103号室 星崎家 01
パタパタパタパタ。
カサカサカサカサ。
チチチ、チチ、チチチチ。
カタカタ。
キィ。キィキィ。
重い目蓋を大黒咲千がこじ開けたのは、朝の七時半を回った頃だった。
寝室の窓からは、遮光カーテンに遮られて直射日光は入ってこない。
ゆるゆると立ち上がり、引き戸を開いて隣の部屋へ向かった。
そちらは真正面にキッチン。壁際に、小さな机と椅子が二脚置いている。
全体的に、整理整頓されて、綺麗なものだ。
咲千がこのアパート、〈裏野ハイツ〉に引っ越してきて、初めての朝である。
アルバイトは、今日まで休みを貰っている。
想定外の何かが起こるかもしれないと思ったこと、そしてアパート周辺のことを知るための予備日だ。
「うん、まずは駅まで行ってみよう」
念入りにドアに鍵をかける。
これが、自分の城の鍵だ。
何となく嬉しくて、小さく笑う。
よし、と気合を入れ、すぐ目の前の階段に向き直ると。
その、降り切った先にいた子供が、じっとこちらを見上げてきていた。
「お……おはよう」
見られていた。
さほどおかしな行動は取っていなかったと思うが、不意に湧き上がった気恥ずかしさを隠すように、声をかける。
が、幼い子供は無言のまま動かない。
おそらくまだ小学校には通っていまい。Tシャツに半ズボンをはき、背中に小さなリュックサックを背負い、野球帽の下から短い黒髪を覗かせ、朝日をまっすぐに浴びて立っている。
「あの……?」
「お姉ちゃん」
再び声をかけようとした矢先に、ぶっきらぼうに遮られた。
「ぼくが、見えるの?」
降りようとしていた脚が、思わず竦んだ瞬間。
「何やってるの?」
真下から、更なる声が響いた。
黒髪を上品に一つに纏めた三十代の女性が、廊下の下から姿を見せる。
「あら、大黒さん。おはようございます」
「お、おはようございます、星崎さん」
すぐにこちらに気づき、丁寧に頭を下げられて、咲千も慌ててそれに倣った。
「今日も暑いですねぇ」
「そうですね」
空を見上げ、困ったように笑むと、下階に住む女性は日傘を開いた。
「ほら、ちゃんと挨拶したの?」
少年を見ては、そう促す。彼は無言でぺこりと頭を下げると、たっと小走りに門へと向かった。
「これ! すみません」
「いいえ」
待ちなさい、と声をかけながら、母親も門を抜けていく。
ちょっと呆気に取られながらも、二人の後姿を見送る。
「……だって、ずっと静かだったのに……」
子供の声が街路から漏れ聞こえてきて、肩を落とした。
「うるさかったのかな……」
物心ついて以来マンション住まいだった咲千は、必要以上に生活音を出さないように育ってきている。
だが、木造の建物に住むのは初めてだ。
思いもしない物音が響くのかもしれない。
そういえば、夜中、色々な音がしていて自分も寝つきが悪かったのだ。
「あれが家鳴りってやつかな」
小首を傾げて呟く。
気持ちを入れ替えて、咲千は鉄製の階段をできる限り静かに降りた。
スマートフォンの地図アプリを起動し、時折視線を落としながら進む。
駅に行く途中に、コンビニエンスストアを見つけた。
口座を持っている銀行は、駅の裏側に支店がある。
新しい家に近い方には郵便局があって、生活費の入金をこちらにしてもらったらよかったかな、と眉を寄せる。
どのみち、アルバイトの給料は銀行に入るのだが。
少し大きめのスーパーは、結構遠い。自転車で、休日に行くようにするしかないだろう。
子供連れの主婦が殆どを占めるカフェの中で、アイスティーに差しこんだストローをくるくる回す。
新しい生活、一人暮らしのわくわく感に、少しばかりの不安はかき消されていった。
夕方になった頃に、咲千は家路についていた。
