14.原初王達の帰還
竜の守り手。即ちドラゴン・キーパーとは、何もニーベルゲンにだけ存在する職業ではない。
ドラゴンという概念は、世界において幾千もの形がある。
そんな数多ある世界で共通なのは、ドラゴンは強大で、神にも例えられる程の存在であること。
その身体の全て余すことなく、魔法や武器。果てには薬や料理の材料にすら利用出来る、生きた宝物庫であること。
畏怖と崇拝。狩猟や討伐の対象として。権力の誇示や、財産の守り手として。共に戦う戦友として。ありとあらゆる面を持つ存在であること。……等。
故に、必然的にドラゴンに関わる職業も、数多ある世界の数だけ名を変え、性質を変えて存在する。
竜騎士をはじめとする、竜と共に戦う者――。
竜の乗り手たる、ドラゴンライダー。
竜を時に崇拝し、時に使役する、竜と共に在る者――。
竜の使い手たる、ドラゴンマスター。
竜をつけ狙い、あらゆる理由から竜を屠る者――。
竜の殺し手たる、ドラゴンスレイヤー。
竜という存在を研究し、貴重な存在として竜を守護する者――。
竜の守り手たる、ドラゴンキーパー。
他にも多数。
これらに共通する必要事項は、竜と関わる以上、強力な力を持つべしということ。過酷な環境――。時に死と隣り合わせという状況においても折れない、不屈の精神力を持つこと等が挙げられる。
故に、到達するのが難しく。したとしても、大成するまでに命を落とすものも少なくない。
ラシーダの父親がそうだった。
「僕はね。ドラゴンが大好きなんだ。だから、ご先祖様が守り続けてきた、このドラゴンの楽園が何よりも誇らしいよ」
そう語り、笑う男を見ながら、ラシーダもまた、顔を綻ばせたものだった。一族の中でも、力が、弱いままに生まれてきた男。『最弱のドラゴン・キーパー』それが、男の――ラシーダの父につけられた渾名だった。
恥さらし。と、一族の者は言う。自身も弱いことを棚にあげ、より弱いものを貶める。だがそんな罵倒こそ、ラシーダは醜い恥さらしと感じていた。
「守りたいって気持ちに力は関係ないんだ」そう言いながら、弱くとも弱いなりに一族とニーベルゲンの為に、父は尽力した。
ラシーダはそんな父を誇りに思い、愛していた。たとえ自分が『最弱の娘』と罵られようとも。
月日は流れ、力無き一族達は、渡り歩いた世界で命を落としてきた。
保護する筈だったドラゴンに飲まれて。
辿り着いた世界の、いさかいに巻き込まれて。
まっとうではないドラゴン・スレイヤーに敗れて。
ラシーダの父も、在る世界に出向いたっきり、ニーベルゲンには戻ってこず、一族の中では死んだものとみなされた。
ドラゴンの名を冠する職業である以上、考えられてしまう結末だった。
ラシーダもまた、ドラゴンの研究で赴いた世界において、死の危険に晒されたこともある。
だが、それでも彼女は、挫けることなく、乗り越え、生き延びた。全ては父の意志を継ぎ、ニーベルゲンを守る為。
それと、ほんの少しだけ期待したのだ。父がまだ生きていて、ニーベルゲンに戻ってくるかもしれない。その可能性を。
戻ってきた父が驚くほど、楽園を美しく。それを目的に、ラシーダは奔走した。
絶滅種や、特定の世界の固有種など、ニーベルゲンにいるそういった稀少なドラゴン達の三分の二は、ラシーダによる発見と、保護による功績である。
他の一族は、とうとう殆どが死亡。及び、役割を放棄した。そうして、ラシーダだけが生き残る。
疎ましいと、思う人間もいたのかもしれない。今だからこそ、ラシーダはそう思う。
最弱のドラゴン・キーパーの娘が、功績を立てる事が。自分達より若いラシーダが力をつけつつあることが。
だが、そんなものは関係ない。
ラシーダは、空を舞うドラゴンを眺めながら、拳を握る。
