表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

糖度高めの現代短編まとめ

幸せは、思いがけず突然やってくる。……いやほんと、予想以上の展開だよ!?

作者: 木村 真理

ホームに降りて、電車の時刻を確認する。

お目当ての電車の到着時刻は、10分後。

まだちょっと余裕がある。


ホームに設置された自動販売機で、抹茶オレの缶を購入。

朝の6時30分と時間がはやいせいか、ホームに人影はまばらだ。

通勤時刻なら混み合っているベンチにも人はなく、のんびりと座って抹茶オレを飲む。

温かさと甘さに、心が和む。


こんな早朝に、一人で初詣に行こうと思い立ったのは、朝から両親と顔をあわせたくなかったからだ。


社会人になって一人暮らしを始めてから、大晦日からお正月の三が日は実家に帰るのが恒例になっていた。

だから、今年も実家に帰った。


初めから、気まずくなるだろうとは思っていた。

それでも、例年と違うことをするのは、嫌だった。

それは、自分があのことに今でも大きな痛手を負っていると二人に教えるようで、つとめて普段通りに過ごしたいと思ったのだ。


けれど両親が、実家に帰った私を腫れ物に触るように気遣うのを見て、失敗したとつくづく感じた。

両親は、私が傷ついた以上に、傷ついていると思っているようだった。

それを昨夜というか今日の深夜2時、思い知った。


父は、泣いていた。


「あの子が、あんな目に合うなんて。本当にいい子なのに」


「去年は、もうすぐ結婚するんだって、あんなに嬉しそうにしていたのにねぇ」


母の声も、震えていた。





昨夜の0時。

年末恒例の歌番組を見て、0時を迎え、両親と「あけましておめでとうございます」と言葉を交わして、自室に戻った。

父と母は、この後ふたりでお酒を飲む。

私はお酒も飲めないため、早々に寝ることにしていた。

これも、例年のことだ。


私が生まれた時に父が建てたこの家には、もう10年以上も前に家を出た私の部屋がまだ残っている。

お正月に戻った時は、そこにお客様用の布団を敷いて、寝ている。

すべてが、例年通りだった。


けれど、去年はすこしだけ違った。

私はもうすぐ結婚する予定で、1月3日には博昭が両親に挨拶に来た。

去年の1月1日は、その話をするために、0時を過ぎても両親と一緒にリビングで話をしていた。

この家で、3人で過ごすお正月は最後になるだろうと、そんな話をしていたのだ。


結婚式の予定は、8月だった。

お正月休みを利用して、私と博昭はいろいろ相談を重ねていた。

クリスマスに二人で行った教会も、式場の候補地のひとつだった。

33歳の私にはかわいすぎると思いながら、けれど一生に一度のことだからとドレスなんかを情報誌でチェックするのも楽しかった。

2歳年上の博昭は鷹揚で、どれも私に似合うだろうと笑ってくれていた。


それが一転したのは、その1か月後のことだ。

私は、博昭がクリスマスに、彼の会社の女子社員に告白されていたことを知る。

お正月休み、私と結婚式の相談をしながら、合間に彼女と会っていたことも。

「別れたい」と言われたのは、2月に入ってすぐのことだった。

「他に、好きな子ができた」という言葉は、「香苗と結婚したい」と言った男の口から、同じ重みで語られた。

きっぱりとした博昭の態度は、「そんなの受け入れられない」という私の言葉を寄せ付けなかった。

彼が、こういう態度をとるときは、決してその決定は覆らない。

3年という短くはない付き合いで、私はそれを知っていた。

私にできるのは、別れを受け入れることだけだった。


私と博昭の婚約破棄を知った両親の嘆きは、思った以上のものだった。

33歳まで仕事づけだった娘が、やっと結婚したいと言ったのだ。

喜びもひとしおだけだっただけに、その結婚が相手の心変わりでなくなったこと、それによって私が傷ついているだろうことに激怒していた。


両親の気持ちは嬉しかったけれど、その時は正直そっとしておいてほしかった。

あちらの両親にも訴えるという父をなだめるのは大変で、お願いだからなにもしないでと泣きわめいたりもした。

博昭の両親にも、丁寧なお詫びをいただいていたのだ。

博昭の心変わりは、あちらのご両親のせいではない。

それは博昭と、新しい恋人、それに私の問題だ。


不幸中の幸いだったのは、私たちが結婚することはまだ親しい人にしか言ってなかったこと。

博昭に憤る友人もいたけど、おおむねみんな私をそっとしておいてくれた。


私はあれこれ考えることに疲れて、仕事も辞めた。

もともと終電で帰るのも休日出勤も日常的なブラックな職場で、30歳を過ぎてからは体力的にキツかったこともある。

幸いお給料はたっぷりいただいていたので、そのお金で、今までできなかったことをいろいろした。


何日もだらだら眠ったり、のんびりテレビを見たり、近くを散歩したり。

お決まりの海外旅行にも、あちこち出かけた。

呆れるほど無為な生活は、私の心をいやしてくれた。


正直なところ、私は今、それほど傷ついてるわけではないと思う。


博昭のことは、好きだった。

地方銀行に勤める博昭は、職業にふさわしく真面目で落ち着いた人だった。

地に足がついた堅実な生き方をする人で、両親や職場の人を大切にしていた。

ゆったりとした口調で語られる彼の生活は穏やかな輝きに満ちていて、そんな博昭と一緒にいると、落ち着き、安らげた。


それまでの数少ない彼氏といるときのように、どきどきしたり、ときめいたりすることはなかった。

