マガは、生き残るためにイスラエル軍が開発した接近格闘術。
軍人向けだから、徹底した訓練がキツイ。相当、身体に応えるが、メッセンジャーを続けるための筋力増強にも有効だから続けていた。
「BQラッシュを、信頼ください。公演開始十分前までに、必ず依頼品をクライアントにお届けします」
大げさすぎるほどの笑顔を再び作り、蒼穹は会社のキャッチ・フレーズを告げた。
ニューヨークで気持ちを伝えるためには、日本と同じ感覚ではぜんぜん足りない。
「まあ、いいわ。準備が悪かったのも、あの人の運ですものね」
パンクの黒人が、ベルベット仕立ての細長いケースを蒼穹に差し出した。
「確かに受け取りました。間違いなく十五分以内に、カーネギー・ホールの搬入口まで、お届けします」
メッセンジャー・バッグを背中から降ろし、中にケースを入れた。
「あんた、もしかして日本人?」蓋を閉めると、パンクの黒人男が話し掛けた。
「はい、日本人ですけど、何か?」
蒼穹が頷くと、不安そうに苦笑しながら男が話を続けた。
「旦那は、ティンパニストだけどさ。オーケストラとの長期契約が懸かっているのさ、今日の演奏がね。だから、テンパっちゃって、最高のマレットを、取り違えていったのさ。で、そいつがね、日本製なんだ。あんたが日本人なら、幸運の女神になってくれるのかなって、ふと思ってさ」
「任せてください。全力で旦那様の幸運の女神になってみせます」
蒼穹は、最高の笑顔を作って見せた。力を抜いて笑ったパンク男の表情が、思いがけず可愛らしかった。
「さあ、早く出発しておくれよ。幸運のマレットが無くっちゃ〝ジークフリートの葬送行進曲〟だって始まらないからね」
演目は、ワーグナーだった。
『神々の黄昏』の荘厳な舞台装置に背を向けて、オーケストラ・ピットで焦りながら依頼人がマレットの到着を待っている。
ありそうな姿を、蒼穹は思い浮かべた。
右手の拳を心臓の上に置いて、目を瞑る。
〈期待に応えなければ〉決意を固めて、蒼穹は息を整えた。
「行きます!」
掛け声を掛けると、踵を返して、全力で階段を駆け降りた。
3
タイム・ラップは、すでに始まっている。一秒たりとも無駄にはできない。
ピスト・バイクからチェーン・キーを外して、蒼穹はサドルに跨った。ジャンプして、ペダルを逆に踏んで方向転換。
力強く、深く、リズミカルに。蒼穹は前に前にと、ペダルを踏んだ。
駐車する自動車の間を抜けて、歩道から、通りを走る自動車の前に飛び出した。
ブレーキの付いていないピスト・バイクは、急停車ができない。車の鼻先をギリギリで抜けながら、次々と自動車を抜いていく。
強引な割り込みに腹を立てたイエロー・キャブが、クラクションを掻き鳴らした。
幅寄せしてくるミニ・バンを一睨みして、蒼穹は先頭に走り出た。
カーネギー・ホールはミッドタウンの北端にある。セントラル・パークの手前だ。ロウアー・イースト・サイドの南端から車を使えば、渋滞を含めて優に三十分は掛かる。
同じコースを、半分の時間で突っ走る。
渋滞する車の間を擦り抜けるだけでは、不可能な短縮だ。〝自転車便ならでは〟の方法を使い切る必要がある。
無線で配送指示をするディスパッチャーからの情報を得る。
ナビゲーション・システム、チーム仲間の経験。少しばかりの直感。すべてを駆使しながら、蒼穹は最短最速のルートを探っていく。
あとは、責任感と持ち前の負けん気で、不可能を可能に変えるだけだ。障壁が高いぶん、達成感は最高にハイになる。
バワリー通りに抜ける信号が赤になった。蒼穹は右端に車線を換えた。迷わず歩道に飛び乗った。
ランニングする男女の横を通り抜け、最適な曲線を描いて交差点を曲がっていく。斜めになった車体に、風が心地良い。
〈大丈夫だわ。問題はなさそうね〉
歩道から飛び出して車列の隙間を疾走した。ハイな気持ちに、蒼穹は口元を緩ませた。
4
セブンス・アベニューに抜けるまでに、公園や大学の抜け道を利用した。徹底的な時間の短縮に有効な手段だ。
ビル街のように向かい風に悩まされることも少なくなる。
無線に飛び込んでくる経験豊富な先輩たちのアドバイスと、ディスパッチャーの正確な情報が役立った。情報は大切だ。情報なしの単独走行より、効果は無限大に上がる。
残されたルートは直線だった。道の先に見える歴史ある建造物を目指してペダルを踏み、全速力でクランクを回転させた。
車軸に回転を伝えるチェーンの音が、蒼穹の緊張を高めてくれる。
信号が赤に変わった。あと一歩のところだった。信号待ちがもどかしい。
車体を左にバンクさせた。回り込むようにして、蒼穹は動き始めた交差する車の流れに飛び込んだ。
競い合って走り出した車間を縫って車線を渡り、左折する恰好で反対側の歩道に突っ込んだ。
カーネギー・ホールが、飛ぶように迫ってきた。
建物の裏手に回る。通用口に飛び込んだ。警告しようと近付く警備員を、待ち構えていたタキシード姿の若者が止めた。
