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103号室 星崎家 02

 月がぼんやりと夜空を照らしている。

 駅舎を出て、咲千はふぅ、と吐息を漏らした。

「遅くなっちゃったなぁ……」

 今は八月の初め。お盆まで、残すところあと十日ほどしかない。

 咲千のアルバイト先は、お盆前に終わらせておく仕事をこなすため、てんやわんやだった。

 無理を言って、昨日まで休みを貰えたことは感謝している。

 だが、実家で暮らしていた頃は両親に気を使って早く帰宅させて貰っていたのが、一人暮らし、ということでぎりぎりまで労働となってしまった。

 終電に間に合ったのが、まだしもか。

「疲れた……。眠い」

 明日も朝から仕事だ。

 帰って夕食を食べてシャワーを浴びて、と考えると、どっと疲れが増す。

 気にし始めると家鳴(やな)りが耳障りで、昨夜の眠りは浅かったということもある。

 とぼとぼと人気(ひとけ)のない道を歩き、コンビニエンスストアへと入った。

 サラダとパスタを夕食に、菓子パンを明日の朝食のために購入する。

 ありがとうございましたー、と響く店員の声を背に、店を出て、そして家の方向へと曲がった。


 そのはず、だったのだ。



「……あれ?」

 見慣れない道に、咲千は足を止めた。

 もう、家についてもいい時間、歩いているのに。

「どこかで間違えちゃったかなぁ……」

 街灯の光にぼんやりと照らされている道を見渡す。

 昨日一日街を歩いたとは言え、昼間と夜では印象がまるで違う。そもそも、今立っているのが、通ったことのない道である可能性は高い。

 実家に住んでいた頃とは違い、電話して迎えに来てもらうということもできない。

 溜息をついて、踵を返す。

 とにかく、コンビニエンスストアまで戻れば、帰り道も判るだろう。



「……えええー……」

 それから、また二十分。

 咲千は、途方に暮れて立ち尽くしていた。

 さっぱり見覚えのある道に出ない。

 尋ねようにも、周囲は暗い住宅街だ。流石に、もう日付も超えようという時間に、見知らぬ家に突撃して道を教えて貰う訳にはいかない。

 自身の安全のためにも。

「ううう……。どうしよう」

 疲れと眠気と不安で、頭が回らない。

「あ。そうだ、携帯」

 が、ようやくスマートフォンの地図アプリの存在を思い出して、急いで鞄から取り出そうとする。


 ぼふっ。


 その手をめがけて、何か柔らかい、温かいものがぶつかった。


「きゃ!?」

 スマートフォンが、鈍い音を立てて地面に落ちる。

 慌てて拾おうと身を屈めるが、指先からさっとかっさらわれた。

 暗がりに何となく見えたものは、両掌大の大きさの獣が、スマートフォンを咥えて走り去るところだった。

「ま、待って!」

 焦った咲千は、闇雲にそれを追った。



 毛玉は、巧みに街路を走る。

 そう、逃げるなら、溝の中や塀の上などを通ることもできるのに。

 まるで、咲千をおびき出すかの、ように。



 どれほど走っただろうか。

 咲千は、とうとう足を止めた。

 視線の先は、袋小路になっている。塀の向こう側は、黒い影が林立していた。おそらく、庭木なのだろう。

 毛玉は、地面にスマートフォンを落とし、身動き一つしない。

 その身体は、スマートフォンとさほど変わらない。

「よーし……。そのまま、置いといてよね……」

 背中に汗を滲ませて、ゆっくりと咲千が近づく。


 チチチチチチチチチ。


 甲高い声で、毛玉が鳴いた瞬間。


 ざわ、と、周囲の木々がざわめいた。



 カサカサ。

 キィキィ。

 カチカチ。

 クラウ。

 クラウ。

 クラウ。

 ウデヲ。アシヲ。

 ヤワラカナムネヲ。

 ハダヲクイヤブッテ。

 シルケノアルガンキュウヲススッテ。

 クラウ。

 チチ。チチチ。



「ふぇ?」

 視線を上げる。

 木々の間に、ざわざわと、何かがうごめいているのが判った。

「なに、こ、れ」


 キキィ!