けれどそれまでの彼氏とは違い、博昭と一緒にいることは嫌になることはなかった。


あのまま博昭と結婚できていたら、私は幸せだったと思う。


けれど、別れた今、不幸かと言われれば、そうでもないのだ。

確かに博昭と別れたことは辛く、悲しい。

それでも1年も好き勝手に生きていると、案外心は立ち直るものだ。


だからこそ、両親の嘆きを聞いて、家にいずらくなった。

別れた直後は悲しみが大きすぎて、両親の前で号泣したこともあった。

今の私はもう、ほとんど立ち直っているのだけれど、昨夜の両親の雰囲気だと、正直にそう言っても強がっているだけだと影で泣かれそうな気がする。





抹茶オレを飲み終えて、缶を捨てる。

タイミングよく、電車が到着した。

電車の中も、ガラガラだ。


伏見稲荷の初詣といえば、人だらけなのを覚悟していたのに、意外なものだ。

あるいは、この時間が空いているだけなのだろうか。


空いている席に座って、スマホのニュースを何気なくチェックする。

と、隣に大柄な男が座ってきた。


席は広く空いているのに、知り合いでもない人間のすぐ側に座るというのは、なんらかの意図があるものだ。


ナンパか変質者か酔っ払いか。

警戒心もあらわに隣の男を横目で見て、どきりとした。


金髪に、碧眼。

絵に描いたような外国人、それも見たこともないようなイケメンがこちらを見て微笑んでいる。


「スミマセン」


男は、私と視線があうと、カタコトの日本語で話しかけてきた。


「フシーミイナリ? ディス トレイン?」


「イエス」


うなずくと、男は嬉しそうに笑う。

目尻に楽し気な皺がうかぶ。

すると完璧がゆえに近づきがたい整った顔に、親しみやすさが出る。

人生を楽しんでいるのだと、見る人に思わせる顔だ。


「サンクス」


白い歯を見せて笑って言うと、男は手に持った分厚いガイドブックに目を落とした。

それ以上話しかけてくる様子もないので、ほっとする。


一人旅の外国人は、話し好きの人間も多い。

一人旅の途中、旅先で出会った人とすこし話をするのは楽しいというのは私にも覚えがある。

他の言語ならともかく、英語はそれなりに話せるから、多少の会話なら付き合うのも構わない。


けれど彼の行先が伏見稲荷と私と同じだったので、できれば会話したくなかった。

電車に乗っている数分ならともかく、一緒にお詣りにいきましょう、などという展開は遠慮したい。


スマホのニュースを軽くチェックして、バッグにしまう。


代わりに取り出したのは、小説本。

金融がらみのミステリで、最近イギリスで流行しているらしい。

ずっと会計の仕事をしていたので、会計がらみや金融がらみの小説が好きだという私の好みを知っているロンドン在中の幼馴染が勧めてくれた作者の本だ。


私の好みを熟知している彼女のおすすめだけあって、この作者の本はとても面白い。

丁寧な取材に基づく綿密なトリックはもちろん、登場人物たちのキャラクターもたっていて、シリーズものの主人公の男と、友人でワトソン役の男のやりとりも絶妙だ。

それに世界観があたたかく、読後感がいい。

日本語の翻訳本は、シリーズ第一作が年末に出版されたところだけど、きっと日本でも人気がでると思う。


もちろん、私は日本語訳版も買った。

昨年は暇にまかせて原書を読んでいたけれど、日本語で読むほうがラクだし、話に集中できる。

どんな翻訳がされているかも気になった。


下手な翻訳だったらいやだと思っていたのだけれど、それは懸念だったようだ。

原作の色を損なわないように、日本語としてもよみやすく翻訳されていた。

おかげで、小説の世界がより色鮮やかに楽しめる。


小説を楽しんでいると、窓の外が急に明るくなった。

地下を走っていた電車が、地上へと出たのだ。

地上に出るとあと数駅で、伏見稲荷の最寄りの駅につく。


家を出たときは暗かったのに、もうこんなに明るくなっているんだ。


白んだ空を見て、ほぅとため息をつく。

そして、ふと視線に気づいた。


視線のほうへ顔を向けると、さきほどの男が私を凝視している。

いぶかしげな眼を向けると、男は白い顔を赤くしてもごもごと『なんでもない』という。

先ほどまでは片言の日本語で話しかけてきていたのに、急に英語で話し始めた彼を不思議に思いつつ、軽くうなずいて視線を本に戻した。


目的地が一緒なので、あまり話したくないという気持ちに変わりはない。

けれど、その後も男がちらちらとこちらへ視線を向けてくるので、気にせずにはいられない。


ナンパ的なことであれば、最初に声をかけた時にもっと話しかけてくるだろうし、そもそも最初に話した時は、男はいかにも人に話しかけるのに慣れているようであった。

親しげでいて踏み込まない距離感は悪くないと思っていたのに、その好印象が崩れていく。


なんなのだと思うけれど、わざわざこちらから聞くのも業腹だ。

大昔に英語の授業で先生が「真の詐欺師は、こちらから話しかけさせる技術を持っている」と言っていたのを思い出す。


かたくなに本に目を向けるけれど、さきほどまでのように本に集中できない。

そうこうするうちに目的の駅についたので、私は素早くバッグに本をしまって、ホームに出た。


男も、続いて電車を降りる。

彼の目的地も同じ場所なのだから、当たり前だ。

けれど男と並んで伏見稲荷まで歩いていくなんてまっぴらなので、早歩きで改札へとむかう。

ICカードで手早く改札を出ると、男もなぜか慌てた様子で切符を改札にいれている。


まさかとは思うけれど、追いかけられているのだろうか。


男の様子にいやな気分になって、足早に駅を出ようとした。

