101号室 神谷 02
検査は順調に終わった。
図面を手に、仕上のチェックをしていくのだ。咲千は、左門に言われるままに図面に書きこみをしていくだけだったが。
それでも、初めての現場だ。作業をしている人たちは大柄な男性ばかりで、挨拶しながら通っていく二人を物珍しそうに見送る。
左門が珍しい訳はないから、つまり自分が奇異なのだろう。
建築業界は、まだまだ男社会である。
「お疲れさん」
道路に出て、自動販売機で冷えたコーヒーを買ってきた左門が、一つを咲千へ渡す。
屋内とはいえ、勿論冷房など入っていない。むっとした空気の中、作業着の分厚い布地、そして長袖長ズボン、更にヘルメット着用は、結構辛い。
ありがとうございます、と返して、一気飲みする。
「結構早く終わったな……。お前の家、この近くなんだっけ?」
「あ、はい。最寄り駅だけですけど」
現場へ向かう途中に、軽く話したことを蒸し返される。
ふむ、と男が考えこむ。
「よし、ちょっと見に行くか」
「ええっ!?」
流石に予想外の言葉を向けられて、叫ぶ。
「デッドスペースが気になるだろ? 何か判るかもしれんし」
「ででででも、そんな急に」
「散らかってんのか?」
「……散らかせるほどの時間がありません……」
僅かに肩を落とすのに、悪い、と軽く謝られた。
「でもその、洗濯物とかはあるので」
「外でしばらく待っててやるよ。えーと、奥の部屋。あっちは関係ないだろうから、入らねぇ。台所とユーティリティの辺りを見りゃいいんだしな」
「ううう」
ちょっと困るが、しかし、プロの目で見てもらった方がいいかもしれない。
自分の住んでいる部屋に、把握していない空間がある、というのは、確かに気になる。
「判りました」
そうして、作業服の二人は、真夏の街路を歩き出した。
「…………………………なんだこりゃ」
裏野ハイツの前で、立ち止まる。ここです、と告げた後、左門は、不自然な間を空けた。
首を傾げ、男と建物を交互に見る。
ハイツは、いつもと変わらない。外壁は黒に近い茶に塗られ、瓦は濃い目の灰色。
特に、取って喰われそうな印象はない。特に、この強い日差しの下では。
「変だとは思ってたが、マジか」
「おかしいですか?」
左門の呟きに応えると、呆れたような視線を返される。
「お前な……。仕事で設計任される前に、もっと、基本的なところを勉強しろよ」
基本的なところで駄目だしされたらしい。
流石にちょっとへこむが、左門は何だかんだで語りたがる男でもある。
「まず、このアパートは、横に三部屋並んでるよな」
「はい」
「よし。なんで、その一部屋ごとに階段がついてるんだ?」
真正面から見ると、二階の玄関から出たところに、長さが百二十センチほどの廊下がある。その先は階段になって、一階へ降りていっている。
それが、三部屋それぞれにあるのだ。
「メゾネットみたいですよね」
「メゾネットなら、上下階が一物件だろうが!」
間髪容れず、そうツッこまれる。
「十も二十も部屋があるならともかく、三部屋程度、階段一つで足りる。それにだ。壁に沿って、階段を作ってるのも意味が判らん。あれじゃ、一階の台所の窓の辺りでちょうど階段の踏面が目の前にくるから、おちおち窓も開けてられないだろ。砂が入るぞ。で、降り切ったところが例の風呂場か? 落ち着いて風呂も入れねぇな」
確かに、配置は左門の言うとおりだ。
「大体、廊下と平行に階段を置きたいなら、廊下の外側に配置すべきだ。他にも、どうだってやりようはあるのにな」
腕を組み、左門はじろじろと建物を矯めつ眇めつ見た。
「……そもそも、何だって木造なんだ?」
「木造がおかしいんですか?」
きょとんとして、更に訊く。
「さほど、はおかしくない。階段の位置ほどはな」
結構しつこい男である。
「ここ、築三十年、て言ったろ」
「はい。そう聞きました」
「三十年前、って言うと、1986年だ。何があったか、判るか」
と、問われても、某国民的RPGゲームが確か発売三十周年だったな、程度しか思いつかない。
「バブルの真っ只中だよ」
自嘲気味の笑みを浮かべて、五十代半ばの男は告げた。
「土地があれば、銀行がこぞって融資をした時代だった。頼まなくても、ばんばん金は集まった。不動産が下落するなんて、考えもしなかった。これだけの敷地があれば、こんな木造二階建てなんて建てなくても、新築で、十階建て程度のマンションが軽く建ったはずだ。賃貸じゃなくて、分譲でもすぐに売れただろう」
「はー……」
実際、古びたアパートを前にしては、想像できない話だ。
「施主にそんな話がこなかった筈がない。新築の共同住宅なんて、いい物件だ。銀行は土地を探し回って、向こうから話を持ちかけすらした。当時の返済は、バブルが弾ける前ならさほど厳しくないだろう。高いものを作れば、それだけ高い収入が見こめる。資金回収だって、ずっと早い。……一体何で、それを蹴って、こんな変な設計の計画を実行したんだ?」
既に、咲千に尋ねているのではない。自問自答するように、左門は言葉を口にした。
「そうか。不思議なんですねぇ」
呑気に返した言葉に、男は咲千がいることにようやく気づいたようだった。
「ぐだぐだしゃべって、悪かったな。ほら、片づけてこいよ」
「……はい」
肩を竦め、とんとんと階段を上る。
