オタクとライト層
度々エッセイで出てくるライト層とオタクと言う区分がある。なろうはどっちが重要なのか?ならこれは難しい。まず今のオタクはコア層ではあるが、好みって点で芸術的発展と重なるマニアではない。これは古いタイプのオタク層になる。その境目はどこにあるか?でとにかく今オタクは頭を使って物語を楽しまない。だからマニア的発展をし無い。
そこがライト層の楽しみのコア層になった部分。
ここで私は頓挫していたが、区別する方法が見つかった。オタクと言うコア層はベストを求める傾向がある。それに対してライト層はベターで妥協できる。根底は同じ趣味だが、オタクはライト層が楽しむ大衆娯楽の中ベストを求める傾向がある。これははっきり矛盾してる。オタは基本アニメ漫画に触れてる時間は馬鹿だから…。
オタク=馬鹿じゃない。馬鹿になりたくて選んだ趣味といって良い。趣味の時間オタクは馬鹿になる。もっと言えば子供に戻れる時間と言って良い。だから考えが整理されて無い。昔のオールドオタクの方がその点は洗練されてる。良いものは芸術的発展以外理性的には扱えない。もう古くなってるかもしれないが、ネットスラングの神がオタクのベストを求める傾向が見えると思う。
はっきり言って主観的であまり面白いものにならない。その中で唯一理性的に扱えるものが、飽きるじゃなくて慣れになる。飽きていたらそれはライト層だ。飽きてるのじゃなくて慣れてるがゆえに求めるベストがある。慣れてないものになる。ここで理性的なマニア的オタクなら、慣れてない事=その他のジャンルになる。
だがオタクはならない。そこは譲らない。好みを固定したまま新しいものに出会いたい。この刺激がライト層と全く違う。ここで分けられる。だからオタは悪口が酷いんだ。どれもこれもクソ。それは求めているものと違うからになるし、そんなものほとんど無いんだ。オタクは基本的にひたすら無いものねだりを繰り返す。
オタクはチョロイというが、それは全くの間違い。それは外から見てるからになる。ある特定の傾向の見えるエサさえ与えておけば満足するから簡単だとオタクビジネスは語られる。だが経験すると全く変わる。その中のベストはほとんど作れない。それ以外は酷い扱いになる。オタクがチョロイと感じるのは、本当の価値を知らない外野の意見でしか無い。
頭を余り使わずに同じ傾向で慣れてないものを作り出すなんて不可能に近い矛盾にも近いものになる。人間なんでもそうだが無知は差別的発言になる。オタクはチョロイってのは馬鹿にしてるから出てくるもので、実際実体を知るとこんな馬鹿げたものやってられるかとオタクビジネスの厳しさが分かるんだ。
まあ焼畑農業といわれている。これ馬鹿にしてるから分からないけど、考えたらすぐ分かるんだ。オタクは何によってオタクになるか?で豊富にオタクコンテンツに触れてるからオタクになるわけで、その狭い範囲の中で慣れてないものを創ってベストを作り出してといわれたら、私なら逃げ出したくなる。
ここでライト層なら飽きてくれるんだ。そこで終ってしまうので楽だが、これが飽きるじゃなくて慣れるだから性質が悪い。この辺りがなろうと深夜アニメの差になる。
じゃなろうはライト層なの?ならオタク的傾向を持つ深夜アニメの価値を決めるようなコア層に較べるとライト層だろうね。
ライト層ってのはベターで満足してくれるんだ。その代わり好みが広い傾向にある。それはもっと言うと私のアザーな人々に繋がる。集団の中で統一した好みなんてないから単に細分化された好みの集団がまとまって一般層なんてまとめられてるだけだ。これは統一した見解のある層じゃない。単に特定の好みを持たないか?または、ベストの好みが細分化された小さな集団がベターを求めて集まって多数派になってるだけのその他の層に過ぎない。
ライト層はベターで満足できる。これで大体は分ける事が可能。
ならなろうはこのままで良いのか?ならこれは難しい。前も書いたけど、だからってオタクを無視して良いわけじゃない。なろうの一番の問題はテンプレが生み出せない苦しみよりも、そのテンプレ自身のコアな部分に興味の無い新しい世代による世代交代になる。そのXデーの日のために何かしらの工夫はしていかないといけない。
ただし、これは理想論に過ぎない。創作と言うのはこうやって世代ごとに入れ替わって滅んでいくのが常だから。そういうものだと諦めるのが私はベストな気もしている。創作のあるジャンルテンプレはいつか死ぬ。それは避けられない事で、それを避けようって言及は不老不死のような無意味な事を求めるのと変わらない気もしている。