眠り姫にくちづけを
色彩を無くしてしまった白い部屋。ここが今の俺の部屋だ。あるのは白いベッドと白い椅子、そしてイーゼルと真っ白いキャンバス。窓は無い。無機質で殺風景だが、それが心地いい。
白という色は静寂を呼び込んでくれる。
一人で過ごすには何も問題は無い。
一人で過ごすなら。
残念、と言うにはいささか語弊はあるが、今この部屋は一人の我が物顔ゲストに占拠されている。
「ねえ、振るのと振られるのと……どっちがいい?」
「はぁ?」
藪から棒に何を言い出すかと思えば、本当にくだらない話だ。
こいつはいつもそうだ。自分から話題を振ってきておいて、俺の意見など全く意に返さず自分の主張を貫き通す。どうせ今回も同じだろう。長い付き合いだから何となく分かる。仕方ない、今回も乗っかってやろう。こいつと居るのは不愉快ではないし。
「振るのと振られるとどっちがいいだ? どっちも嫌だってのは……?」
「ナシに決まってんじゃん」
「だよな。んー……俺は相手を傷つけたくないから振られる方を選ぶかな」
「へー、そうなんだ」
そして雑誌のページをパラパラとめくる音だけが部屋に響く。
やはり今回もこのパターンか。はいはい、オッケー。こっちも漫画を読もうじゃないか。
ページをめくる音をBGMとした時間が過ぎる。一分、二分……
こういう時間の過ごし方も悪くない。オッケー、オッケー。
「ボクは……どっちも嫌だな」
オッケーじゃねぇっ!
「ちょ、こ、お、それ、ひきょじゃね?」
「は? なんて?」
テーブルの上の炭酸飲料を飲み、咳払いをして改めて言い直す。
「待てコラ、お前それは卑怯じゃね……げふぅ」
「最初の『ちょ』が抜けてるし最後の『げふぅ』は余計じゃない?」
「揚げ足取るな! どっちも嫌はナシって言ったのはお前だろうが」
「だって、どっちも嫌だもん」
分かってた事だ。こいつは自分に都合が良いようにしか動かない奴なんだ。そうでなければこいつが俺の部屋に入り浸るわけがない。
「お前なぁ、もう少し自分の立場ってもんを考えろよな」
「立場って……何?」
「お前は俺の何なんだ?」
「んー? 友達……だよ?」
「じゃあ、俺はお前の何なんだよ?」
「んー、友達……じゃダメ?」
これだ。
本当に都合の良い解釈をしやがる。
数ヶ月ぶりに連絡をよこしたかと思えば俺の部屋にズカズカと押し入り、俺のベッドを占拠するなり寝転がって持参した雑誌を読み耽り、何しに来たかと問えば「暇潰し」などとのたまう始末。
このままこいつに覆いかぶさって襲ってやろうか、という考えは当然の如く脳裏をよぎる。健全なる男子諸君ならば至極真っ当な考えだと思う。
だけど、それは出来ない。
二年前、こいつに俺は振られた。
にべも無く、あっさりと、だ。
そんな奴が何故この部屋にいるのか。
答えは簡単。
ここは……
────────────
「ねぇ……君はボクのどこが好きなの?」
「どこって……」
「ボクは自分勝手だし……自由気ままに生きるって決めてるし、出来ない事は沢山あるけど、出来る事は全部したいと思ってる。傍から見たらただのわがままな女だよ? それでもボクの事を好きって言ってくれたのは何で? 同情とかだったら許さないよ?」
「同情で人を好きにはならねぇよ。俺はお前だから好きになった、ってのは理由になんねーか?」
「詳細希望」
「……お前は俺の夢を笑わなかった。他の奴らが嘲笑った俺の夢をお前だけは応援してくれた」
俺の夢────それは、画家になる事。
周りの奴からは「食っていけねぇよ」だとか「なれるわけねぇよ」だとか「現実を見ろよ」だとか散々言われてきた。だけど、こいつだけは違った。
「ね、今なんか描いてる?」
「いや……描きたいものが無くってな」
「じゃあさ……ボクを描いてよ」
「は?」
「最後に君に描いてもらいたいんだ……ボクの姿を」
────────────────
ここは俺のアトリエ。
真っ白な聖域。
この部屋に入れる者は俺だけ。
いや、俺ともう一人。
「ねぇ……ちゃんと……描けてる?」
「ああ……」
「ホントにぃ……? なら……いいけどさ」
真っ白なキャンバスの向こうには一糸纏わぬ彼女の姿があった。当然のごとく、俺は彼女の姿を直視することは出来ない。
痩せ細った彼女の身体をキャンバスに投影する事なんて──俺には出来ない。
