昨日出会った彼の記憶が消えていない理由。
ピピピッ、ピピピッ。
「ん……」
聞き慣れているデジタル音が聞こえてきた。目覚まし時計のスイッチに手を伸ばす。
「…う……ん」
時計に手をのせると、デジタル音は止まった。ーーいつも通りの朝である。
「あっ、おっはよ! 翠ちゃん」
「おはよう、朔くん」
ピンクのフリフリが盛り沢山なエプロンを身につけてた朔は、朝食を準備していた。
「ささっ、座って座って! 今、ちょうど出来たばかりだから、温かいうちに食べて」
「うん、ありがとう」
テーブルの上には温かい朝食が並べられていた。今日は綺麗な黄色のスクランブルエッグと、ちょうどよく焼けたトーストがおいしそうである。
「いただきます!」
「どーぞ、召し上がれ!」
ニコニコしている朔も着ていたエプロンを脱ぎ、翠の隣に座った。
「おはよう……」
眠そうな声で眼鏡をかけた昴がリビングに入ってきた。
「おはよう、昴くん」
「おはよう、昴。コーヒーにする?」
「ああ。頼む」
昴は翠の向かいに座ると、持っていた新聞をテーブルに置いた。
「なんか、変わったニュース載っていたの?」
「いや、特に無いな。小塚宮神社のことも、綺麗さっぱり載っていない」
「なら、よかったじゃない!」
朔が持ってきてくれた淹れたてのコーヒーを、昴はゆっくりと飲んだ。その姿をジッと翠は見ていた。
「……ん? どうした?」
「えっ、あ……。昴くん、疲れているな……と思って」
「そうか?」
「うん。昨日もかなり力を使ったと思うし……、仕事も忙しいんでしょ?」
心配そうに話す翠を見て、珍しく昴が微笑んだ。
「ああ、心配してくれてありがとう」
「確かにそうね。ここ一週間、浮気調査の仕事もあったから、ちょっと疲れているかもね。昴、今日は休んだら? 俺が調査引き継ぐわよ」
「でもな……」
「朔くんが良いよって言ってくれているんだから、休んでよ。ね? 昴くん」
「そうよ! 昴が倒れたら、俺も翠ちゃんも何も出来ないわ! だから、今日は休みなさい」
2人の押しに昴は柔らかい表情を見せた。
「……ああ。ありがとう……な」
その後、3人で談笑しながら朝食を食べた。
翠は身支度を整え鞄を持ち玄関に向かうと、昴が立っていた。
「翠、車で送ってやる」
学校まではそんなに距離は無いが、昴の申し出に翠は素直に従った。
「翠、高校はどうだ?」
「うん。まあまあかな」
「まあまあか……」
ちょうど、赤信号で車が停まった。歩道には翠と同じ制服を着た女の子達がたくさん歩いている。
「翠……」
「うん?」
「俺は、お前だけは普通の高校生活を送ってほしいと思っていたんだ」
「……うん、知ってるよ」
「ごめんな……」
ちょうど、そう言った時の昴の横顔が太陽の光で見えにくかった。だが、昴がどんな表情をしているか、翠には分かっていた。
動き出した車内には、エンジンの音が響いている。
「…………」
「大丈夫だよ、昴くん!」
笑顔で明るく答えると、申し訳なさそうな顔で昴が頷いた。
「私はね、高校に通わせてもらっていることに感謝しているよ。本当は今のような生活だって、出来ないはずだったのに、それを昴くんが叶えてくれたから……」
「……ああ。俺は絶対にお前を守るからな」
「うん。私も頑張るね!」
車がちょうど校門の向かいに停まると、昴があることに気がついた。
「あれって、昨日の男か?」
車を降りる準備をしていた翠は、昴の視線の先に見た。
キラキラ光っている茶髪の彼は、たくさんの人に声をかけられながら玄関に向かって歩いている白井だった。
「たぶん、そうかな……」
「……賑やかな奴だな。それにしても昨日から気になっていたんだが、どこかで見たことがあるんだよな……。あいつの名前を知っているか?」
「え? ああ、確か……白井くんだったかな……」
「白井な……」
「じゃあ、ありがとう、昴くん。今日はゆっくり休んでね。いってきます!」
「ああ、いってらっしゃい」
いつも通り教室に入ると、珍しく何人かの女子に声をかけられた。
「ねえねえ、有川さん、今日車で来たよね?」
「車を運転していた男性って、誰?」
久しぶりの現象に対し翠はなんと言えばいいか分からず、戸惑ってしまった。
「ちょーかっこよかったんだけど! ねえねえ、誰?」
