202号室
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「何とかならないの?」
星崎が気遣わしげに尋ねている。
『封じの札が手に入れば、何とか。だけど、本物を頼むと、下手したら一年かかる』
「一年!?」
102号室の住人の言葉に、声を裏返らせた。
『手順を短縮しても、数ヶ月だ。代替品があればいいんだが、流石に予備なんて用意してない』
「そもそも、そんなに時間もないんだろう?」
玄関から顔を出したのは、星崎家の大黒柱だ。
「あなた……」
『直さん、部屋から出ないでって言ったのに!』
不服そうな声に、肩を竦める。
「大事な奥さんと息子だけに頼る訳にもいかないでしょ。それに、見たところ、柿瀬さんのところが結構大変だよ」
「柿瀬……さん」
何とか、声が出る。
その場の視線が、咲千に集中した。
「無理しちゃ駄目よ」
優しく、星崎は告げる。じっと見つめてくる明は涙目だ。
「もう大丈夫です。……ゆらゆらするけど」
しかし、それは、この地震ではない揺れのせいだ。
両手を床について、上体を起こした。
「一体何が問題になってるんですか?」
周囲の目が、僅かに驚いたものに変わる。
「状況説明ではなく、対処法を訊くか」
楽しげに笑いながら、金髪の青年が呟いた。
『ええと……。木で作った、ヒトガタって札が壊れてしまったんだ。それがないと、この裏野ハイツを閉鎖しないといけないような事態になる。だが、新しいものを手に入れるのに時間がかかってね』
少々戸惑った声が、しかし簡潔に纏めてきた。
「木、ですか?」
「板でいいなら、その辺の壁をひっぺがせばよかろうに」
嘲るような口調で、独り、他人事という風情の青年が続ける。
『そんなことやったら被害が増えるばっかだろ! お前だって面倒なことになるんだから、建設的な意見がないなら黙ってろ!』
苛々と怒声を浴びせられて、101号室の同居人は憮然として口をつぐんだ。
「その、壊れたものって、どんなものなんです?」
母子と、そしてもう一人の青年が、揃って視線を動かした。咲千と、直と呼ばれた星崎家当主が、それを追う。
それは、ダイニングの床に無造作に転がっていた。
幅が十五センチほどの、木の板だ。厚みは一センチというところか。長さは、これも十五センチ程度だが、一方の端が折れた形跡がある。完全な方形ではなく、途中に三角形の欠け込みがあった。墨で何か書かれていたが、全体的に薄汚れていて、判別できない。
そう、これは、あの大蛇が咥えていたものだ。
記憶が蘇って、僅かに顔が青ざめる。
だが、すぐに咲千は口を開いた。
「……板があったら、これを新しく作れるんですか?」
『一時的に凌ぐ分なら、何とかなる。ちゃんとしたものは、本職に作ってもらわないといけないけど、それまでは保たせられるだろう』
「問題は、板がない、ということだがな」
青年が口を開かなかったのはほんの数分で、皮肉げな言葉はすぐに復活した。
「板なら、あります」
奥の六畳間へ入り、半畳のクローゼットを開く。
段ボール箱を一つ二つ持ち出し、中から取り出したのは。
『どれぐらいの大きさだ、直さん?』
急いた口調で、尋ねられる。
流石に、咲千の部屋にまではカメラは仕掛けられてないらしい。
「縦横三十センチの長方形は取れそうだよ。厚みは、ちょっと薄いかな」
「八ミリの板です。それから、糸鋸が一応あります」
ダイニングに持ち出して、床に新聞紙を敷く。
「あとは錐とヤスリと紙やすりと」
「何でそんなに色々揃ってるの?」
少し驚いた顔で、星崎が尋ねた。
「課題で模型を作ったときの残りです。スチレンボードなら、もっと大きいのもあるんですけど」
『スチレン……?』
おぼつかない声が数秒途切れたのは、検索でもしたのだろうか。
『いやいやいや、無理! それ無理! 木の板でお願い!』
スチレンボードとは、ポリスチレンフォーム、気泡の入っていない発泡スチロールのようなものを薄い板状にし、それにケント紙を貼りつけてあるものだ。模型を作るのは、本当はこちらの方が楽である。切りやすく貼りやすく、そして白い。
『直さん、スマホに大体の形送るから。見て』
その言葉の直後に、軽い電子音が鳴る。
スラックスの後ろポケットから取り出したスマートフォンを操作し、咲千へ示してきた。周囲から、彼の家族も覗きこむ。