幼い日、父と共にドラゴンを見上げたあの日から、ラシーダの成すことは変わらない。
ニーベルゲンを守る。ただそれだけ。何より――。
「今日も元気そうね。鱗のツヤもいい感じだわ」
悠々と空を飛ぶドラゴンを眺めながら、ラシーダは微笑んだ。ラシーダもまた、ドラゴンが大好きだったから。
それは、幼い日から今までの回想だった。此方に来たばかりの翔吾にも寝床で語った、幼い頃の優しくも美しい思い出……。
真実が白日のもとに曝され、目の前で崩壊していく楽園を目の当たりにした時。ラシーダに出来たのは、それにすがることのみ。
ドラゴンの為の楽園。それは偽りだった。
ドラゴンを守る事。それすら欺瞞だった。
隠されていたのは、酷い真実。
偉大なるジョージ・ドラグハートは、原初ドラゴンを利用していた。魔竜王と名乗る一匹の竜を封じるが為に、その檻として。自分はそんなものを美しくする為に、今まで奔走してきたのか。一族の者は……父は、何のために犠牲になったのか。
「私は……私は……」
目の前で怒り、暴れ、空へと舞い上がる太古のドラゴン達を前にして。ラシーダの中で何かが壊れ、狂っていく音がした。
※
こうして生きているのは、まさに奇跡だと思う。瓦礫で溢れたコロセウムで、翔吾は荒い呼吸を整えながら、空を見る。風穴を空けられた天井は、さっきよりも空を見れる場所が広がっていた。
何故か。答えは簡単だ。原初ドラゴン達が我先にと飛び立つものだから、穴が勝手に大きくなってしまったのだ。
お陰で翔吾達は瓦礫の雨にさらされる事になったのだが、それだけで済んだのはよかったと言っていいだろう。最大の救いは、原初ドラゴン達が翔吾達には目もくれなかった事。これに尽きる。
目の前の存在が小さすぎたから故か、自由を得た興奮で周りが見えなかったのか。真相までは分からない。ともかく――。
「で、出るぞ! 瓦礫が積み上がってるから、もしかしたらどっか登れるかも……」
「で、でも、登ってどうするんですか? 外にはさっきのドラゴン達が……」
「ここよりはマシだろ。逃げ場がないここに、さっきのドラゴン達が戻ってきたら……それこそ終わりだ」
身震いしながらも、翔吾はラシーダの方を見る。放心したようなラシーダの瞳は、何も映していないように見えた。事実、翔吾が呼び掛けても、ラシーダは何の反応も示さない。それはまるで脱け殻のようで……。
「――っ! くそっ!」
悪態をつきながら、翔吾はラシーダを引っ張り上げ、背中に背負う。一瞬真昼がムッとしたような顔になるが、それ以上は何も言わなかった。
時間にして数十分。ただ必死に駆けずり回り、翔吾とラシーダと真昼の三人はようやく地上に這い出した。
コロセウムの中にあった、隠し通路。瓦礫にまみれてはいたが、それが地上に向けて延びていたのだ。
「なんだ。徒歩で来たのか? ご苦労だったな。……あっ、このっ! 離れろ! 離れろと言うてるに!」
外に出てまず視界に飛び込んできたのは、何の編鉄もない岩の上に座る、全裸の少女だった。
紫の髪と、アメジストの瞳。魔竜王、ファーブニルだ。彼女は今……妙な紫色の雲と格闘していた。
「……何してんのお前?」
翔吾の疑問はもっともだった。これ見よがしに自由だと豪語し、出ていった筈の魔竜王が、こんな所で油を売っているとは思えなかった。
「いや、な。自由になったはいいが、今の妾は封印されていた影響か、些か以上に消耗していてな。加えてコイツだ。オノレ……! ジョージのあん畜生め! 何と厄介なモノを……!」
紫の雲は、ファーブニルの方へとまとわりつくべく、形を変えながらウネウネ動いている。ファーブニルはそれを蹴り、腕で押し退け、何とかひっぺがそうと躍起になっていた。