「えっと……兄だけど」
「えー!!! お兄さん?」
「ステキ〜!!!」
キャッキャ言っている同級生に囲まれた状況に、翠は不思議な気持ちになった。
(この状況って、懐かしい感じ)
中学生の頃は昴と一緒にいるところを同級生によく見られており、この現象はよく起きていたのであったのだが、高校では初めてだった。
特に高校に入学してからは、探偵事務所を立ち上げた時期と重なっていたため昴は忙しく、今日みたいに送迎してくれることはほとんど無かった。
「ねえねえ、何歳なの?」
「22歳かな。もう少しで誕生日だけど」
「すっごく似ているよね、有川さんとお兄さん」
「うんうん! 」
どこから見ていたんだと思うくらい、彼女らは昴を見ていたらしい。ちょうどその時、チャイムが鳴ったので、同級生達から解放された。
(こういう会話って、普通の高校生活っぽくて良いな)
しみじみ思いながら、翠は自分の席についた。
翠はいつも通り朔の作ってくれたお弁当を持って、いつもの場所にやってきた。
「えっ……」
いつもなら誰もいないはずのベンチに、彼は座っていた。
「あ、来た来た! 有川さん」
昨日と同じ笑顔を見せた彼ーー白井がそこにいた。
(どうして白井くんがいるの……?)
呆然と立ち尽くす翠に、白井は微笑んだ。
「そこに突っ立ってないでさ、こっちに来なよ」
白井は翠を自分の横に来るように促すと、翠は黙って隣に座った。
「…………」
「…………」
2人の間に沈黙が続いた。それが居心地悪かったのか、先に白井が言葉を発した。昨日の明るい声ではなく、静かに。
「昨日さ、友達とふざけて小塚宮神社に行ったんだ」
もちろん、翠はそれを知っている。けれども、彼は覚えていないはず。
「結局、みんなで入られないって分かって解散したんだけどさ、そこに昨日の昼休みにあった女の子が入っていったから、気になってついていったんだ」
だから、彼はあの時、あの場所にいたのだ。
「そうしたらさ……青色の蛇みたいな生き物と、君が戦っていて、しばらくしたら、その生き物が君の放った矢によって消えたんだ」
翠は白井の方を見ると、白井としっかり目が合った。
「……なんで、覚えているの?」
翠からの質問に、白井は納得したような顔をした。
「ああ、やっぱり。そういうことか」
(朔くんが失敗することは無い。なのに、どうして……)
強張った表情をする翠の顔に、白井は手を伸ばした。
「な、なに?」
「ううん。綺麗な顔だなって思ってさ」
白井は愛おしそうな表情で、大切なものを扱うように翠の頰を撫でた。
「ねえ、有川さん」
「…………」
「あの生き物ってさ、魔獣だよね?」
「ーーっ!!!」
驚いた表情を見せた翠に満足したのか、白井は立ち上がった。
「今日さ、一緒に帰ろう?」
にっこり笑って言う白井に、翠は小さい声で分かったと伝えた。
それからの時間、翠はずっと考えていた。
確かにあの時、朔は記憶消しの術を白井にかけた。
今まで記憶を消された人が、記憶を戻すことなど無かった。しかも、白井は魔獣と言った。
魔獣の存在を認識している人は、世の中にほとんどいない。
魔獣を知っている者は限られているのである。魔獣を知る者ーー創造者か、狩人か。
翠達は狩人である。狩人は不思議な瞳を持ち、その瞳により力が発揮され、魔獣を狩るのである。
(白井くんは何者…………)
帰ろうと校門を向かって歩いていると、そこには白井がいた。
「待っていたよ! 有川さん」
すると、白井は翠の腕を強引に掴み、歩き出した。
「ちょっ、ちょっと」
「まあまあ、静かに。騒ぐとさ、いつも俺の周りにいる女子達に気づかれちゃうよ。あいつら、うるさいからな」
明るく爽やかに、いつもニコニコ女子達と話している白井からは考えられない言葉が発された。
「白井くん、キャラが違うくない?」
「え? ああ。まあね」
詳しく答えることなく、白井は翠をグイグイと引っ張りながら歩く。
「どこに行くの?」
「……2人で話せる場所」
しばらくの間、翠は白井に腕を掴まれながら歩いていると、翠の家の近くにあるマンションに連れてこられた。
白井はマンションの入り口で、慣れた感じに自分の番号を打つと、ドアが開いた。
(2人で話せる場所って……白井くんの自宅?)
