7.八神翔吾は美味しいらしい
預かった双眼鏡の向こうは、ただひたすらに灰色だった。
ニーベルゲンの北東。翔吾がラシーダから譲り受けた地図によれば、クリムヒルト海という海に面した湾口地帯が、現在彼が立っている場所らしい。
鼻を撫でる潮風が、スンとしたいがらっぽさを翔吾にもたらす。
天候は曇天。鉛色の空は重く、見るものをどんよりとさせるかのようだが、生憎翔吾の心中は、そんな感情とは真逆だった。
固唾を呑みながら、その瞬間を待ちわびる。クリスマスプレゼントを開ける前の子どものように、双眼鏡を覗く翔吾の目は輝いていた。
「――来た」
震え声が、自然と漏れる。
陰鬱とした世界を切り裂くようにして、真白色の陽光を浴びながら、巨大な幻想が姿を現した。
ドラゴンだ。
「うぉおおおお!!」
『騒がないで。〝幻覚のアミュレット〟は身に付けてる? 向こうから姿は見えなくとも声は聞こえるのよ? ドラゴンの晩御飯になりたいの?』
耳に取り付けた、イヤーフックのような装身具が振動した。同時に、頭の中に直接響くようにして、咎めるような声がする。だが、そんなものは気にせずに、「今はお昼だバカ野郎!」何て酷い言葉が漏れる。
テンションがおかしくなっていた。もっとも、翔吾にとっては最近は平常運転になりつつある。
『ドラゴンが現れたのね。特徴は?』
「鱗は紫。鼻先に小さな角が見えたな。目は赤だ。ついさっき雲の中から現れて、海にダイブしていったよ。アンタの言った通りだな」
早口で翔吾が状況を説明すると、イヤーフックの向こうで少女はクスクス笑っている。
「じゃあ、そのまま観察を続けて。多分、凄いのが見れるわよ」
どこか誇らしげな少女の言葉に、翔吾の期待は否応なしに高まった。
現在の翔吾の格好は、ゾンビ映画のモブキャラスタイル。それに加えて、身に付けるものに、微妙な変化があった。
虹色に輝く、蜻蛉玉のようなペンダントトップと、耳に付けた銀色の三日月を模したイヤーフック。そして……。首に嵌められた、無骨なデザインの首輪だった。
それが異世界に来てから翔吾が譲り受けた、最初の道具――。魔力なる特殊な力を帯びたもの。即ち魔法具だった。
蜻蛉玉は、〝幻覚のアミュレット〟
身に付けた存在の半径数メートルを、特定の対象から不可視にするもの。
ドラゴンに襲われないようにするものらしい。もっとも、匂いまでは隠せないらしいが、ドラゴンは匂いだけに反応するという事は殆どないので、大半はこれでやり過ごせるとのことらしい。
イヤーフックの方は、〝魔導中継機〟
なんでも、特定の魔法を刻印するものだというが、素人な翔吾には詳しいことはよく分からない。取り敢えず、現代でいう携帯端末のようなものだろう。と、翔吾は勝手に納得していた。
テレパシー? 何て聞いた時の、少女の戸惑った顔が思い浮かぶ。
これが住む世界が違うという事なのだろうか。
「念話……とでも呼ぶか」
『何の話?』
「失礼。何でもないよ」
『……? そう。分かったわ。あ、今そっちに向かってるから。後程合流しましょう』
「ラジャー」
念話を中断し、再び双眼鏡の先に集中する。海は変わらず、潮騒だけを響かせながら、静かに波打っていた。
翔吾にとっては異世界の海も初めてだった。
ここに来てから、初めての連続である。
首輪の方は、今のところ出番はない。……効力が効力だけに、無いことを祈るばかりである。
「……夢みたいだ」
思わずそんな声が漏れる。
異世界に来て、はや三日。翔吾の中に今あるのは、帰れないという絶望よりも、押さえきれぬ高揚感だった。
色々あった結果、まさか自分が異世界で働く事になろうとは……。
人生とは分からぬものであるなどと、翔吾はたった十七年しか生きていない分際で感慨に浸ってしまう。