と、そのとき。


『危ないっ』


腕をひかれ、後ずさる。

目の前に車が、走っていった。


危なかった。

心臓がどきどきと、大きな音を立てる。

もうすこしで、車にはねられるところだった。


「ゴメンナサイ、ワタシのセイ……」


腕をつかんでいた男が、大きな体を縮めて、深々と頭を下げる。


「いや、今のは私が悪い……」


前方不注意にもほどがある。

あやうくお正月早々、車のドライバーにも、ほかの初もうで客にもとんだご迷惑をおかけするところだった。

追いかけてきた男のせいも多少はあるけれど、別段追うというらしく追われたわけでもない。

彼だって同じ場所に行くのだから、ただ急ぎ気味に歩いていただけかもしれないのに。


『顔をあげて。私が不注意だったのが悪かったの』


英語で言うと、男はがばりと顔をあげた。


「エイゴ、ハナセル?」


『それなりに。だから、英語で話してくれていいわ。通行の邪魔になっているから、歩きましょう』


連れだって歩くつもりはなかったのだけれど、おろおろしている男が哀れになって、促した。

実際、大柄な外国人に深々と頭を下げられていると、人の視線を集める。

ガラガラだと思っていた電車にはそれなりに人が乗っていたようで、近くまで車で来たのだろう人も合流した稲荷付近の路上はそこそこの人出があった。


おとなしくついてくる男に、穏やかな声で話す。


『助けてくれて、ありがとう』


『いや、……というか、俺のせいだよね?君が慌てて駅をでようとしていたの』


眉を下げて、いかにもしょんぼりとした顔で言われる。

イケメンにそんな顔をされると、周囲の女子の視線が痛いからやめてほしい。

日本有数の観光地である京都の中でも屈指の観光地である伏見稲荷は、外国人の姿も珍しくはない。

けれども男はがっしりとした長身とそのキラキラしい顔で、女の子たちの視線を集めているのだ。


私は、肩をすくめた。


『心当たりがあるの?』


『ある。俺が、君を見ていたからだろう?』


『見ていたの?』


『気づいていたんだろう?』


まるで、口説かれているような会話だ。

彼がいかにもしょげた様子でなければ、勘違いしてしまったかもしれない。


けれど彼の態度はすこしも私の気をひこうとしてはおらず、ただただ申し訳ないとだけ訴える。

それはそれで、すこしだけいら立つのは女子の性分か。


無言のまま、視線で先をうながす。

彼は、しどろもどろに言葉をつづけた。


『怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ……、その、君の読んでいた本が、その……』


『本?』


電車で読んでいた本には、カバーはつけていなかった。

凝った帯がついていたが、そちらは家に置いている。

白地に黒でタイトルが書かれたシンプルな本は、そう人の目をひくものではないと思う。

ましてや、彼は英語ネイティブだ。

日本語はカタコトだし、まさか話すのは苦手だが読み書きは堪能だということもないだろう。

本のタイトルなどが目に留まったというわけでもあるまいが。


『リチャード・ライターは、俺のペンネームなんだ』


『へぇ』


リチャード・ライターは、私が読んでいた本の作者だ。


『あなたが、あのリチャード・ライターってわけ?イギリスで評判の小説家?』


『たぶん。……小説家ではあるけど、評判ってのはどうかな。知人じゃない読者にあったのは、君が初めてなんだ』


私はこれみよがしにため息をついた。

踏切で足止めされたのは、いいタイミングだ。

バッグからスマホをとりだして、”リチャード・ライター”を検索する。


たいていの作家は、今や顔写真をネットに挙げられているものだ。

そんな嘘は、瞬時にバレる。


ばかばかしい嘘をついた男に、スマホをつきつけるつもりだった。

なのに、検索にひっかかったページを開いてみたら、目の前の男とそっくりな顔が笑っている。


「嘘でしょ」


スマホと目の前の男を見比べてつぶやくと、男は恥ずかしそうに笑った。

信じられなくて、他のページも開ける。


出版社のホームぺージにリンクされた著者のブログだった。

それを見て、息を飲む。


暗闇にライトアップされた朱の楼門。

見覚えのある景色が、真っ先に目をひいた。


写真に添えられた文章に目を通すと、リチャード・ライターは年越しを京都で過ごしたと書かれている。

おけら詣りという伝統行事に参加できて、とても楽しかった。

すこし仮眠して、朝には伏見稲荷に行く予定だと。


『本当に、本人なの?』


『うん』


ぼうぜんとして問えば、彼は照れたようにうなずいた。


遮断機があがって、人の波が動き出す。

それに合わせて歩きながら、私は好きな作家との思わぬ出会いにまだ呆けていた。


嬉しいというよりも、現実感がない。


『君は俺のことを”評判の作家”だと言ってくれたし、そこそこ部数も刷ってもらっている。ネットで取り上げられたり、感想ももらっているしね。だから俺の小説を読んでくれている人がいるのは知っているんだけど、自分の小説を目の前で読んでくれている人を見たのは初めてだったんだ。それで君から目が離せなかった。怖がらせて、悪かった』


『初めて?』


『あぁ。日本はもちろん、イギリスでも、身内以外では直接は見たことがなかったんだ』


『サイン会とかはあるでしょ?』


『そうだね、そういうところではファンだと言ってくれる人に会ったことがあるよ。けど、それと偶然出会った人が自分の本を読んでくれているのを見かけるのは、インパクトが違うというか……』


