パンツ覗かれ命拾う
西の空が茜色に染まり、駅周辺は帰宅ラッシュに向け、着々とその人口密度を高めつつある。あと一時間もすれば完成するであろう人の群れを一人の女がビルの屋上から見下ろしていた。
女の名は坂下。このビルで働く31歳の独身だ。
「あーあ、どうして私はこんななんだろ」
坂下はため息混じりにポツリと呟く。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
ビルの上から眺める光景は、騒がしく慌ただしく、人と車がひっきりなしに動いていた。自分もこの後、あの中に飛び込まなければならないと思うと、余計に気分が落ち込んだ。
「ハァ……」
坂下がさっきよりも深いため息をつくと、男の声でこう聞こえた。
「ため息ばかりじゃ幸せ逃げますよ」
坂下は急に声を掛けられ、驚き後ろを振り向いた。しかし振り向いた先には、男はおろか、人一人の気配もなかった。
……聞き間違い?
坂下はさっきの声は空耳か幻聴だと思い、その場にしゃがみこんだ。きっと精神的に弱ってるし疲れてるから変な声が聞こえるんだと。
そう考えていると、また男の声が聞こえてきた。
「あぁ、しゃがんじゃダメですよ」
坂下は空耳か幻聴かわからぬ謎の声を聞き、反射的に立ち上がってしまった。
「そう、その方が良い。その方が良く見える」
自分の精神状態が妙な声を誘うのか、ひどく混乱した坂下の脳内だが、次の男の一言で冷静さを取り戻せた。
「その方が良く見えるんです…………お姉さんのパンツ」
どうやら先ほどから坂下に話しかけていた謎の声の正体は変態だったらしい。
自分に声を掛けてくる姿の見えない得体の知れない何かに一時は混乱したが、その目的が覗きだとわかると一転、あれやこれやと考えていたことが馬鹿馬鹿しくなり坂下は声をあげて笑っていた。
「いい笑顔できるじゃないですか。その笑顔、お姉さんのパンツに負けず劣らずですよ」
「パンツに負けず劣らずの笑顔ってなんだよ。てか本体が下着に負けてたらアウトでしょ」
坂下が姿の見えない変態にツッコミを入れる。もうさっきまでの沈んだ気持ちではなく、気付けば悩むのが馬鹿らしくなるような、どこか吹っ切れた気持ちになっていた。
それからしばらく、坂下は姿の見えない変態とパンツの話で盛り上がった。色、素材、値段、用途。さらにメーカーやブランド、どこが安いかどこが品揃えが良いかといった販売店情報。はたまた洗濯の仕方から下着泥棒対策まで。
一体なぜこの変態はこんなにも下着情報に詳しいのか。坂下は気になり姿の見えない変態に尋ねた。
「あなたはどうしてそんなにも詳しいの」
姿の見えない変態はこう答えた。
「私も最初からこんなに詳しかった訳ではないのですよ。あ、いや、女性のパンツは最初から大好きでしたけどね」
「何年もここにいるとね、お姉さんみたいな女性かがたまに来られるんですよ」
「ここに一人でくる女性は皆決まって、何か悩みや絶望を抱えてやって来ます」
「もうどうなっても構わないという方がほとんどでして。そういう女性はパンツの一つや二つ快く見せてくださるんですよ。……中には怒ってお帰りになる方も居ましたがね」
「不思議なことに、私にパンツを見られた方達は皆、笑顔になる」
「笑顔になった後はあなたと同じように、たわいもない話をして、少しスッキリした表情でお帰りになる。あぁ、なぜ私が下着に詳しいかと言うといつも話題の中心が下着だったからですよ」
姿の見えない変態との会話を終えた後、坂下もこれまでの女性達と同様に、少しスッキリした表情で屋上を後にした。
今日もし、坂下が姿の見えない変態と出会わなければどうなっていただろうか。
「久しぶりに声をあげて笑ったかもしれない」
駅前の交差点で信号待ちをしながら坂下は呟いた。ため息混じりの呟きではなく、はにかみながらの呟きだった。
信号が青に代わりに、人の群れが一斉に動きだす。一時間前は憂鬱に感じてならなかった人の群れも帰宅ラッシュも、今はなんとも思わなくなっていた。
坂下は電車で帰宅する前に、寄りたい店が一つあった。そこは姿の見えない変態が一押しする店だった。
店の前まで来て坂下は思い出す。
「私には黒が一番似合うって本当かよ」
姿の見えない変態の言葉に疑問を残しつつ、坂下は店のドアを開け店内へと進んでいく。