102号室 01
ベランダの上に渡された物干し竿に、ハンガーをかける。
眩しい日差しと大気の熱は、乾燥を充分に期待させるものだ。
「最近、外に干せなかったからなぁ」
じわりと滲んでくる額の汗を拭いて、咲千は次の洗濯物を手に取った。
「あ!」
が、ついうっかり手を滑らせてしまう。
ひらりと舞った水色のシャツは、裏庭に落ちた。
真下の星崎の庭ではなく、その隣、102号室の。
そこの住人とは、まだ面識はない。
星崎なら、黙って庭に入っても怒らないだろう。しかし。
数秒迷ったが、部屋を出る。
102号室の前に立って、小さく息を吸った。
扉の横にある、チャイムを鳴らす。
このアパートには、インターフォンなどというものはない。耳障りな音でブザーが鳴るのが、部屋の中から漏れてきた。
『なに?』
「ひゃ!?」
だから、扉も開かないまま、電子音の響きのかかった言葉が発せられて、咲千は奇妙な声を上げた。
『何の用?』
「え、あ、あの、102号室の方ですか?」
『そうだけど。203の人だよね。何の用なの』
声の原型は何となく判る。成人男性だろう。
ややぶっきらぼうに問い詰める言葉に、少々怯む。
「あの、洗濯物をお庭に落としてしまって。取りに入ってもよろしいですか?」
『ああ、そんなこと。どうぞ。隣の庭を荒らさないようにして。取った後の連絡なんていらないからね』
意外と気遣いの言葉が返ってくる。
ありがとうございます、と呟いて、玄関周りに視線を巡らせた。どこかに、スピーカーのようなものでも設置してるのだろうか。
ともあれ、小走りにアパートの周囲を進み、裏庭へと向かう。
星崎家の庭は、こまめに手入れされている。今は朝顔や向日葵が咲いているのは、明の学校関係だろうか。
一段だけのコンクリートブロックで、部屋ごとに庭は区切られている。その向こう側、102号室の庭は、見事に雑草がおい茂っていた。
がさがさと踏み分けて、落ちているシャツに手を延ばす。
草のおかげで、土に接していた部分は少ないが、一応水洗いしようかな、と思ったときに。
傍らの草むらが、ざざっ、と揺れた。
「きゃぁああ!」
一瞬で鳥肌を立てて、つまづきながらも星崎家の庭に避難する。
『どうかした!?』
慌てた声が、発せられる。
庭の方にもスピーカーがあるのか。
「へ、蛇が」
『蛇?』
掠れた声で、呟く。その程度の言葉もきちんと拾って、家主は繰り返してきた。
「何か、黄色っぽい、蛇が、にょろにょろって、動いて」
震えながらそう訴えかける。
『あーうん。怪我はない? 気をつけて』
しかし、結構あっさりと会話は打ち切られる。
閉め切られたカーテンは、微動だにしない。
まあ、親身になってくれたからと言ってどうなる訳でもないが、咲千は少々膨れた。
一時間ほど経って、102号室のブザーは再び鳴らされる。
『……どうしたの、そのカッコ』
誰か、と問うこともなくそんな言葉が発せられる。カメラとかも設置してあるのかな、と咲千は推測した。
そんな彼女のいでたちは、まず大きな麦藁帽子。首に巻かれたタオル。長袖とロングパンツ。スニーカーに靴下。靴下の中にパンツの裾がきっちり入っている。手には軍手をはめて、コンビニの袋を手にしていた。
「あの、先刻のお礼に。これ、プリンですけど、どうぞ」
『いや、お礼とかはいらないけど』
住人の声は、未だ戸惑っている。
「で、ですね! お庭の雑草を抜いてしまってもいいですか?」
『は?』
「あんなに雑草とか茂ってるから、蛇なんて出るんですよ! いっそ全部抜いてしまいましょう!」
『いや冬になったら枯れるし放っといても』
「蛇が出て、星崎さんとか明くんとか柿瀬さんが怪我でもしたら大変ですよ!」
『外出たくないし、土とか触るの嫌だし、抜いた草の処分とか面倒だし』
「全部やります!」
プリン一つにしては大きめのコンビニ袋から、お徳用ゴミ袋(大)を取り出して、扉に見せつけた。
電子音が、溜め息を飾る。
『……君一人で全部やり遂げるなら、ご自由に』
『で、何でそんな完全防備なの。それも買ってきたわけ?』
プリンをドアノブにかけて、裏庭に回る。取りにでたのだろうか、一度、玄関が開閉する音が聞こえた。
