2.VS異世界猿軍団
八神翔吾は、取り敢えず頬をつねってみた。軽い痛み。夢ではないことを確認。
薫る草花も、踏み締める大地も、これがやはり現実だということを翔吾に自覚させる。
「……ど、どうする?」
勢いよく立ったはいいが、今後の行動を決めかねて、結局翔吾はその場に立ち尽くす。
混乱する頭に落ち着け。落ち着け。と、言い聞かせながら、翔吾は額に手を当てた。
動くか。ここに留まるか。頭が冷えるのを感じつつ、翔吾は大きく息を吐く。
本来迷子。もとい、見知らぬ場所に迷い混んだならば、無闇に歩き回らない方がいいのだろう。だが……。
それはあくまで帰る家があり、かつ警察やらレスキュー隊のような治安維持を旨とした団体がいる場合。もしくは、知り合いが近くにすんでいるときのみ該当する。
少なくともこの場においては、役に立たなそうな理論だ。
「人だ。とにかく人を探そう」
大まかな方針を決め、翔吾は行動を開始する。まずは周りをよく見回して……。
「って……オイ待て。なんだこれ」
思わずそんな一人言が口からもれる。目的は、早くも解決の気配を見せてしまった。前方には草原や森などのネイチャーな光景。目測ではあるが、家や集落のようなものは見受けられない。ならばと思い今度は背後を見た。すると……。そこから五十メートルも離れていない所に、家があったのだ。
……都合よすぎだろ。と、思わず呟きそうになる。
これがゲームだったら、間違いなく罠があるところだ。そんな事を思いながらも、翔吾は見つけた家を観察する。
崖を背にして、周りは林。まるで絵本に出てくるような、レトロチックな洋館といった雰囲気だ。家具や建造物のデザインには明るくない翔吾ではあるが、何となくいいな。と思えた。
世界的に有名で、図書カードにもなっているウサギの児童書に登場しそうな造り。家の周囲には、家庭菜園でもやろうとしたのだろうか? 微妙に手入れの行き届いていないものの、立派な柵で区切られた庭が広がっている。
ますますファンタジーチックだな。といった感想は、胸に仕舞っておくとして。翔吾は暫しの間、その家を上から下までじっくり眺めていた。
どうするか?
一瞬抱きかけた迷いは、すぐに振り払われる。元より他に道はなさそうだ。ならば、取り敢えず訪ねてみよう。
我ながら安直な思考だと自覚しながら、翔吾は意を決したように、ゆっくりと家に近づいていく。その時だ。
「ダレダ。ダレダ?」
その歩みは五歩もいかぬうちに止まることになる。不意に響いたキイキイ声に、翔吾はビクリと肩を跳ね上がらせながらも、慎重に周りを見回す。草原。林。遠くに森。家。他には目ぼしいものは目に入らない。
「コッチダ」
空耳か? そう首をかしげていると、再び響くキイキイ声。
微妙に斜め下から聞こえるような気がして、翔吾はそちらに視線を向けて……。
「んん?」
そこで、間抜けな声が自然に出た。
草原の中に、ポツンと置かれたやや大きめの石。その横から……、毛むくじゃらの生首が此方を覗いていた。
「う、わ――」
知らず知らずのうちに後退りしながら、翔吾はその首を見る。見た目で思い浮かぶのは猿の顔だ。バレーボール程の頭は、白い体毛に覆われている。黒い皮膚の上から血走った目がギョロギョロと泳いでは翔吾を見据え、また泳いでは翔吾を見据える。
「ナンダ、オマエ。ニンゲンカ?」
そして喋る。生首が口を動かす様はこの上なく不気味で、翔吾は暫し言葉を失っていた。すると、翔吾の畏怖を感じとったのか、明らかに笑みと分かる表情を浮かべながら、それは左右に首を動かしたかと思えば、のそりと、地面からその全貌を晒した。
穴から出てきた謎の生き物。その全体像は、やはり白の毛むくじゃらで、顔以外では手足に当たる部分だけ体毛がなく、黒い皮膚が露出していた。
こうしてみると、ますます猿に似ているが、尖った大きな耳だとか、笑みから覗く乱杭歯。犬のように突き出た口吻などから、全く別の生き物のように見えた。
「ニンゲン、ヒサシブリ。ヒメイガイハ、イナクナッタ」
「……ひめ? いなくなった?」
要領を得ない発言に、翔吾は思わず首をかしげる。すると、猿のような生き物は、キキキと笑いながら、翔吾をじっと見つめる。
