九.終わる。
事件もクライマックス。
「火嫌井さん……」
今度は加賀屋さんが言った。その一言でわたしは目を開けた。どうやら無意識のうちに目をつむっていたらしい。……それにしても頼られているな、わたし。ここ数日間のこともあって。……そして、その期待にはこたえないといけない。
根岡先生はじっと突っ立っていて、百合谷刑事はまだ数歩しか進んでいない。残念ながら数秒しか経っていないらしい。だけどそれで充分だった。
わたしは進む百合谷刑事に向かって口を開いた。
「百合谷刑事。どうしてわたしが百合谷刑事達が犯人だとわかったか、理由、聞きたいですか?」
百合谷刑事が足を止める。
「どうしたん。急に目ぇ開けて。……まあそれはともかく、それを聞いて僕は得するん?」
最もだ。ここは情けをかけてもらうしかない。
「最後の時ぐらいわたしの好きなこと、させてくださいよ」
百合谷刑事は嫌そうな顔をひとつせず、元の笑みのまま。
「別にかまへんで。時間もあるんやし。最後くらいいいやろ。子どもには優しくせんとな」
「百合谷」
ずっと黙っていた根岡先生が口を開いた。百合谷刑事は首をねじり、
「待ってくれや。というか、根岡はもう出てっていいで。こいつらなら僕だけで充分やから」
「いいのか、僕だけ」
ああかまへん、と返事をしてもう一度わたしたちを向いた。根岡先生はリビングのドアを開けて出て行った。千神刑事が小さく、待て、と発したが追いかけることはできなかった。しばらくして玄関のドアが開閉する音が聞こえた。それを待ってから百合谷刑事は言う。
「ほな、話してもらおうか」
「ありがとうございます」
わたしは唾を飲む。既にどう話すかは決めてある。わたしは指を一本立てた。
「その前にまず、全体図を話さなければなりません」
と前置きを入れてから。
「……あなたは根岡先生とコンビニ強盗を企てた。さすがにその理由は知りませんけど。このコンビニ強盗は犯罪としては完璧で、証拠はまだしも手がかりさえ集まらないため、警察の捜査は中々進まなかった。なのに、しなくてもいいことをしてしまった。腕時計を盗んだんです。檜垣刑事の妻とは知らずに」
「それは僕じゃなくて、根岡のほうやねんけどな」
「百合谷刑事も知っているでしょうけれど、檜垣刑事は独自に捜査を開始しました。そして、やはり成果は熱意とともに現れた。檜垣刑事は重要な証拠を手に入れたんです。あなたの耳には檜垣刑事が何か重要な証拠が手に入ったという情報しか入らなかった。だがその証拠がどんなものかわからない以上、放っておくわけにはいかない。あなたたちはその証拠を処分しようと考えた。家においてあることは聞いていたんでしょうね。家に侵入してそれを盗む……」
こう話す間にも百合谷刑事の表情は崩れない。相変わらずの笑み。何を考えているのかがわからない。
「だけどそこで、とあるミスをしてしまう。檜垣刑事の住所を知らなかった。だから檜垣刑事を尾行した。その結果、アパートの一室に檜垣刑事が鍵を開けて入っていくのが見えた。あなたたちは確信した。表札も同じ『檜垣』だから、あの部屋が檜垣刑事の家だと。ここに証拠がある、と。そして平日、誰もいない時を見計らい部屋に侵入、それらしいものが見つからなかったため火をつけた。その部屋が檜垣刑事のものではなく、彼の息子さんのものだと気づかずに」
「部屋の持ち主の判断は全部、根岡がしたことやけどね。そうやけど、任せた僕も悪い」
「燃やした部屋が檜垣刑事のものではないと知ったあなたはもう一度檜垣刑事を尾行し、今度こそ家を見つける。さすがに檜垣刑事に関係する建物が二棟も燃えたりしたらこの行動を勘づかられるかもしれない。今度はたとえ、目的の物がなかったとしても燃やすわけにはいかない。何度も侵入して少しづつ探していくしかない。しかし、それは危険なことです。だけど、嬉しいことに檜垣刑事は一人暮らし。方法は簡単だった。檜垣刑事を家に帰らさなければいいんです」