102号室へ向かう前に一応声をかけてみたが、星崎家は留守だった。お盆休みだし、どこかへ出かけているのだろう。
とりあえず、体は星崎家の庭に置き、手だけ延ばして雑草を抜く。そうして陣地を増やしていく算段だ。
「去年、夏休みのアルバイトで、遺跡発掘調査をやったんです。学校に求人が来てて」
建物を建てる際に、基礎工事の為に地面を掘り返すと、地中から過去の住居跡などの遺跡が出土する場合がある。文化財保護の為に、そういった場合は監督官庁へ報告しなくてはならない。しかし、調査のために時間を費やすことになるので、工事関係者の中には、秘密裡に処理するものもいるらしかった。
『あー。きついって聞くね、あれ。その時の装備か』
「暑いし炎天下だし集中しなくちゃだしで、熱中症になりかけましたよ」
あはは、と咲千は笑う。
そのため、その後探したアルバイトは設計事務所での内勤を選んでいる。
あれもそれなりにいい経験だったが、しかし繰り返したい訳ではなかった。
『にしても、何でわざわざ草むしりとかしたいのさ』
「理由はお話しましたよ」
『若い女の子が、夏に丸一日費やして草むしりとかないでしょ。もっとこう、友達や彼氏と遊びに行くとか』
「友達は休みに入ってみんな帰省しちゃってますからね」
肩を竦めて、そう返す。
根の張った雑草は、引き抜くには少々力が必要だ。
『冷房の利いた部屋でネットとかゲームとか』
『貴様と一緒にするでない、自宅警備員』
聞き覚えのある声が割りこんできて、部屋の主が悲鳴を上げた。
『いきなり入って来るなよ、ニート!』
『貴様に罵倒される覚えはないな』
『不法侵入者が罵倒されない覚えもないよ!?』
「あ、ひょっとして、神谷さんの同居人の方ですか?」
スピーカーから続くかけあいに、口を挟む。
『うむ。小娘は今日もよく励んでおるな』
偉そうな口調は、覚えがある。
一度、会ったとも言えない程度に顔を合わせただけの相手の声に、咲千は口元を綻ばせた。
「あの時は、お世話になりました」
『気にするな。小娘に対処できる相手でもない』
「……あれ、なんだったんですか?」
ずばり、と尋ねてみる。電子音声が、小さく、莫迦、と呟いた。
『ふむ。ほれ、あれだ。狸にでも化かされたのだろう』
「狸?」
『祭りに異形のものどもが浮かれ騒ぐは、よくあることだ』
はぐらかされて、咲千は小さく唇を尖らせた。
「でも、お二人は仲良しなんですね」
陣地が広がってきて、102号室の庭に足を踏み入れる。
しゃがみ続けてきた腰が、少し痛んだ。
『は?』
『俺に仲良しなどという次元で並ぶなど、こんな奴ができるものか』
『お前本当に性格悪いよな……』
長々と溜め息が聞こえてきて、咲千の方が苦笑する。
「そういえば、お名前を聞いてもいいですか?」
そう尋ねると、数秒間、沈黙が落ちる。
『名前、は』
『小娘ごときが俺の名前など知る必要はない。呼びたければ、支配者様とでも呼ぶといい』
『お前のその自我の強さ何なの』
『この自宅警備員は、糞と呼ぶがふさわしかろう』
『お前女の子相手になに言い放ってんだ!』
最低限の気遣いを弁えている程度の102号室の住人でさえ反射的に怒鳴りつけるレヴェルの発言に、流石に咲千も沈黙する。
『ほらー! 彼女引いただろ! ドン引いてるだろ! お前、家主の交友関係壊していいの? 神谷さん、怒るよ?』
『う、いや、カーミラは俺を怒ったりなど』
『あと家主の名前ぐらい覚えなさい』
変なところをきっちりと言い渡されていて、思わず小さく笑った。
『……すまぬ、小娘』
「まあいいですよ。同居人さん」
渋々という風に謝ってくるので、茶化すことで流した。
「102号室の人は、そうですね、ももにいさんとでも呼びましょうか」
『なにそれ』
あまりに突拍子もなかったのか、短く訊いてくる。
「百、でもも。二、で、兄さんです」
『……変な子だって言われない?』
力なく返されるのに、言われません、と胸を張って答えた。
『もも、か。言い得て妙だな』
くつくつと同居人が笑う。
かちゃん、と、遠くで小さく何かが割れるような音がしたのは、誰も気がつかなかった。