七.固まる。
檜垣刑事の息子に会うため、刑事の家へ向かった二人。そこで椿は今までの事件を推理する。
一時間後、わたしたちは檜垣刑事の家の前にいた。病院までの交通手段でそれを選んだように、病院から電車を駆使してやってきたのだ。檜垣刑事は誰かに頼んで送らせると言ってくれたけれど、百合谷刑事でさえ彼の住所を知らないとのこと。それならば仕方ない。
檜垣家はいくつもの一軒家が立ち並ぶ住宅街の中にあった。閑静というには静かすぎる住宅街で、住宅街を縦に横に横切る生活道路には人っ子一人いない。そしてこの付近に建つ他の一軒家と同じような、特筆するような特徴もない築十数年程度の二階建ての建物が檜垣家だった。白い壁にグレーの屋根。いくつかある窓はカーテンが下がっていて、中の様子はわからない。駐車スペースには一台の白い乗用車。わたしは車種には疎いので土曜日同様、なんという種類の車かはわからなかったが、おそらくこれが檜垣刑事の愛車なのだろう。
檜垣刑事が言うには、今日は早く戻ると言っていたから、大学から息子が帰ってきているかもしれない、とのことだった。電話での連絡は取れないらしい。何でも檜垣刑事が歩道橋から押されて転げ落ちたとき、ポケットに入れていたケータイをグシャリと自身の体重で押しつぶしてしまい、壊れてしまったらしい。
『ピンポーン』と、加賀屋さんがチャイムを鳴らす。
「…………」
「反応ないですね。もう一度押しますか」
「そうだな」
二回目も反応無し。檜垣刑事の息子さんはまだ帰ってないらしい。
わたしは「もし息子が戻ってきていなければ、家に入って待ってもらっても構わない」と檜垣刑事から渡された合鍵(檜垣刑事はちょっと警戒心がなさすぎるんじゃないだろうか。まあ、リビング以外には入るな、と遠回りに言っていたけれど)を持って、錠前に鍵をさし、左に回す。しかし何故か空回りしたような音を立てた。鍵を抜いてドアに手をかけるが薄々予感していた通り開かない。なぜだ。
「回すほうが逆なんじゃないのか」
加賀屋さんから指摘を受け、わたしの家とは違うのか、と半信半疑になりながらも、今度こそは、と鍵をさし、右に。今度は手応えと共にガチャリと音が鳴った。この手応えと音は感じたことがある。今日も家を出る時にこの音を聞いた。
「加賀屋さん、これ、閉まったんじゃないですか」
「まじ?」
そうは言うけれど、いちおうドアを引いてみる。案の定、閉まったままだった。やっとその理由がわかったところで、加賀屋さんがポンっと手を叩いてみせた。
「わかったぞ、あれだ。引くんじゃなくて、押すんだ」
「それはないです」
間抜けなことに、このドアがツーロックだということに気づかなかった。まあ、わたしの家も加賀屋さんの家もツーロックじゃないし、しょうがない、と思っておこう。このドア、上方はロックされてなくて、下方にロックがかかっていたのだ。それがわかったらあとは簡単、難なくドアを開けて中に入ることができた。加賀屋さんが入りやすいようにドアが閉まるのを抑える。しかし、家に入るのにこんなにも時間がかかれば、誰かが見ていた場合、怪しまれるんじゃないだろうか。まあ、今は誰もいないようで何よりだ。わたしは加賀屋さんが中に入ったのを確認して、ドアを閉めた。
お邪魔します、と言いながら玄関で靴を脱ぐ。加賀屋さんは松葉杖を壁に立てかけて、靴を脱ぎ、廊下の壁に手をつきながら立ち上がる。松葉杖をついていないので、加賀屋さんは片足でバランスをとっている。さすがに外でも使っていた松葉杖を他人の家で使うような気はおこらないのだろう。わたしは加賀屋さんを支えながら、檜垣刑事に位置を教えてもらったリビングに向かう。思ったより建て付けが悪く、開きにくいドアに力を入れて引く。さすがに暗くなってきていたので、入ってすぐ左手にあるスイッチを入れる。電球がぱっとついて、リビングに光が満ちた。
