102号室 02
「おはようございます!」
『朝からかよ……』
翌日、直接裏庭に回りこんで挨拶した咲千に、呆れたような声が返ってくる。
「だって半分ぐらいしかむしれてないんですよ」
『充分じゃん。ゼロから考えたら無限倍の出来じゃん。君の部屋じゃないんだし、諦めてもいいよ?』
部屋の主は、物凄く後ろ向きに誘惑をかけてくる。
「諦めたからやめた訳じゃないです!」
帽子をかぶっているとはいえ、炎天下だ。昨日、咲千は時折自分の部屋に帰り、冷たい飲み物を摂ったり涼んだりしていた。熱中症予防の基本だ。
そして夕方には、約束通り柿瀬に料理を教えて貰うために、早めに引き上げていたのだ。
はかどらなかったのは、さぼっていたからでも、熱意がないためでもない。
「朝からやれば、今日の夕方までには終わりますよ!」
『若さかなぁ……』
小さくぼやく言葉を無視して、庭に入りこむ。
「今日は同居人さんはいらっしゃらないんですか?」
『うるさいからしばらく来るなって言った』
憮然とした返事に、しばらく、と呟く。
『なに』
「いいえ。仲がいいなぁと思って」
『よくないってば。ただまあ、確かに機嫌を損ねられても困るんだけど』
含みのある言葉に、首を傾げた。
『大黒さんさ。なんで、このアパートが六部屋なのか考えたことある?』
--こんな木造二階建てなんて建てなくても、新築で、十階建て程度のマンションが軽く建ったはずだ。
「……ありま、す」
それを不思議に思ったのは、自分ではないが。
『下から、修羅、地獄、畜生。上に上がって、餓鬼、天上、人間』
「何ですか、それ?」
だが、想像もしなかった言葉を続けられて、きょとんとした。
『六道。順番はちょっと違うけど。聞いたことない?』
「ありません。……地獄とか、人間とか、畜生とか、単語は知ってますけど、そういうことじゃないんですよね」
『学生さんは、頭の回転が速い』
感心するように、揶揄するように続ける。
『じゃあ、木造である意味は?』
「木造の方がくつろげるって、神谷さんは言っていました。密閉感が違うって」
『それは、間違いじゃない。でも、木造の特徴は、あやふやさだ』
大きく、息を吸う音が、マイクに掠れる。
『内ではなく、外ではない。閉め切られているが、闇ではない。出入り口はあるが、通れない』
「通れない?」
ある程度は、授業でも聞いた、木造建築のコンセプトに添っている。しかし、最後の一言は。
咲千が訊き返したところで、どん、と音が響いた。
スピーカーを通したもの以外にも、庭でも直接耳に入ってくる。
あれは、二階の部屋から発した、ような。
「百兄さん?」
『……ごめん。変なこと、言ったな。忘れて。徹夜だったからさ、ちょっと頭が回ってないんだ』
「すみません、朝早くから来てしまって」
慌てて謝罪する。
課題で何度か徹夜したことはある。あれは結構きつい。
『ちょっと寝るよ。草むしり、無理しないでいいから』
「はい。おやすみなさい」
ちょっとだけ驚いたような沈黙があって、そして。
『おやすみ』
僅かに笑みを含んだ声が、響いた。
しおれた雑草を、ゴミ袋に詰めこむ。
幾つ目か、ぎゅ、と口を縛ったところで、音を立ててカーテンが開いた。
「あら。さっちゃん?」
窓を開けて、驚いた顔を出したのは、103号室の星崎だ。
「お帰りなさい」
「ただいま。どうしたの?」
完全防備の咲千の姿に、首を傾げる。
「草むしりをしてました」
コンクリートブロックで区切られた102号室の庭は、今や地面に貼りつくようなもの以外は雑草が一掃されている。
「あらまあ。どうしてさっちゃんが?」
「色々ありまして……」
どう説明していいか判らずに、そう答えた。星崎は小さく笑う。
「すっきりしてよかったわ。そうそう、さっちゃん、お土産渡しておくわね」
