蝶
山の中の階段を男が上っていた。階段といっても急な斜面の赤土が剥き出しになった地面に二本の杭を打ち、そこに人の腕ほどの太さの丸木を渡しただけの簡素なものであり、間隔が狭くなったと思えば広くなったり、段差もばらばらの高さであったうえ木材のところどころが朽ちかけていたりと、それは歩きづらいものであった。男は足を踏み外さぬよう慎重に一段々々進んでいたが、その息は荒く、ふらふらと上体を揺らしたかと思うとずるりと右足を滑らせ、その場に両手をついてしまった。男はふうと深く息を吐き、体を起こすと両手を打ち合わせて土を払った。その場に棒立ちになり、これまで上ってきた道筋を見下ろすと階段はうねうねと緩やかに曲がりくねっていて、遥か下のほうで大きく山側に曲がりその先は見えない。人や獣の気配は感じず、時折頭上で風に吹かれた樹木の枝葉がざうざうと鳴っている音だけが響いていた。次第に荒い息が治まってくると男はちょろちょろという微かな水音に気がついた。見ると、岩肌から湧き水が流れている。男は水の流れを右の手のひらで受けると鼻先にもっていき臭いを嗅ぎ、舌先をつけた。そうして今度はお椀型にした両手いっぱいに水を貯めると一気にそれを飲み干した。二度三度と勢いよく水を飲むと、次に両手に貯めた水を頭から被りごしごしと手のひらで顔を擦った。ようやく人心地が付いたのだろう、階段の丸木に腰を下ろすと目を閉じてぐったりとしていたが、すぐにうとうとと眠りに落ちてしまった。
男が目覚めると横になっていた。慌てて体を起こそうとすると、頭のすぐ上で女の声がした。
「危ない。なんです、突然動いたりして」
寝起きで判然としないまま首を捻って見上げてみると女が耳かきを片手に見つめていた。男の女房である。女はわざとらしく咎めるように言った。
「どうかしまして? そんな不思議そうに見て」
その口元には僅かに綻びを帯びていた。男は後頭部の温かく柔らかな感触に、膝枕で耳かきをしてもらっていたことを思い出した。
「いや、なんでもない。どうやら気持ちよくて眠ってしまったようだ」
そう言うと、また顔を横に向け体の力を抜いた。自宅の日当りのいい部屋で、目前には開け放たれた窓の向こうに縁側と草花豊かな庭が見え、一本だけ植えられた椿の深い緑色をした葉がそよ風に揺られていた。男はそっと畳を撫で、指先でその感触を味わった。女は耳かきを再開した。
「それにしても尋常ではない様子でしたよ。恐ろしい形相をして」
「うん、寝ぼけていたんだろう。そうだ、思い出したぞ。夢を見ていたんだ。それも、とても怖い夢だ」
「まあ、怖い夢ですの? いったいどんな夢かしら」
「ええと、俺は山を上っていたんだ。とても深い山奥の急な階段をひとりで上っていた」
「山? どこかしら」
「どこだろうね、とにかく山だ。どちらを見ても木々に囲まれた鬱蒼とした山奥だった」
「でも、なにが怖かったのかしら。獣に襲われたの?」
「いや、違うな。そこには何もいなかった。俺ひとりっきりだ……そう、俺は追われていたんだ。誰かに追われていて、そいつから必死に逃げていたんだ」
男はそう言うと黙って考え込んでしまった。女は黙々と耳かきを続けている。そうして、男は再びぽつりと呟くように言った。
「俺は……お前を手に掛けてしまったんだ」
女の手が止まった。が、言葉は無い。男は絞り出すように声を震わせて続けた。
「家に帰るとお前が男と居て……かっとなった俺は……う、う。だから俺は山に逃げ込んで……」
男は両手で顔を覆い呻くように泣いた。女は男の頭を慈しむように優しく撫でながら言った。
「泣くなんておかしな人。夢の話じゃないの」
そのとき、強い風が庭を渡り草木を揺らした。
「あら、ご覧になって。蝶よ」
袖口で涙を拭い男が見ると一頭の紋白蝶が、風に吹かれて舞い散る桜の花びらのようにひらりひらりと漂いながら部屋の中へやって来て、そのまますぐ目の前の畳の上にとまってしまった。じっと見つめていると、蝶は男の呼吸の律動に呼応するようにゆっくりと羽を開いたり閉じたりを繰り返していた。その様子を見つめているうちに、男はうつらうつらとしたかと思うと再び眠りに落ちてしまった。
目覚めるとそこは山の中だった。硬い丸木で尻がじんじんと痺れるように痛む。どれくらい経ったのだろうかと空を見上げてみたが、頭上には茂った木の枝葉がぎっしりと覆い、皆目見当がつかなかった。すると、男は水音がしないことに気がついた。見ると湧き水は止まっていて、岩肌には涙の痕のような水の流れの痕跡がうっすらと残っていた。ゆっくりと立ち上がり、指先で岩肌に触れてみると微かな湿り気が先ほどまでそこを流れていた湧き水の存在を示していた。男はその場で立ったまま、睨むように階段の下のほうを見つめていたが、やがてくるりと向きを変えると一歩々々を踏みしめるように階段を上って行き、ついにその姿は見えなくなってしまった。