マウスで手早く描いたのだろう図解が表示されている。直線が歪み、文字は見にくかったが、一応意図は読み取れる。
それは、長さ三十センチ、幅十五センチの形状をしていた。ところどころ、三角形に切り落とす指示があり、それが頭の丸みや肩、手、脚などを端的に表している。
「よし、じゃあ私が切るよ」
金差しに手を延ばして、直が言う。
「え、いえ、私がします」
「無理しないで。まだ、手が震えてるじゃないか。これでも結構、手先は器用なんだよ」
「そうよ、無理しちゃ駄目よ」
夫婦に止められて、肩を落とす。
「あ、じゃあ、私、柿瀬さんの様子を見に行ってきますね」
『駄目だ。家の中から外に出ないで』
しかし、その提案も、百兄にきっぱりと止められた。
「でも、先刻、大変なことになってるって」
気が急いて、そう言い募る。
『大丈夫。家の中にいれば、しばらくは問題ない。そもそも、柿瀬さんのところは、この手の案件には滅法強いひとがついてるからね』
結局、直の作業は明も手伝った。
親子二人で板を押さえ、糸鋸で切り落としていく姿は、このような事態でなければ微笑ましい。
やきもきしていたが、三十分ほど経って、ようやく満足いく形になったらしい。
「これで、いいんですか?」
終わってみれば呆気なくて、そう尋ねる。
『まさか。そのままだと、それはただの板だ。意図を、魂を入れなくては、役に立たない。本当は、本職に作って貰うべきなのがその理由だよ』
だが、それはできないと言っていた。
「じゃあ、一体どうすれば」
困惑して、呟く。
『簡易的なものなら、今でもできる。ただ』
迷うように、彼は言葉を切った。
『それを、202号室の前まで持っていかなくちゃいけない』
「判りました、行ってきます」
あっさりと咲千が立ち上がると、慌てて明と星崎が両側からその手を掴んだ。
「だめだめだめだめ!」
「明くん?」
必死に声を上げるのを、不思議そうに見る。
『大黒さんは無理だ。多少回復したとはいえ、今の状態で外には出せない。でしょう、葉子さん』
「ええ。無理よ」
きっぱりと星崎が同意した。
「大げさですよ。もう大丈夫です」
『あんな異形に生気を吸われた直後に、こんな空気の中に出て行ける訳がない』
「空気?」
要領を得ない咲千に、相手は大きく溜息をついた。
『玄関から外を見てごらん。ちょっとでも、身体を外に出しちゃ駄目だからね』
首を捻りながら、玄関へと進む。
確かにちょっとふらふらするな、と思いながら、扉を開けた。
そこは。
「……っ!」
奇妙な、暗いもやに包まれていた。
見通せるのは、門扉のある辺りまで。その向こう側は、ぼんやりと判然としない。
暗いもやには濃淡があり、まるで奇妙な雲のように漂い、次々に形を変えていく。人のような、獣のような、鳥のような。何かよく判らないものが殆どだが。
色もさまざまで、赤みがかっているもの、濃紺のもの、深い紫のものなどがあるようだ。
「な……なん、ですかこれ」
『ヒトの身体には有害なものだ。今、この裏野ハイツの屋内は正常値に保っている。逆に、裏野ハイツの敷地外に流れ出さないように止めてもいる。だから、部屋の外はちょっと規格外に濃度が高いんだよ』
「よく判りません……」
説明になっていない説明に、困惑する。
『ニートは行けそう?』
「無理を言うな。屋敷の中であれば日光も怖くはないが、外はまだ明るい。俺が灰化しても構わんのか?」
水を向けられて、憮然として金髪の青年は言い返した。
『だろうねぇ』
さほど期待していない、という風に、呟かれる。
「じゃあ私が行こうか」
肩を竦め、父親が言う。
『駄目だよ、直さん。先刻よりも濃くなってる。本気で生死に関わりかねないんだ』
「私は……?」
『葉子さんも駄目。持って帰ってくる時、多分、かなり痛みがあると思う。封じの札は、ヒト以外には持てない。女性に、そんなことをお願いできないよ』
「ヒトは外に出られない。ヒトでないものには、持ってこられない。もう手段はないのではないか?」
皮肉げに告げられて、沈黙が満ちる。
そして。
「僕が行く」
幼い身体が、立ち上がった。
「明!」
「駄目だ、お前が行くなら私が」
「明くん!」
口々に止めるが、しかし、彼は首を振る。