何故かはわからないが、翔吾はその光景に、粘着テープが身体にくっつき、剥がそうとしてドツボに嵌まる小学生の幻影を見た。
「……手伝おうか?」
という翔吾の言葉に、ファーブニルはやめておけ。と、首を横に振る。
「コイツは呪いの類いだ。十一番目とはいえ人間だろう? 触れれば只では済まんぞ。それよりも見えるか? 奴等め、憂さ晴らしなのか暴れ始めているぞ」
促されるまま、翔吾はファーブニルの視線を追う。ジャングルの高台にある岩山。翔吾達が隠し通路を経て辿り着いた先は、結構な遠くまで見渡せて……。
「……冗談だろ?」
目に飛び込んできた光景に、翔吾は純粋に恐怖した。
眼下には、暴れまわる原初ドラゴン達がいた。だが、ただ暴れ回るにしても、それは普通のドラゴン達とは桁が違うことを、翔吾は思い知る事となる。
それは、ドラゴンの理想像と呼ばれるに相応しい、荒々しく、暴力的で野蛮な力の具現だった。
一匹の息吹が、山すら一瞬で火の海に変え、ドロリと溶解させれば、他の一匹の尻尾が、一撃のもとに大地を叩き割り、森の木々を薙ぎ倒す。
飛び交う木々や瓦礫の向こうで、また一匹のドラゴンが爪を振るえば、どんなからくりか。地上を侵食するようにして、白い岩山が、メキメキという音を立てて出現する。いつかに地理の教科書で見た氷河。それを翔吾は、無意識に連想した。
他にも、十頭は思い思いに破壊活動をつづけていた。原初ドラゴン達が羽ばたく度に暴風が吹き荒れ、その咆哮が、大気を震わせる。
あまりの荒々しさに畏怖を覚えているのか、楽園の空を覆いつくしていたドラゴン達は、あるものは逃げ惑い。またあるものは惨劇の余波に打たれ、憐れにも地面へ叩き付けられていく。
一部のドラゴンは、果敢にも原初ドラゴンへ立ち向かっていくものもいた。だが、それらはすべからく、健闘する間も無く撃墜されていく。
火に焼かれ、翼をもがれ、首を噛み潰されて墜ちていくドラゴン達を、翔吾は震える手を握り締め、ただ黙って見ていることしか出来なかった。
「フム、リンブルムめ。起きてそうそう山を三つ燃やしたか。寝起きの悪い奴だ。イルヤンカは相も変わらず脳筋らしい。見ろ、筋肉の誇示も忘れてはいないぞ? ティアマトは……まぁいい。妾はナルシストに興味はない。しかしまぁ……あいつらあんなに凶暴だったか?」
あくび混じりにそう言いながら、ファーブニルは未だに雲と格闘しながら、可愛らしく首を傾げる。目の前で起きている天災にも等しい出来事をまるで余興のように見る姿に、翔吾は奥歯を噛み締める。
「お前が解き放たれたら、ニーベルゲンが滅ぶって言ってたよな?……あいつらが……原初ドラゴンが滅ぼすって意味か?」
翔吾が声を絞り出すようにしてそう問うと、ファーブニルは「いいや」と首を横に振る。
「さっきも言っただろう? あいつらの身体そのものが、この人工世界ニーベルゲンを豊かにしているのだ。まぁ、あのまま暴れればそりゃあ滅ばないにしろ滅茶苦茶になるだろうが……妾が言ったのはそうではない。あいつらが世界渡りを行使して、ここから離れれば、この世界が枯れていく。そう言ったのだ。恐らくは、ドラゴンもろともな」
「…………おいおい」
もはや、言葉が出なかった。あまりにも唐突かつ、急速に流れていく展開に、翔吾は目を白黒させながら、額にそっと手を当てた。
落ち着け。クールになれ。と、自分に言い聞かせ、翔吾はあんまり無い頭を必死で回転させる。
ニーベルゲンが滅ぶ=明日の生活も危うい。何故なら今の翔吾や真昼にとっては、ラシーダが雇い主であり、ラシーダの故郷であるここが滅びるという事は、ラシーダも帰る場所を失うという事だ。真昼を守るという意味では、それは非常に困る。そして……。
「グ……オオオ……!」
