10.実験と経緯
暗い牢獄に、繋がれている少女がいた。
全身がんじがらめ。逃げ場などなく。ただ孤独の淵で涙を流していた。
望みがあった。どうしても叶えたい望みが。だが少女のそれは否定され、結果、彼女は幽閉された。
望んだことは、些細なこと。されどそれは、もう消して叶えられない幻だった。それでも……。
「もう一度……もう一度でいいのだ……!」
呻くように、少女は鎖まみれの腕を虚空に伸ばす。
まるで誰かがそこから救い上げてくれるのを待ち望むように。否。誰かがではない。少女は今真っ直ぐに〝翔吾〟を見つめていた。
「十一番目よ……。はやく、早く来てくれ。妾を……自由に……」
懇願するように、少女は翔吾へ手を伸ばす。
伸びきった紫色の髪の隙間から覗く、涙に濡れたアメジストの瞳。真っ直ぐに翔吾を映すそれは、悲哀と絶望にまみれながらも。その奥に、確かな凛とした光が見えて――。
「……んぁ?」
鳥の囀ずる声と、顔を照らす日の光で、八神翔吾はゆっくりと微睡みから覚醒した。顔を上げれば、そこは、ここ数日ですっかりお馴染みとなった、屋敷の寝室。身体の節々が痛いのは、昨夜、ベットに突っ伏して眠るという、慣れない体勢でいたためか。
「……っ、くぁ……」
身を伸ばしながら、翔吾は肩と首の骨を鳴らす。何時に寝たのかは覚えていない。異世界に時計の概念があった事にも驚きではあるが、もうそういった衝撃はこれからいくらでもかち合うのだろう。そう思いながら、翔吾は視線をずらす。
白いベットの上には、こんこんと眠り続ける真昼の姿があった。枕元の小テーブルには、香炉が置かれている。ラシーダ曰く疲れが取れる薬草の香りらしい。それを一晩中焚いて尚ぐっすりと眠れたという事は、よほど疲れていたのだろう。罪悪感やら色々なものが翔吾の中に渦巻くと共に、強い決意の念が芽生えてくる。
護らなければ。
思うのは、それ一つ。たとえ正面からやりあえば、色々な意味で真昼が圧勝するのだとしても。兄には兄の意地がある。
どうやったのかは分からないが、ついてきてしまった。兄である自分を追って。それならば責任は取らねばなるまい。起こさないように真昼の髪を撫でながら、翔吾は静かに息をつく。
夢で家族を泣かせるな。自分に課した信条のようなもの。帰る方法がない。これは真昼も知らないだろう。そうなった以上、真昼も異世界で生きねばならない。まずは真昼がそれを受け入れてくれるかだが……。
「んっ……翔吾?」
そこまで翔吾が考えていた所で、背後からくぐもった声がする。振り返ると、部屋の壁に背を預けるようにして、ラシーダがそこにいた。寝惚け眼をこすっている所を見ると、あの体勢で寝入っていたようだ。
「おはよう。ラシーダ」
「ん……おあよ。……真昼ちゃんは?」
あくび混じりに話すからか、単に朝が苦手なだけか。呂律の回らぬラシーダに、首を横に振って答える。三日間寝ずに起きて、異世界に渡ってきたのだ。ついでに何故か、握られていた包丁には、血を拭ったような後すらある。それは、もしかしたら翔吾と同じく、ゴブリンやその他の魔物とやり合った可能性を意味していた。もしかしたら、今日もこのまま眠ったままかもしれない。
「真昼が起きない訳だが……今日はどうする?」
「そうね。眠っているとはいえ、真昼ちゃんがいる以上、部屋は開けられないわ。一応この屋敷は私の〝工房〟のようなものだし」
のそのそと起き上がり、昨夜のきびきびした動きは何処へ行ったのやら。危うげな手つきで香炉の中身を取り替えるラシーダ。それをぼんやり眺めながら、翔吾は今後の方針を問う。返ってきた答えは現状維持。それにいささかホッとした。
今日も生態調査を決行したとしたら、翔吾は真昼が気になって仕方がなかった事だろう。もっとも、ラシーダの方は少しの警戒を含んでいるのかもしれないが。