「僕は半分ヒトで、半分そうじゃない。202号室は隣の部屋で、すぐに行き来できる。手に持ってる時間なんて、一分もないよ」
その小さな手には、既に先ほど作ったヒトガタが握られている。
「だけど……」
葉子は泣き出しそうな表情で、父親を見上げていた。
「……他に、手段は」
『それ以上に勝率が高い方法は、今のところない。正直、上昇率が予想以上だ。このまま放っておいたら、じきに誰も外には出られなくなるよ』
百兄の声も、心なしか、重い。
ふぅ、と小さく溜息が漏れた。
「俺が、直接隣家へ出むけばよかろう。招待を送れ」
脚を組み替えて、そう命令したのは。
「…………ニート」
信じられない、という表情で、明が呟く。
あからさまに、青年はそっぽを向いた。
『それも駄目だ。じい様は部屋の中へは誰も入れない』
しかし更に拒絶が返ってくる。
それには嘲りの言葉も発せず、ただ、形のいい眉を寄せるだけだ。
「……ありがとう、みんな。大丈夫、行ってきます」
何故か嬉しそうに笑んで、明が足を進める。
「辛かったら、こっちに投げなさい。それを受け止めるぐらい、お父さんがやってやる」
悲壮な顔で、直が息子に告げる。
うん、と頷いて、明は廊下に出た。
ふわり、と髪の毛が揺れる。
金色になっていたそれは、一部がぴんと立っていた。
そして、半ズボンの間から、一掴みもありそうな、太いふわふわの尻尾が現れる。
「…………え?」
一瞬、思考停止した咲千に笑いかけて、明は軽々と階段を降りていく。
そして隣の部屋へ通じる階段へと辿りつき、かんかんと音を立てながら登った。
扉の前に着くと、明は廊下に膝をついて座った。
自分と扉の間に、ヒトガタを置く。
「おねがいします」
頭を下げた、その視線の先で、ヒトガタの胴体部分に、墨跡鮮やかに文字が描かれる。
ほんの数秒でそれは終わる。
もういいのか、と判断できるまで、一分ほど待ってから、明はヒトガタに手を延ばした。
「……いたっ!」
瞬間、指先に走った痛みに悲鳴をあげ、反射的に手を離す。
「明!」
203号室で両親が大声で呼んだ。
「大丈夫!」
歯を食いしばり、震える手で、再度ヒトガタを握りこむ。じり、と、焼けるような痛みが掌を襲う。
明はもう一方の手で、廊下の手摺を掴むと、とん、と、その細いパイプの上に乗った。
軽く膝をたわめて、跳ぶ。
ずだん、と、音を立てて、一瞬の後には彼は203号室の玄関前にいた。
廊下と廊下の間の空間は、三メートルほど。助走もなく、こんな幼い子供が跳べる距離では、ない。
その明は、慌てて開いたままの玄関の中に飛びこむと、床にヒトガタを落とす。
「何て無茶を……!」
葉子がその小さな身体を抱きかかえた。
「大丈夫だよ。すぐに離したから」
それでも安堵したように、明は母親に身を任せている。
直が、無言で金色の髪を撫でた。
『上手くいった?』
「の、ようだ」
ふぅ、と、口々に吐息が漏れた。
『よし、じゃあ、それを一旦戻そう。封をしないと。キッチンのシンク下を開けてくれる?』
視線が、家主に向かう。
あの扉から、蛇が出てきたのだ。咲千は、頬を引きつらせた。
「あ、開けるんですか?」
『大丈夫、もう何もいないから』
「何で判るんですかー! 一匹いたんだから、三十匹いるかもしれないじゃないですか!」
「まだいたら、今度は僕がやっつけるよ!」
しり込みする咲千の傍で、明が勢いづく。
「ううううう」
流石にこんな小さな子供に発破をかけられて、駄々はこねられない。観念して、そっと、扉を開いた。
『お風呂場側の壁、棚の下辺りに、隙間ないかな』
「隙間……。一ミリ程度ですけど」
『うん、それ。引っ張り上げて』
「爪が折れますよ!」
一旦シンクへ突っこんでいた頭を出すと、先ほど木工をやっていた時に使用した金差しを手に取った。
僅かな隙間にそれを滑りこませると、てこの原理で持ち上げようとする。
数度、外れてしまったが、何とか成功した。
十五センチ四方ほどの壁が、スライドする。
その奥は、ぼんやりと薄暗い空間だった。
埃や黴の匂いが漂ってくる。
目を凝らすと、縦方向へパイプが通っているのも目視できる。パイプスペースとしても使われてはいたようだ。
清潔な布に、と言われ、木綿のハンカチに包まれたヒトガタを、そっと中へと納める。
かたん、と、隠し扉が閉まると、ずっとゆらゆらと揺れていた世界が、ゆっくりと動きを止めていった。