事のきっかけは、昨晩の何気ない翔吾の一言に由来した。
※
「そういえば、帰る方法ってあるのか?」
ホエールウォッチングならぬ、ドラゴンウォッチングを経て。興奮も覚めぬままに部屋に戻った翔吾は、何の気なしにラシーダに問う。今更ながら、一応聞いた方がいいと感じたからこそ出た言葉だったが、それに対して帰って来た返事は予想だにしないものだった。
「……その、凄く言いにくいんだけど、未だに信じられない事に貴方が事故でここへ来たのだとしたら……帰れる可能性は限りなくゼロよ」
「……へ?」
ポカンとした顔になった翔吾にラシーダは歯切れ悪くもゆっくりと話し始めた。
「世界を渡る方法は特殊なの。それは、大きく分けて二つ。世界をある程度自由に渡る方法と、完全にランダムで、世界を渡る方法。このニーベルゲンには両方あるけど……。私は貴方のいた世界を知らないから、行く事は出来ない」
言っている意味を十全把握する事は叶わなかった。
が、ニュアンスからして伝わる事は一つ。
「それは……運任せでしか、帰れない……って事か?」
「そうね。ちなみに、現在確認されている世界は、二千弱。他にも未確認な世界がある事も考えられるわ。加えて、世界を渡る方法は、そんなに連続でポンポン使える代物ではない……」
「……oh」
思わず頭を抱える翔吾。気まずい沈黙と、何とも言えない空気がが場を支配する。
無言の時間は暫く続く。所在なさげに佇むラシーダと、何やら思案する翔吾は、帰って来た玄関で視線を合わせずに向かい合っていた。
やがて……沈黙を破ったのは翔吾の方だった。
帰れない。帰れたとしても、その確率は限りなく低い。
その事実を突きつけられてから、翔吾は己の中で出した結論を固め、真剣な表情でその言葉を口にした。
「……助けてくれ」
恥も外聞もなく、翔吾は目の前の少女に頼みこんだ。
ラシーダはというと、その言葉は予想外だったと言うかのように、目を丸くしていた。
「えっと……何を?」
首を傾げる少女に、翔吾は色々とさ。と、付け足す。
「俺への疑いは……今どんな感じ?」
「……限りなく白に近いグレーよ」
その返答を聞いた翔吾は、ありがとう。と短く礼を言い、翔吾は話を続ける。
「じゃあ、その答えを聞いた上で頼みたい。アンタからしたら俺の存在自体が問題なんだろうけど……生憎俺も切実な問題を抱えている。生活とか生活とか生活とか」
前も自分で言った事だが、宿無し、文無し、当て無し、職なし、加えて土地勘もないときた。色々と極限である。
屋敷の窓越しに外を見る。元いた世界のように街灯など存在しないそこは、当然ながら真っ暗闇だった。
「ご覧の通り、俺には何もない。明日生きるのも難しい。すがれるのはアンタだけだ」
「……私が、貴方達を助けるメリットが見当たらないわ」
取りつく島もないラシーダの言葉に、翔吾はうっ……と、息をつまらせる。
取引も駆け引きもない、純粋なお願いだった。故に、そう返されると、翔吾はぐうの音も出ない。
ノープランで頼んだのだから仕方がないとはいえ、ここで引く事は許されない。明日の生きる為にも、交渉を止めるわけにはいかなかった。ここで野垂れ死にだけは御免だった。
「ろ、労働力位には……アンタも生きている以上、何か生業にしてるんだろう?」
苦しげな声になる翔吾をラシーダは黙って見つめている。
「そ、それに、アンタ悪い奴じゃない……気がする。最初不本意かもしれないけど俺を助けてくれたし。何だかんだ世界の案内もしてくれたし……」
「助けたのは、何が起きているのかを知る為よ。貴方が何らかの力を隠し持っていて、この世界に危害を加えないとも限らない。案内したのは分からなかったから保留にしたのもあるけど、貴方が本当に何もないか、改めて確認するため。……一応私も貴方に粗相した罪滅ぼしもあるけど」
