6.ドラゴン達の楽園
「……驚いたわ。微弱ではあるけれど、翔吾のそれは竜炉回復ね」
「どらご……何だって?」
聞き慣れない単語に翔吾が首をかしげていると、ラシーダは針仕事をしたまま、竜炉回復。と、繰り返した。
互いに背を向けあったまま話す二人は、相も変わらず寝室にいた。ベットの両端に座り、翔吾は毛布にくるまったまま、ゴブリンに噛まれた側の手のひらを握り、開く。全く問題なく動く。少なくともこんなに早く治りそうもない傷だったので、何とも言えない不思議な感覚だ。
「ドラゴンは皆、強力な魔力を持っているわ。本来ならば時間を掛けて体内で生成される魔力を、呼吸し心臓を脈打たせる。ただそれだけで魔力をする事が出来るのが、ドラゴンの特性」
「魔力って……」
「魔法を行使する源であり、魔法に対する耐性を示すもの。……え? もしかして知らないの?」
「フィーリング的には分かるけどな。生憎、魔法なんて想像上のもので、存在してないとされてる世界から来たもんで」
こうして聞くと新鮮だ。翔吾がそう言うと、ラシーダが少しだけ息を飲む気配が背後からした。大方、魔法がない世界なんて本当にあったんだ……。そんな顔をしているのだろう。
「まぁ、それについては後で詳しく聞くとして。肝心の竜炉回復は、そのドラゴンの特性から来る副産物よ。身体が傷ついた時に、生成した魔力を源にしてゆるやかに発動する、自己治癒能力。一説によれば、ドラゴンは皆生まれながらに回復魔法の術式を体内に有していて、竜炉回復はそれに由来するものと言われているわ」
「生まれつき自動でHP・MP回復能力持ちとかチートじゃねーか。ドラゴンすげー」
そんな感想が自然に出てきた。ラシーダが「えいちぴー? えむぴー?」と、戸惑いがちな声を出していたが、特に気にしないことにする。ドラゴンは生命力が強いと色々な物語で設定されているが、それは本物のドラゴンにこんな背景があったからだろうか。
「ん……待て。でもその自動回復、俺に起こってたんだよな? 何故に?」
「そう、目を向けるべき点はそこよね」
「イタッ!」という、小さい悲鳴をあげながらも、布に針と糸を通す音が部屋に響く。少しだけ不安な気持ちが芽生えるが、翔吾は口には出さず黙っていた。
「視覚を思いっきり強化しないと見えないレベルだけど、翔吾の瘡蓋に、少しだけドラゴンの魔力がついてるの。然るべき所で調べてみないと何とも言えないけど……もしかしたら翔吾は、私と同じく竜の因子を持っているのかも」
「竜の因子……? 俺が?」
そりゃあ確かにドラゴン大好きだけれども、それだけで持てるものか? そもそも因子って何ぞや? そんな疑問が浮かんでは消えていく。理解すべき事が多すぎて、翔吾は思わず頭を抱えた。
「ドラゴン大好きは関係ないわ。因子持ちの人間や魔法生物は珍しくないのよ」
「そんなもんなのか?」
「そんなもんよ。私が今まで見た中でも風変わりだったのは、海藻の因子を含んだ人間ね」
「……メリットが見えん」
「長時間海を漂えるらしいわ」
「……わーすごいなー」
「あと、光合成が出来る」
「凄ぇ!!」
つまるところ因子とは、その人間に宿った、普通にはない特性と言った所なのだろう。翔吾はそう当りをつけた。解せないのは、そんな素敵なものが身に宿っていたにも拘わらず、ただ歳月を過ごしてしまったこと位か。
知っていたら修行的な事をしていただろう。力を使いこなした上での万を辞しての異世界渡航も可能だったかもしれないと思うと、翔吾は少しばかり悔しい想いだった。この時、そんな事をすればますます周りから冷たい目で見られていた。という考えは、翔吾からは消失していた。色々な意味で逞しい。それを地で行くのが、八神翔吾という少年だった。
「元の世界じゃあ、そんな気配なかったのになぁ……」
「魔法のない世界ならあり得るわよ。ドラゴンの因子は、日常生活を送る上では殆ど不要だもの」
「……戦闘に使うとか?」
「そこまで物騒なものではないわ。どちらかと言えば……野生で生きる人向けよ」