筆を動かす振りをしているが、おそらく彼女には見透かされているのだろう。それでも気付かぬふりをしてくれている彼女に俺は胸の奥からこみ上げてくるものを必死で押し殺していた。
こいつにこんな健気さがある事を初めて知り、好きだという思いは加速度を増していた。
もしかしたら俺は今泣いているのかもしれない、そう思い、汗を拭うふりをして手の甲で目を拭った。しかし、それすらも見透かされていたのだろうか、彼女が唐突に口を開いた。
「君には……本当に感謝してるんだ」
「感謝……?」
「ボクの事を……好きって……言ってくれて。本当は……凄く嬉しかった。でも……ボク……もうすぐ死ぬんだと思う」
光化学反応性粒子症候群────彼女が患う病の名前だ。大気中に大量発生した有害粒子により体内の臓器や神経系統が正常に活動できなくなる恐ろしい病気だ。現代の医学では完治はおろか、治療する事すら不可能だと医者に聞いた。
彼女の場合、ソレに伴い拒食症を併発し、栄養を摂取するために定期的に点滴を打つ必要があった。
出会った頃から少し痩せ型ではあったが、今はさらに痩せ細り、エアコンの送風でさえまともに受け止められないのではないかと思う程で、ストレッチャーの補助がなければまともに歩くことも困難な状態だ。
「今まで本当にありがとうね。ボク、生まれてきて良かったって思ってるよ」
「今、そんな事言われても嬉しくねぇよ」
「一つだけ……やり残した事があるんだけど……言っても……いい?」
「……」
「ボクね……ホントは……人並みに恋愛とか……してみたかったよ……」
涙声になった彼女の目尻に一筋零れる涙。こいつの涙なんて初めて見た。
「なぁ……俺じゃ……ダメか?」
「ダメだよ……君は……ボクの大事な……大事な友達だもん……」
一分、二分────時間ってやつは止まってくれやしない。これ程無慈悲なものはないと俺は思う。たまには休んでくれてもいいのに、時の歩みってのは休むことを知らねぇらしい。
アホだな。
そして、多分……俺達も……アホだ。
「ボク達……似たもの同士だよね……ホント」
「……あぁ」
「ねえ」
「ん?」
「少し……横になっても……いい……?」
「あぁ……」
「ありがと……」
荒い呼吸が辛そうだ。横になるのも相当な体力を消費するのだろう。正直に言って、これ以上こいつが苦しむ姿は見ていて辛くなる。それでも、俺はこいつから決して目を逸らす事だけはしたくなかった。
天井の一点を見つめたまま彼女が呟く。
「ボクはやっぱり……振る方を選ぶよ……」
「……」
「こんな体だから……好きになってくれた人に悪いもん」
「だから俺は振られる方を選んだ」
「優しいね……キミの事……ホントは好きだったよ」
「素直じゃねぇな」
「キミは素直だね」
ベッドに横たわる彼女の目尻を涙が伝う。
「生まれ変わったら……」
「ん?」
真っ白なキャンバスを見つめたまま彼女の言葉を待った。一分、二分、三分。声は俺の耳には届いてこない。
何も描かれていないキャンバスが歪んでいく。
筆を握る手が震える。
「俺より……先に逝くなよ。まだ聞いてねぇぞ……」
ここは病室。
ネームプレートには俺の名前が書かれている。
ここは俺の病室。
真っ白なアトリエ。
この部屋に入れる者は俺と……もう一人。
「俺のベッド、占領するなよな……襲っちまうぞ?」
俺の問い掛けに答える声は今はもうない。
「お前はいつもそうだ。自分勝手で、俺の言うことなんか全然聞かない。そのくせ自分の言いたい事だけは言いやがる」
動いているのかわからない足を引きずり、白い部屋に相応しい白いベッドに横たわる眠り姫の上に覆いかぶさる。
「────本当に襲っちまうぞ?」
返事はない。
「起きろよ……なあ……」
やはり返事はない。
「お前にはまだ伝えていない事があるんだよ……どんなに自分が辛くても俺の前では気丈に振舞っていたお前の事、一人の人間として尊敬してたし、俺もお前みたいになりたいって思ったよ」
バランスを崩し、彼女に覆いかぶさってしまった。勢い余って少し触れた唇の感触で目を醒ますんじゃないかと思ったが、彼女が瞳を開く事はもう二度とない。
「もっと早くこうしたかったよ……きっとお前は照れ隠しに強がるだろうけどさ。お前の事は一人の人間として凄く好きだったし、一人の女の子として本当に好きだったよ……」
再び唇を重ねる。
「目ェ醒ませよ……馬鹿野郎……」
子供の頃に読んだ童話を思い出した。