「とはいえ、そのまま引きこもるのはアレだから、朝食の前に少し実験をしましょう」
「実験?」
思わず首を傾げる翔吾に、ラシーダは静かに頷く。眠気が覚めてきたのか、凛々しい表情になりつつある彼女。だが、惜しむらくは本人が気づいていない寝癖だろうか。頭頂でぴょこんと跳ね上がったアホ毛のせいで、色々と台無しだった。
尤も、そこは漢な八神翔吾。笑いと突っ込みを必死に抑え、至極真面目な顔の御主人が口にする方針に耳を傾ける事に努力して……。
「ちょっとした人体実験よ。貴方の血を少し分けて貰って。あと、ドラゴンの目の前で軽くでいいわ。流血して欲しいの」
「……はひ?」
努力をして……。
「ワ、ワンモアプリーズ?」
「だから。ちょっとだけ血を抜かせて。あと、ドラゴンの前で流血してみせて? あ、本当に軽くでいいわ。傷もポーションを塗り込んであげるし、対峙するドラゴンも竜避けの結界内で、一匹だけよ。昨日みたいに行く先来る先のドラゴンが襲ってくることはないから」
「えっと……ラシーダサン?」
それはそれは努力をして……。
「あ、大丈夫よ。血を流す時は、また昨日みたいに抱えていてあげる。竜の因子を出しきる訳じゃないから、私が豹変する事もない。貴方の身の安全は保証するわ」
「……お、おう」
ラシーダの言うことを理解しようとした。目を見れば本気だと分かる。分かってしまう。現実逃避にラシーダのアホ毛に視線を向ければ、彼女はハッとしたように目を見開いて、顔を赤らめながらいそいそと手櫛で寝癖を処理してしまった。
「ごめんなさい。戸惑うのはわかるわ。でも、これは必要な事よ。貴方の血には何かがある。ドラゴンの楽園においてそれを分からないままにしておくのは、あまりにも危険すぎるわ。本当なら初日に調べるべきだったけど……その……」
「ま、まぁ、互いにあの事は忘れようとしてたからな」
「そういう事よ。けど、そんな事言ってられない事が昨日分かったわ。ドラゴンの専門家として言わせていただくならば、貴方のようなケースは初めてなの」
放置すべきではないわ。そう言うラシーダに、翔吾は観念したかのように頷いて。
「お手柔らかに頼むぜ」
その申し出を受け入れた。さっきまで身を委ねていた奇妙な夢は、既に彼の頭からは忘却されていた。
※
「成る程。それが私が目覚めて。大きな音がしたから庭に出てみた結果、目撃した光景の理由……と」
「イ、イェス」
「兄さんがラシーダさんにハリウッドのヒロイン宜しくお姫様抱っこされながら、炎を背景に地面に舞い降りてきたのも、実験と」
「い、いや、何か思いの外ハッスルしちゃったらしくて」
ドラゴンが。という言葉を出すより早く、真昼の手によって銀製のフォークが翔吾に突き刺さる。ぐぉおお……! と、額を抑えながら崩れ落ちる翔吾の対面で、この度めでたく目を覚ました真昼は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。ご立腹である。
ある意味で間の悪い事に実験中に目を覚ました真昼。兄がいない。何だか奇妙な気配もするという訳で、何処から持ち出したのかフライパンとお鍋で武装し、真昼は外に飛び出してきた。そこで見たのは……。
草原で倒れるドラゴンと、そのそばへ着地した兄……を抱えた泥棒猫の姿だった。
半ば無意識でフライパンと鍋を翔吾の顔面に命中させたのは、真昼曰くご愛敬らしい。
何だかんだ一波乱あれど、今はこうして屋敷に戻り、朝食の席についてくれて。そのままあれこれと説明を聞いてくれている辺り、昨日の狂乱は落ち着いたらしい。
「で、結局ドラゴンから見て兄さんが美味しそうなのは確定という事ですか?」
「うん、まぁそうなるらしい」
色々と検証した結果。翔吾の血の効力は次の通り。