「おお。わたしの家のリビングより広い」
外見からは予想できなかったが、リビングに広いスペースをとった家だったみたいで、わたしが住む、無駄に使わない物置がたくさんある家のリビングより大きかった。もしかすると、膨張色である白い壁や、入ってすぐ右手に置いてある黒いソファーでそう感じただけだったかもしれないけれど。まあ、あれだ。他人の芝生が青く見えたりするのと同じ仕組みで、他人の家を広く感じてしまうのかもしれない。加賀屋さんがソファーに腰掛けると、さっきよりも小さく感じた。加賀屋さんが大きいのだろうか、それともこの大きさは建築家のデザイン力の賜物で錯覚で部屋が大きく見えたのだろうか。それともただ単に部屋が大きいのか。
「どれなんだろ」
「うん? 何か言ったか」
「いえ、何も」
そんなことを思いながら、わたしもソファーに腰を下ろす。
改めて部屋を見渡してみる。ソファーの正面に位置する大型の薄型テレビ。わたしたちのすぐ前にあるガラスの低いテーブル。上には比較的綺麗な灰皿が乗っていた。檜垣刑事が吸うのだろうか。隅にはくずかご。その上に位置するエアコン。わたしたちのすぐ左側には大きな窓がとられていて、白いカーテンが端に縛ってあった。窓からは、さっきわたしたちが通った家の前の生活道路が見える。その窓から、視線を右にずらすと、引き出しのついた、右開きの背の低い収納棚。その上には、金メダル銀メダル、盾等の表彰品があった。さらに目を凝らして見てみると、どうやら柔道と合気道が半分半分のようだ。檜垣刑事の物なのだろうか。なぜかひとつだけ、メダルがおさまっていない台があった。そこから首を回して、右側には食事の時に使うのだろう、木のテーブルと、その雰囲気にあった三脚のチェアー。さらに奥にはキッチンがあった。リビングとは壁で仕切られていて、回り込まないとシンクが見えないようになっている。さっき入ってきたドアはわたしたちの斜め後ろに位置していて、そのドアのすぐ横にインターホンの親機があった。最近増えてきたカメラ付きだ。
全体的に感じた印象は生活感があまりないな、だった。メダルや灰皿を除けば、この家の持ち主の特徴を表すものがほとんどなかった。写真一枚置いてない。もしかするとそれはこの部屋だけで、他の――例えば寝室などは生活感に満ち溢れているのかもしれない。
壁にかかった時計は五時前を指していた。わたしたちはどれくらいまでここにいることになるのだろうか。檜垣刑事が言うには息子さんはいつも朝早くに家を出て夜の九、十時に帰ってくるらしいので、帰りが早いと聞いていたのは今日ぐらいしかないらしい。なんでも檜垣刑事のお見舞いのため、帰りを早くするとのこと。檜垣刑事は息子さんのことを親孝行するような人ではないと言っていたけれど、その考えはあらたまったのだろうか。
加賀屋さんもわたしと同じく部屋を観察していたが、やがてそれにも飽きたらしく、加賀屋さんは間を持つためのように質問してきた。
「火嫌井さんは、この事件についてどのくらいまでわかったんだ」
「この事件とは、坂月三中でのぼやですか、それともアパートのぼやですか」
「両方だ」
わたしは少し考えてから返答する。
「いえ、まだですね。こう言ってしまえば身も蓋もないですが、もしわたしに事件の犯人が分かるまでのヒントが与えられていないのならば、この事件を解くことは無理です。かなりの憶測が必要になってきます」
「そうか」
そういえば、どうして加賀屋さんはわたしにここまでついてきたのだろうか。加賀屋さんの疑いは檜垣刑事がカバーしてくれるらしいし、そうなれば加賀屋さんにはわたしについてくる義務はない。時間もあるし、そのことを聞いてみたところ、加賀屋さんは、
「義務はないが、義理がある。火嫌井さんは少しでも、おれのために動いてくれたのだから、恩を借りっぱなしにするのは、どうかと思ってな。借りたものは返さなくてはいけない。借りパクはやめておく」