眠り続ける姫は王子のキスで目を覚ます────どうやら俺は王子様にはなれないみたいだ。宮廷画家が俺にはお似合いなのかもしれない。再びキャンバスに向き合う決心を固め、重い足を引きずるように椅子に座る。
昨日よりも体が重い。俺の症状も随分と進行したもんだ。
「考えてみりゃ理不尽な人生だよな……訳わかんねぇ有害粒子のせいでこんな所に隔離されてよ……俺は五年前、お前は俺よりも前だったよな」
白いキャンバスに木炭と鉛筆を素早く走らせる。途中、手の震えが酷くなり何度も描き直したが、それでも何とか下描きを完成させる。集中していたからか一瞬目の前が暗くなったが、頭を振ってめまいを振り払う。
絵の具を溶き、下塗りを始め、さらに描き込む。背景色は白と決めている。そして、彼女は黒だけで描くと決めた。
「水彩にすれば良かったな……ちくしょ……」
今更遅いが仕方がない。それに油彩はなんとも言えない独特の雰囲気があって味わい深い。それに────
「お前が褒めてくれたからな……」
人物画を描いているはずなのに静物画を描いてる気分だ。
「生まれ変わったら……俺とお前は恋人同士になれんのかな?」
一心不乱に色を重ねる。二人で過ごした時間を重ねるように、偶然重なってしまったお互いの唇のように、自分の色と彼女の色が重なるようにただひたすらに色を重ねていく。
有害粒子によって無理矢理幕を降ろされる人生に何の意味があるのだろうか。せめて自分の人生の幕くらい自分で降ろさせろってんだ。
「俺も……もう少ししたら死ぬのかな」
こいつは俺に看取られて逝ったんだから、まだ幸せだったのかもしれない。けれど、俺は────
細部に明暗をつけ完成は間近なのだが、完成させたくはなかった。完成させてしまったら────
俺はこいつの死を受け入れてしまう。もちろん、受け入れなければならない事なのは分かっている。それが理不尽な物でなければ。
「神様ってやつはどこまで理不尽なんだよ……」
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あれから半年が経った。
俺は未だにあの絵を仕上げることが出来ずにいた。
彼女の遺骨を抱えた時、俺は初めて泣いた。看護師さんや先生達に囲まれた中、人目もはばからず泣き叫んだ。
「あぁ……俺は、彼女の死を遂に受け入れてしまったんだ」
白い部屋には白いベッドがある。窓は無い。だけどそれが心地いい。
ベッドから眺める白い天井の向こうには何があるのだろう。あの向こうには空があって、雲があって、宇宙があって────
「天国が……あるのか……?」
あいつはあそこにいるのだろうか。自分勝手な事ばかり言ってないだろうか。俺がいなくても笑っているのだろうか。それはそれで少し悔しい。
「悔しいと言えば……俺にも心残りが出来たよ」
最後の仕上げをやり遂げなければ、向こうに行ってもあいつに顔向け出来ない。ベッドの横のストレッチャーを掴み、キャンバスへ向かう。
「俺も……随分とヘボくなったもんだ……」
ベッドから起き上がって椅子に座るまでがこんなに長いとは、時間ってやつは本当に無慈悲だ。どんだけしんどいと思ってんだ。たまには早送りしろよな。
白と黒の二色の絵の具をパレットに置き、ナイフでかき混ぜる。ナイフで溶いた絵の具を筆ですくって描くのは我流なのだが、俺はこのやり方が気に入っている。
自分で描いておいてなんだが、久しぶりに見た彼女の姿に心なしか神々しさを感じた。
「待たせちゃって……ごめんな」
俺はキャンバスに筆を乗せた。
筆を走らせた。
筆を踊らせた。
筆を滑らせた。そして、筆を置いた。
もう────心残りは無い。
「やっとこの部屋に……色がついた」
何かが落ちた音が聞こえたっきり、俺の耳には何も届かなくなった。
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数時間後に看護師がその部屋を訪れると、椅子にもたれかかったまま満足気に目を閉じた少年と、色彩豊かに描かれた、ベッドに座って微笑む少女の絵があった。
なんか一本くらい『泣ける作品』てぇやつを書けねーかなーって思って書いたはいいんですけどね……んむー……むじゅかしぃ。
あと、この作品を書いてる最中に「テーマソングみたいなの」を思いついてしまったので、そっちらも宜しければチラ見してみて下さい。