一つ。ドラゴンを引き寄せる。
その間、ドラゴンの理性は殆ど蒸発しており、普段の魔法や自分の身の危険に対する警戒も消え、翔吾を食べることに集中してしまう。
二つ。翔吾の血を飲むと、ドラゴンは元気になる。魔力の増幅も確認。
三つ。瓶詰め密閉した血には反応せず。だが、一度外気にさらせば、ドラゴンは再び寄ってくる。色彩よりも匂いや味がドラゴンを惑わせる由来らしい。
四つ。効果範囲は、ドラゴンの嗅覚に依存する。距離が離れていては、たとえ出血しても効果無し。
五つ。流血していない翔吾をドラゴンの前に配置した場合は、普通の人間を見た時と同じ反応を見せた。気にもとめなかったり、縄張りを侵したとして襲いかかってくるか。意味なくいたぶりにくるか。少なくとも、涎を撒き散らしながら無警戒にがっついてくる事はなかった。
最後に。ラシーダが初対面で変貌したのは、彼女の能力に由来する。あの時彼女は最上級に警戒していた。爪、翼、鱗以外にも、尾と角はいつでも伸ばせるように。口の中では竜の息がいつでも発射できるよう待機。目も、鼻もドラゴンの力に切り替え、いかなる挙動も見逃すまいとした状態――。つまり、翔吾が直感した通り、人間よりも限りなくドラゴンに近い状態だったらしい。故にあの夜、彼女は翔吾の流血を見て、暴走してしまったとの事らしい。
尚、これらの効果はやはりドラゴン限定で作用するらしい。
取り敢えずゴブリンには全く効果無し。他の生物にも恐らく同様ではないか。というのがラシーダの見解だった。
「何だか皮肉ですねぇ。ドラゴン好きなのにドラゴンから見たら極上な夕食だなんて。猫が好きなのに猫アレルギーな人みたいです」
「何か凄い俗っぽい特徴になったなぁオイ。って、そうじゃなくてさ真昼さんや」
なかなか悲しくなりそうな真昼の喩えを流して、翔吾は額を抑えていた手を離し、真昼を真っ直ぐに見る。
世界と状況について説明した。にも拘らず、真昼の反応は余りにも淡白すぎた。怖くて言葉がでないのか。それとも……。
「真昼。あのな」
「帰れない事は既に問題ではないですよ。私からすれば、兄さんがいない世界の方が耐えられません。……後悔などない。兄さんがいる世界こそが、私の世界です」
迷いなくそう述べた真昼を、翔吾は暫く呆けたように見つめていた。が、やがてその表情は柔らかくなり。
「お兄ちゃんっ子め」
「……ですよねー。そこでそう捉えちゃうのが兄さんでした。……もう少し倒錯してみては?」
「お前たまに笑えない冗談言うの止めなさい」
いつもの八神家のやりとりに戻る。住む世界が変わっても、結局自分が帰る場所はこの子の所なのだと実感しながら、翔吾は改めて真昼に手を伸ばし、その柔らかな髪を撫でる。
「……また会えてよかった」
「ホントにそう思ってますかぁー?」
「オイオイ。お兄ちゃんは悪いが真昼が大好きなんだぜ?」
「はいはい。ライクですよね。ラブでも家族がつきますよね。ドロドロに溶けて堕ちていくタイプではないですよね」
「お前は兄に何を求めているんだ」
苦笑い混じりに手を離せば、真昼が何となく名残惜しげな表情になる。それを横目に翔吾はキッチンへ視線を向ける。エプロンを装備したラシーダが、今まさに朝食の準備真っ最中だった。パンとソーセージだけは。パンとソーセージだけはいい匂いがする。他は……。
「悪い。任せっぱなしで。今手伝うよ」
「あら、いいわよ。座ってて。もう終わるから」
遅かった……。という顔になる翔吾。「なんですかそのやり取り。当て付けですか。当て付けなんですか?」と、何故か怒る真昼。そんな混沌としたダイニングテーブルに、勇者は出来上がった朝食を片手に、にこやかに舞い降りた。
「パンとソーセージソテー。ベイクドビーンズにトマトのピクルス。オムレ……スクランブルエッグよ。お口に合えばいいけれど」