エレベーターで目的の階に着くと、一番奥のドアの前に立った。
「ここって……」
「俺の家」
ドアが開くと、その中に翠は押し込められた。
「さあ、あがって。ちなみに俺1人で住んでいるから、2人っきりだよ」
くすっと笑って話す白井に、翠は何かを思い出しかけた。
(この表情……どこかで見たことがある)
リビングに通されると、大きくふかふかのソファとローテーブルがある。
「そこに座っていいよ。飲み物、なんでもいい?」
「えっ、あ、うん」
言われた通りに翠はソファに座った。
白井の部屋にはほとんどものがなく、生活感が無い。ダイニングキッチンには、ほんの少しの果物とパンが置かれているくらいだった。
きょろきょろと辺りを見渡していると、白井は温かいコーヒーの入ったカップを翠に手渡し、隣に座った。
「ありがとう……」
「いいえ。昨日の昼休みみたいだよね、この感じ」
昨日の昼に初めて話した時と、確かに同じ状況である。
なぜ、白井には記憶があるのか。
どのように聞くと良いか、翠には分からなかった。
それを察しているかのように、白井は話し始めた。
「俺に記憶がある理由を知りたいんだよね?」
翠は素直に頷いた。それが最良の返事だと思ったからである。
「昨日は偶然、君たちと一緒になったわけなんだけど、おかげで俺は元に戻ったんだ」
「元に戻った……?」
「ああ。俺は昨日、記憶を消されるまでの2年間、記憶を失っていたんだ」
「2年間の記憶?」
「ああ……」
ピーンポーン。白井の家のチャイムが鳴った。
「あっ、ようやく来たかな。ちょっと待ってて」
そう言い残し、白井は部屋を出ていった。
しばらくすると、翠にとって親しみのある顔が2つ見えた。
「あー! 翠ちゃん!」
翠の顔を見た瞬間、朔は勢いよく翠に駆け寄った。
「さ、朔くん」
「翠ちゃん、変な事されていない? 大丈夫?」
手をがっちり握り、心配そうな顔で声をかけてくれる朔に、翠はようやく肩の力を緩めることができた。
ドアの方を見ると、白井に案内されながら、昴が入ってきた。
「昴くん……」
「大丈夫そうだな……」
眉間に深いシワを寄せながらも、翠に何事も無かったことに安堵した顔を見せた。
「さて、白井と言ったか? どうして、俺らをここに呼んだ?」
昴が少し怒っている口調で、白井に問いかけた。白井は涼しい顔をしている。
「それはお礼を言いたかったからに決まっているじゃないですか?」
「お礼?」
「ええ。昨日、俺に記臆消しの術をかけてくれましたよね? そのおかげで、俺が失っていた記憶や力が復活したんですよ」
「記憶や力……?」
白井はニヤッと笑うと、昴は何かを察した。
「まさか、お前……」
「ええ、そのまさかですよ。昴さん」
2人だけで話が進んでいる。翠と朔は、この状況に首を傾げた。
「ねえ、ちょっと二人して何よ? 俺ら、仲間はずれされているんだけど」
「ああ、悪い」
「貴方って、高良家の次期当主ですよね?」
「ええ。でも、どうして知っているの?」
「高良家といえば、狩人の中でも多様な術を使いこなし、攻撃を得意とする狩人にとっては最高のパートナーとなれる存在。元々、有川家から派生した家だから、昔から高良家は有川家にしかつかないのも特徴」
白井から話される内容は、翠が今まで聞いたことのないことであった。
「昴くん……話が見えないんだけど……」
「本当よ! なんなの、この話は?」
「ああ。この状況が上手く飲み込めないが、まず分かったことが一つある。こいつ、白井は狩人だ」