顔を赤くして、照れ照れとリチャード・ライターが言う。


『なるほどね。それで、私を見ていたのね』


『あぁ。話しかけようとも思ったんだけど、なんだか照れくさくて。けど、すごく楽しそうに読んでくれていただろう?だから、声をかけたくて。……迷っていたんだ』


『話しかけもせずに追いかけてくるほうが怖かったわよ』


『ごめん。ふだん人に話しかけるのは照れたりしないんだけど、自分の書いたものを読んでくれている人だと思うと、なんだか無性に照れくさくて』


ごにょごにょと言い訳しつつ、慌てている様子はなんだかかわいかった。

追いかけられたと言っても、ただ短距離を後ろから歩いてこられただけだ。

周囲に人も多かったし、若い女の子でもないので、対処もそれなりにできる自信はあった。

恐かったというよりも、面倒なので避けようとして危険な目に合ってしまっただけだ。

彼に対する怒りは、特になかった。

まして彼が、あの面白い小説を書いている本人だと知ってしまっては。


『まぁ、もういいけど』


くすりと笑えば、おそるおそるこちらを見る。


『許してくれるの?』


『大げさ。そもそもそんなに怒っていないし。私、リチャード・ライターのファンだから』


『それは……、ますます申し訳ないというか』


『もういいわよ。それより、ここ右に曲がるわよ』


前に見える鳥居のほうへ歩いていこうとするリチャード・ライターを引き留め、右折する。


『え?こっちじゃないのか?』


『普段はそこからでも行けるんだけど、お正月はこちらの門から入るって決まっているの』


人ごみ対策である。


『まだ今はそんなに大した人出でもないけど、時間によってはこの辺りの道も人で埋め尽くされるから』


したり顔で言うと、リチャード・ライターは素直にうなずく。

軽くウェーブのかかった金髪が、ひょこひょこ動く。

ひよこみたいだ。


この人があの小説を書いたのか。

意外と言えば意外だし、それらしいと言えばそれらしい。


私は小説家について、さほど興味がないタイプの読書家だ。

エッセイなら著者の年齢や性別、略歴は、著者の立ち位置を知るために、確認してから読む。

旅のエッセイでも、著者が20代の女性なのか、40代の男性なのかでは視点がぜんぜん違うからだ。

けれど小説を読むときは、作家の素性は気にならないので、わざわざ調べたりはしない。


だからファンとはいえ、リチャード・ライターについても、さほど多くを知っているわけではない。

英国人の男性で、有名な大学で金融工学の勉強をしたとは聞いたことがあったけれど、それだけだ。


金融や国際情勢の知識の深さから、著者は40歳以上ではないかと思っていた。

リチャード・ライターが作家として認められて、4年はたっている。

目の前の男は、せいぜい30歳くらいだろう。

20代後半から、あんな知識を持って小説を書いていたのかと思うと、感服する。


とはいえ、登場人物の掛け合いの軽妙さは、若い作家らしいといえば、若い作家らしかった。

最初に電車の行先を尋ねた時の人なれした様子も、整った容姿と明るい雰囲気も、それらしいと言えばそれらしい。


『日本へは、観光で?』


まだ彼がリチャード・ライターのそっくりさんであることを疑いながらも、私は彼と連れ立って歩くことは嫌じゃなくなっていた。

なにしろ、好きな作家に偶然出会えたのだ。

きっかけはどうあれ、むこうから話しかけてくれたのだし、目的地も同じだ。

少しおしゃべりを楽しんでも許されるだろう。


リチャード・ライターは、まだ恥ずかし気に『うん』とうなずいた。