また一匹、ドラゴンが墜落していく。それを身が裂かれるような想いで見ながら、翔吾はただひたすら、何ができるか考える。
この土地が枯れると路頭に迷うのは、他のドラゴン達も同じだ。行き着く先は全滅か。血で血を洗うような共食いか。どのみち、あの美しい世界を一度見た翔吾には、とても容認できるものではなかった。
「兄さん……どう……しましょう? 何処へ逃げれば……」
「わかってる。今考えてる」
焦るな。焦るな……と、己を鼓舞する。
ファーブニルは言っていた。自分を封印するために、ジョージ・ドラグハートは原初ドラゴンを礎にした上で、動力源にした……と。だが……本当にそれが真実か? ファーブニルが復活することで砕けた墓標には何が書いてあった? 『協力を感謝する』捉え方は色々とあれ、無理矢理封印したならば、あんな事を書くだろうか? 勿論、それはこの場においては確かめようがないのだが。
「違う……考えるのはそこじゃない」
頭を振り、一度思考をリセットする。ファーブニルが言っていた滅ぶとは、彼女の封印が解け、原初ドラゴン達が解放された事とは直結しない。彼らは今暴れてはいるが、この世界にいる限りは、ニーベルゲンは戦乱に荒れるにしろ、滅ぶわけではない。そういう意味だろう。
その上で、現状において助かる方法を模索してみる。
一つ。原初ドラゴン達の怒りを沈める。
……どうやって? そもそも、真実やら云々を除けば、向こうには怒りに身を任せる正統な理由がある。こっちの説得でどうこうなるとは思えない。それ以前の問題として、どうやって言葉を交わせというのか?
一つ。世界渡りを止める。
知るかそんなやり方。と、考えた案をすぐに翔吾は放棄した。世界渡りすら原理がわからないのに、翔吾にそんなもの、手に負える訳がない。
一つ。原初ドラゴンを一旦捩じ伏せる。
……却下。あの暴れようを見ればわかる。あんなのを打ち倒せるなんて、よっぽどの怪物だ。原初ドラゴンの因子をもっているのだかは分からないが、少なくとも翔吾は生身の人間。無理だ。
一つ。諦める。
これは……。
直後、背後に地響きと共に何かが墜落する。「きゃう!」と、真昼のびっくりした時の可愛らしい声が響くが、今はそれに悶えている暇はなく。飛来したそれに、ただ目を見開いた。
暗緑色の瞳は濁り。焦げ茶色の鱗は、所々焼け爛れ。頬にある魚の鰭を凶悪にしたような突起物は、今やポッキリと折れている。
傷だらけの巨体を地面に横たえ、息も絶え絶えに呻き声を上げるのは、酷く見覚えのあるドラゴンだった。
「――っ! レオンハルト!」
いつぞや翔吾を助け。――本人にはそんなつもりはなかったかもしれないが――。そして喰らおうとした。――本人は無意識だろうが――。成体の雄ドラゴンだった。
もはや考えるより先に身体が動いていた。ラシーダの背嚢に飛び付き、中から回復薬を引っ張り出す。そのままドラゴンに近づいて……。
「たわけ! 喰い殺されたいのか貴様!」
行こうとした瞬間。翔吾はむんずと襟首を捕まえられた。まるで万力にでも挟まれたかのような力がギリギリと翔吾を締め上げ、翔吾は一瞬で呼吸困難に陥り。直後、背後でピリピリとした緊張感を感じた。
「……おい、小娘。なんの真似だ」
「……兄さんを離せ。は、ちょっと危ないかもしれないので、もう少し優しく掴むことを要求します」
この会話でだいたい何が起きているのか察せられた。暫しの沈黙の後に翔吾を掴んでいた力が緩む。
恐る恐る後ろを向くと、右手で翔吾。左手で本人いわく呪いの雲を抑えたファーブニルと。そんな彼女の目元にピース。もとい目潰しを仕掛けんとする真昼の姿があった。
「手負いのドラゴン程危険なものはない。妾が止めねば、こやつは今頃上半身が断たれていただろうよ」