「オマエ、ウマイカ?」
「……は?」
「オマエハ、ウマイノカ?」
少しの間、翔吾の中で時間が停止する。この猿が何を言っているのか、しっかり理解すること数十秒。ウマイ? 誰が? 俺? と、自問自答し、翔吾は思わず漏れた苦笑いと共に首をふる
「い、いや、美味しくはない筈だ」
「……ホントウカ?」
「…あ、ああ。間違いない。お前の小さい身体じゃ腹壊すぞ?」
内心で大いに焦りつつ、翔吾はそんな返答をする。
世界には人肉を食べる小柄な部族がいるという。まさかこの猿もどきもそれと似たような類いなのか。
ともかく、言葉が通じることに安堵しながら、翔吾の頭はどうやってここを離れるか、全力で考える。
「ウマイモノハ、ワケレバウマイ。ニイチャンヲヨボウ」
兄ちゃんいるのかお前。とは話しかけない。ただ、「いや、兄ちゃんといっしょでも不味いのには変わらないぞ?」とだけ伝える。穴へ向けて大声を出そうとしていた猿(仮)は、驚いたようにこっちを見た。
「カアチャンニスル?」
「いや、母ちゃんも駄目だ」
「バアチャンハ?」
「ばあちちゃんはもっと駄目だ」
「ナラ、ヒイジイチャン」
「脚下」
「ヒイヒイバアチャン」
「断る。てか、俺は美味しくねぇったら!」
思わず翔吾が声を荒げると、猿は首をかしげた。腹が立つ仕草に加え、さっきからまともな会話が成立していない事に気づき、翔吾の中で嫌な予感が立ち込め始める。まさかとは思うが、この猿、喋れはするだけで、知能は低いのではないだろうか? ちらと浮かんだその推測は。
「デモ、オレタチゴブリン。ナンデモクウ。マズクテモ」
どうやら当たりだったらしい。美味しいか聞いた意味は!? そう叫ぶのをぐっと堪え、翔吾はこめかみに手を当てる。考え込むときの癖だと義妹に言われた事があるが、こうすると冴えるのだから仕方がない。
そのまま翔吾は目を目を細め、目の前の存在を観察する。
ゴブリン。と、こいつは名乗っていた。その単語に翔吾は聞き覚えがある。ファンタジーもののゲームや物語に出てくるキャラクター。否、生き物の種族名というべきか。作品によって緑色の小人だったり、小さい中年みたいだったりと、描かれ方は様々だったが、それは保留した。
現状、目の前のゴブリンは、翔吾を食べたい宣言をしている。ゴブリンって人を食べるのか? 等と思わないわけではないが、現に雑食と言っているので、そこはもう納得するしかなかった。
だが、問題は……。
『ニンゲン、ヒサシブリ。ヒメイガイハ、イナクナッタ』
この発言だ。ヒメが誰だかは翔吾は知る術もないが、ゴブリンの話を信じるならば、この辺には人間が一切いないことになる。
人間の庇護を求めようとしていた翔吾には、由々しき問題だった。
「クウゾ? アレ? オマエ、ウマイノカ?」
「……あー、もう分かった分かった。好きにしな」
話が通じないバカと改めて判断した翔吾は、相手を挑発するように左手を掲げ、指をクイクイと引くような仕草をする。するとゴブリンは、見るからに気持ち悪い満面の笑みを浮かべながら、翔吾に飛びかかった。
身体のわりには驚異的な迄の跳躍力。そのままゴブリンは大口を開け、ギラギラとした乱杭歯が翔吾の身体に突き立てられ――、
「ペガッ?」
なかった。単純な体格差。ジャンプから噛みつくという、隙だらけにも程がある攻撃手段。
故に翔吾は冷静にゴブリンの大きめの頭部を掌で受け止めると、そのまま地面に叩きつけ、流れるように踏んづけた。
「……まぁ、所詮ゴブリンだもんな」
「ギガ……アギィ?」
それなりに喧嘩の経験はある。故に、翔吾から見れば、ゴブリンの攻撃など人間のパンチと同等か、それ以下の速度だった。
いつぞやちょっとしたことで真昼を怒らせてしまい、その時飛んできたノーモーションビンタとなど、比べるのもおこがましい。
そもそもゴブリンとは、総じて雑兵や、やられ役になる事が多いキャラクターである。それこそ、鍬を持った市民にも叩き伏せられる位には弱いのがテンプレートだ。これで反則級に強かったら強かったで、翔吾は即晩御飯にされていたのだが、
