201号室 柿瀬
まだ、空に夕焼けの色が残っているのを確認して、咲千は嬉しげに笑んだ。
駅を出て、家へと向かう道を辿る。
と、十数メートル先に、見覚えのある後姿があった。
「柿瀬さん!」
小走りに追いついてきた彼女を見上げて、相好を崩したのは、一人の老女だ。
「おやおや、さっちゃん。今日は早いんだねぇ」
「はい。明日からお盆休みだから、今日は定時です!」
こちらも笑顔で返す。柿瀬が両手に下げたビニール袋に、持ちますよ、と手を延ばした。
彼女は、裏野ハイツ201号室に住んでいる。七十代の女性で、一人暮らしだと聞いていた。
「ごめんね。お盆の準備を買いに出たんだけど、ほら昼間は暑くてねぇ」
せめて夕方の明るいうちに、と思って、と続けながら、袋を一つ渡してくる。
ゆっくりと、老女の歩調に合わせて、歩く。
「さっちゃんはご実家に帰らないの?」
「うちは両親が海外で、この間行ったばっかりだから戻ってこないんですよ。祖父母は県外なので、ちょっと行くのが難しいし」
「あらまぁ。でも、たまには顔を出してあげなさいね。お孫さんの顔を見るのは、いつでも嬉しいものなのよ」
「そうですね。冬には、帰省してみます」
和やかに会話しながら歩いていたが、ふいに、咲千が、あ、と呟いて足を止めた。
「どうかしたの?」
「ああいえ、特には。晩御飯を買おうと思ってたんですが、コンビニを通り過ぎてしまったので」
後で買いに戻ろう。その程度の気持ちだったのだが。
「あら。なぁに、さっちゃん、お夕飯自分で作らないの?」
驚いたように尋ねられて、少々怯む。
「えーと、その、時間がなくてですね」
今までは実家に住んでいたため、家事は殆どしたことがなかった。
一人暮らしになっても、掃除と洗濯は家電を使えばそこそここなせる。
しかし、炊事だけはそうはいかなかった。
しかも、朝に家を出て、深夜に帰宅するというタイムスケジュールでは全く余裕がなかったこともあり、彼女はずるずるとコンビニ弁当で日々を過ごしていたのである。
「じゃあ、今日は一緒にお夕飯を頂きましょう。ね?」
だが、いいことを思いついた、というようにそう申し出られて、流石に慌てた。
「いえ、そんなあつかましいことは」
「いいじゃない。荷物を持ってもらったお礼よ」
ふふ、と上品に笑われて、言葉を失う。
「一人暮らし同士、たまには一緒にお食事しましょ」
そう続けられて、咲千は力なく頷いた。
「さあさあどうぞ」
「お邪魔します」
自分の部屋以外の階段を上るのは、ちょっと新鮮な気持ちだ。手摺の向こう側に、自分の部屋が見える。
柿瀬が開けた201号室の玄関から、中へ入った。
部屋の配置は同じ筈だが、住む人が違うとやはり印象ががらっと変わる。
家具と言えば、小さなダイニングテーブルと食器棚。テレビの横には、写真立てが置いてあった。
そして匂いが違う。何か、香のような匂いが染みついているようだ。
「ご飯は炊けていますからね。おかずを作っちゃいましょう。咲千ちゃんは座ってテレビでも見ていて」
冷蔵庫の前に買い物袋を置き、柿瀬がそう告げる。
「あ、お手伝いします」
慌ててそう申し出る。
「あら、いいのよ」
「いえ、あまり上手じゃないですけど、でもお手伝い程度ならできますから」
「そう? じゃあ、お浸しを作るから、お湯を沸かしてくれるかしら」
あまり意固地になることなく、さらりと簡単な指示を出してくる。
かなわないなぁ、と思いながら、咲千は小鍋を手に取った。
手伝い程度とはいえ、慣れない料理に少々緊張したが、三十分ほどで夕飯はできあがった。
主菜は鯵の開き。お浸しは、オクラの胡麻和え。豆腐となめこのお味噌汁。そして、ひじきと豆の煮たものを冷蔵庫から取り出した。
「お肉とかじゃなくてごめんなさいね」
すまなそうにそう言われたが、咲千は手を振る。
「一人暮らしを始めてから、和食を食べることが少なくなったんです。嬉しいです」
その言葉に、あらあらと嬉しそうに微笑む。
一通りダイニングテーブルに並べたところで、柿瀬はもう一度台所に戻った。
「ちょっと待ってもらえるかしら。お仏壇にお供えしてくるから」
リビングには仏壇は見当たらない。奥の部屋にあるのだろうか。
「……あの、ご迷惑でなければ、私もお参りしてもいいですか?」
咲千の言葉に、柿瀬は数度瞬いた。
「お邪魔していますし、ご挨拶をしておきたいんです。あの、駄目なら……」
何となく、そう思っただけだったのだが、ひょっとしたら凄く失礼なことを言ってしまったのかもしれない。すぐにそう思い当たって、言葉を濁す。
「そうじゃないけど……。ありがとう」
お盆に白米と味噌汁、そして水を二杯ずつ乗せて、柿瀬は奥の部屋へ通じる扉を開いた。
今までよりも、香りが強くなる。
陽はもう翳ってしまっていた。横から手を延ばして、咲千は照明のスイッチを押す。
ちかちかと数秒灯りがちらついて、室内を照らし出した。
押入れと反対側の壁に、仏壇が置かれていた。
黒光りするそれには、位牌と、写真が立てられている。