まさか、と千神刑事が呟いた。わたしは頷く。
「はい。そのまさかです。檜垣刑事を歩道橋の階段から落としたのは彼ら。怪我をして入院すれば比較的楽に侵入できるようになります。だけど、あいにく怪我は軽くてこの家全体を探すには時間が足りなかった。だから怪我をした次の日、詰まるところ今日から侵入し始めたんですよね」
そうやね、と百合谷刑事は頷いた。わたしはまだ笑みを浮かべ続け、善悪の分別はつくのに全く悪びれることのない百合谷刑事が頭にきた。
「あなたは」
「なんや?」
つい語調が荒くなる。
「あなたは考えなかったんですか! 檜垣刑事が死ぬかもしれなかったんですよ!」
「だからなんなんや」
そう言って百合谷刑事は表情ひとつ変えずに冷たく言い放つ。
「死んだからなんなんや。逆にいいことやないか、僕たちにとったら。コンビニ強盗は晴れてコールドケースの仲間入りや。たかがひと一人。いや、一人だけやない。僕はたかが君たち三人がどうなろうと知ったこっちゃないんやで」
なるほどな、と千神刑事が力強く一歩を踏み出した。
「本当にムカつく。刑事を目指す者として禁句だろうが、お前なら死んでもいい」
千神刑事の両拳は強く握られていて、青くなっている。他人の何もかもを燃やしそうな怒火で、逆にわたし自身の怒りは冷めて、冷静になることができた。
「千神刑事、むやみに殴りかかるのは……」
「わかってる。百合谷刑事は俺より強い」
そうは言っているけど、とてもわかっていそうに見えなかった。言った今もまた一歩を踏み出した。それを見て今までずっと突っ立っていただけだった百合谷刑事がわずかに身構える。が、今だに笑みは崩さない。それどころかわたしにさっきの話の続きをふってくる。
「で、僕が犯人やとわかった理由、教えてくれへんかな」
実はそこまでの理由があったわけではない。証拠などもないから、確信もなかった。
「それはですね、坂月――」
「百合谷ぁぁ!」
わたしが答えようとした瞬間に、隣で拳を握っていた千神刑事が百合谷刑事に突っ込んでいった。わたし自身は不意を突かれたが、どうやら百合谷刑事はその奇襲に反応できたらしい。怒りで前が見えなくなった千神刑事の攻撃を軽々と避け、千神刑事は体勢を崩す。そして、すれ違いざま、腹に一発突きを入れた。軽いように見えて相当重いパンチだったらしく、千神刑事はぐふっ、と低い声を漏らした。しかし、リビングのドアに手をついて足を踏ん張ったため、倒れはしなかった。振り返って百合谷刑事を見上げる。
「ちくしょう……」
息ひとつ切れていない百合谷刑事と、悔しそうに顔を歪める千神刑事。二人の間には実力差がありすぎた。
わたしに背を向けているのでわからないが、おそらく百合谷刑事の顔には余裕の笑みが浮かんでいるに違いない。
千神刑事が下を向いて呟く。
「俺じゃあ、勝てないか」
と千神刑事は後ろ手をドアノブに回した。
「ああ、君じゃあ、無理やね」
そう、千神刑事では、無理だ。
「……頼んだ――」
千神刑事はそう言ってドアを勢いよく開く。現れたのは根岡先生だった。ここで初めて千神刑事の様子が変わる。驚き、恐怖したように感じたと思う。
「なんでや……」
「百合谷。お前、俺の家で何をしている」
根岡先生の後ろから、渋い声が響いた。現れたのは根岡先生だけではなかった。この家の主で刑事である、檜垣刑事だ。
何も言わない百合谷刑事に檜垣刑事が言う。
「勝手にこんなやつ入れやがって。急に家のドアからこいつが現れたんだ。これは正当防衛だからな」