どこまでもクールに言い放つラシーダに、翔吾は頬を掻く。
「大体、貴方も貴方よ。助けられたにしても、一応出会って一晩と一日よ? 掛け値なしに信用できるもの?」
「それは……なんというか……」
歯切れの悪い翔吾に、少女は少し苛立つように腕を組む。
言うべきか言わないべきか。翔吾は多少迷いながらも、怒るなよ? と、釘を刺しつつ、ゆっくりと口を開く。
「アンタから……俺と同じ匂いを感じたんだ。ドラゴンの解説、俺は楽しかったし、解説するアンタも楽しそうに見えたんだ。俺は生きる上で、異世界について知らなきゃいけない。だから、異世界の事を教えて貰うなら……アンタがいい」
説得するつもりが、いつの間にか願望にすり変わっていた。だが、放った言葉は戻ることはない。
パチパチと目をしばたかせるラシーダに、翔吾は半ばヤケクソ気味に気持ちをぶつけた。
「持論だけど、ドラゴンが好きな奴に、悪い奴はいねぇ。だから、アンタも助けてくれるんじゃないかって、思ってしまって……」
「持論って言えば聞こえはいいけど、貴方のそれは暴論というのよ」
最後は目すら泳がせる翔吾に、ラシーダは痛烈な皮肉を返す。これには翔吾も顔をひきつらせるしかなかった。
だが……そんな中でラシーダは、氷のような無表情を少しだけ綻ばせた。
「でも、いいわねその暴論。私は嫌いではないわ」
頷きながら腕を解き、静かに人差し指を立てるラシーダ。意図が読めず翔吾が首を傾げていると、艶やかな唇が静かに言葉を紡いだ。
「アリスピア=ショートスケイル種」
不意に出された単語に面食らう翔吾。だが、ラシーダの答えて。といった顔に頬を掻きながらも、ついさっき聞いた知識を引っ張り出す。
「えっと……きめ細かい鱗が特徴。主に泉の傍を好むドラゴンだっけか?」
「正解よ。じゃあ、第二問」
指をもう一本立てながら、ラシーダの質問は続く。
「崖上などに営巣する母性に溢れたドラゴンで、自分の子以外にも、色々な動物の雛を誘拐しては育ててしまう種は?」
「あ~……ロッキー=ブラッドマザー種だ」
「レオンハルトの種族名と特徴を」
「……グラスフィールド=チークフィン種。主に草原地帯に生息するドラゴン。獲物と草を同時に食べる」
何とか答える翔吾をじっと見つめてから、ラシーダは静かに合格よ。と呟いた。
「ちゃんと覚えてね。ここで働く以上、知識は必要だから。竜の守り手――。〝ドラゴン・キーパー〟たる、私の助手として……ね」
〝ドラゴン・キーパー〟素敵な単語に目を白黒させつつも、翔吾は暫く固まったまま動けなかった。
取り敢えず、就職が決まった瞬間に歓喜の叫びを上げたのは言うまでもない。
もちろん、グレーな立場ゆえに条件は付けられたが、それは大して気にならなかった。
信用を示せばその条件は取り下げる。そういう約束のもと、翔吾は〝首輪〟を受け入れたのだ。
※
そんなこんなで、今に至る。
ラシーダに命じられたのは、共にドラゴンの生態調査に赴く事。一応これは翔吾の監視という側面も含んでいるが、ともかく有り体にいえば、ドラゴン達が異常なく平和に暮らしているかの確認だった。
暫定的に分けられているドラゴンの生息地を手分けして見回る作業。ラシーダ曰く、意外と重要な仕事らしい。が、翔吾にはそんな理屈云々はやはりどうでもよく……。
「う、う、う……うおぉおおお!」
叫びをあげる翔吾の視界で、海水が天に昇る。
海面を突き破るようにして空中に身を踊らせたのは、巨大な鯨――。それを組みつくようにして連れ去る、ドラゴンの姿だった。
「グォオオオォオオ!」
「うぉおおおぉおお!」