一枚は、五十から六十といった年齢の男。口を引き結び、目に力が籠もった、頑固さの窺い知れる表情だ。
もう一枚は、明らかに破られたものを張り合わせてあった。小学生になるかならないか、という年齢の、男の子だ。
手足が細く、表情も気弱に見える。
「こっちがね、私の旦那さん。それからこっちが、私の孫なの」
仏壇の前に置かれた壇に食器を並べながら、明らかに無理をしたように明るい口調で、柿瀬は説明する。
思ったよりもいたたまれない気分で、しかし、咲千は柿瀬と並んで座り、手を合わせた。
鉦を鳴らし、十数秒経って、顔を上げる。
「お待たせ。じゃあ頂きましょう。冷めてしまうわ」
静かに、食事は進む。
柿瀬はあまり食事中に喋らない習慣らしい。
それでも、咲千の学校のことや、バイト先のことを尋ねては、返事に笑みを浮かべている。
「誰かとご飯を頂くのって、嬉しいわねぇ」
おおよそ皿が空になりかけた頃、柿瀬はしみじみとそう呟いた。
「そうですね。実家にいた頃は気にしなかったですけど」
咲千も心の底から同意する。
ずっと一人でテレビを見ながら食事をしていると、独り言が増えた気がするのだ。
よくない癖がつきそうだな、と反省した。
「元々、このアパートには娘夫婦が住んでいたのよ」
麦茶を手に、柿瀬は不意に話を変えた。
「娘さんが?」
繰り返すと、静かに頷く。
「お仏壇にあった写真の子供と一緒に。その頃は、私もまだ働いていて、あまり会えなくて。もっとちゃんと、傍にいてあげればよかったとずっと後悔しているの」
ふぅ、と長く、息をはく。
「最後に会った時は、病院で、もう冷たくなっていた。あの子は、ご飯をろくに食べさせて貰えてなくて。手が、本当に、折れそうなほど細くて。頬がこけて、唇に皺が寄ってた」
何とか相槌でもうちたいところだが、言葉が浮かんでこない。
「私が、家にいれば、電話も通じたのに。時間があれば、顔を見にこれたのに。あの子たちが、あんな風に、なる前に、もっと」
俯いて発する声が震えている。
「……ご両親は」
「その時には、もういなかった。今、どこで何をしてるのかも知らない。……あの頃、娘は、あなたと同じぐらいの年齢だったのよ」
ざわり、と、背筋が冷える。
柿瀬の背後。キッチンに置かれた、食器棚の、冷蔵庫の、その影に。
ごそりと、何かが、うごめいていた。
「……柿瀬、さん」
「どれほど苦しくて、辛くて、悲しかっただろうかと。あんな、あんなに小さな子が、私の方がずっとずっと先にいなくなるはずだったのに。今だって幸せに生きているはずだったのに」
薄黒いそれは、床を這いずるように、じわり、じわりと近づいてくる。
大きさは、それこそ子供の身体ほど。
細い手で床に爪を立てて。
落ち窪んだ眼窩の奥から、濁った視線を向けて。
部屋の主はそれに気づいていないのか、言葉を途切らせない。
「夫は、心労でその後すぐに亡くなってしまった。だから、私がここにきたの。私が、ここにいなくちゃいけないの」
「かき、せ」
小さな、爪の伸びた手が、縋るように、引きずり堕とすように、こちらへ向けて延びて。
気づいて、いないのか。
「あの子を、ひとりにしておくなんて」
幾本も抜けた、変色してぼろぼろの歯が、大きく開いた口から覗く。
それとも、もう、取り立てて珍しいものでも、ないのか。
あの、明らかな異形が。
「抱きしめてあげたかった。撫でてあげたかった。一緒にご飯を食べて、美味しいねって笑って、ご馳走様でした、ってお粗末様でした、って言い合って。温かいお風呂に入って、ぴかぴかのほっぺたを拭いて。ぐっすり寝ている寝顔を、見守ってあげたかった……!」
ずるり、ずるりと。
キッチンからテーブルまでは、遠くない。
その手が、もう、届く。
「……わ、私に、料理を教えてください!」
突然咲千が出した大声に、柿瀬はぽかんとした視線を向けた。
その瞳には、涙が滲んでいる。
対処に困ったのは、正面のものも同じなのか。こちらへとにじり寄る動きを止めていた。
半ば夢中で、咲千は言葉を継いだ。
「あの、お盆が終わったら、私のバイトもさほど忙しくなくなりますし。学校が始まったら、もっと早く帰れる日も増えます。自炊の時間も取れるようになりますから、だから、私に、柿瀬さんの料理を教えてください!」
「そ……それは、ええ、いいことだと思うけど」
まだ話が繋がらなくて、柿瀬は戸惑いながら返した。
「私、柿瀬さんのご飯が乗る食卓を増やします。この部屋と、私の部屋で、柿瀬さんのご飯で、頂きますして、美味しいって思って、その、お孫さんのことを思って、食べます」
柿瀬の涙が、膨れあがる。
「私、忘れません。お孫さんと、一緒に食べるんです。ご馳走様、ありがとう、って」
「…………さっちゃ……」
堪えきれず、柿瀬が泣き崩れた。
席を立ち、横で跪くと、その曲がりかけた背を撫でる。
もう傍まで来ていた、あの小さなものは、共に撫でるように小さく手を動かして、そして、すぅっと消えた。