「お前の卵料理は全部スクランブルエッグな気がするが気のせいか?」
「……気のせいよ。別にサニーサイドアップやオムレツが作れないわけではないもの。楽じゃないスクランブルエッグ。美味しいじゃないスクランブルエッグ」
二日目の朝食にも出たスクランブルエッグは、目玉焼きを何だか頑張ったけどグチャグチャになったようにしか見えなかったが……。翔吾はそこで、考えることを放棄した。
「……いただきます」
一方で、真昼は素直に手を合わせた。恐らくろくなものを食べていなかったであろう真昼にとっては、栄養補給が優先らしい。
……ラシーダに一瞬だけ恨めしげな視線を向けたのは、翔吾は見なかった事にした。どうにも敵対心を抱いているらしい。
思い返してみれば翔吾が知り合う女の子には皆似たような反応をしていたような気もするが。
「真昼ちゃん。食べたらちょっと質問が……」
「ちゃん付けは止めてください。……何か嫌です。呼び捨てか八神さんで結構です」
「あ、うん。分かったわ。じゃあ、真昼。この世界の管理者として、色々と聞きたいことがあるの。朝食の後に時間を貰っても構わないかしら?」
「尋問ですか。別に食べながらでもかまいませんよ。というか、管理者さんでしたか。まぁ、どうでもいいです。兄さんに危害さえ及ばなければ」
真昼ちゃん刺々しすぎるよ。とは、言えなかった。翔吾も命が惜しいのである。だが、そんな言葉の刃もどこ吹く風。ラシーダは至って普通に真昼へ応対する。……案外剛の者なのかもしれない。そんな感想を翔吾は抱いた。
「じゃあ、遠慮なく。貴方はどうやってここ、ニーベルゲンヘ? ここは一応、本来部外者は入れない筈の世界なんだけど……。お兄さんと同じく、石板とやらを使ってかしら?」
それにしてもちょっと不思議だけど。と付け加えるラシーダに、真昼は首を傾げ……。
「えっと、実は分からないんです。あれは石板を使って。なのでしょうか?」
珍しく困惑したような様子を見せる真昼。どういう事? と、ラシーダが再度問いかけると、真昼はポツリポツリと語り始める。
「兄さんは、アレに触れた途端にいなくなりました。けど、私は此方の映像を見せられるだけで、触ってもウンともスンとも言いませんでしたし」
「……ちょっと待って。世界渡り器が……件の石板がそっちに残っていたですって?」
顔をひくつかせながら、ラシーダが確認すると、真昼は「世界渡り器?」と首を傾げながらも小さく頷く。
「何かおかしいのか?」
「世界渡り器は、ちゃんとした通常のものなら、世界を渡った時、渡った者と一緒にその世界に来る筈なのよ。消滅するのはほんの一握り。一回限りしか世界を渡れないもの。翔吾がここに来た時はそれらしきものはなかったから、私はてっきり……」
頭を抱えながら、ラシーダは訳が分からないといった様に百面相する。彼女からすれば、翔吾が来てからは訳のわからぬ想定外な事の連続なのだろう。翔吾は少しだけ申し訳なくて、暫し言葉を失っていた。
「えっと……続き話しても?」
おずおずと問う真昼。ラシーダは我に返ったかのように、どうぞどうぞ。と、話の続きを促した。
「えっと、結局触っても何も起きなくて。あれこれ試してるうちにイライラしてきて……その」
少しだけ恥じらうように、真昼はテヘッと舌を出し。
「石板に踵落としをかましたら……それはそれは見事に粉々に砕けてしまいまして。で、気がついたらここにいました」
真昼ちゃん、破天荒すぎるよ。とは、言えなかった。それ以上に気にかけてやるべき相手が、翔吾のすぐそばにいた。
「ラ、ラシーダ……?」
「もうやだ。訳分かんない。ニーベルゲンで一体何が起きてるの?」
ご主人様たるラシーダは、半分涙目のまま、ヘナヘナと椅子に崩れ落ちた。