よくよく見ると、根岡先生の顔は膨れていたり、青くなっていた。話から察するに、檜垣刑事は家から出てきた根岡先生と鉢合わせし、殴り倒してしまったらしい。もしかすると、根岡先生が襲いかかってきたのかもしれない。根岡先生は気絶寸前で、というか無理矢理檜垣刑事に襟首を掴まれ立たされているみたいだ。やりすぎなんじゃ……。根岡先生を掴んでいないほうの腕は包帯や、頭には包帯が巻かれている。千神刑事より弱かったとはいえ、よく片手だけで、ひと一人を倒すことができたと感心する。頼もしすぎるくらいだ。
根岡先生を手離して、檜垣刑事が大きく一歩を踏み出す。根岡先生はバタンと崩れ落ちた。
「さあ来い、百合谷。正々堂々、勝負だ」
「……怪我をしている時点で正々堂々というのは怪しいですね」
と標準語に戻す百合谷刑事。
「でも本気で行きますよ――」
勢いよく足を踏み込み、檜垣刑事に片手を伸ばす――檜垣刑事はそれを払いのけ、怯んだ間に横腹に強烈な蹴りを見舞いした。と思いきや、百合谷刑事は蹴りを片腕で防いでいた。それでも、さすがにダメージは大きいはずで、百合谷刑事の動きが一瞬鈍ったところに檜垣刑事はもう片方の足を大きく振り上げて顎にクリティカルヒットさせた。百合谷刑事はそのままドタンと大きな音を立てて後ろから倒れる。それと同時に檜垣刑事も背から落ちた。足を二本とも蹴りに使ったのだから当然だ。
「……ふう」
だけど、決着はついた。百合谷刑事は本気を出す間もなく、気絶したみたいだ。
「すげえ、檜垣刑事……」
加賀屋さんが感嘆の声を上げる。わたしも息を呑んだ。
檜垣刑事は顔を上げ、わたしと加賀屋さんに頭を深く下げた。
「本当にすまなかった。まさかこいつらが犯人だったとは思いもしなかった。ましてや、この家に侵入していたとは。……許してくれ」
なに、もう過ぎたこと。気にする必要もない。怪我もしていないのだし。
わたしと加賀屋さんは顔を見合わせ、そして檜垣刑事にそのようなことを言った。勝手に首を突っ込んだわたしにも責任があるのだ。
今度はちゃんと檜垣刑事が複数の警察官を呼んでくれた。百合谷刑事と根岡先生は新しく来た刑事達に今度こそ手錠をかけられ、パトカーで運ばれた。檜垣刑事は病院を抜け出してきたのだから、もちろん戻ることになった。
檜垣刑事は不思議とそこまで怒っているように見えなかった。遠まわしに何故なのか、と聞いたところ、呆れてしまってな、と返ってきた。それから急に話を変え、もしかすると感謝状が授与されるかもしれない。それが決まったら連絡をするかもしれない、と言ってきたが、わたしと加賀屋さんは二人とも、それを断った。必要のないものだし、なにより一番活躍したのは檜垣刑事と千神刑事の二人なのだから。
わたしと加賀屋さんが千神刑事の運転する車で送り返してもらうことになったときには既に九時半を回っていた。意識されない時間は短い。
「ひぎなんとかさん、いくつか訊いてもいいか?」
運転席に座る千神刑事が運転しながら、そう訊いてきた。どうやらまだ名前を覚えていないらしい。というかわざとそう呼んでいるのだろう。
「何ですか?」
先に加賀屋さんの家に向かうことになった。家に着くまで時間はある。それまでの時間潰しだと思ってわたしは承諾した。
「ひぎなんとかは親父が家に来ていたことに気づいていたのか」
「はい。気づいていました。百合谷刑事が迫っていたときに周りを見回して、窓の外に電灯に浮かび上がる人影が見えたんです。もちろんそれだけでは誰かわかりませんけど、わたし結構目がいいですから、包帯が見えたんです。袖からちらっと。檜垣刑事が巻いてる腕と同じ腕に」
頭だけじゃなくて目もいいのか、とさりげなく加賀屋さんが隣で褒めてきた。