野生とは無縁そうな格好をしている奴が何を。とは言えなかった。翔吾はつい昨晩、ラシーダの野性の面を目撃しているのだ。あの羽や尾も、竜の因子が成せる技なのだろうか? 因子をもつ存在が珍しくないという事は、あんな芸当が出来る者がゴロゴロいるという事になる。翔吾はそんな事を考え、思わず身震いを禁じ得なかった。
「……異世界、半端ねぇな」
「……私に言わせれば、魔法のない世界からここに来た貴方の方が半端ないわよ。本当に何も知らないの?」
「だから、本当だって。信じてくれよ」
もう何度目かにもなるそのやり取りに嘆息していると、背中に何かが軽く押し当てらる。手を伸ばすと、そこにはズタズタにされた筈のジーンズとTシャツ。ダークブラウンのお気に入りのジャケットに、靴下と下着が積み上げられていた。
全てラシーダがチクチクと修繕してくれたものだ。してくれたのだが……。
翔吾は無言で、変わり果てたジャケットに同情の視線を向けた。
「ヤベェ、凄いヘタクソだ……」と、危うく漏れかけた一言を必死で押し止める。
使われた糸は白一色。それでダークブラウンのジャケットやら、黒のジーンズを縫ったりしたらどうなるか。答えは簡単だ。
なんという事だろうか。イカした色の(翔吾目線)ジャケットは、今や何本もの白い縫い目が走っている。加えて、縫い方も結構雑。こんなのを着た日には、さながらゾンビ映画のモブキャラに間違えられるかもしれない。
「翔吾?」
「い、いや。うん……あ、アリガトウ」
何とかその言葉を搾り出しながら、翔吾はいそいそと服を着込む。「朝御飯の用意をするわ。終わったら、この世界を案内してあげる」そう言って部屋を出ていくラシーダを横目に、翔吾はジャケットを再び見た。
これなら自分で直した方が良かったかもしれないなぁ……。と、思いながら。
八神翔吾、十七歳。義妹との二人暮らしが長いこともあり、それなりに家事は出来るのである。
「ま、まぁ、新手のファッションだと思えば何とかなるよな」
それでも。やたらチクチクするそれを羽織り、翔吾は己を納得させる。仕方がないのだ。女の子に「服、直してあげる」なんて言われたら。たとえ地雷と知ってても飛び込んでしまうのが男の子なのである。
ましてや、刺し傷が幾つか出来てしまっていたラシーダの手を見たら……。男として、文句など言える筈もなかった。
取り敢えず。ようやく訪れた異世界をゆっくり見る機会。それを手にしただけ僥倖だろう。
そう結論付けた翔吾は、食後の時間を心待ちにしながら、ラシーダに続いて部屋を出た。
※
朝食を済ませ、屋敷を出た翔吾は、ラシーダの先導で草原を抜け、森の中へと歩みを進めていた。
朝食は黒パンにスープ。スクランブルエッグに、カリカリに焼いた分厚いベーコン。ドレッシングがかけられたグリーンサラダ。朝は和食派だった翔吾には珍しくもあった。……もっとも、味がまともだったのは、パンと焼かれたベーコンのみだったが。
スクランブルエッグは味がなく。ドレッシングはやたらに酸っぱく。スープに至っては苦い。女の子の幻想がぶち殺されそうな味だった。エプロンは良く似合っていただけに、ダメージは結構大きめ。
チラリとラシーダを見ると「ムムム……」と、悔しそうな顔をしていた。自覚はあるならば、改善の余地はあるだろうか。
ベーコンの焼き加減は絶妙で物凄く美味しかったので、家事に関してはワイルドかつ大雑把なスタイルの方がラシーダには合うのかもしれない。女としてどうかはともかく。
……そんなつまらない事を考えて、翔吾は取り敢えず朝食を乗り切り、今に至る。
「何処に、向かっているんだ?」
「この世界――『ニーベルゲン』を語るのに、相応しい場所よ」
そう言って、ラシーダはずんずんと前へ進んで行く。森の道は、奥へ進むにつれて険しくなっていく。山岳地帯にそのまま入ったのだろうか。そう思いながら、翔吾はひたすらついていく。
山森の中でも、彼女は白いドレス姿だった。その背に無骨な背嚢をワイルドに背負っているのを除けば、ファンタジーに登場する森の妖精にも見える。