『さっき君が読んでいた本、あれが日本では初めての出版なんだ。前から日本には来てみたいと思っていたし、ちょうどいい機会だと思って、来てみたんだよ』


『日本はどう?』


『素晴らしいね。俺は好きだな』


屈託なく笑う空色の目にひきつけられて、一瞬、胸がどくりと跳ねた。

イギリス人のくせに、そんな素直な反応をするのはやめてほしいものだ。


『まぁ、日本人に日本はどうかと聞かれたら、褒めるしかないわよね』


皮肉気に言えば、リチャード・ライターは目を丸くする。

そして思わずというように、くすくす笑った。


『参ったな、うちの姉とそっくりの話し方だ』


『お姉さんがいるの?』


『あぁ。頭が良くて気がキツイ、とびきり美人の姉がひとり』


『あら。似ているなんて、光栄だわ。もっとも、あなたを見ていれば、お姉様が美人なのはわかるけど』


リチャード・ライターの年齢から察すると、お姉様とは年齢も近そうだ。

私にも、こんな弟がいればよかった。

そうすれば私が結婚しなくても、弟が結婚して両親に孫の顔をみせてくれただろうに。


博昭との結婚がダメになって、自分の気持ちが落ち着いても、両親と顔を合わせづらいのは、それも一因だった。

一人っ子の私が子供を産まなければ、両親は孫を得ることはできない。

年齢からすると、子どもがほしいなら私もそろそろ焦るべきだ。

けれど、好きでもない男と結婚するなんて考えられない。

そのくせ、そう簡単に好きな男はできないし、その相手に好きになってもらうのも難しい。

無理に婚活して結婚する、なんて芸当は、私にはできそうにない。

だから両親には申し訳ないのだけど、うるさく言われないのをいいことに、好きに生きている。

こんな時は、兄弟姉妹がいればと思ってしまう。


溜息をつきたいのを我慢していると、リチャード・ライターが楽し気に言う。


『それって、俺が美形だって褒めてくれているの?』


『ただ見たままを言っただけよ』


鳥居が見えたので、端によって一礼する。

リチャード・ライターはやたら嬉しそうに、私の横で真似をして一礼した。


『すごいな。屋台がいっぱいだ』


『気になる?私は、お詣りをすませてからじゃないと、屋台は食べない主義なんだけど』


『そう?なら、俺もそうしよう』


早朝だから、屋台はすべてが営業しているわけじゃない。

せいぜい半分というところか。

それでもあちこちの屋台からいい匂いがかおり、威勢のいい掛け声を聞いていると、わくわくする。


先に食べてもいいんだけど、のんびり屋台で食事をしている間に、神社が混み合って来たら、お詣りするのも延々と並ばなくてはいけなくなる。

ここの屋台は大型のテントの中で腰をかけて食べるところも多いので、うっかりすると時間をとられてしまうのだ。

リチャード・ライターがあっさり屋台を後回しにしてくれて、助かった。


お正月だけ設置されている大型のテレビに興味を示すリチャード・ライターをしり目に、鳥居で一礼。

リチャード・ライターも一礼して鳥居をくぐると、楼門のある階段へ向かおうとする。


『待って。先に手を清めるから』


連れたって手水舎に行き、柄杓をとる。


『どうするの?』


いそいそと柄杓を手に取って、リチャード・ライターが言う。

好奇心で目を輝かせる様はなんだかかわいらしく、相手は憧れの作家だというのにほほえましく感じてしまう。


『まず左手を洗って、柄杓を持ち替えて。次は右手を清めるの。もう一度柄杓を持ち替えて、今度は左手に少し水をためて。……そう。口をすすいで、最後に柄杓の持ち手を清めるのよ』


