101号室 神谷 03
翌日も、101号室の男とはち会わせた。
「神谷さん、このアパートは長いんですか?」
「私ですか? 五年くらいですね」
どうしました、と訊かれて、続ける。
「会社の人に、アパートのことを話したら、色んな話になって。どうして木造なのかとか、階段が幾つもあるのかとか」
肝心のデッドスペースについては口にしなかった。理由がはっきりしていないのに、不安を与えるのもどうかと思ったからだ。
「ああ、不思議ですよね」
にこにこと、男は返す。
「一応、木造だ、という理由は、あるにはあるようですよ」
そして、あっさりとそう続けた。
「理由が?」
「はい。あまりに人工的な建物には、住みにくいという人たちがいるんです。コンクリートや、鉄や、ガラス張りの」
その言葉に、咲千は僅かに眉を寄せた。
「自然との共生、ってやつですか。学校でもよく聞きます。コンセプトの先走った作品なんかで」
ちょっと驚いたように、男は女子大生を見詰めた。
「だけど、コンクリートは石灰と砂と石と水でできてますし、鉄筋も鉄骨も、ガラスだって、全て元々自然にあった物質じゃないですか。加工することが悪だというなら、そもそも樹を切り出して板にすることも悪いですよね」
文句を言うように、少しばかり唇を尖らせる咲千に、思わず、といった風に神谷は笑みを浮かべた。
「間違ってますか?」
「いいえ。その通りですね。でも、気持ち的に違和感がある、というのは、理論では言い負かせないですから」
「神谷さんに、そういう違和感があるからですか?」
やんわりと、しかし折れない相手に尋ねると、いえいえ、と手を振った。
「どちらかと言えば、うちの同居人の感性です。鉄筋コンクリートとか、そういうのは密閉感が受けつけない、と。でも、木造は木造で安心感がないらしい。石造りの家がいい、と文句を言いますが、流石に日本ではそんな家は建てられませんからね」
「日本では?」
「外国育ちなんですよ」
「あー。石材と漆喰だと、日本では耐震基準に届きませんね」
聞きかじりに近い知識をひけらかす。
その辺りで道が分かれて、二人は小さく会釈しあった。
設計事務所は、日曜祝日は休みである。
久しぶりの休日の締めくくりに、咲千は窮屈な思いをしていた。
「はい、ちょっと踏ん張って」
星崎が、ぐっと帯を引く。
咲千の部屋で、浴衣の着つけをしてもらっているのだ。
黒の地に、大きめのピンクのバラの柄が散っている。帯は明るい朱だ。
星崎が着ているのは、白地に水色や薄い紫の桔梗の描かれた浴衣で、帯は紺に水紋のような模様がついている。
大学の友人と、ノリで買ってしまった安物の浴衣に、今頃になって咲千は恥ずかしさがこみ上げてきた。
「はい、できたわよ」
床に膝をついていた星崎は、立ち上がって咲千の全身を見ると、満足そうに小さく頷いた。
「へ……、変じゃないですか?」
「大丈夫よ、可愛い可愛い。やっぱり、若い人にはぱっと目を引く柄が似合うのねぇ」
笑顔でそう請け合われて、ようやく安心して笑い返した。
「はい、じゃあ行きましょうか」
階段を下りた先に、浴衣を着た三十代の男がいた。明の父親だ。その傍にいる息子は、Tシャツに半ズボン、野球帽といういつもの格好だが。
「お、華やかだねぇ」
にこにこと、父親が口を開く。
「ありがとうございます」
照れつつも、礼を言う。
明は、ぽかんとして咲千を見上げていた。
「よし、行くか」
ひょい、と、慣れたように父親は子供を抱き上げようとする。
「やだ!」
だが、即座に拒絶されていた。
「何でだよー」
「だって今日はさっちゃんとデートだものねー」
からかうように、母親が声をかけた。
今夜は、近所の神社で夏祭りがある。
明が、それに咲千と一緒に行きたい、とごねたらしく、浴衣の着つけと引き替えに、子守を頼まれたのだ。
ついでに、夫婦も久しぶりに二人でデートするらしい。
「でも行き先は一緒だろう……」
休日ぐらいしか子供と触れあえない父親が、いじけた風に呟く。
それを一顧だにせず、ん、と、明は片手を咲千に延ばした。
