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203号室 空室(暫定)

「なに、こ、れ」

 上手く息を吸うことができない。

 浅い、追い詰められた呼吸音だけが、耳に残る。

 じっとりと滲む汗が、その先からどんどんと冷えていく。

 静かな、月の光だけが差しこむその道の奥で。


「だから、言ったじゃない」


 驚愕に見開いた視線の先で、そう、断じたのは。









 大黒(おおぐろ)()()の人生が大きく変わったのは、七月下旬。大学二年の前期試験が終わった次の日のことだった。


 試験前日まで、一夜漬けに近い勉強量をこなし、最後の試験が終了した後で友人たちと打ち上げに行った彼女は、翌日の昼近くになってようやく目を覚ました。

 生欠伸を片手で隠しながらリビングに入ると、母親が非難がましい視線を向けてくる。

「もう、だらしないわね。夏休みになったからって、いつまでもだらだらしていないの」

「いいじゃない。やっと試験終わったんだもの」

 軽く唇を尖らせて、隣のキッチンへと向かう。冷蔵庫には冷えたスポーツドリンクが入っていた。

 冷蔵庫の前で、立ったまま、腰に手を当ててペットボトルを呷る。

「ちゃんと座って、コップに注いで飲みなさい」

 後ろからついてきた母親が、更に呆れ顔で苦言を呈す。

「うちでお母さんしかいないのに、とりつくろっても仕方ないでしょ」

 その返事に、ふぅ、と溜息が漏れた。

「全く、こんなことで一人暮らしとかできるのかしら」

「一人……え?」

 思いがけない言葉に、きょとんと振り返る。

 はっとした顔で、母親は見返してきた。

「あら、いやだ。これは、お父さんが帰ってきたら話すつもりだったんだわ」

「……何の話よ?」

 物凄く嫌な予感がして、咲千は呟いた。


 その後、脅し(すか)し泣き落としと手を替え品を替え、ようやく母親から仔細を聞きだすことに成功した。

「あのね、お父さんが、八月から海外勤務になることになったの」

「……え?」

 困ったような顔で告げられて、ただ問い返すことしかできない。

「お引越しとか手続きが色々あるから、八月に入ったらここを引き払わないといけないの。ほら、このお部屋、会社の借り上げだから」

「って、もうすぐじゃない!」

 今は七月の下旬。早ければ、もう十日もない。

「ていうか、お母さんは? あたしはどうするの?」

「お母さんはついていくわよ。これでも英文科卒業なんだから、海外でも大丈夫」

 文系の根拠のない自信に満ちて言い切る母親に、少々脱力する。

「咲千は大学生だもの。ついていく訳にはいかないでしょ? 中学生ぐらいならまだしも」

「それは……そうだけど」

「だから、マンションでも探して、一人暮らしをして貰おうって」

「無理よ、無理!」

 恐れていた提案に、悲鳴を上げた。

「できるわよ。もう二十歳なんだし、アルバイトもしてるでしょ。勿論、ちゃんと生活費も入れるわ。海外勤務だとお手当てが結構つくのよね」

 ほわほわという形容詞がつくような笑みを浮かべて、断言される。

「っ、そうだけどそうじゃなくて! こんな時期に、そんな短期間で部屋なんて見つかるわけがないでしょ!」



 学生向きの部屋などは、基本的に、二月三月までにはほぼ全て埋まっていると思っていい。

 その後、少しばかり空きが出ることもあるが、即座に誰かが掻っ攫っていくものだ。

 今までに全く伝手も作らず、準備もしていない咲千が、少しでも利便のいい部屋を探すことなど、正直不可能に近かった。






「どうしてもっと早く話してくれなかったのかな……」

 衝撃の告白から数日後の晩、咲千は自分の部屋で、小さく呟いた。

 前期試験が終わるまでは不安にさせたくない、という両親の心遣いだったらしいが、裏目に出すぎている。

 急いで学校の仲介も頼んでいたし、近隣の不動産屋も覗いてみた。下宿している友人にも探して貰っている。

 だが、予算や大学への通学経路などの条件がどうしても合わない。


 うう、と低く呻いていると、充電コードに刺していたスマートフォンが、小さく震えた。


 通信アプリで、誰かから話しかけられたのだ。

 手を延ばし、画面をタップする。



<久しぶり。今いい?)



