101号室 神谷 01
その日の帰りも、遅かった。
ぐったりとした足取りで、アパートの門扉を通り抜けた時。
違和感に、視線を上げる。
木造二階建てアパート、裏野ハイツ。
その、瓦屋根の、上に。
ひとが、立っていた。
すらりとした肢体を、この季節だというのに長いコートに包んでいる。
おそらく、男性だ。
月明かりに、柔らかそうな金髪が、光る。
声は上げなかった。
だが、思わず息を飲んだ瞬間に、その人影は姿を消した。
……飛び降りた!?
慌てて、自室とは反対側、101号室の角を曲がる。
アパートの裏手は、一階の住人たちがそれぞれ庭として使っている。草花の静かに茂る中には、誰かがいる気配もない。
「……あれ?」
一階にある、三部屋の窓からは、どれも灯りは漏れてきていない。
首を捻りながら、咲千は自室へと戻っていった。
かんかんと音を立てて、鉄骨階段を下りる。
朝日に目を細めていると、横合いから出てきた男が、ひょい、と頭を下げた。
「おはようございます、大黒さん」
「おはようございます、神谷さん」
相手は、101号室の住人だ。五十代ほどの男で、毎朝スーツを着て出勤のために出てくるのによくはち合わせる。
「毎日大変ですねぇ」
大学生ながら、夏休みに平日全てをアルバイトに費やす咲千を、穏やかにねぎらってくる。
「お盆進行は大変ですよねぇ」
社員たちがぼやく言葉を、そのまま使う。それに、困ったように微笑んだ。
神谷は、穏やかで、礼儀正しい男である。年齢は父親にも近く、それで少し親近感が沸くのだろうか。
アパートを出て、三分ほどは一緒に歩く。
咲千は電車通勤で、神谷は近くの駐車場に停めている車での通勤だからだ。
「お送りしましょうか?」
「逆方向じゃないですか」
いつもの小ネタを交わして、二人は道を分かった。
「大黒! これ二部焼いて。白で」
「はい!」
胸に書類を抱え、コピー機の用紙送りトレイへと突っこむ。
もうすぐ昼だ。コピー機の轟音に、運良く腹の虫の音はかき消された。
大黒咲千がアルバイトに雇われているのは、恵比須設計事務所。建築家を目指し、大学で学ぶ彼女にとって、実に有意義な職場である。
まだ、殆ど雑用しか任されていないとはいえ。
「……大黒。パンチ穴、右に空けてどうすんだ」
「すみませんっ!」
苛々とした仕草で、コピーし終わった書類を指さす男に、慌てて頭を下げる。
「まあいい。もう一回、やり直しな。この書類は、ちゃんとシュレッダーにかけろよ」
「はい!」
さほどねちねちといびる男でもない。少々呆れ顔ではあったが、そう指示を受けて、もう一度コピー機へと向かう。
「原本をシュレッダーにかけるなよ!」
背後からさらに注意され、咲千は羞恥に頬を染めた。
「お疲れさまー」
フロアの打ち合わせスペースで、数人の女子社員たちがお弁当を囲んでいる。
お昼休みに十分ほど遅れて合流した咲千に、笑顔で冷えた烏龍茶を入れてくれた。
「お疲れさまですー……」
へろへろと、椅子に腰掛ける。机の上に置いたコンビニの袋に、三十半ばの女性が軽口を叩いてきた。
「お弁当とか作らないの?」
「もう、帰って寝るだけしかできません……」
しかし、アルバイトの力ない言葉に、全員が苦笑した。
「お盆進行が終わるまでは無理かもねぇ」
「うちも、ご飯とかずっと旦那に頼んでるわー」
あはは、と笑い声が起きる。
建築士の資格を取り、バリバリに働く彼女たちだったが、やはり私生活は犠牲にしがちだ。
「でも、自炊の癖をつけるなら、早いほうがいいわよ」
そういう忠告もまあ尤もだ。
お盆が終わるまでは無理ということもだが。
「さっちゃん、就職は大手ゼネコンとかにしときなさい。定時で帰れたりするわよ。お休みも多いし」
「それは魅力ですね……」