緊張した面持ちで私の真似をするリチャード・ライターは、最後の柄杓の柄を清めるところで失敗した。


『うわっ』


袖口まで水で濡らしてしまったリチャードに、くすくす笑ってしまう。

ハンカチを手渡すと、苦笑いしながらリチャードが言う。


『ありがとう。……これ、難しいね』


『慣れないと、そうかもね』


『君は慣れているの?所作も綺麗だった』


『日本人だから、それなりにね』


『他の日本人に比べても、君の所作は綺麗だと思うけど』


他の人の邪魔にならないように楼門のほうへ歩きながら、リチャードが言う。


『そうかしら。ありがとう』


楼門前には、カメラを構えた人がたくさんいる。


『写真、撮る?』


『え?いいの?』


『もちろんよ』


リチャードが、ぱっと笑顔を浮かべた。


しまった。

参道の鳥居の前でも、観光客はよく写真を撮っている。

自分にとっては慣れた道だから、気にも留めなかったけど。

リチャード・ライターはまごうことなき観光客だ。

もっと気を使うべきだった。


……こういうところが、かわいくないんだろうな。


会社の男性陣には、女性らしい気遣いに欠けるとあてこすられる時があった。

幸い、私の歴代の彼氏たちは変わり者なのか、私のそうしたところを気にする人はいなかった。

けれど結局誰とも結婚していないという現状は、私のこんな性格によるものなのかもしれない。


『もうちょっと下からとったほうが、楼門が綺麗に入るから。カメラ、貸してくれる?』


『え?一緒に撮ってくれるんじゃないの?』


『え?』


リチャードはカメラを通りすがりの人に渡し、「シャシン、プリーズ」という。

そして私の手をひくと、顔をよせて囁いた。


『笑って』


面くらいながらも、ぎこちなく笑みをうかべる。


「とりますねー、はいっ」


リチャードにカメラを渡された高校生くらいの女の子は、はりきってシャッターを切る。


「あと2、3枚とりますよー。はいっ。はいっ」


ちょこまか角度を変えながら写真を撮ってくれた女子高生は、数枚写真を撮って、カメラを私に渡してくれた。


「ありがとう」


一緒に写真を撮るなんて言ってないと、リチャードには一言いいたい。

けれどこの女の子には、もちろんお礼しか言えない。


苦笑しながらいうと、女の子は私が照れているのだと思ったらしい。

カメラを手渡しながら、ふふっとかわいらしく笑った。


「素敵な彼氏さんですね!羨ましい!」


彼氏などではなく、さっき会ったばかりの作家とそのファンなんだけど。

女の子は、否定する暇もなく、友達のところへ走っていく。

甲高い声をあげるのを見ていると、友達と一緒に手をふってくる。

こちらも手を振り返すと、リチャードも一緒に手を振る。

女の子たちからは、また甲高い悲鳴があがった。


『行きましょうか』


なんだか毒気が抜かれる。

リチャードに文句を言う気も失せて、一礼して楼門をくぐった。






舞殿を迂回して、本殿で手を合わせる。

二礼、二拝、お祈りして、一礼。


リチャードにも簡単に作法を教えて、手を合わせる。

昨年はいろいろあったとはいえ、私は元気だし、両親も元気だ。

こうしてお詣りに来られたことの感謝を神様にお伝えする。


願わくば、今年はいい年になりますように、と言葉を添えて。


顔をあげると、リチャードもちょうど顔をあげたところだった。


『私は奥社までお詣りするけど、どうする?』


『もちろん、一緒に行くよ!』


『そう。ちょっと歩くけど、千本鳥居は有名だし、ちょっとした見ものよ』


おみくじに一喜一憂する参拝客の間を通って、鳥居をくぐる。

階段をのぼって、もうひとつ鳥居をくぐる。


『すごい!圧巻だ!』


左手の奥に見えた千本鳥居にリチャードが歓声をあげた。

隙間なく並ぶ鳥居の朱色は、見慣れた目にも美しい。


ここもフォトスポットだ。

中国人らしい観光客に、リチャードがカメラを渡す。

ふたり並んで写真を撮ってもらい、お礼を言う。


……今度は、私のスマホでも写真を撮ってもらおうかな。


写真はあまり好きではない。

SNSもしていない。

とはいえ、好きな作家と一緒にいるのだ。

たまには、記念に写真を撮るのもいいかもしれない。


どうせ、もう二度と会うことのない人なんだから。


しばらく鳥居を歩くと、ふたまたに鳥居の群が分かれる。


『これ、どっちを行けばいいのかな』


『右よ』


先ほどより少し小さめの鳥居の列をゆっくりと歩く。

ここまで来たら、奥宮はすぐだ。

お山全体を回るルートもあるけれど、そこまで本格的に山登りをするつもりの服装ではない。

一般的には奥宮までのルートをとる人が多いし、リチャードもおそらくそのつもりだろう。


『あ』


リチャードが、前を歩くカップルに声をかける。

ここでも一枚、写真を撮ってもらうつもりらしい。


「スミマセン、シャシン、プリーズ」


片言の日本語に、前にいたカップルが振り返った。

その顔を見た瞬間、息をのむ。


穏やかで、知的な面立ち。

見覚えのあるシンプルな紺のコート。

カップルの男のほうは、博昭だった。


博昭によりそうように立っているのは、華やかな着物姿の女の子だった。

派手な容姿ではなく、どちらかといえば顔立ちは地味だ。

けれど好きな人と一緒に過ごすためにめいいっぱいおしゃれしたのだろう初々しさが、輝くようにかわいらしかった。


そんな彼女に影響されたのか、博昭もまたいきいきとした様子だった。

落ち着いた雰囲気は以前のまま、けれどどこかに華やいだ楽しそうな雰囲気がある。