 吹き出しに書かれていた短い文字と、差出人の名前に戸惑う。

設楽(したら)先輩……?」

 慌てて、返事を入力した。



(お久しぶりです。大丈夫ですよ>


<おお、よかった。元気?)



 親しげな口調に、微笑が浮かぶ。

 設楽は、大学で同じ学部の先輩だ。咲千が入学した年に、四回生だった。

 本来なら全く縁のなかった人なのだが、彼女たちの学部には、年に一度、一回生から四回生までを縦割りのグループにして行う課題があった。

 その時に、二人は同じグループになったのだ。

 女子学生の少ない学部だったこともあり、よく目をかけてもらっていた。

 設楽はその春には順当に卒業してしまったので、つき合いは一年もなかったのだが。

 どうして今、連絡が来たのだろうと少しばかり不審に思う。



<ちょっと聞いたんだけど、一人暮らしするんだって?)


(あ、はい。でも、この時期、なかなかいい物件がなくて>


<そっか。あのね、咲千ちゃんがよかったらなんだけど)


<私の部屋に住まないかな?)



「うぇえ!?」

 奇声をあげて、思わず姿勢を正す。

 設楽は尊敬する先輩だ。頼りがいがあって、実力もあって、リーダーシップも高い。

 憧れていたというのは、確かである。

 だが、しかし、それは、その。



<いや、私、来月から出向することになっちゃってさ)



 咲千の動揺など知りもせずに、設楽は会話を続けてきた。

 文字チャットなのだから、当たり前だが。



(出向?>


<お客さんのお手伝いに、向こうの会社に通ってお仕事するの。

 それが、結構遠いとこなのよ)


<なのに、住宅手当は一軒分しか出ないわけ。

 出向先で済む家と、今住んでる家と、両方維持しなくちゃいけないのに!)


(大変ですね……>



 会社の愚痴を漏らされて、学生の咲千はそれだけ同意するのが精一杯だった。



<それで、私が向こうに行ってる間、咲千ちゃんにこっちの家に住んで貰えたらいいなー……って、思ったんだけど)



 なるほど、合点がいった。



(ええと、ありがたいですけど、その>


<あ、詳しいこと話すね。最寄り駅は右輪(みぎわ)

 学校までは乗り換えなしで行ける。

 駅から徒歩五分。て言っても、不動産情報だから、本当は七分ぐらいね)


(それでも(えき)(ちか)ですね>



 今のところ、充分いい物件だ。



<ただ、木造二階建てで、ちょっと古いの。

 オートロックとかそういうセキュリティについては、いまひとつだから、そこが不安になるかも)


<私が住んで五年になるけど、危ないことは一度もなかったけどね)


(はい>


<九畳のDK(ダイニングキッチン)と、六畳間。

 収納は一畳の押入れと半畳のクローゼット。部屋はフローリングね)


<バストイレが別で、洗濯機も室内に置けるわ。

 ベランダは、実質室外機置き場だけみたいなものだから、洗濯物をちょっと干せるぐらい)


<家賃は、共益費込みで、月に四万三千円)


(安いですね!?>



 その、家賃の安さに驚愕する。

 この辺りは流石に都心というほど高くはないが、相場はワンルームで六万、付加価値がつけば八万ぐらいはいってしまう。



<古いからね)



 文章に続き、猫が苦笑しているイラストが送られてくる。



<私がこっちに戻れるのは、早くても一年は後になるの。それ以上に長くなることは充分あるわ)


<戻る前には連絡するけど、その時は出て行って貰う事になるんだけど)



 父親の海外赴任は、二年間だ。少々足りないが、前もって時期が判っていれば、出て行く前にまたいい物件を探すことができるだろう。



(お願いします>



 返事を送るが、しかし設楽は諸手を挙げて喜んだりはしなかった。



<ご両親にちゃんとお話してからね。一度、見に来ておいた方がいいだろうし)


<ただ、こっちも引越し準備とかあるから、そんなに待てないのよ)


(はい>


<悪いんだけど、明日には、一回連絡貰ってもいいかな?)


<実際見てから駄目ってなるのは、構わないから)


(そうしたら、先輩はどうされるんですか?>



 軽く告げられた言葉に、少し気がかりになって尋ねる。



<他に借りてくれる人もすぐには見つからないだろうし、まあ、遊ばせておくしかないのかもね)



 彼女の、困ったような、空元気の笑顔が、記憶から蘇った。


 両親を説得しよう。

 咲千は、静かに、そう決意した。


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