「でも私が貴方を牽制しなければ、兄さんは酸素供給を絶たれてました。……そりゃ、止めてくれたのには礼を言いますが」
「力加減が難しくてな。……牽制とは大きく出たな? 妾はドラゴンだぞ? 息一つで貴様なぞ二秒で焼き殺せるが?」
「なら私は一秒で眼球に指を入れて、そのまま奥をコリコリ掻いて差し上げましょうか?」
真昼ちゃんエグすぎるよ! とは、言えなかった。取り敢えずいちいち喧嘩腰になるとは乙女としていかがなものか。今度言い聞かせるとして、翔吾はポンポンとファーブニルの手を叩く。
「すまん。気がついたらこうしてた。冷静じゃなかったよ」
頭ではクールに何て言い聞かせてもこの様だ。自分はつくづく頭脳労働が向いてないことを実感していると、ファーブニルは呆れたようにため息をつきながら、翔吾の襟首を離した。
「全く。〝竜言〟も使えぬくせに竜の治療に駆け寄ろうとは……。無茶をする奴だ」
どことなくしみじみしたようにそう呟くファーブニル。暫しの間、自分の髪を弄りながら、彼女は目を泳がせ。やがてその瞳は、翔吾と手に持たれた回復薬。そしてレオンハルトを交互に見て……。
「何故助けようとする?」
そんな問いを投げ掛けた。
「何でって……そりゃあ……」
暫し頭を捻ってから、翔吾は静かに。だが迷いなくこう答えた。
「傷ついてたから……じゃ、ダメなのか? 勿論こっちに敵意や害意を持ってるやつなら、助ける理由はないよ。けど……少なくともズタボロで苦しんでる奴がいたら……。人でもドラゴンでも、駆け寄るだろ普通」
アメジストの瞳が揺らめきながら翔吾を見つめる。懐かしむような。はたまた憂いを浮かべるかのような表情だった。
何か言いたげなファーブニルに、翔吾が戸惑いを浮かべていると、不意に、「兄さん……あれを!」といった声が聞こえた。
真昼が指さす先に、視線を向ける。原初ドラゴン達が暴れていた空の中心に、一匹のドラゴンが滞空していた。赤と黒の斑模様。そして……神々しいまでに立派な角を持つドラゴンだった。
「……プリマーズか。奴が動くという事は……世界渡りが始まるぞ!」
何処と無く待ちわびたとでもいうかのように、ファーブニルは身を乗り出す。右肩につく紫色の雲を鬱陶しそうに押し退けつつ、竜の少女は、身を震わせ、再び竜翼を広げた。
「さて、タイムリミットが近いらしい。妾は今度こそ行くが……十一番目。妾と来るか? お前は〝特別〟だ。妾の下に来ると言うならば、連れていっても……」
「ダメです。兄さんを貴女のような痴女には渡せません」
唐突に翔吾にかけられた言葉を、真昼が直ぐ様遮ぎった。ピクリとファーブニルの眉が動くが、真昼はお構いなしに「ね、兄さん?」とでも言うかのように、此方に同意を求めてくる。翔吾はもう、頷くしかない。勿論、元から行く気はさらさらないが。
「……そうか。残念だ。ま、無理強いはしないさ。妾は従順な奴隷が欲しいのでな。十一番目の力は惜しいが……妾の目的にはあまり関係ない」
何処かすましたような。だが、微かに拗ねた様子で、ファーブニルはそっぽを向く。その瞬間、彼女の両翼が、風を捉えるように羽ばたき始める。
「ではの。精々生き延びよ」
それだけ言い残し、ファーブニルは天高く飛翔する。その後ろ姿を見送っていると、翔吾は手に痺れを感じた。……強く握り込み過ぎたらしい。
静かに拳を開けば、どうしようもない無力感が翔吾を襲い……。
気がつけば、翔吾は傍らで座り込むラシーダを見つめていた。
「世界渡り……始まるって……」
途切れ途切れに告げるが、ラシーダは答えない。
「あいつらがここからいなくなれば……滅ぶって……」
滅ぶ。その単語にだけ、ラシーダは僅かに反応を見せた。