「その前にわたし、檜垣刑事に連絡していたので。ほら、根岡先生を外で待ち伏せをしているときに。『少し危険な状況にありますけど、心配しないでください』とメールを一通」
「それは助けてくださいと言っているようなもんじゃ……」
と加賀屋さん。
「まあ、加賀屋さんの言う通りですよね。檜垣刑事には心配と気をかけてしまって申し訳ないと思ってます」
ははは、と千神刑事が笑う。こんな快活に笑う千神刑事を初めて見たかもしれない。いつも不愛想に話すから。檜垣刑事に似ているのだから仕方ないのだけど。
「だがそうしたおかげで助かったんだぜ。そういや親父は昔、空手の県大会で優勝したことがあるとか言っていたが、あれは本当だったんだな」
「片腕が使えない状態で二人も倒したんですからね。ああいう鉄人は漫画やアニメだけだと思っていました」
車が角を曲がる。このまままっすぐ行けば鉄村さんのアパートがある。今度、鉄村さんにも礼を言いにいこう。それで思い出した。
「そういえば、千神刑事は檜垣刑事の家にしばらく住んだあと、またあのアパートに戻るんですか?」
「いや。今度は大学近くのアパートを選ぼうかと思ってる。最初からそうすればよかったんだが、前回探したときは大学近くに良い条件の賃貸がなかったからな。もう一度探してみる」
「そうですか。頑張ってください」
「そうそう。言い忘れたことがあったが。親父が伝えてくれ、て言っていた」
急に話を変えてくる。
「『もしかすると、俺の妻が死んだと誤解されているかもしれないが、そうじゃない』だとよ。ひぎなんとかさんが誤解するとは思えない、と言ったんだがな」
「…………え。そうだったんですかっ?」
「ん。本当に誤解してたのか。ま、親父の話し方が駄目だったんだな」
横を見ると、加賀屋さんはまた口を開けて呆然としている。やはり加賀屋さんもわたしと同じ勘違いをしていたらしい。
「俺の母はあれだ、半年前に強盗犯に襲われて入院し、怪我も完治して無事に退院したあと、海外に行った。いつ死ぬかわからないから、今のうちに世界を回ってくるとか言ってたな」
「そうだったんですか……」
なんとまあ。それじゃあつまり、檜垣刑事が一人暮らしをしているというのは、妻が世界旅行に出たから、ということなのか。
話が落ち着いたところで、外を見る。最近見た風景。鉄村さんのアパートの近くを通ったということは、加賀屋さんの家はもうすぐだ。
「火嫌井さん。最後に教えてくれ。正直に」
そう加賀屋さんが言った。正直に、という部分が引っかかったが、今は何でも素直に話せる気分だった。
「はい。なんでしょう」
加賀屋さんは少し間を置いてから、わたしを見ず、窓に顔を向けたまま訊いてきた。
「『火嫌井椿』という名前はどこまでが偽名なんだ」
「…………それは」
どうやら、バレていたらしい。それよりも勘づかれていた、のほうが正しいか。正直に答えてくれ、と言われたが、どう答えるか。
そう考えていたら加賀屋さんが短く呟いた。
「そうか……」
沈黙すれば偽りの名を言っていた、ということが軽く読める。それはわかっていたけれど、面と向かって加賀屋さんに嘘はつけなかった。
「…………」
静寂に包まれた車内。気まずい雰囲気のまま加賀屋家に着いた。加賀屋さんが車のドアを開け、松葉杖をついて外に出た。加賀屋さんは車の窓越しにわたしを見た。
「次はいつ会えるだろうか」
「次……ですか」
今まで嘘をついていた人にまた会いたいというのか。だけど加賀屋さんとの付き合いはこの放火事件だけ。わたしはこの事件が終われば二度と加賀屋さんに会わないと決めていたのだ。連絡先も消去し、メールアドレスも変えるつもりだった。だから、坂月三中生ではない、と嘘をついた。……今振り返ると本当に嘘ばかりだな、わたし。