「質問がある。この近くには、ゴブリン以外には何がいる? 出来ればお前より頭がいい種族で」
ついでにいえば話が通じてそんなに野蛮じゃない奴。そう注文しようとしたが、無駄かと取り止めた。
しかし改めて見るとゴブリンである。異世界やらファンタジーが大好きな翔吾としては、そのまま「うおおぉおお!」何て歓びの雄叫びを上げたい気分だ。状況が状況なので自粛はしているが、翔吾は今、不安と高揚。猛るような好奇心と歓喜で、結構興奮していた。
故に翔吾は失念していた。ファンタジー世界でやられ役だからと言って、それが弱いだけとは限らない。
弱いには弱いなりの戦いがあり、そもそも、そこにいるのは媒体によっては魔物や怪物と称される、力を持った存在という事を。
「ギ……ギ……」
「ん?」
踏みつけられ、土の味を噛み締めながら、弱者は……。
「ギィィイイイイィッヤァアアアアァァアアア!!」
この場における強者を討つべく、金切り声を上げる。それは耳をつんざくような爆音となり、周りに響き渡り……。
やがて、小規模な地鳴りが、翔吾のすぐ近くで発生した。それは徐々に大きくなる。そして……。
次の瞬間、それらは一斉に噴出した。白い毛むくじゃら。一匹一匹は有象無象に等しくとも、その軍勢は明確な意志を持って翔吾の元へ終結した。
「……はひ?」
思わず間抜けな声を出してしまった翔吾を、誰が攻められようか。
見渡す限りのゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。ゴブリン。
のべ三十匹はいそうなその数に、翔吾は閉口するより他はなかった。誰だ所詮ゴブリンだなんて言った奴は。自分である。
「ジイジ」
「ヒイジイチャン!」
群れの何匹かが、そう叫ぶのを、翔吾は顔をひきつらせたまま見ている他なかった。何世帯だ。という言葉は、ゴブリンには通用しないのかもしれない。ただ、今分かること。それは……。
「オマエ、ウマイノカ?」
三十以上、同時に投げ掛けられた、無慈悲な捕食者の質問だった。
弱肉強食。翔吾の中で、そんな言葉が頭を過る。
文明から隔離された人間に、大自然の。それも通常の常識が通用しない場所……異世界で生き延びろと言われたら?
翔吾は、今なら自信を持って言える。
無理だと。
サバイバルセットなど、慰めに過ぎないだろう。
都合よく力を手に入れたならば話しは別だ。
都合よく、近くに街があって、そこに受け入れて貰えたならば最高だ。
きっとそういった存在は、強烈な運が味方しているのだろう。
だが生憎、翔吾はそういった運も力も持ち合わせてはいなかった。
故に訪れるのは、無慈悲な野垂れ死にか。
「……っ、冗談じゃねぇ……!」
ギリギリと歯を鳴らしながらも、翔吾は獰猛な表情を崩さない。
自分には、夢がある。
それを叶えたなら次の。それも叶えたのならばまた次の。
乾くようなそれに名をつけるならば信念か執念か。もはや一周回って愛とつけてもいいかもしれない。
誇りあり。
故に孤高。
獰猛で。
野蛮。
残忍で。
狡猾。
それでいて、美しい存在。
幼い頃、確かに見たその存在。それがいるやも知れぬ世界に、彼はようやくたどり着いたのだ。
ゴブリンの群れ等に邪魔されてはたまらない。
繰り返しになるが、八神翔吾は、力も運も持ち合わせていない。だが彼は、長い間多数からの迫害を受け、妹に手を出しかけた輩を曲がりなりにも捩じ伏せたこともある。
ここぞという所での度胸。決めた後、直ぐ様行動へ繋げるための冷徹さは、人並み以上には持ち合わせていた。
だからこそ、決断し、死ねないと足掻く事を決めた彼の行動は早かった。
一際強くゴブリンを連続で何度も踏みつけ、その意識を完全に奪う。骨は、武器になる。肉の皮を被っていたとしても問題はないだろう。徒手空拳でやりあうよりは、幾らかましな筈だ。
だらりとしたゴブリンの足を掴み、ブンブン振り回す。
同じような固さなら、頭で頭を叩き割るのも可能。即席の連接棍の完成だ。
「こいや異世界猿軍団! こちとらドラゴンと再会するまで……死ねないんだよぉお!」
黄昏の空の下で、少年は吠える。
威風堂々とした様は、まさに竜を思わせた。