僅かに眉を寄せ、左門はそれを見上げていた。
五分ほどして、扉を開ける。所在なげに、門扉の内側に立っていた男が顔を上げた。
「どうぞ」
「おぅ」
階段を上がりながら、外壁をじろじろと見る。
「あれが風呂場の窓か?」
軽く示すのは、幅三十センチ、高さ六十センチ程度の、小さな窓だ。
「はい」
「開くのか?」
「いえ」
「だよな。嵌め殺しに見える。てことは、風呂場は換気扇か?」
「そうです」
短く返事をする咲千をよそに、むぅ、と呟いた。
「窓を開けられない事情があるのか……」
そしてとん、と廊下に上がる。
玄関に入って、ぐるりと周囲を見回した。
「綺麗なもんだな」
それはほめ言葉のつもりなのかなぁ、と思いつつ、曖昧に微笑む。
左門は、まっすぐ右の壁を向いた。
奥の部屋とを区切る壁から、キッチンの壁までの間を、目測する。
そして、その中央の扉に手を延ばした。
「開けるぞ」
「はい、どうぞ」
開いた先は、二畳ほどの大きさの脱衣所だ。その左手、トイレの扉も開き、左門はリビングとの間の扉まで戻った。
壁の断面を真正面に見据える。
「うん、こっちの壁は同じ位置だな」
壁を挟んで、突き当りまでの遠近感を見ていたらしい。
「じゃあ、こっちだが」
軽く向きを変え、浴室の扉を開く。
ユニットバスの奥に、嵌め殺しの小さな窓が、あった。
「……ああ。やっぱり、ずれてるな」
息を詰めて見守っていた咲千を手招きする。
同じように、扉の枠を横から見て、咲千はぶる、と身震いした。
「ずれてますね」
ユニットバスの壁は、明らかに、台所の壁よりも、近い。
「窓はどうなってんだ、これ」
無造作に左門が浴室に足を踏み入れた。浴槽の上に身を乗り出す。
ユニットバスの厚みなのか、壁と窓ガラスの間には、十センチほどの奥行きがあった。その間に、突っ張り棒を渡し、短い、ビニール製のカーテンをかけている。
それをめくり、姿を見せたガラスは、表面にでこぼこした模様がついていて、向こう側ははっきり見えなかった。
「ぼんやり明るいな……。正面に外壁の窓があるからか?」
眉を寄せて、呟く。男は、脱衣所で様子を見ていた咲千を振り向いた。
「ここ、変な様子は今までなかったか?」
「いいえ、特に」
「外に人影が見えるとか」
「やめてくださいよ!」
流石にぞっとして、止める。
「外側に廊下はないですし、人なんて通るわけないじゃないですか。お風呂を使うのは大体夜で、明るさがおかしいとか思いませんでした」
そう、窓が直接外の灯りを入れてくれたとしても、この大きさでは昼間でも暗いだろう。
まして、若い女性の一人暮らしだ。窓に目隠しをするのは当たり前だった。
軽く、壁を叩いてみる。が、ユニットバスの軽い響きが残っただけだ。
「窓を割ってみるか」
「やめてくださいって!」
慌てて更に止める。
「いやしかし、向こうに確実に何か空間があるんだろ」
「賃貸ですよ! それも、私、先輩からまた貸ししてもらってるんですから、何かあったら困るんです!」
非常に現実的な理由で、左門の作業服の裾を引いた。
「判ったよ。台所から様子見てもいいか」
しぶしぶ、それには頷く。
ぐるりと壁を回りこみ、ごんごんと壁を叩く。
脱衣所の壁、ユニットバスの壁、そしてデッドスペースだろう場所の壁。
「あまり変わらないな」
向こう側に空間があるのだろう。どこも似たような音しかしない。
「内壁と外壁の両方に窓がある。設計段階で、もうここにデッドスペースを作ってたんだ。だが、一体何の意味がある? この部屋だけか、それとも六部屋全部そうなのか?」
「そこまではちょっと判らないです……」
下階の星崎の部屋には、ちょっと顔を出すことも多くなったが、風呂場に入る用事などはない。
「まあ、単純に考えれば、パイプスペースなんだろう。ちょっと広すぎるが、それで悪い理由なんてないしな」
釈然としない、という顔で、しかし左門は常識的な結論を出した。
扉を開けて、廊下に出る。
鍵をかけている後ろで、階段を降りかけた左門が足を止めた。
「どうしました?」
ひょい、と覗きこむと。
「お姉ちゃん。その人、だれ」
眉間に深く皺を寄せた、明が階段の途中に立ちふさがっていた。
「あれ、明くん。お帰りなさい」
昼間は、彼は保育所に預けられているはずだ。戻ってくる時間だったのか。
「ペアルック?」
だがそれには返さず、幼い子供はぼそり、と呟く。
思わず、二人の大人は顔を見合わせた。
彼らは、会社支給の、薄緑色の作業着を着ている。
「ええとこの服は、お仕事の時の服なの。この人は、私が働いてる会社の人よ」
「アパートの子供か」
階段の段差のせいで、見上げるようにして尋ねられる。
「はい。下の階の」
ふぅん、と呟いて、左門はそのまま階段を下り始めた。
ぐっと口を引き結ぶ子供の身体を、数段上からひょい、と持ち上げる。
「うぁ!?」
「左門さん!」
住人達の声など気にせずに、下まで下りきって、とん、と子供を地面に降ろした。
明を一瞥もせずに、背後を見上げてくる。
「ほれ、戻るぞ大黒。今日はこのまま直帰しろ、とか言えるほど、暇じゃないんだ」
「判ってますよ。じゃあ、明くん、またね」
どの道、着替えに戻らなくてはならない。
軽く手を振って男の後を追う咲千を、難しげな顔で明は見送っていた。