勿論、そんな企業は競争力が半端ではないが。
「そう言えば、さっちゃんのお部屋って、木造なんだっけ」
「珍しいよね」
食事も終わり、のんびりしているところに水を向けられる。
「そうですねー。築三十年ですよ」
「三十年!」
「やだ私まだ産まれてないわー」
「岸田さん、それツッこめません!」
笑い声の絶えない女子社員たちは、基本的に理系でさばさばしており、仲がいい。
「ねぇねぇ、図面に起こしてみてよ」
ふいにそう水を向けられて、瞬く。
「そうね、練習だと思って」
身軽に席を立った女性は、すぐにA4版の方眼紙とシャープペンシルを持って戻ってくる。
咲千も、大学二年だ。図面は、もう何度も描いたことがある。
「奥の部屋が、六畳です。押入があって」
「あ、角部屋なんだ。窓多いね」
「ベランダあるのかー」
「狭いですよ。室外機置いたら三分の一ぐらい塞がるので、プランターでお花育てるぐらいしかできないかなって」
「お葱いいわよ、お葱。根っこのところ切り落としたのとっておいて、土に植えたら手間もかからずに生えてくるから」
「それお花じゃないです……」
きゃあきゃあと騒ぎながら、順調に描いていく。
「トイレと、脱衣所。お風呂は別……で……」
「え?」
全員が、しん、とする。
奥の部屋から描き始めていた見取り図は、部屋の間口側で、不自然に一畳分の余裕を残していたのだ。
「え……いや、何これ」
「共同住宅で、こんなところにデッドスペースとかある?」
「パイプスペースと、メーターボックスでは」
「いやそれでも、半分あれば足りるよ」
ざわざわと、不穏な空気になる。
咲千は、呆然としつつ、必死に頭を働かせていた。
風呂場には、小さい窓がある。つまり、こんなスペースなど、ある筈がないのだ。
「あれじゃない? 六畳、九畳って言っても、しっかり畳のサイズじゃないっていうの。よく、そういう変則的な部屋、あるじゃない」
「ああ、フローリングなんだからできるわね。間口がちょっと広くて、その分奥行きが短いとか」
一人が解答らしきものを言いだし、全員が、あるある、と納得しそうになったところで。
「いや、それはねぇだろ」
ひょい、といきなり、男の声が発せられた。
「きゃあああああ!」
口々に悲鳴を上げて、女性たちが振り返る。
眉を寄せてそこにいたのは、先ほど咲千に仕事を言いつけていた、五十代の男。
「左門さん、驚かさないでくださいよ」
「いやちょっと口挟んだぐれぇで、きゃあきゃあ言われてもよ」
少々むさ苦しい感のある男は、憮然として言った。
「それより、何でそれはない、んですか?」
咲千が、真剣な表情で尋ねる。
こともなげに、男は口を開く。
「ん? 木造って言っただろ。RCやSなら、そういう部屋の作り方もするが、木造ならグリッドはおおよそ900だ。その単位は変わらない。なら、六畳はきっちり六畳だよ。売り口上に間違いがあるならともかくな」
RCとは、鉄筋コンクリート造の建物のこと。Sとは、鉄骨造のことだ。建築業界では、数字の単位は、基本的にミリで考えるため、900とは900ミリ、つまり90センチということになる。
木造に換算すると、三尺とほぼ同等の数字だ。
「虚偽広告か……」
女子社員が、納得しかけるが。
「うーん。でも、壁と、窓の間隔は、この比率なんですよ。グリッドの単位が合ってるなら、奥行きにも、間口にも間違いはないと思うんですが」
腕組みし、咲千が難しい顔で呟く。
「気になるなら、今度巻き尺で部屋の寸法を測ってこい。それより、一時半には出るから、準備しろよ」
「あ、はい!」
左門は、午後から現場の検査に行く。手伝いとして、咲千も連れていってくれるのだ。
学生には、滅多にない機会である。
彼女は、食事のごみと、方眼紙を手にして、立ち上がった。