部屋の中に戻り、紙袋の中から一つの包みを取り出した。
「よくあるお饅頭だけど」
「ありがとうございます。どちらに行かれてたんですか?」
「私の実家に、顔を出してきたの。お盆の終盤だと混むから」
「でしょうね」
よく、テレビで高速道路の渋滞の映像などを流しているのを思い出し、頷いた。
「明は寝ちゃってるから、ご挨拶できなくてごめんなさいね。また会ったら遊んであげて」
「はい」
冷房をつけるのだろう、その後すぐに星崎は窓を閉めた。
玄関に入って、鍵を閉める。
ふぅ、と息をつきながら、麦藁帽子を脱いだ。
もう全身汗だくだ。まだ明るいが、柿瀬との約束の前にシャワーを浴びてしまおう。
脱いだ服を洗濯機に放りこみ、浴室に入る。
熱くも冷たくもない湯を、頭から浴びた。
汗でぬるりとした肌が、洗い流されていく。
「あー……」
リラックスのあまり、間の抜けた声を出した。
瞬間。
がたん、と、空耳としては非常に大きな音が、外から聞こえた。
びくり、と身を竦め、壁を見つめる。
がた、がたがた、と、立て続けに、何かを板へぶつけるかのような音が、振動が、響く。
恐る恐る、小窓にかけたビニールカーテンをそっと寄せる。
窓の向こう側で、細く長いものが、踊るように動いていた。
「っ、やぁああああ!」
悲鳴を上げて、下がる。
つい窓を覗いてしまったが、この向こう側は、外部ではない。
どこからも入ることができない、デッドスペースだ。
事実、ほんの十分前、外から見た限り、外壁の窓は割れてなどいなかった。
中に、何かがいるのだ。
ばたんばたんと騒がしいそこから離れ、脱衣所へ逃げこむ。
玄関から外へ出て、大丈夫だろうか。
迷うが、何があったにせよ、ここで一人でいても解決できない。
幸い、アパート内には知人が複数いる。救けを求めれば何とかなるだろう。
急ぎ、手にひっつかんだワンピースに、濡れたままの腕を通す。
ぱきん、と、軽い、音がした。
地面から、突き上げるような衝動が襲う。
「きゃぁあ!」
着替え中という不安定な体勢だった咲千は、その場に尻餅をついた。
「地……地震?」
ぐらぐらと揺れる床に、立ち上がれない。
『総員警戒態勢!』
聞き覚えのある声が、大音声で、裏野ハイツ全体に響く。
『ヒトは絶対外に出るな! 現在、震源地を探査中!』
おかしい。
先ほどお茶を飲んで、そのままテーブルに置いたままのグラスが、揺れてもいない。
重心の高い、液晶テレビも。
テーブルも、椅子も。
咲千は、立ってすらいられないのに。
キッチンの方から、がたん、と、やけに大きく耳に残る音が聞こえて。
シンク下の扉が、ゆっくりと、ゆっくりと、押し開かれていく。
シンクの横の壁は、ちょうど、デッドスペースの隣で--
内ではなく、外ではない。外壁と、内壁で区切られているから。
閉め切られているが、闇ではない。外壁と内壁に、窓が作られているから。
出入り口はあるが、通れない。二つの窓は、嵌め殺し、つまり、開かない窓であるから。
百兄さんが言っていたのは、この空間のことだ。
百兄が、怒声を響かせる。
『203号室だ!』
その、203号室の住人、咲千は、その時シンク下の扉から顔を出した金色の蛇に睨まれ、ただ、震えていた。
最初は、その蛇の直径は、五センチ程度に見えた。
充分大きい。だが、人の手で掴めないほどではない。
「や、ぁ……」
揺れる床を、必死に後ろへとにじる。
三十センチも、その姿を現した時には、太さは十センチほどに。
五十センチとなると、太さは十五センチほどに。
二メートルに、なると。
「やああああああああああ!」
大蛇は、その口吻に、平たい小さな板を咥えていた。
それが、ゆっくりと、近づく。
「お姉ちゃん!」
どんどんと、扉が叩かれる。
ぎしぎしと身体が軋む傍らで、ぼんやりとそれを認識した。