彼のそんな表情を、私は見たことがなかった。


外国人に声をかけられたことに面食らいながらも、にこやかに博昭はカメラを受け取る。

リチャードが、私のほうへ戻ってくる。

博昭の視線も、私のほうへとむけられ。


「香苗」


一瞬で、その表情がこわばった。


「ひさしぶり。元気そうだね」


「あぁ。香苗も……」


笑え。笑え。

自分に命令する。


立ち直ったと思っていた。

博昭と別れた傷は、もうほとんど治っていると思っていた。

けれど現実に彼と顔を合わせると、あの時に時が巻き戻ったかのように、心が悲鳴をあげる。


けれどたぶん、これは違う。


いま、この悲鳴をあげている心は、あの時の私の悲しみの残滓だ。

傷つけられた心の怨嗟だ。


けれど私は、博昭が好きだった。

別れるといわれて、悲しかったのも悔しかったのも、……裏切られたと思ったのも嘘じゃない。

それでも彼と過ごした3年は、幸せな時間だった。

彼といたから、幸せだったのだ。

そのすべてを、怨嗟で塗り替えるつもりはない。


博昭との別れは、終わったことだ。

あの時泣いて、怒って、終わらせたのだ。


だから、今は、かつて好きだった人の幸せを祈る。

そんな人間でいたいと思っているから。


笑って、いう。


「うん、元気だよ。こんなところで会うなんて、奇遇だね」


私たちの間に漂うただならぬ雰囲気を感じて、博昭のそばにいた女の子がじっと私を見つめる。

そして、深々と頭を下げた。


この子は、博昭に付き合っている女がいたことを知らなかったと聞いている。

私も博昭も、会社の人間にプライベートを公言するタイプじゃないから、ごく親しい友人以外は、恋人の存在を知らなかったはずだ。

だから彼女が私に頭を下げる理由なんてないはずなのに、彼女は私に謝罪する。


きっといい子なのだろう。

けれど、それは私の心をざわめかせた。


『カナエ』


奇妙な発音で名前を呼ばれて、はっと心のざわめきがそれた。

リチャードを見ると、まるでこの微妙な雰囲気に気づいていないかのように、にっこりと笑う。


『写真、とってもらおう?』


『……そうだったわね』


私たちは、博昭たちからすこし距離をとって並んで笑う。


「オネガイシマース」


「あぁ、はい。……撮りますよ」


ぎこちなく、博昭が言う。

フラッシュがまたたく。


笑え。笑え。

私は口角をあげて、心のざわめきを押し殺す。


ぐっと、強く肩を抱かれた。

リチャードの大きな手が、私の肩を抱いている。


リチャードは、私に顔を寄せて、大きな声で言う。


「モウイチマイ、プリーズ」


ちらりと、彼の顔を見る。

リチャードは、屈託なく笑っていた。

私の視線に気づき、笑みを深める。


『前を向いて』


言われて、前を向く。

博昭はほっとしたような、泣きそうな、奇妙な表情をしていた。

私と視線が合うと、あわててカメラを構える。


もう一度、ぐっと肩にまわされた手に力が入った。

まるで、私を守ってくれているかのような力強い手だ。


私は、カメラに向かって笑った。

さっきよりも自然に笑えた気がした。





写真を撮ると、博昭たちはそそくさと先を歩いて行った。

リチャードはカメラのチェックをしたいからと言って、鳥居の端による。

デジカメの画面をチェックしているようだけれど、たぶん私に気を使って、博昭たちとの距離を稼いでくれているんだろう。


『……前の彼氏なの。気を使わせてごめんなさい』


『こっちこそ。勝手に触れてごめん』


リチャードは、カメラから顔をあげていう。


『いいわよ。それも気遣ってくれたんでしょ』


たぶんリチャードは、私と博昭の関係をおぼろげに察したのだろう。

婚約までした相手だとは思わなかっただろうけれど、男と女で、あの雰囲気。

別れた恋人との再会なんて、よくあるといえばよくあることだ。

そうと察したリチャードは、博昭が女づれなのに対抗して、私の恋人のふりをしてくれたのだろう。


『自分がそんなことにこだわるタイプだとは思っていなかったけど、正直、あの二人の前で一人っていうのは辛かったかもしれないわ。恋人のふり、してくれてありがとう』


普通に街中で出会うならともかく、お正月早々ひとりで初もうでをしているところで、元彼が新しい恋人と一緒のところに遭遇するのはみじめな気がした。

リチャードは私の恋人ではないし、今だけとりつくろっても意味などない。

けれどかばうように肩を抱いてくれたリチャードがいたから、私はあの時、博昭に笑って見せられた気がする。


ぽろり、と涙がこぼれた。


そっと指で涙をふく。

けれど涙は、次々にこぼれた。


『カナエ……』


『いやだ。もうぜんぜん立ち直ったと思っていたのに』


ぽろぽろとこぼれる涙は、止まらない。


『ごめん、見ないで。こんなの、嫌なの』


初対面の男の前で、泣くつもりはない。

あの時、あれだけ泣いたのだ。

この件で、これ以上泣くつもりはなかったのに。


持ち主を裏切って、ぼろぼろ涙をこぼす涙腺を恨む。

リチャードは一瞬、ひどくつらそうに眉をしかめ、ぎゅっと私を胸に抱き寄せた。


「え……」


『見ないから。しばらく、こうしていて』


ぽんぽんと頭を優しくたたいて、リチャードがいう。

さっきまで子犬みたいだったくせに、私を守るように、大切そうに抱きしめられる。


ぽろぽろぽろっと涙がこぼれて、止まった。


『びっくりしすぎて、涙も止まっちゃったわ』


リチャードの胸を手で押し、笑う。


『ありがとう。行きましょうか』


『……だいじょうぶ?』


『もうだいじょうぶよ』