喜びの咆哮をあげる、翔吾とドラゴン。
両者は距離にして、百メートル以上は離れている。にもかかわらず、ドラゴンの声は翔吾まで届く。対する翔吾の声は、ドラゴンに聞こえているか、怪しい所だ。
だが、翔吾はそれでもよかった。同じ世界にて、間違いなく翔吾とドラゴンは、同時に吠えていた。それは、全能感にも似た、奇妙な一体感をもたらして……。
「……アメジスト・ダイビングヘッド種。海峡付近に生息するドラゴンね。頭の形が潜水に最適な形へと進化した事が、名前の由来よ。好物はご覧の通り鯨」
いつの間にか背後に少女が立っていた。
流れるような金砂の髪先が、潮風にたなびいている。
紆余曲折の末、翔吾の雇い主となった少女、ラシーダ・ドラグハートが。
「お疲れ様。私達もランチにしましょう」
バスケットを片手に、ラシーダは微笑んだ。
※
「異世界って……どんなからくりなんだ?」
遥か遠くの波打ち際で、鯨を捕食するドラゴンを眺めながら、翔吾はラシーダに質問する。双眼鏡を片手に、昼食のサンドイッチにかぶりつく。少し行儀は悪いが、咎める者はいなかった。
「どんなからくりかって言われても……」
ラシーダは口元に手を当て、考えるような素振りを見せる。
「世界がそこにあることを、説明するのは難しいわ。全ての世界には、その世界のルールがあって、空と大地があり、宇宙がある。世界は繋がってはいるけど、それぞれ自己完結し、独立しているの」
「……分かるような、分からんような」
頭を抱える翔吾に、「無理して理解する必要はないわよ」と、ラシーダは言う。そう言われても気になるんだよな。と、思いはしても翔吾は口にしない。
きっと、林檎は何で赤いの? と、聞くようなものなのだろう。 そう納得しながら、翔吾は地面に手を添える。沿岸近く故か、土はどこか乾燥しているように感じた。
「人工世界って言ってたよな? 世界って、そんなホイホイ作れるものなのか?」
「そんなわけないでしょう。全てを一から作るには、それこそ膨大すぎるエネルギーと、一生かかっても賄いきれない準備がいる。私が知る限りでも、世界は数あれど、人為的に作られたものは、このニーベルゲンを除けば、三つ位しか見たことがないわ」
何処か誇らしげに、ラシーダも地面を撫でる。
「……じゃあ、もしかしてお前の一族って、とんでもなく凄い一族なのか?」
確か一族が許可した人間しか入れないと言っていた事を思い出し、翔吾がワクワクしたように訪ねる。するとラシーダは、困ったような表情で、首を横に振った。
「一族と言っても、そんなに立派なものではないわ。事実、今は私しか残ってないんだもの」
そう言って、ラシーダはバスケットからサンドイッチをつまみ上げる。
小さな口が、サンドイッチの先っちょをちょびりとかじる。スクランブルエッグが唇につくのを嫌っているのだろうか。小動物的というか、クールな物腰とは真逆な意気地のない食べ方に、翔吾は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「凄いのは、私の祖先――。このニーベルゲンの創始者と、それに仕えた十の伝説のドラゴン達よ」
十の伝説のドラゴン。聞くだけで血が滾りそうなその響きに、翔吾は興奮ぎみに何度も頷く。
それをラシーダは眩しげに眺めながめてから、己の手を見る。白くしなやかな指先が、何かを求めるかのように動く。が、それが掴むのは、ただ虚空のみだった。
「創始者は、ドラゴンをこよなく愛していた。故に、保護区であり、秘境といえるこのニーベルゲンをつくった。ドラゴンは、強大な力を持っている。故に狩り殺され、絶滅する世界も少なくなかったと聞くわ。彼はそれを憂いたのよ」
「それで世界を作った? 十の伝説のドラゴン達と共に?」