 叫びを上げて、一匹が飛び掛る。

「やぁあ!」

 悲鳴と共に、やみくもに手にした袋を振り回した。

 襲いかかってきたものは、それに直撃し、どさ、と地面に叩きつけられる。

 それも、やはり毛玉だった。

 灰色の、小さな、しなやかな身体。尻尾だけがつるりと無毛だ。

 がさがさがさ、と、次々にそれらは塀を降りてくる。

「来ないで! やだ!」

 ぶんぶんと袋を振るが、それをかいくぐり、靴にへばりつき、スカートにぶら下がり、そして、脚に。

「きゃぁあああ!」

 振り払おうとして脚がもつれ、尻もちをつく。

 ほんの数秒動けない間に、次々に毛玉が身体の上に乗ってくる。

「いやぁ、や、だ、やめて、あ、ああ」

 嫌悪に、恐怖に、息が浅くなる。

 先ほどまで背中に流れていた汗が、急に冷たさを増す。

 むき出しの手足に、鋭い痛みが幾つも生じた。

 キィキィと、チチチ、と鳴きながら、身体の上をわさわさと動き回る。

 ぼんやりと、咲千はそれを温かいと認識した。



 静かな、月の光だけが差しこむその道の奥で。


「だから、言ったじゃない」


 不意に響いた声に、驚愕に目を見開く。



 斜めに視線を向けた先にいたのは、まだ幼い子供だった。



 月は、子供の背後の空に浮かんでいる。

 自然、その造作は陰に沈んでいて、はっきりとしない。

 ただ、その、短い髪の毛先が金色に光っていて。

 頭頂部に二箇所、大きく膨れた髪の束があって。

 腰の辺りから、金色の、もふりとした塊が、踵の辺りまで垂れ下がっていて。


 そして、子供は言葉を続けた。


「これからは、僕が護る、って」



 甲高い鳴き声を上げながら、数体の毛玉が彼に向かう。

「逃げて……!」

 反射的に手を延ばし、叫ぶ。

 しかし、子供は僅かに身を屈めると、目にも留まらぬ速さで、その毛玉を両手に捕まえた。

 小さく鼻を鳴らす。

「僕を、狩の仕方も知らないほど幼いと侮ったか?」

 その言葉遣いは、とてもその身体の大きさには似つかわしくない。

 そして、チチチ、と鳴きながら逃げ出そうともがく毛玉を、無造作に握りつぶした。

 ぼたぼたと、液体と、そして柔らかな固体が、地面に零れる。

「……!」

 ふっ、と目の前が暗くなった。


「狩るよ。一匹残らず。僕の爪と牙から、お前たちは絶対に逃げられない。……お姉ちゃんを、こんな風にして」


 意識の中に、細く、子供の声が聞こえてきていた。




「……お姉ちゃん」

 温かな手で揺り動かされて、反射的にばっ、と振り払った。

 少しびっくりした顔で見つめてきたのは、見覚えのある子供だ。

「あ……あれ。明、くん?」

「うん。大丈夫だった?」

 しかし、傷ついた様子もなく、にこりと笑いかけてくる。

「大丈夫、って……ええと、どうしたんだっけ。確か道に迷って、それで」

 酷く焦って、怖くて、そして痛かったことは覚えている。

 じんわりとしめったTシャツの背中が、不快だ。

「あれ。……痛くない」

 その感覚の不在に気づいて、両腕と、地面に投げ出したままの両足を見つめる。

 少々薄汚れてはいるものの、それらに傷らしきものは内出血すらなかった。

 どうしたことか、と、首を傾げる。

 そもそも道に倒れていた経緯すら、覚えていないのだが。

「迷ってたの? じゃあ、つれて帰ってあげる」

 生意気な口調と共に差し出された幼い手は、それも綺麗なものだった。



「そういえば、明くんは、どうしてあそこにいたの?」

 手をつなぐために僅かに身を屈め、子供の歩く早さにあわせて脚を進める。

 咲千の問いかけに、ぎくり、と明は視線を逸らせた。

「ええと、散歩?」

「夜中に一人でお散歩とか、危ないよ」

 危ないレヴェルの話ではないのだが、近くに小さな子供がいる環境でなかった咲千は、そう注意するに留まった。



 裏野ハイツの門扉の前には、腕組みをした明の母親が立っていた。