そして最後までその考えは変えるつもりがなかった。わたしはできる限りの笑顔で言った。
「また会えますよ、きっと」
きっと。加賀屋さんの会いたい人が、火嫌井椿ではなく、花川椿でいいのならば。花川椿ならこの町に住んでいる。こんな小さな町なら探そうと思えば一年もかかるまい。わたしが隠れ続けても。
「会えます」
「……そうか」
加賀屋さんは一歩下がって運転席を見る。
「今までありがとうございました、千神刑事。もう一度だけ、百合谷刑事に礼を伝えてください」
「了解だ」
そしてわたしをもう一度見た。
「火嫌井さんも本当にありがとう。火嫌井さんはおれの恩人だ。……じゃあ、さようならだ」
「はい。さようならです」
再び発車する。体をねじり、リアウインドウ越しに今までいた場所を見る。加賀屋さんはずっと立っていた。角を曲がって見えなくなるまで。
「おい」
と呼ばれ、わたしは前を向く。バックミラーに映る千神刑事と一瞬目が合った。
「何ですか」
「どうしてお前は蓮のことを避けようとするんだ。話を聞いたかぎりじゃ、この一連の放火事件がきっかけで初めて会ったそうじゃないか。嫌いなのか」
「別に避けていませんけど」
わたしは考えずにほとんど反射的に答えた。嘘だった。そしてわかりきった嘘は簡単に見抜かれる。
「じゃあ何故嘘をついた? 住所や学校や、名前や」
「……偽名を使っていたあなたに言われたくありません」
「そうか」
と千神刑事。引き下がってくれたのか。だがそうではなく、その言葉には続きがあった。
「――だけでは終わらない。俺には理由があった。俺の苗字がバレたら、すぐに親父の息子だと気づかれてしまうからな。お前はどうなんだ。何かあるのか」
「わたしは……」
あるだろうか。それらしい、最もな理由。わたしが花川春樹の妹だとバレたくない? バレたからなんだというのだ。加賀屋さんは春樹と同じクラスらしいけど、それがわかったからってどう変わるというのだ。素性が知られたところで困ることなど何一つない。反対に、隠し通せばその分だけわたしは苦労することになるというのに。
だけどわたしは。今まで使ってきた、理由にすらならない言い訳を口にした。
「加賀屋さんとは二度と会う必要がないから、です」
「悲しいな」
「そうですか?」
千神刑事が悲しいと思っているとは思えないけど。それとも、わたしの人間性が哀しいのか。わたしを哀れんでいるのか?
「知り合いならいくらでもいます」
「そうか」
「無限に一を足しても無限なんです」
「だからいらない、と。蓮の存在は」
「哀しいですか、わたしは」
「ああ」
窓から夜空を眺めながら話す。とっくにバックミラーは見てなかった。相手の顔を見るのが辛かったからだ。なにかこう、わたしの人間性がおかしいと言われているような気がして、相手の目を見ることもできなかった。
椿さん、と千神刑事が言った。初めてまともに名前を――それも本名である椿を――呼ばれたことに驚いて、わたしは前、千神刑事の後頭部を見た。
「何かの縁で出会ったんだぜ。会うは別れの始め、いつか人は絶対に別れる時が来る。何も一期一会である必要はない、と俺は教わった。……あの親父にな」
しばらく間を置いて、というかわたしが何も言わないのを見て、千神刑事がさらに言う。
「無限に一を加えても変わらないと言ったな。もしそんなことをお前に刷り込んだガキがいたなら俺に言え。しばいてやる。常に無限もの数の人間と繋がってられると思うな。今、この時間に出会った人達一人一人を大事にしろ。そうしないと後悔するときがきっとくる」
そんなことを恥ずかしがらずに言えるなんて、とは思わない。素直に正直に、頷いた。
「……はい、確かにそうですね」
