13.魔竜王ファーブニル
「翔吾!」
「兄さん!」
後ろの通路から、ラシーダと真昼が勢いよく走り込んできた。息を切らせながら走る二人は、まず翔吾を捉え、次に発光する扉を確認し、直ぐ様翔吾の元へ駆け寄った。
「翔吾。一体これは……」
チラリと、肩に乗る小竜を見る。クェツアコアトルは、既に黙して何も語らない。言うべきか迷ったが、今この場で話しても、混乱を増すだけだろう。故に翔吾は、今優先すべき事に天秤を傾けた。
「説明したいけど、脱出した方がいい。ここは絶対ヤバイ! ただの人間の俺ですら分かるくらいだ……」
「……まぁ、そうした方がいいでしょうね。何ですこれ。扉という扉が輝くなんて。ファッションショーでも始まるんですか?」
「ショー……ね。ふぁっしょんってのが何なのか分からないけど、生憎ここにいる種族は限られるわ。芸をするドラゴンといえば……。いえ、今はいいわね」
ただならぬ雰囲気を感じていたのは翔吾だけではないらしい。ラシーダも真昼も、ジョークを飛ばしつつも少しばかり青ざめた顔のまま、静かに頷いた。
「でも、逃げるとしてどこにします? 瓦礫に埋まって、空すら拝めませんが?」
「私が二人を抱えて飛ぶわ。神殿の屋根が落ちてきて、そのまま天井になってしまっているなら、至近距離での竜の息で、簡単に吹き飛ばせる筈よ」
「……脳筋ですこと」
「なんか頼りっぱなしでスマン。その後は……」
だが、翔吾の言葉はそこで遮られた。背後で重々しい音を立てて、納骨室の扉が跳ね開けられたのだ。
誰もが、声を出すことが出来なかった。
全員の視線がそこに集まる中、開いた納骨室への入り口の縁に、白い手がかけられる。中からヌルリと這い出るようにして、それは現れた。
出てきたのは、人間だった。長い髪は色素が薄い紫色で、その人物が立ち上がって尚、地面にまで届き、引き摺られている。
歳のほどは、翔吾と同じか……。いや、だいぶ下だろうか。こっちを伺うようなアメジストの瞳には、あどけなさと鋭さが混在していた。
「女の……子?」
思わず真昼が呟くと、そこにいた人物は、口元を三日月型に歪め、まるで嘲るように嗤う。
衣一つ纏わぬその姿は、なるほど。女性特有の丸みと、少女特有の未成熟さを感じさせる。そんな絶妙なラインを兼ね備えているようで、何処か危険な魅力を匂わせる。
あまりにも予想外な出来事を前にして、翔吾達はただ呆然とするより他はない。少女はそこで、初めて口を開いた。
「出れた……アハッ! 出れた出れた出れたぁ!」
キャッキャと全裸のままはしゃぎ回る少女。飛びはね。手を叩く様は、成る程。年相応だ。故に、翔吾はおろか、真昼も。ラシーダすら、少女がピョコピョコ跳ねながらも、こちらへ近づいているのに対して、全くの無警戒だった。
不意に少女はひとっとびに翔吾の前に立ち……。その紫色の瞳を僅かに細めた。
「……お前だな。十一番目は。そうかそうか。人間なんだな。今は」
荘厳さを感じさせるような声で、その少女は翔吾を見ながら舌舐めづりをし、そして――。
「解放してくれて、感謝するよ人間。これは礼だ。遠慮せずに受け取れ」
瞬間移動を思わせる速さで、少女は翔吾の懐へ入り込むと、いきなり腕を翔吾の後頭部に回す。あれよという間に翔吾は引き寄せられ……。
「むぐぅ!?」
まるでかぶりつくかのような、とびっきり熱いベーゼをお見舞いされた。
「ん……ふっ、んむぁ」
くぐもった甘やかな声が、翔吾の耳にこびりつく。引きはなそうにも少女の腕の力が強すぎて、翔吾は初めての女子との口付けを楽しむよりも、純粋に背骨の危機に晒されていた。
「ん……御馳走様。流石は十一番目。極上だな」
翔吾の唇を、歯を、舌を一通り蹂躙し、少女は満足気に笑う。無邪気さと悪意を一緒くたにしたような笑みは、無意識に翔吾の背筋を凍らせて……。
「兄さんに何さしますかこの痴女ぉ!」