大自然の冷たい空気が、翔吾の肺を刺し、それに混じって香る甘やかな匂いが鼻を擽る。今朝見たラシーダの裸体を思い出し、翔吾は恥じるように頭を振った。「互いに忘れよう」と言葉を交わした事柄だ。今はただ、まだ見ぬ世界に高揚するだけでいい。
そう思いながら雑念を払い、周りを観察しつつ、翔吾は進む。
山歩きは、そこまでしたことがない。コンクリートジャングルと形容するに相応しい世界は歩き回ったが、疲労の違いが段違いである。だが、今の翔吾にはそれが心地よかった。
行く先来る先に、翔吾の知らない世界があった。
「木の上に……何か見覚えがある形の生き物がいるんだが?」
「ああ、『ウッド・ゴブリン』よ。樹上生活に特化したゴブリン。基本ドラゴンの餌よ」
「川辺で木の実洗ってるあれは?」
「あれは『リバー・ゴブリン』ね。浅瀬に巣を作るゴブリンよ。『マーフォーク』とうまく棲み分けしてる穏やか目なゴブリン。基本ドラゴンの餌ね」
「マーフォークってのもいるのか?」
「湖や、大きめの川にね。一応人語が理解できる魔法生物よ。半人半魚と言えばいいかしら。顔が魚。肌も体温も魚。胴体が人間。脚が魚で、手は半々」
「ほぼ魚じゃないですかー。やだー」
「あと、たまにドラゴンの餌よ」
「あ、ハイ」
ゴブリンにマーフォーク。翔吾は頭に、その単語を登録していく。人語が理解できるとはいえ、油断は禁物とカテゴライズしておく。何というか、この世界は……。
「因みに貴方が遭遇したのは『ホワイトウール・ゴブリン』ゴブリンの中では賢くて強い種で、基本ドラゴンの餌よ」
「基本ってか、全部ドラゴンの餌じゃねーか!」
翔吾の全力な返答に、まぁそうね。と、ラシーダは楽しげに頷く。色々と規格外な弱肉強食の世界だ。それを垣間見た翔吾は、もはや笑うしかない。さんざん喰われかけたのは、ここでは普通に起こっている事に違いない。
「まぁ、仕方ないわよ。ドラゴンは魔法生物の中でも竜種にして幻想種。特に力を持つ生き物の一角よ。その殆どが頂点捕食者にして、暴君なの」
どことなく誇らしげな表情で、ラシーダはもはや崖と言ってもいい道をスルスル登っていく。
頂点捕食者にして暴君。成る程、それには納得だ。まだ一度しか生で見ていないが、あの反則級な威圧感だとか、呆れるような神々しさ。まさに幻想の王に相応しく、思い出しただけで鳥肌が立つほどだ。あれから見れば、この世の殆どは餌に見えても仕方あるまい。
根性とプライドで崖を登りきり、座り込んだままゼーハーと肩で息をする翔吾に、ひょいと何かが投げ渡された。
小説でしか見なかった、冒険者が持つ革の水筒袋だった。思わず「oh……!」と、感嘆する翔吾にクスクス笑いながら、ラシーダもまた、その場に座りながら飲むように促した。
「この先が目的地だけど、先に水分補給をオススメするわ。『水精霊石』入りだから美味しくて清潔よ」
「それについても後で詳しく頼む」
そう言いながら、翔吾は無心で水筒袋に口をつけた。
流れてくる水はキンと冷えていて、疲労で乾いた身体に心地よい。一気に呷れば、たちまち気力が沸き上がってくる。
飲み終わった後、御礼と共にラシーダに袋を返すと、彼女もまた、豪快に水を飲んでいく。
やっぱりワイルドだ。と、翔吾は思った。だというのに見た目は女らしく華やかで、ちょっとした立ち振舞いには妙な気品がある。不思議な雰囲気は何処と無く翔吾には覚えがあった。
「……ああ、ドラゴンか」
「……何の話?」
「何でもない。こっちが勝手に納得しただけだ」
そう答えて、翔吾は辿り着いた場所から下を眺める。森が。遠くには草原が広がっていた。随分高いところに来た。そんな感想だ。
「そっちで来た道を振り返るのもいいけど、こっちが本命よ」
いつの間にか立ち上がっていたのか。「来て」と、何だか嬉しそうに手招きするラシーダ。彼女の背には小さな林。そこを抜けた場所が目的地なのだろう。静かに頷き、翔吾はラシーダに続く。
何故だろうか。胸が高鳴るのを翔吾は感じていた。いや、己の中に本当に竜の因子があるのだとしたら、本当は分かっていたのかもしれない。その先に、何があるのかを。
その時見た光景を、翔吾は一生涯忘れないだろう。