八月に入ったばかりの空には、まだ夕暮れの藍色は広がっていない。
相変わらず強い日差しは日傘によってさえぎられてはいるが、空気の熱は防げず、咲千は片手で額を拭った。
遠くで、犬の吠える声がする。
自宅の方角だ。
何となく、周囲を見渡す。
犬の声の聞こえる位置が、移動している。
しかも、結構早い。
眉を寄せ、咲千は手にしているスマートフォンを起動させた。
声が出ない。
上手く、息を吸うことができない。
背後から追い立ててくる相手の、足音が、怒声が、息遣いまでが無慈悲に希望を削り取る。
びりびりと、総毛立つほどの恐怖。
「ひゃ……っ!」
ふらついた足が、小さな段差につまづく。
どさ、と熱いアスファルトに、掌と膝をついた。
ざらついた感触が、焦燥を煽る。
立ち上がらなくちゃ。
逃げなくちゃ。
「あ」
一秒ごとに、近づいてくる。
あれが。
追いつかれてしまう。
あれに。
「うあ、あ」
必死に、顔を上げたその時に。
「止まれっ!!」
大声と共に、横道から何かが躍り出た。
視界に、ぶわ、と白いものが広がった。
それがロングスカートだと気づくのには、少しかかる。
彼女は、うずくまる子供と追うものとの間に陣取ると、だん、と足を広げて仁王立ちし、そして広げた日傘をぶん、と振った。
襲撃者へ向けて、盾のように。
警戒するように、あれは足を止める。
短い、荒い息遣い。
威嚇するような、唸り声。
焦れたように、一声吼えた瞬間に。
「あぁ?」
低い、脅すような声が、響いた。
その後数秒間、唸り声は続いたものの、やがて興味をなくしたように、あれはくるりと背を向けて立ち去っていった。
はぁ、と肩を落とす。
犬の吠える声を頼りに、この辺りの路地を行ったりきたりしていたのだ。
それは、何かを追いかけているかのようだったから。
笑みを浮かべて、振り返る。
「怪我、してない?」
咲千の階下に住む子供は、目に涙を溜めて、呆然としてこちらを見上げていた。
「大丈夫? きみ」
目の前に膝をつき、声をかける。
「う……うん、だいじょうぶ」
ごし、と慌てて両目を拭って、少年は頷いた。
「びっくりしたねぇ」
あえて明るく、そう声をかける。
「お姉ちゃん、強いんだね」
気まずげに顔を伏せて、しかしすぐに、ちらりとこちらの様子を伺うように視線を向けてきた。
「ううん、そうでもないわよ。動物は、身体がおっきい相手は苦手なの。私はスカートも長かったし、日傘も持ってたから、怖がったのね」
先ほど彼を追いかけていたのが中型犬だったのが、幸いでもあった。
実際、大型犬だったら無理だったかもしれない。
「それに、犬は、群れで生きる動物だから。自分の方が、犬よりも立場が上なんだ、って態度を取ったら、結構すぐに降参してくるものよ」
あっさりと、ちょっとばかり物騒な説明も付け加える。
まだ幼い少年は、まだ理解できないような表情だったが。
「さ。おうち、帰ろうか」
差し伸べられた白い手に、おずおずと掴まって立ち上がる程度には、まだ彼のダメージは深かった。
「あきら」
手を繋いで道を歩く間に、ぽつりと少年が呟く。
「なぁに?」
「僕の名前。明」
「明くんかぁ。改めてよろしくね!」
にこにこと笑んで、咲千は明を見下ろした。
「うん。……次は」
言いかけて、ぎゅ、と、繋ぐ手に力がこめられる。
「これからは、僕がまもるから」
……ええと、それは。
数秒間、色々と心の中で思いが巡っていたが。
「うん。ありがとうね」
咲千は、無難にそう返した。
パタパタパタパタ。
カサカサカサカサ。
チチチ、チチ、チチチチ。
チィ、コイツ、チチチ、コイツナラ。
パタパタパタパタパタ。
キィキィ、クエル、クエル。キキ、キィ。
カタカタ。カタパタ。
カサカサ、カサカサ。