一瞬にして、真昼の顔を般若のそれにした。
「ちょ、真昼ちゃん? その背嚢私の……ま、待って! そこそこ貴重なものも入ってるから止め……」
「関係ない! 関係ねぇんですよぉお! あとちゃん付けえぇ!」
ラシーダの制止も何のその。背嚢を振り回し、真昼は無防備な少女と、抱きすくめられた翔吾めがけて、まさに鉄槌というに相応しい一撃を見舞う。
直後、鈍い殴打音と共に、腹部を強打された翔吾はその場に崩れ落ちた。
「……生きてる?」
「……とばっちりだろこれ」
ラシーダは倒れた翔吾の傍にしゃがみこみ、どこか哀れむように翔吾をつつく。真昼はというと、「外しましたか……」等と宣いながら、後方へ飛ぶようにして難を逃れた少女を睨む。
その少女はというと、何処か面白そうに嗤いながら、真昼とラシーダ。最後に倒れ付した翔吾を見た。
「女よ……妾に牙を剥くのか? 小さく儚い人間風情が、この妾に? ……冗談だろう?」
完全に見下した視線が此方に向けられる。瞳孔が細められ、爬虫類を思わせる鋭い眼光が灯った。その輝きに、翔吾は何処と無く既視感を覚えた。
「……ラシーダさん、ニーベルゲンって許可された方しか入れないんでしたよね? あの痴女は……お知り合いですか?」
「……三人目。いえ、もしかしたら四人目の例外よ。ついでに言えば、こんな地下空間があることすら知らなかったわ。……流石に泣きたくなってきた」
真昼の説明に、ラシーダは複雑そうな顔のまま答える。ここ数日で、次から次へと来るイレギュラー。ラシーダも流石に自信喪失してきたのか、声に覇気がない。すると、少女はラシーダをマジマジと見ながら、急に高笑いを浮かべた。
「オイ。オイオイオイ! これは傑作だな。その金髪碧眼……お前、ジョージの孫娘か? いや、曾孫辺りか? ドラグハートの一族の癖に妾が誰か知らんと? ジョージの奴め、とんだ阿呆だな。妾に魔力を削り取られ、一族もろとも肝まで小さく成り下がったらしい」
可笑しくて堪らないというかのように、少女はゲラゲラ笑う。笑いに笑い、一頻り満足したのか、少女はこれまでにない冷たい目で、此方を見る。
「聞け。十一番目と小さき女。そして、ドラグハートの末裔よ。妾の名は――」
両手を広げ、自身の存在を知らしめるかのように少女はその名を告げる。
「妾の名はファーブニル。英雄殺し――虐殺の竜、ファーブニル。この忌まわしき檻、ニーベルゲンに封じられていた、魔竜王なり」
自らをそう名乗った少女。ファーブニルは、名乗り終わりと共に、ぐるりと周囲を見渡した。光の脈動を見渡したファーブニルは、「もうすぐか……」と、呟きながら、退屈そうにため息をついた。
「さて、妾を知らなかった、ドラグハートの末裔にこんなことを言うのも難だが……。妾が起きた以上、じきにこのニーベルゲンは滅びるぞ。さっさと逃げることをオススメする」
まるで近所に買い物へ行くとでも言い出したかのような軽々しさで、ファーブニルはとんでもないことを告げる。
それに反応したのは、他ならぬラシーダだった。
「な、何を……言っているの? 滅びる!? だ、ダメよ! ここがどれだけ貴重な場所か分かって……」
「ああ、分かっているともさ。絶滅種、稀少種、未確認種。他、多種多様のドラゴン達が、この世界にすんでいる。それぞれに理想的な環境を維持するための術やシステムがこの核にある訳だが……。不思議には思わなかったか? そんな膨大なエネルギーを、ジョージ亡き後の腑抜けたお前の一族で賄いきれるのか……システムだからと疑いもなく使っていたものが一体どういったものなのか……」
ファーブニルの小馬鹿にしたような口調に、ラシーダは唇を噛み締める。
知らないのだ。その様子を見て、翔吾はそう直感した。
「憐れなドラグハートの末裔よ。真実を教えてやろう。ジョージは、妾の危険性に恐怖した。故に、原初ドラゴンの力を使い、奴らもろとも妾を封印した。それにより完成した牢獄が、このニーベルゲン。そして……」