手を握ると、満足そうにやや先に立って歩き始める。
ちらりと視線を向けた先で、星崎夫妻は仲良く腕を組んでいた。
境内は、既に人と屋台とで埋め尽くされていた。
ぎゅう、と掴んだ手を離さないように、本殿へと向かう。
一家と共に賽銭を投げ入れ、手を合わせた。
「それじゃあよろしくね」
「何かあったら電話してください」
念を押すように両親から言われて、はい、と頷く。
「じゃあ明くん、どこに行きたい?」
実は、二人分のお小遣いも貰っている。
至れり尽くせりの待遇だった。
明は輪投げに挑み、たこ焼きを頬張り、お面を後頭部につけて、満足げに通路を歩いていた。
が。
向こうから歩いてくる人影に気づいて、二人は足を止めた。
「神谷さん」
「おや、大黒さん。明くんも」
「こんばんは!」
明が、行儀よく声を張り上げる。
「はい、こんばんは」
笑顔で返す男は、明るい灰色地に、濃紺の縦縞の浴衣。紺の帯。そして、両手にカキ氷の容器を持っていた。
「お連れさんと来てるんですか?」
「同居人が、人ごみの中は嫌だって、向こうで待ってるんですよ」
苦笑いして、境内の奥の方を示す。
提灯の陽が届かない辺りに、人ごみを避けてか、ちらほらと立っている人影があった。
「あ! わたあめ!」
視線をそちらに向けた明が、ぱっと走り出す。
「明くん!」
咄嗟に追いかけようとするが、下駄ではいつものように走れない。
「私がついていきますよ。ゆっくり来て下さい」
言い置いて、見失わないように、と神谷は小走りに先に進んだ。
浴衣でサンダルとかミュールを履いてもおかしくなかったらいいのに、と恨めしく思いながらも、その後を追った。
ざわざわと楽しげに行き交う人々の間をすり抜けた瞬間に。
「……え?」
一瞬で、周囲が闇に沈む。
人のざわめきも、全く聞こえない。
「明くん? 神谷さん!」
思わず大声で呼ぶが、しかしその声すらどこかくぐもって聞こえてしまう。
「やだ……、なに、ここ」
思わず、数歩、後ずさったところで。
「つぅぅうかまぁああああえたぁ」
ぐぅ、と、二の腕を掴まれた。
「きゃ……!」
思わず振り払って、向きを変える。
背後も変わらずに闇で、何がいるのかも判らないのだが。
「や……」
肌が、粟立つ。
がちがちと、歯が鳴る。
寒くなんて、ないのに。
「つぅかまぁえたぁ」
「そぉのかわをぉよこせぇえ」
地を這うような、低い声が、そこここから沸く。
カシャカシャと、何か、硬いものが地面に当たるような音が響く。
「か、わ?」
何のことだか判らず、ただ、呟いた。
「かわをぉぉおお、はぐぅ」
「はいでぇ、かぶぅるぅ」
「かおをぉ、かぶるぅう」
ずるずると、何かを引きずるような。
「かぶれぇばぁ、ばけるぅう」
「ばけぇればぁ、はいぃるぅ」
少しずつ、それらの音が、声が近づいてきていて、目を見開いたまま、咲千はよろめくように後退する。
「はいるぅ」
「すまうぅ」
「くらうぅ」
「くぅぅうらぁう」
「……っ、やぁああああああああ!」
喉が裂けるほどに、絶叫した瞬間に。
「殺生石アターック!」
甲高い叫び声と共に、目の前に、子供が飛びこんできた。
「……え」
ぐしゃぁ、と何かが潰れる音と、ぐぇえ、と、力ない声が漏れた。
「大丈夫、お姉ちゃん!」
何かを踏みつけつつ、そう言って、振り返ったのは。
「あ、きら、くん?」
何故か、灯りもない暗闇の中で、ぼんやりと小さな子供の姿が見えた。
「……それは自爆技なのか、仔狐?」
からん、と下駄の音がして、声が上から降ってくる。
「うるさいなー。この、ニート!」
心配そうな顔から一転して、不機嫌な顔になって、明は言い捨てた。
「ニートではない。働かずともよい階位なだけだ」
自慢げにそう言い放った相手の姿が、見えた。
背の高い、男性だ。短い、柔らかそうな金髪が闇に映える。その白い肌と青い目からして、地毛なのだろう。顔立ちは、さほど濃いという訳ではない。むしろ、甘い、と言った方がいいタイプだ。年齢はおそらく二十代といったところか。