「どうして……こうなったのか、俺にはさっぱり分からない。お前にも……分からないのかもしれないけど……」
訴える翔吾の方に、ラシーダの目が向けられる。いつもの凛々しい姿はそこになく、今は迷子になった子どものようだった。
「このまま……見てるしか出来ないのかよ……!」
翔吾の呟きに、ラシーダは唇を噛み締める。サファイアのような瞳が潤ませながら、やがて少女はポツリと呟く。
「どうしろって……言うのよ。頭の中……滅茶苦茶なのよ……! 世界渡りをするのを止めるって事は、原初の十竜と渡り合わねばならないわ。よしんば止められたとして、その後は!? また彼らに動力源になれと?」
「そうじゃない! ファーブニルの話を聞いて、今の現状見てみろ! 多分封印されてたのは、〝ファーブニルを繋ぎ止める為〟だ。理由は知らないけどな。あいつらは、生きてここにいる分には、ニーベルゲンの力になる。また封印何て方法しなくても……」
「そんなのわからないじゃない!」
「いや、そうだけど! 向こうの話くらいは聞けないのかよ? お前、ドラゴンと話せるんだろ?」
「そりゃ……! 出来るけど! 今すぐに原初の十竜のとこまで飛んでいってコンタクトを取るにしろ、相手は十体よ? 怒れるドラゴン一頭を説得する。あるいは爪で語り合う。その間に世界渡りを行使されたら終わり! いいえ、それ以前に……」
ラシーダは肩を抱いたまま俯き、己の腕に爪を立てる。震えながら紡がれた言葉は、あまりにも弱々しかった。
「何の真実も知らなかった私の言葉が……。彼らに届くとは思えない……! ねぇ、教えてよ。語れるなら、私は彼らと語りたい。怒りを沈めたい。謝りたい。けど、けど……時間が! 何をするにも時間が足りなすぎる……! 方法が思い付かないの! どうすれば……どうすればいいの? 翔吾ぉ……」
慟哭するラシーダ。沈黙したまま、こちらを不安げに見る真昼。そして翔吾は……ラシーダの言葉を聞きながら、今尚考えつづけていた。
一つの条件はクリアした。先程考えた案は、あくまで翔吾一人ならば無理だった話である。
ラシーダが動けるならば、話は変わってくるかもしれない。
原初ドラゴン達の怒りを沈める。
世界渡りを止める。
原初ドラゴンを一旦捩じ伏せる。
どれも簡単ではないにしろ、試す価値はある。だが問題は……。
「時間……。くそっ、こう考えてるより切り込んだ方がいいのか?」
「バカですか兄さん。それこそ犬死にで無駄死にに行くようなものです。ドラゴンの晩御飯になるのがオチですよ!」
「……けど、ここで議論してもどのみち……ん?」
そこでふと、翔吾に電流が走る。冷や汗か、それとも興奮からくる汗か。背中が瞬時に湿り気を帯び、血が冷たくなるのがわかった。
「真昼ちゃん、さっきの言葉もう一回」
「……? バカですか? 兄さん?」
「違う、その後」
「……犬死に無駄死に?」
「更に後」
「ドラゴンの晩御飯になるのがオチ……」
「それだ!」
翔吾の大声に、真昼がビクリと肩を跳ね上げ、ラシーダが目をしばたかせる。そんな二人をよそに、翔吾は再び背嚢を漁り……目的の物を手に取った。
「に、兄さん? 何を……まさか……!」
それを目にした真昼が目に見えて狼狽する。ラシーダもまた、唖然とした表情で翔吾と、翔吾が手にしているそれに目を向けた。
あまりにも予想通りな二人の反応に苦笑いしつつも、翔吾は迷いを断つかのように、それを握り締めた。
時間がない。だが、それを無理矢理作る方法が一つだけある。
「……なぁ、要するに、あいつらの世界渡りを止めて。かつ時間を作ればいいんだろ?」
恐怖を押さえ付け、翔吾は無理矢理に不敵な笑みを作る。
その手には、一振りのナイフが握られていた。
一つ。諦める。それは……無理な相談だった。