ドラゴンLOVEの極みを、翔吾はそこに見た気がした。が、ラシーダの顔色はすぐれない。
「でも、世界を作った代償は大きかった。創始者は魔力を使い果たし、その子孫達の力も、極端に弱体化したの。『血脈魔法』だとか、『血脈封印』って呼ばれる、世界を創る秘術の結果よ」
そう語るラシーダの手元が、陽炎のように揺らめいたかと思えば、弾けるような高音が鳴り響く。
花火を思わせるそれは、何もない筈の場所から生まれ出でる。翔吾に言わせれば、それだけでも充分凄い事に見えてしまうのだが、ラシーダ本人は不満らしい。
自嘲するような笑みを浮かべたまま、ラシーダはドラゴンのいる方を見る。
鯨を食べ終えたドラゴンは、双眼鏡の視界の中で、満足気に大あくびをかくと、身体を丸め始める。湾岸で一眠りと洒落こむつもりなのだろうか。
その様子を翔吾とラシーダは、暫くの間ぼんやりと眺めていた。
「創始者の我が儘が、私達一族を台無しにした。という人もいるわ。けど……不思議ね。ドラゴンを愛する心だけは、どういう訳か多くの一族に脈々と受け継がれてきた。だから私達は、誇りだけは捨てないの。偉大なる祖。『ジョージ・ドラグハート』と、『原初の十竜』の名に懸けて、このニーベルゲンを守る。それが私の使命よ」
ただならぬ執念の炎が、ラシーダの目に灯っていた。翔吾はそれに気圧されそうになりながらも、この首輪のような手段をとってまで、自分を監視下に置こうとした事に納得した。
全ては、ニーベルゲンの安全の為。否、自分の愛する存在の為に。
「ラシーダは、凄いな」
小学生並みの感想だと思いながらも、翔吾はそんな言葉を口にせずはいられなかった。
と同時に、自分はそんな神聖なる場所に土足で踏み込んでしまった事に、少しだけ心が痛み、それでいて疑問が生まれてしまう。
自分はどうして、この世界に放り込まれたのだろうか?
翔吾の意志では勿論ない。あれは事故だ。確かに事故ではあるが……。
思案に耽ろうとしていると、隣でラシーダが静かに立ち上がる。ランチの時間は終わりらしかった。
「さて。次の場所へ行きましょう。ちょっと遠いから、彼の力を借りてね」
何処と無く得意気に笑いながら、ラシーダは唇に指を当てる。
刹那、つんざくような鋭い口笛が響き渡る。
そして――。
雲を割り、それは空から舞い降りた。地響きを立てながら強靭な四足が地に脚をつく。
暗緑色の瞳と、焦げ茶色の鱗。頬には、魚の鰭を凶悪にしたような突起物が生えている。その姿に、翔吾は見覚えがある。ラシーダの口笛に答えるかのように現れたのは、つい一昨日、翔吾の窮地を救ってくれたドラゴンだったのだ。
「悪いわね。レオンハルト。少し背中を借りるわ」
ラシーダの一言に、レオンハルトは長い首を天空に向け、雄々しく咆哮した。ゆっくりと、緩慢な動作で身体を反転させ、こちらに背を向ける。動きが止まったのを見てとったラシーダは、慣れた足取りでレオンハルトの背に上る。
「何してるの? 翔吾も乗って」
「マジで!? いいのか? 乗っちゃっていいのか?」
ドラゴンに乗れる日が来るなんて……と、感動にうち震えながら、翔吾はその小山のような尻に手をかける。その時――。
「イタイタ」
キーキー声が後ろからして、翔吾は思わず振り返る。そこには……。
「ゴブリン?」
該当しそうな生物の名が口から漏れる。以前見たのとは姿が違う。全体的に赤い体色。身体は同じくらいだが、手足が長く、背中にはゴツゴツとしていてアルマジロのようだ。これまた別の種だろうか?
そう思った所で、翔吾の思考に疑念が芽生えた。
ゴブリンは、基本ドラゴンに捕食される側だ。一昨日の群れだって、ドラゴンを見たら一目散に逃げ出してはいたかったか?