ふと、ここで加賀屋さんは思いついたように言った。
「火嫌井さんはどうしてこの事件について捜査しているんだ。それこそ、義理なんてないだろ」
このことを訊かれるのは、みさぎに続いて二度目だった。よって答えもみさぎにした場合と必然的に同様のものになる。
「ひとつ目は、わたしが憧れていた人みたいになりたいな、て思ったことです」
「火嫌井さんの憧れる人か。すごい人なんだろうな、有名人か誰かなのか?」
みさぎにそのことを話してから、わたしが憧れていた人が誰かなのかを思い出そうと試みた。やっぱりその人の主義だけが記憶に残っていて、その人の特徴が思い出せなかった。だけど、兄の春樹と話しているときに突然、思い出したのだった。春樹の小学生のころの同級生で、たまに家に遊びに来ていた、真鈴あやめさんという人。わたしが見た限りではずっとポニーテイルの髪型をしていて、表情や言動が明るい人だった。今は春樹とは違う中学校に通っていて、多分、春樹とは何の交流もしなくなってしまっただろう。春樹は知っているのかもしれないけれど、わたしはあやめさんの住所を知らない。もしかしたらこの先、ずっとあやめさんには会えないかもしれない。次に会えるとしたら高校生になってからだろう。同じ高校に通える確率はそこまで高くない。公立私立がそれぞれいくつもあるのだ。それにわたしはあやめさんの学力を知らない。出会うことができたのなら、それは奇跡というものだ。
みさぎが調べた資料によると、加賀屋さんはあやめさんとは違う小学校のはずで、よほどのことがない限り知らない。だから、別に話しても構わないし、もし、そんなことがあるとは信じていないけれど、知っていたのならば、あやめさんの情報を聞くことができる。
「真鈴あやめさんという方ですが、知ってます?」
残念ながら、加賀屋さんは首を振った。わかっていたけど、少し気が沈む。
「知らないな。しかし会ってみたいな、その人には」
会えるのならば、わたしもあやめさんにもう一度会ってみたいものだ。
「実はですね、この事件を調査しようと思った理由はもうひとつだけ、あるんです」
わたしはそう言ってから、気づいた。火が嫌いだから――と答えようとしたがそれはできない。そんなことを言えば確実に(もうすでに感づかれているかもしれないが)偽名だとばれる。
わたしはなんとかこの場をやり過ごそうとして、とっさに思いついたことを口にした。
「許せないじゃないですか、人に罪を擦り付けるのは」
それを聞いた加賀屋さんはつぶやいた。
「……そうか。火嫌井さんがそんな人でよかった」
まあ、あながち嘘でもなかった。犯人のやったことは、あやめさんの『人の役に立つことなら何でもする』の裏返しだったから。『自分が得するためならば他人を犠牲にする』。これは絶対に尊敬できないことだ。
「今までおれに話を聞いてきた奴らなんて皆、興味本意か、仕事かのどちらかだ。助けるためにおれのところに来た人なんてあなただけだ」
わたしはなんと言えばいいかわからなくて、黙り込んだ。そんな何も言わないわたしを見て、加賀屋さんは軽く照れ笑いで、冗談のように愚痴をこぼした。
「仕事でやってきた刑事達なんて、檜垣刑事を除けば、全員、おれを疑っていたはずだ。馴れ馴れしかった千神刑事や百合谷刑事もそうだったはず」
檜垣刑事も、加賀屋さんを全く疑っていなかったということはないだろう。あくまでその数値が低いだけで。
「興味本意で聞いてきた奴らは論外だ。一部のクラスメートはどこから情報を手に入れたのか、おれに何度も繰り返し話を聞くだけで何もしてくれない。一部の教員達も『そういえばお前、火事見たんだってな』だ。一番しつこかったのはあれだ、根岡とかいう先生だな。あまりおれに親しくもないのに『犯人は見たか』とか色々しつこく訊いてきた。見てないと言っているのに」