歩きながら、私は笑った。






奥宮でお詣りをして、お守りを買う。

博昭たちの姿がもうなかったので、のんびりとお守りを選んでいると、リチャードが奥にある石に気づいた。


『カナエ、あれは?』


『あれは、おもかる石っていうのよ。あの石燈籠に願い事をして、上の石を持ちあげるの。軽ければその願いはかない、重ければその願いはかなわないって言われているのよ』


『へぇ。……やってみていいかな』


リチャードが、真剣な表情で訊く。

数人が順番を待っていたが、大した人数でもない。

それに奥宮でのお詣りも済ませたので、今更あせることもない。


『もちろんよ』


すこし待って、リチャードの番になった。

リチャードはひどく真剣に、願い事をしている。

そして深呼吸すると、ぐっと空輪を持ち上げた。


ふわりと高く持ち上げられた空輪に、思わず拍手する。

以前、私が試したときはけっこう重かったのだけど、やはり男性は力があるのだろうか。


リチャード自身、想定よりずいぶん軽かったようで、驚いたように手の中の石を見つめていた。

そしてそれをそっとおろして、列を抜ける。


『カナエ!見た?すごく軽かったんだ!』


興奮したように、リチャードが言う。


『見ていたわ。軽々って感じだったわね。なにをお願いしたの?次回作のヒット?』


運試しのようなものだと思うが、うれしそうなリチャードに水を差すつもりはない。

にこにこと笑って言えば、リチャードはかぁっと赤くなった。

一瞬で、耳まで真っ赤だ。

何気なく聞いただけだったので、この反応には私のほうがうろたえた。


『……戻りましょうか』


何事もなかったかのように、踵を返す。

帰り道の鳥居のほうへ歩いていくと、リチャードに手をつかまれた。


『君ともっと親しくなりたいって、願ったんだ』


「え」


『会ったばかりなのに、自分でもおかしいと思う。けど、君が気になってしかたないんだ。ここで別れて、終わりになんてしたくない。まだ君には好きな人がいるのにって思うかもしれないけど……、友達からでいいんだ。俺と、また会ってくれないか?』


必死な顔で、リチャードが言う。

真意を探るようにじっと見つめていると、リチャードの顔はますます赤くなる。

そのうえ、たらたらと汗まで流し始めた。


びっくりしたけれど、本気ではあるようだ。


さっきの博昭とのやりとりを見られていたから、同情なんかで声をかけられたっていうのならお断りだけど。


出会ったばかりの人だ。

私は、気になって仕方ないなんて言われるほどの美人でもない。

さっきの博昭とのやりとりのせいで、ヒロイックな気分になっているんじゃないかって疑いもある。


でも、私は彼の書いた作品を知っている。

彼の作品は、緻密な取材に基づく金融ミステリ。

特徴は、魅力的なキャラクター。

そして、なにより。作品の世界全体に流れる、人間に対するあたたかなまなざし。


作品イコール彼の人品とは思わないけれど、彼の人格の一面でもあると思う。

その彼が、こんなに真剣に私と親しくなりたいと言ってくれているのだ。

断る理由はなかった。


恋とか、そういのはまだいらない。

さっき博昭と再会して、つくづく思った。

しばらく恋なんて、私にはいらない。

立ち直ったつもりだったけれど、まだまだ心は傷ついているみたいだ。


けれど、また会うくらいなら何の問題もない。

あんなお話を書いた人と友達になれるなら、こっちからお願いしたいくらいだ。


リチャードはちょっと色めいた気持ちを私に持ってくれているようだけど、どうせすぐにイギリスに帰るのだ。

会うこともなくなれば、そんな想いはすぐ消えるだろう。


『いいわよ』


『本当に?じゃぁ、名前と、連絡先とか聞いてもいい?』


リチャードがスマホをとりだして、おずおずと聞く。


『もちろん。というか私、名前も名乗っていなかったっけ』


いわれてみれば、名乗った記憶がない。

リチャードには早々に名乗らせていたのに、失礼すぎる。

あぁでも最初に声をかけてきたときは、後を追いかけてくる変な男だと思っていたから名乗りそびれていたかもしれない。

それに、リチャードは私の名前を呼んでいたからうっかりしていた。


リチャードが、私の名前を呼び始めたのは、博昭にあった時からだ。

博昭が「香苗」と呼んでいたから、それに乗ったのだろう。

恋人のふりをするために、さりげなく。


私は改めて、この大柄な英国人に向き合った。

リチャードは姿勢を正して、私に向き合う。

晴れ渡った空のような、青い瞳が私を見つめている。

そこに宿るのは、緊張と、期待。


『木野内香苗です。改めまして、よろしくね』


『はいっ』


そう言って、嬉しそうに笑うリチャードはやっぱりどこか子犬のようで。

まっすぐに、私のことを見つめている。

もしかすると、私はこの人のことを好きになってしまうかもしれない。

そんな予感がした。







まぁ、実際は親しくなるどころか、あれよあれよと流されているうちに結婚して子供も生まれ。

来年には親子三人でここにお礼参りにくることになるなんて、私もリチャードも、この時は思ってもみなかったのだけれど。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 最後の一文のお礼参りは何か違うと思います。 作中に何か願掛けしたとは思えないのですが? 三人でお礼参りという表現だと何処かで子供が出来るように願掛けしたのでしょうか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