 肩身が狭そうに、とぼとぼと明はそれに近づいていく。

「あ、あの、星崎さん。明くんは、道に迷った私を迎えに来てくれて」

 取り繕うように、咲千はそう声をかける。

 実際のところ、道に迷っていた彼女をどうやって明が見つけ出せるのか。

 現実的な手段では、無理に決まっているのだ。

「お帰りなさい、大黒さん」

「あ、はい。ただいま帰りました」

 しかし呑気に挨拶されて、習慣のままに返す。

「怪我はない?」

「え、あ、はい」

 何故かそう訊かれて、素直にもう一度、腕をしげしげと見つめる。

 その返事に、ふと視線を和らげて、母親は両腕を解いた。

「じゃあいいわ。無事でよかった。……それは?」

 明と繋いでいない方の手に下げた、ビニール袋を示す。持ち手の部分を、一度きゅっと縛っている姿は、買い物というよりはごみ袋だ。

「夕飯を買ったんですが、何かぐちゃぐちゃになってて……」

 プラスチックの容器に入っていたサラダとパスタが、袋の中でごちゃ混ぜになってしまっていた。

 菓子パンは袋が破れてはいなかったため、中身は無事だろう。

「あら。じゃあ、お夕飯まだなの?」

 驚いたように尋ねてくるのに、頷いた。

「そう。明がお世話になったし、うちの夕ご飯の残り物でよければ、持って行くわ」

「え、いえ、そんなことしていただく訳には」

 慌てて断るが、にこりと笑顔を向けられた。

「遠慮しないで。渡しておきたいものも、あるし」


 部屋に戻って五分もしないうちに、階段を登ってくる音が聞こえた。

 玄関の扉をノックされて、すぐに開く。

 お盆を手にした星崎に、すみません、と頭を下げた。

 流石に明はついてこなかったらしい。

「簡単なものしかなくて、ごめんなさいね。食器は、明日にでも返してくれたらいいから」

「あの、明日も、多分遅くなってしまうので……」

「いいわよ。このぐらいの時間なら、まだ起きてるわ」

 けろりと告げられる。

 彼女もパートで働いている、と聞いているが、宵っ張りなのか。

 ありがたくお盆を受け取ると、それからこれ、と掌を広げられた。

 そこには、三センチほどの大きさの、白のちりめん細工の狐がついたストラップがあった。

「可愛い……」

 思わず、顔をほころばせる。

「これはね、お守りなの。持っていて」

「お守り、ですか?」

「そう。家内安全、商売繁盛、それに、鼠除けの効果があるのよ」

「鼠?」

 きょとん、として問い返す。

「ええ。屋根裏に()みついてたりするのよねぇ」

「こ、ここにですか!?」

 困ったように口にする言葉に、驚愕する。

「夜になって、がたがたうるさかったりしなかった?」

「ええと……家鳴(やな)りだと思ってたんですが、あれが……?」

 咲千の言葉に、それそれ、と頷いた。

「いや、でも、設楽先輩からそんなこと全然聞いてなくて」

「ああ、設楽さんは、何ていうか、鈍いっていうか強いっていうか」

「……判ります……」

 はっきりしない形容に、しかし咲千は深く納得した。

「でも、このお守りは霊験あらたかだからね。身に着けておく限り、寄ってこないわよ」

「ありがとうございます。鞄につけておきますね」

 素直に礼を述べる咲千を、微笑ましそうに階下の住人は見つめる。

「それ、明からのプレゼントよ」

 そっと囁き、咄嗟に反応を返せない少女を一瞥する。

 どこか満足げに、じゃあまた明日、と言い置いて、星崎は帰っていった。

 何となく釈然としない気持ちで、盆を、ダイニングテーブルに運ぶ。

 白米。いんげんと油揚げの卵とじ。油揚げの中に、細かく切った野菜と鶏のミンチを詰めて煮しめたもの。わかめと油揚げのお味噌汁。

「……油揚げ安かったのかな……」

 小首を傾げ、そして小さく手を合わせると、咲千はいただきます、と呟いた。


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