気持ちが矛盾していた。いつか、思っていたのだ。わたしは人とのつながりがわたし自身を構成しているのだ、と。これはなんなのだろう。強がりなのか。
「それでいい」
千神刑事はそれだけ言った。
ここでふっと思い出した。
「百合谷刑事はどうだったんでしょう。人とのつながりは大切だと、そう思っていたんでしょうか。それとも、わたしたちを殺そうとしたのだから、やはりそうは思っていなかったんでしょうか」
彼の名前を聞いてバックミラーに映る千神刑事がわずかに顔をしかめた。
「百合谷か。知らないな、他人のことなんか。思ってなかったんじゃないのか。でも勝手な推測で言うと、他人をどう欺くかをばかり考えていたんじゃねえかと思うぜ」
「あの馴れ馴れしい話し方もわざとなんでしょうか。人が親しみを感じやすくさせるために」
そうじゃないのか、と千神刑事が返事する。
「でもあの人、根岡先生にも方言で話していたんです。根岡先生とだけは親しかったと思うんです。最後のだって仲間を助けようとしてやったことですし」
「さあな。方言で喋っていたのはお前達と話していたからそれがうっかりそのままうつってしまった、とか」
「いえ。それはないと思うんです」
わたしは知っていた。そしてこれがアレだ。
「彼、坂月三中で根岡先生に電話で方言を使って話していたんです。わたし、それを盗み聞きしていたので。誰もいない状況では方言で話をしていたのだと思います。そう、まるで友人同士みたいに」
あの時、会話の中身は聞こえなかったが、関西弁だったということは容易にわかった。
「それが、あれか。さっき、俺が言うのを邪魔してしまった、根岡と百合谷が仲間だと思った理由か?」
「はい、そうです」
わたしが言いたかったのはそれじゃないのだけど。
……まあ。いいか。
見慣れた建物のそばを車が通ったときにもうここは家まで数十メートルのところなのだと気づき、わたしは声を出した。
「あ、ここでいいですっ」
「そうか?」
千神刑事は車を減速させて道路の脇に駐めた。礼を言って車を降りる。千神刑事は助手席の窓を開けて、わたしに言った。
「最後にひとつだけ訊く」
頷く。
「お前はどうしてこの事件に首を突っ込んだんだ」
三回目の質問。もう十時だし、ここは短く。わたしは少しニコリとして答えた。
「火が嫌いだからです」
千神刑事は首を傾げたが、それ以上は訊いてこなかった。
そこから家までのわずかな帰り道。わたしはケータイを操作し、メールを二通作成した。
一通目がみさぎ宛に事件は解決した、という趣旨の内容。
二通目は加賀屋さん宛。メールとしては少し長文。『今日はお疲れ様でした。話しておいたほうがいい話を思い出しましたので。もしかすると、これから先、足跡等を見つけた野次馬のような探偵気取りの学生などが訪れてくるかもしれません。そういう時は、この数日間の事を話してあげて下さい。事件は解決した、と。それでは、おやすみなさい』。ここまで書いて、送信ボタンを押す前にもうひとつだけ付け足しておくことに決めた。一人一人を大事にしろ、と言われ、わたしはそれに頷いたが、さすがに今すぐに全てを白状するのは気が重かった。まだ後でもいいと思ったから、わたしはこう書いた。『それと。花川春樹が加賀屋さんを訪ねてくる可能性があります。そのときも頼みます。わたしはしばらくの間、連絡を取れなくなります。何がとは言いませんが、彼なら、いろいろと協力してくれるかもしれません。多分、ですけど。では今度こそ、おやすみなさい』。
天を仰いで、ふう、と息を吐いた。まだすることはあるけれど、これでひとまず終わりだ。
送信ボタンを押した。
あ、今日遅くなる、と親に伝えるのを忘れていた。どうしよう。どう言い訳しよう。
……全く、一難去ってまた一難か。