脚を。
胴を。
胸を。
腕を。
大蛇は、咲千の全身をゆっくりと締めつけていく。
もう、声も出ない。
「お姉ちゃん、開けて!」
明が、絶叫する。
二階のキッチンの窓には、階段からでは大人でさえ手をかけられる高さではない。
母親が、どん、と、扉に肩からぶつかっていくが、女性の力ではそう簡単にスチール製のそれは破れない。
「こんなとこばっかり、丈夫に作るんだから!」
罵声を上げて、しかし、彼女は再び突進した。
『お前行けないか、ニート!』
「俺は招かれておらんからな」
焦りが滲む叫びに、飄々と金髪の青年は返した。
『くっそ……! じっちゃん、頼む!』
その叫びに応じるように、二階の中央の部屋、202号室の床が、二度、鳴らされた。
「ご招待、お受けしよう」
恭しく一礼し、閉め切られ、闇に沈む101号室にいた青年は、大股で戸境壁へ向けて進む。
するり、と沈むように、その壁を抜け、102号室を横断しかけ。
とん、と床を蹴ると、宙に浮き、天井を通り抜けた。
ごぼ、と、口の端から、泡が溢れる。
目の前で、人の頭ほどにもなった蛇の顔が、近づいてくる。
口に咥えた板は、木目に対して鉛直に割れていて、棘のように細く鋭い先端が、何十本もこちらを向いている。
金色の蛇の向こう側、うっすらと滲み歪んだ視界に、更に輝く黄金が現れた。
黒いコートを身に纏った金髪の青年が、その惨状を見下ろす。
白い肌を締め上げる、金色の大蛇。
一瞬鼻を鳴らすと、無造作にその鎌首を掴む。
「不味そうではあるな」
小さく不平を漏らすと身を屈め、青年は自らの牙を大蛇の鱗へとやすやすと沈めた。
じんじんと、手足がしびれる。
ぼんやりとした視線が、天井をさまよった。
「気づいたか、小娘」
尊大な声に、顔をゆっくりと傾ける。
一度会っただけの青年が、ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、脚を組んでこちらを見下ろしていた。
視界がゆらゆらと揺れて、目を閉じる。
「無理はするな。気力が随分吸われておる」
珍しく気遣うような言葉をかけられる。
と。
「お姉ちゃん! おい、お前、お姉ちゃんに何もしてないだろうな!」
「うるさい仔狐じゃのう……」
溜息をついて、立ち上がる。
「小娘。奴らを招いてもよいか?」
「は、い」
掠れた声で、それだけを告げる。
頷いて、青年はコートのフードを深く被った。
その姿で、玄関の鍵を回転させる。
「お姉ちゃん!」
「さっちゃん!」
差しこむ陽の光を避けるように半身を寄せた青年の傍を抜け、転がるように母子は室内に入ってきた。
「ああ、こんなに顔色が悪いなんて」
星崎が、そっと咲千の手を取る。
泣き出しそうな顔で、明は咲千の濡れた髪に触れた。
ふぅ、と身体が楽になる。
ゆらゆらと揺れ続ける視界の中、よく知った二人は、しかし髪の色が金色になっていた。小さな山形に盛り上がった髪の一部が、ふるふると揺れている。
「どう……したんです、か?」
とりあえず疑問を口にするが、静かに、と諌められた。
『封じはどうなってる?』
同じ部屋にいるかのようにはっきりと、電子音声が尋ねてくる。
「小部屋から外に出されておる。おそらく、破損しているな」
淡々と、黒いコートの青年が告げた。
電子音声が立て続けに罵声を発した。
「この場合、一体どうなるのだ、獄卒よ?」
興味などひとかけらもない、という表情で、青年は尋ねる。
『今の時期、この土地は盂蘭盆だ。六道のバランスが崩れて、起きることといえば、多分』
苦々しげに、言葉が帰ってくる。
ゆらゆらと揺れる部屋の中、柿瀬が背を丸め、一心に仏壇へ向かっていた。
『亡者が、地獄へ戻れなくなるんだろうな』
老女のその背に、暗く、薄い、煙のような何かが迫っている。