光輝く十の扉を見渡しながら、ファーブニルは答えを告げる。
「そして、その動力にされたのが、妾と原初の十竜だ。ここはドラゴンの楽園などではない。それは間違った歴史を教えられた、お前の一族の……妄想だ」
「な、何を根拠に……! ドラゴン達は、自由に生きているわ! 原初の十竜が動力源にされいる根拠だって……」
ラシーダの反論を一蹴しながら、ファーブニルは「時間だな……」と呟き、指を鳴らす。扉の光が、パタパタと消えていく。まるで一斉に店仕舞いを開始した商店街のようだった。景色は変わっていく。扉すべてに小さな亀裂が入り、ピキリ。ピキリと、それは侵食箇所を拡大。軈て崩壊した。
「……おい」
翔吾の口から思わず固い声が出る。崩壊したそれぞれの扉の向こうにいたのは、確かにドラゴンだった。
暗がりの中、それらは小さな空間の中にまるで磔のようにして封印されていた。身体には、幾重にもくくりつけられた鎖。顎には頑丈そうな猿轡をされている。他に杭まで射たれている竜や、重石を上に置かれている竜など、待遇に違いはあれど、ドラゴン達を抑え込む器具――。その表面には、紫色の幾何学的な紋様が、怪しく浮かび上がっていた。一目みて、ただの鎖でないことは明白だ。
「そん……な……」
ラシーダは、足元から崩れ落ち、床に座り込む。
身を震わしながら己の肩を抱くラシーダに何と声を掛ければいいだろうか。翔吾には、分からなかった。ドラゴンが不可侵な筈の聖域には、ドラゴンが幽閉されていた。しかもドラゴンの意志をねじ曲げ、その膨大なエネルギーを利用するという最悪の形で。
うつむくラシーダを見たファーブニルは、満足気な顔で鼻を鳴らす。
「妾が起きた事で、こいつらの封印もじきに解けるだろう。動力源だったこやつらが自由になる……。結果、このニーベルゲンは滅びるだろう。その場にいるドラゴン達もろともな」
傲慢で、人を嘲るような笑みを浮かべていたファーブニルが、ほんの少しだけ無表情になる。が、それも一瞬だった。ファーブニルは直ぐ様片手を振り上げる。と、まるで何かを振り払うように目を伏せた。
「まぁ、いい。妾には関係のないことだ。さて。ジョージという邪魔者はいない。これでようやく。妾は〝己の願い〟を叶えに行ける……!」
刹那、天井が蒸発した。高温の熱風がファーブニルの周囲から放たれ、此方にまでその余波が来る。何が起こったのか、翔吾には把握出来なかった。ただ、地下深くにあった筈のこの場所に、日の光が射し込んできたのだけが、辛うじて見えた。
この場で、手をかざしただけで。ファーブニルは地下空間の天井を破壊してみせたのだ。
「むぅ、なまっているな。出口は出来たからまぁよしとするか。これでは全盛期に戻るまで、どれ程かかるかなぁ」
気だるげにそう述べながら、ファーブニルチラリと此方に顔を向ける。未だに俯くラシーダ。油断なく睨み付ける真昼。動揺する翔吾を順番に見渡してから、ファーブニルはため息をつく。
「逃げろと、警告したのだがな。取り敢えずこの世界は滅びるぞ。ジョージの末裔なら、恐らくは世界渡りだろう? 今日のことはすっぱり忘れて、争いのない世界にでも行くんだな」
声に僅かな憐れみを見せ、ファーブニルは目を細めた。アメジストの瞳が、蠱惑的な輝きを放つと同時に、彼女の背中に見事な竜翼が展開される。その瞬間、ファーブニルの足元から紫色の閃光が弾けては消えを繰り返し――。
「ではの」
その言葉と共に、世界が一変した。視界一杯を覆い尽くす紫。
目が馬鹿になりそうなそれは、ストロボのように瞬き、ようやく光が収まった頃。残された翔吾に聞こえてきたのは雷鳴と風。そして、何か堅いものが砕け散る音。そして――。
「グルゥウウゥアアアアア!!」
のべ十方向から轟く、怒りと怨嗟に満ち満ちた、原初ドラゴン達の咆哮だった。