そんな青年が、黒地に濃い目の灰色でなにやら模様の描かれた浴衣に、紺の兵児帯、素足に下駄、鼻緒はこれも黒、といったいでたちで、目の前に立っているのだ。
「……だ、れ?」
小さく言葉が漏れる。
「小娘が聞いてもよい名ではない」
「お姉ちゃんはこんな奴知らなくていいの!」
意外と気が合う男性陣でもあった。
「きたぁああ」
「またきたぁ」
しばらく静かだった何かが、ざわざわと言葉を放つ。
「や……!」
びく、と身を竦めると、金髪の青年は無造作に咲千の前に立った。
「カーミラのたっての頼みだ、疾く潰してやろう。仔狐、早ぅその小娘を連れて行けぃ」
「あんたいい加減名前覚えろよ……」
ちょっと文句を言いながら、明はぎゅ、と咲千の手を取った。
「え、あ、あの」
「行くよ、お姉ちゃん。まっすぐ前を見て、振り返らないで」
「でも、あの人」
視線を向けた先で、背を向けたままの男が、ひらりと手を振った。
「たかが化生の類が、我が城に手をかけようなどと、身の程知らずだな」
浴衣の袖の中で腕を組み、青年は小さく告げる。
「くらぅう」
「かぶるぅう」
「おなじぃいい」
標的を咲千から青年に向けたのか、ざわざわと、カシャカシャと、取り巻いていく。
「さて。すぐに戻らねば、氷が溶けてしまうなぁ」
呟いて、一歩前に出る。
にやりと笑んだ口元から、鋭い牙が覗く。
黒の浴衣の模様、濃い灰色の蝙蝠の柄が、ざわりとうごめいたように、見えた。
その暗がりに、断末魔が立て続けに響くまでは、あと数秒。
ふいに、ぼんやりとした光が視界に満ちる。
「……え?」
周囲を見渡すと、街路樹と通り過ぎる車のランプ、駐輪された何台もの自転車が見えた。
「お帰りなさい」
そして、柔らかく笑んだ神谷がそこにいた。
「え? あの、ここは」
「神社の裏手ですよ」
振り返ると、少し小さめの鳥居が立っている。
そこをくぐってきたのか。
「大丈夫でしたか?」
「あ、はい。あの、何がなんだか判らないんですけど、その」
酷く混乱して、思わず問いかけてしまう。
「私はここで待ってただけなので、判らないですねぇ」
しかし、やんわりとそう返された。
「そう……ですよね」
「まあまあ。祭りの夜には、昔から不思議なことがあったそうですよ」
宥めるように言って、神谷は腑に落ちない顔の咲千から、明へと向き直る。
「もう平気ですか?」
「うん!」
「じゃあ、私はカキ氷を買いなおしてきますね」
見ると、二つ持っていた容器は、片手に重ねられていた。
「すみません、溶けちゃったんですか?」
「まあ、昼間ほどじゃないですけど、そこそこ暑いですから」
時間が経てば溶けます、と苦笑して続ける。
「あの、私、弁償します!」
「え、いえそんなこと」
「だって、私のせい、っていうか、あの同居人さん、私を救けにきてくれた、んですよね?」
何故か途中でしどろもどろになりながら、そう尋ねた。
「……じゃあ、彼の分だけ、頂きます」
少し考えて、神谷はそう要求した。
「そろそろ行こうよ、お姉ちゃん」
小銭のやりとりが終わったところで、やや苛々した顔で、明が手を引いた。
「え、でも、私お礼を」
「あんな奴に言わなくてもいいの!」
「彼はちょっと人見知りなので……。私から、ちゃんと伝えておきますよ。それに、貴女を見つけたのは、きっと明くんの方ですから」
ね、と促される。
「……はい。よろしくお願いします。明くんも、ありがとう」
少しばかり残念そうな顔の咲千に、礼を言われても明は不機嫌だ。
「お姉ちゃん。金髪が好きなの?」
「え、ええっ、好きとかそんな」
ただ、あの金色の髪に、何だか見覚えがあるような気がするのだ。
何だか、心惹かれるような、気も。
あからさまにうろたえた相手に、子供は頬を膨らませる。
「僕、金髪にする!」
「だ、駄目だよ、明くん!」
「する! お母さんに言う!」
「駄目だって……!」
ぷんぷんと怒りながら夜道を歩く明の後を慌てて追う咲千を見送って、神谷は小さく笑っていた。
帰宅後、髪の色を変えたい、と言った明を、両親は全く取り合わなかったらしい。