若者が蒼穹に向かって駆け寄ってくる。
柔らかな巻き毛が揺れていた。ユダヤ人の青年だった。大きな鼻を動かして、安心した表情を見せた。興奮して息が荒かった。
「迅速、丁寧、自転車便のBQラッシュです。あなたの依頼品をお届けに参りました」
極上の笑顔を作った。蒼穹はベルベット仕立てのマレット・ケースを差し出した。マニュアル通りに笑顔を見せてはいるが、息が上がって、本当は、かなりキツイ。
こっそりと時計を覗き見た。依頼の時刻まで、残り三十秒だった。
「ありがとう。君が幸運の女神だね。妻から聞いたよ」
「あなたにとって、私が幸運の女神とならんことを! 成功を祈っています。頑張ってください」
蒼穹の言葉を聞いて、ティンパニストが頼りなく笑った。
「神頼みだなんて情けないと思っているんだろう。でもさ、パーカッションの誰もが、日本製のマレットが最高だと知っている。最高を揃えなくちゃね。最高の演奏を聞かせるつもりなら、さ」
「当然です。持てる全てを使って、力を出し切る。同感ですよ。自信を持って下さい」
受け取りのサインを求めて、蒼穹は伝票をティンパニストに差し出した。現実に引き戻されたティンパニストが苦笑した。
感動に水を差してもビジネスはビジネスだ。
伝票にサインをしたティンパニストが、慌ててポケットを探した。
ようやく探し出した二十五セント硬貨を二枚。そっと摘まんで、蒼穹に差し出した。
「少なくて、ごめんね。演奏前だから、これしか持っていないんだ」
「オッケーです。ここを見てください」
蒼穹は伝票の金額欄の下に書かれた但し書きを指さした。
「〝料金にはチップが含まれています。ただし、ラッキー・コインなら受け取ります〟か。了解だよ。じゃあ、この硬貨が君の幸運のコインになりますように」
「サンキュー。またのご利用を! お待ちしています」
メッセンジャー・バッグを背負い直した。踝を返した蒼穹に、ティンパニストが声を掛ける。
「最後に、君にラッキー・ワードを贈るよ。あとでカーネギー・ホールのサイトでアクセス案内を見るといい」
片手を上げて、蒼穹はティンパニストに別れを告げた。
5
ピスト・バイクに跨り、スマホで説明されたアクセスのページを確認した。
『(昔からの冗談だが)カーネギー・ホールに到着するためには、生涯かけて練習し続けなければならない人たちがいる。だが、他の人は次の簡単な指示に従うだけでよい』
蒼穹は失笑して、歴史ある古い建物を振り返った。元ネタは知っていた。
『カーネギー・ホールには、どうやって行けばいいのですか?』
道を尋ねられた天才ピアニストのルービンシュタインが答えた。
『練習、練習、さらに練習が必要です』
要するに、練習を重ねた演奏家以外に、成功の切符を手に入れることはできないというジョークだ。
〈どんな仕事だって同じだ。実践と努力がなければ、成功は勝ち取れない〉
スマホを仕舞って、シャフトを逆回転させた。
無線機からディスパッチャーの声が響いた。
『リンカーン・センターに向かってくれ。今度はダウン・タウンまで配送の依頼だ』
「オッケーです。すぐに向かいます」
蒼穹はウエスト五七番ストリートに飛び出した。アッパー・ウエスト・サイドを斜めに横切るブロードウェイを抜けて、一直線にマンハッタン島を走り抜けるつもりだ。
すぐ先のセブンス・アベニューとの交差点を前にして、蒼穹は嫌な予感がした。ストリートの空気が、いつもよりざわついている。
ポケットの上から、貰ったばかりのラッキー・コインに触れた。
〈大丈夫よ。貰ったコインが守ってくれる〉
信号が青に変わった。交差点に突っ込んだ蒼穹は、間近で発砲と、激しくタイヤをスキッドさせる音を聞いた。
ポリス・カーのサイレンがビルの谷間に響き渡った。
赤信号を無視して、黒いミニ・バンが交差点に飛び込んできた。蒼穹の前を走るイエロー・キャブの鼻先と接触した。
ミニ・バンは、そのまま走り抜けた。立ち往生したイエロー・キャブが交差点に残された。衝突を避けた蒼穹は、ハンドルを切った。
ピスト・バイクは急に停まれない。
ミニ・バンを追ってポリス・カーが目の前を走り抜けた。
危険な交差点から抜け出そうとして、蒼穹は判断を誤った。急停車した対向車の鼻先を抜けるつもりで、クランクを回して加速した。
次の瞬間、蒼穹は横からの激しい衝撃を受けた。ピスト・バイクごと身体が宙に浮いた。
二台目のポリス・カーの回転灯が目の前にあった。フロント・ガラスに身体が沈み込んだ。ピスト・バイクのクラッシュする音が、悲しく蒼穹の耳に聞こえた。
回転しながら跳ね上げられ、蒼穹の身体は再び宙に浮かんだ。手や足が捻じ曲げられ、バラバラになってしまいそうだ。
地面に叩きつけられるまでは、意識があった。
全身の激しい痛みと共に、路上にラッキー・コインが転がり落ちた。
〈私は、死ぬの?〉
考えながら、頭を打った。蒼穹は意識を失った。