根岡先生……あのニコニコした人だっけ。
何度も聞いた意味の言葉を加賀屋さんが言い方を変えて言う。
「なんにしてもあれだ、火嫌井さんには感謝しているということだ」
わたしは笑いながら言う。
「加賀屋さん、言葉というものは口にすればするほど軽くなるものですよ」
なんて。真面目な口調で言ってみても、ただ照れ隠しをしているようにしか見えないか。実際そうだった。
あ、とわたしは立ち上がる。
「今思い出しましたけど、確か檜垣刑事、息子が帰ってくるまで収納棚の中にあるものをみてもいいって言ってましたね」
わたしはガラスのテーブルの脇を抜け、収納棚の前まで進む。上にメダルやらの表彰品が乗っかっている収納棚だ。檜垣刑事はそれの詳しい説明は端折ったが、さてどんなものだろうか。手帳のようなもの、とか言っていたけれど。わたしは収納棚の引き出しに手をかけ開く。
「…………あれ?」
「どうした?」
わたしは首を傾げた。
「いえ、ちょっと」
期待を胸に引いた棚の中には、檜垣刑事が言っていた手帳のようなものはなかった。引き出しの中に入っていた物は二つ。
赤白青の縦縞模様で幅が広い紐がついた金色に輝く円いもの。柔道着らしき服を着た人が二人、片方がもう片方を投げ飛ばしているようなイラストが施されている。金メダルみたいだ。この収納棚の上に飾られているメダルの台がひとつだけぽっかり空いているのを見るに、元々そこにはまってあったメダルだろう。裏面の名前を見たところ、どうやらこれは檜垣刑事の名前ではないから、息子さんの物か。
金メダルを手にとると、下にはまだ何かあった。メモ帳サイズの紙が一枚。地図のようなものが、フリーハンドで書かれている。そのところどころに書かれた走り書きは文字を崩しすぎていて、なんと書いてあるのかわからない。それに端で切れている地図だった。どうやらこれの続きが書かれた紙がまだもう一枚存在するらしいが、引き出しの中にはもう何も入っていなかった。まさか檜垣刑事が見せたかったのは、これではないはずだ。役に立つとは思えない。というか読めない。
そのことを加賀屋さんに伝えると、加賀屋さんは顎に手をやって、
「手帳はないのか……。おれたちの覚え違いということは……ないな。檜垣刑事の言い間違いということもない……だろ。リビングの場所を説明したのだし。かと言ってその棚以外の収納スペースはリビングにないしな」
「檜垣刑事の覚え違いですかね。でも檜垣刑事は絶対にあるから、とも付け足していましたような」
正確には『息子が帰ってきていないのなら、息子が帰宅するまでの間、リビングのソファーの右斜めにある収納棚の中にある手帳を見ていてもいい。息子はそこを見ることはないだろうから、そこにあるはずだ。きっといい時間つぶしになるし、君の役に立つかもしれない。ああ、リビングの場所は玄関を入って廊下をすぐに右だ』だ。ここは間違いなくリビングだ。だとすればどういうことだろう。…………うーむ。
「ないなら仕方ないな」
「…………」
あと、どうしてこの金メダルだけ、台に飾られていなかったのだろう。他のメダルとはなんら変わりないメダル。それに、このどの言語で書かれているのかもわからない(まあ、日本語だろうが、そう例えたくなるほど文字が汚いのだ)、メモ帳サイズの紙。ああ、もう少しで答えが出そうな気がする……。
「…………」
「火嫌井さん?」
呼ばれてはっと我に返る。そのときに。ちょうど、推理が――かたまった。
「すみません。諦めは時に肝心ですよね」
と言い、わたしは加賀屋さんが座っているソファーまで近寄る。わたしはなるべく内心を探られないような笑顔を意識しながら、
「ところで、加賀屋さん」
「なんだ」
腕組をしている加賀屋さんに短く一言。
「ウォータークローゼットにでも行きませんか? ご一緒に」
つまりトイレだ。