そこは……ニーベルゲンと呼ばれた世界を分かりやすく体現していた。
「う……お……」
広大で、人跡未踏で。穢れのない。だが無傷ではない大地と山々が、そこからは見えた。
それらに平行するように浮き雲を有した蒼穹が、どこまでも続いている。
耳に届くのは、風の音。そして……轟くような、咆哮――。
ドラゴンだ。
ドラゴンが、世界を満たしていた。
「おお……! う……おおぉ……!」
驚きの声を無自覚に漏らしながら翔吾は両目を見開いた。空には、悠々と旋回するドラゴンの群れ。
大地にはのんびり寝そべる、ずんぐりとしたドラゴンが。
山嶺には、今まさに飛び立たんとする美しいドラゴンがいた。
少し離れた湖では、水柱が上がっていた。ドラゴンの一匹が飛び込んで行ったのだ。狙うのはマーフォークとやらか。単なる暇潰しなのか。どちらにしろ変わらない。彼らは自由だった。
時に吠え。時に風のように舞い。吐き出した炎が、空を。雲を。大地を焦がす。
「うぉおおおお!」
そこが限界だった。ドラゴン達の咆哮に合わせ、気がつけば翔吾もまた、叫んでいた。
いつかに見た、星空の下の竜の群れ。それと比べても遜色ない素晴らしい景観に、翔吾はただ、喜びの声を上げる。
昨日確かに、翔吾はドラゴンと邂逅した。夢のような刹那の時間。よもすれば、本当に幻だったのではないか。そう思えてしまう位に、現実味のないもの。その後に待っていた気苦労が強烈だっただけに、翔吾はしばし異世界に来た目的を。自分の長年のが叶いつつある実感が沸いていなかった。
だが、今はどうだろう!
視界に映る大自然と、荒々しき空の王者達。
焦がれ続けた翔吾の全てがそこにあった。
「うぉおおおおおお!!」
翔吾の目から、知らず知らずのうちに涙が流れていた。歪む視界と、確かに地に足をつけた感覚が、これは現実だと、翔吾に語っていた。
気がつくと隣に誰かが並び立つ気配を感じた。
風に靡く金砂の髪を抑えながら、ラシーダ・ドラグハートが誇らしげに立っていた。
「ここが、私達の世界。『人工世界・ニーベルゲン』元からあった世界ではなく、私達ドラグハートの一族が創造した世界にして、異世界において他にない、ドラゴンの保護区。絶滅必至だったドラゴンや、今も世界の何処かで雄々しく飛び回るドラゴン。生存数が少ない貴重なドラゴン。ありとあらゆる竜種があつまり、共存する場所。つまりは――」
すぐ頭上を通り過ぎた一匹の青いドラゴンを眩しげに眺めながら、ラシーダは「うん、あの子も調子良さげね」と、呟いた。
翔吾はその後に続くであろう言葉が予想できていた。この場所には、その言葉ほど相応しいものはないだろう。ここはまさに――。
「ドラゴンの楽園よ」
何という素敵な響きだろう。
何という数奇な運命だろう。
ラシーダの言葉を借りるならば、世界は数多あるという。そんな中で、自分はここに、ニーベルゲンに辿り着くとは。
ありえないと、彼女は言った。何かがおかしい、と。だが、今は。今だけはこの感動と興奮に身を委ねていたかった。
それを察したのか、ラシーダは楽しげに肩を竦める。「本当にドラゴン好きなのね」と苦笑いしながらも。それは、多少の警戒を含んだ視線を向けてきた彼女――。ラシーダが初めて見せた、心の底からリラックスした表情だった。
それを見た時、翔吾の中で確信めいたものが芽生えた。ラシーダもまた、翔吾のように。翔吾に負けない位にドラゴンが大好きなのだろう。
ドラゴンについて語り。ドラゴンを眺めてわだかまりが薄れるだなんて、あまりに劇的すぎて。翔吾はもはや笑い、叫ぶしかなかった。
「うぉおお! うぉおおおおおお!!」
終わらぬ翔吾の叫び声と、ドラゴン達の咆哮が混ざる。それが素晴らしくて、翔吾は声が枯れてもいいとすら思えた。
結局その日、二人はただそこに座して。語り。笑い。目を輝かせていた。
翔吾は元いた世界での話や、ドラゴンの立ち位置を。ラシーダは、ドラゴン達一匹一匹の生態やら、ここに来るまでに至った、叙事詩のような大冒険の話を。
後に夜な夜な二人の間で交わされる、ドラゴン談義。
本日がその記念すべき、第一回だった。