その疑念は、いわゆる虫の知らせでもあり、致命的な隙でもあった。次の瞬間。トンっと、翔吾の身体に、謎の衝撃が走った。
「へ?」
突然の出来事に、訳もわからぬままに間抜けな声を上げる翔吾。圧力は肩にぶつかったらしい。妙な熱さを伴う左肩。そこへゆっくりと目を向けた翔吾は、途端に青ざめる事になる。
「なん……で」
消え入りそうな声が出るのも無理はない。いつの間にかさっきのゴブリンが翔吾の腕にすがりついていて。そればかりか肩に無骨な形のナイフが突きたてていたのだから。
唐突すぎる視角情報としてそれを取り入れた瞬間、翔吾は途方もない激痛に苛まれた。
「あ、ぎぃ……いぃいい!」
衝動的に、ナイフを抜こうと手を伸ばす。が、それよりも早くゴブリンが動いた。ゴブリンの体重を乗せ、滑るように移動したナイフは、途中経過として翔吾の腕を切り裂きながら、手の甲へと到達する。
絶叫をあげながら、のたうち回る翔吾。倒れ、悶える彼の視界の端で、ラシーダが慌てたようにドラゴンから飛び降りてくる。
「オケ。サクセンセイコウ」
そんな混乱の中、下手人のゴブリンはキシシと笑いながら、素早くその場から離脱する。同時に、持ち手を失ったナイフは翔吾の手から自然に引き抜かれ、赤い軌跡を残しながら、地面に落ちた。
「大丈夫!? 翔吾……。っ、血が………! もう、『ポーション』を置いてきた日に限って……!」
駆け寄ってきたラシーダが翔吾の腕を取る。左腕は、見るも無惨な程に切り開かれていた。一昨日は右だった。これで両方だ。勿論翔吾からすれば笑えない話である。
吹き出る血潮が、ラシーダの手を汚していく。申し訳ないような気持ちには、なる余裕がなかった。痛みで気が狂いそうな翔吾は、手近にあった小枝を思いっきり握りしめる事で、何とか正気を保つことに努める他はない。
「ぎ……ぐ……」
呻き声を上げる翔吾。一方でラシーダは、てきぱきと処置を施していく。ドレスのスカートを切り裂いて、包帯がわりにグルグル巻き。大雑把な止血だが、やられないよりはましだろう。寧ろ、一瞬あの日の夜のように変貌するのではと思ってしまっただけに、翔吾は心底ホッとした。
互いに触れないようにしていたが、本当にあれは何だったのだろうか。
「汚い布しかなくてごめんなさい。取り敢えず、応急だから、直ぐに屋敷に戻って……」
早口で話すラシーダが、途端に言葉を切る。ぼんやりと空を仰ぐ翔吾は、周りが何だか暗いことに気がついた。太陽が何かに遮られたのだ。
「……レオンハルト? どうしたの?」
犯人は、ついさっきまでこちらに背を向けていたドラゴンらしい。まるで覗き込むかのように、レオンハルトは翔吾とラシーダを見つめている。否、見つめているだけならば、どれ程よかっただろうか。
「なぁ、気のせいか? 何かレオンハルトさん、涎出してない?」
「……ついでに、頬の鰭がピクピク動いてるわね。アレって、〝グラスフィールド・チークフィン種〟が、興奮状態に陥っている時のサイン……なのよね」
ひきつった表情のラシーダの横顔と、興奮しているらしいレオンハルトを交互に見る。レオンハルトは、ラシーダを見ていない。明らかに、翔吾の方を見ていた。
「なぁ、興奮って、狩りの興奮じゃないよな?」
「まさか。私がいるのよ? そんな目の前でレオンハルトが乱心するなんて……」
「ルォオオオォオオオォ!!」
明らかにおかしくなっているんだが。
という言葉を翔吾は放棄した。
言ったところでどうにもならない。今考える事はただ一つ。翔吾もラシーダも、互いに言葉を交わさずともそれを確信していた。
「逃げましょう。ただし……逃げられたらの話だけど」
ラシーダのその言葉を皮切りにでもするかのように、背後から再び地響きが発生する。仄かに薫る、潮の匂いと共に、それは現れた。
「……く、鯨が好物じゃないのかよ……?」
翔吾の震え声に、ラシーダは答えない。
後方にもまた、ドラゴンがいた。紫色の鱗を持つドラゴンは、沿岸でのんびりと昼寝を楽しんでいた筈で。その前に鯨を丸々一匹平らげた筈だった。にもかかわらず……。
「カロロロロ……コォオオォ……」
その紫色のドラゴンもまた、口から涎を撒き散らしていた。
飢えた眼光は、まるで極上の餌を目の当たりにしたかのようだった。
「もしかしてだけど……」
その時、ラシーダはポツリと呟いた。その一言は、後々まで長らく、翔吾の頭を抱えさせる事となる事実であるのだが……この時の翔吾には知るよしもなく。
「翔吾。貴方ってドラゴンから見たら……凄く美味しそうなのかしら?」
少なくとも今は、笑えない冗談にしか聞こえなかった。