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椿と放火事件  作者: 幕滝
6/10

六.見舞いる。

怪我をしたらしい檜垣刑事のお見舞いに行く椿と蓮。そこで大切な話を聞く。

 今日は火曜日で、創立記念日。どうせなら月曜日を休みにしての三連休がよかったのだけど、運が悪かった、仕方がないとしかいいようがない。休日なだけでもありがたいと思うべきだ。しかし、折角の休日なのに、わたしは休むこともせずにずっと外出をしていた。

 午前中は家のすぐ近くにある市立図書館で調べ物をしていた。図書館には新聞のバックナンバーもあるから、それでアパートの火事について調べていたのだけど、如何せん小さな事件なので、知っている情報ばかりで特にめぼしいものはなかった。坂月三中のぼやについても調べたけど、アパートの火事と同じく新聞の隅に載っていただけで何も得られなかった。わたしは図書館からとぼとぼがっくり、うなだれて帰った。

 そして午後。わたしは一旦家に戻ると昼食をとり(兄の春樹はまたごろごろと読書をしていた。本当にごろごろと床を転がっていた。春樹の将来が心配だ。今年は中三、受験生なのに)、再び家を飛び出した。

「大丈夫なんだろうか、檜垣刑事」

 と加賀屋さんが呟く。

「会える状態なのは確かみたいですけど……」

 現在、午後三時過ぎ。わたしたちは某駅から某所までの短い道のりを歩いていた。もちろん加賀屋さんは、怪我がまだ完治していないので松葉杖だ。

 加賀屋さんがわたしの持っている袋をちらりと見た。

「お見舞い品はそれで大丈夫だったんだろうか」

 思ったよりも心配性な加賀屋さんだ。

「ええ。多分。……あ、あれじゃないですか?」

 曲がり角を折れたところで、白い建物が顔を出した。おそらくあれが警察病院。昨日、加賀屋さんに百合谷刑事から、連絡が来たらしい。百合谷刑事とコンビを組んでいる――檜垣刑事が、歩道橋の階段から落ちて怪我をしたと。幸い、怪我自体は大したことがなかったらしく、話すことはできるらしい。ただ、今は検査や様子見ということで数日の間入院するとのこと。そんなわけでわたしと加賀屋さんは見舞いと最初に言っていた用も兼ねての病院訪問ということになり、今に至るというわけだ。加賀屋さんは日を改めようともしたらしいけど、別に構わないと思うという百合谷刑事のお言葉に従ったのだ。

 そそくさと信号を渡り、病院の敷地内に入る。平日であろうとも人はそれなりに出入りしていて、わたしたちから見て、右手に位置する駐車場では、何十台もの車が停っている。病院から出ていく数人の人達とすれ違いながら、正面玄関まで向かう。

 正面玄関、車寄せがあるところで壁にもたれかかっていた男の人がわたしたちに気づき、片手をあげた。笑顔で。

「やあ。みんな大好き百合谷刑事やで」

「…………」

 間違いなく馴れ馴れしくなっていた。

 横で加賀屋さんが百合谷刑事って、関西人だったのか、とつぶやいている。それで、そうか加賀屋さんは檜垣刑事の横にいる百合谷刑事しか知らないのか、と気づいた。

 今日は百合谷刑事に案内してもらう予定になっている。軽薄な関西人に挨拶してから、百合谷刑事と加賀屋さんに続いて自動ドアを通り「いちおう面会時には名前を記さないとあかんから」という百合谷刑事の言葉で窓口まで進む。

 手続きを済ましたあと、檜垣刑事が入っているという病室まで歩く。その途中で、百合谷刑事がわたしの手に握られた袋を見て言った。

「それってもしかして、お見舞いの品? ……えらいなあ、ホンマに。関心するわ。中身、なんなん?」

「クッキーですけど……この病院、お見舞いにお菓子っていいですよね?」

「いいとは思うけど。花だったらいろいろとあかんものとかあるから。菊とか、百合とか、椿とか」

 いやそんなことよりも百合谷刑事、と加賀屋さんが話を変える。

「本当に檜垣刑事は大丈夫なんですか。というか歩道橋から転げ落ちたって聞きましたけど、事故ですか、それとも誰かにやられたんですか?」

「質問攻めやなあ。まあまあ落ち着いて」

 百合谷刑事がなだめる。

「転げ落ちた言うても、打撲とかだけで済んだみたいやし、蓮くんが思うとるほどやない。歩こうとしたら歩けるみたいやし」

 そして加賀屋さんの足元を見てニヤリと口元を歪め、付け足した。

「少なくとも、蓮くんよりかは大丈夫やな」

 加賀屋さんは何も言えない様子だった。わたしは加賀屋さんと同じく気になっていたことを、もう一度改めて訊く。

「それで、事故だったんですか? それとも誰かが故意に?」

「そういえばそれ、聞いてなかったけど、僕は事故やと思うよ。あまり詳しいことは知らんねんけど。夜、一人での帰宅途中のことらしいから、本人に訊かんことには何もわからんし」

 とか話をしているうちに部屋番号と一緒に檜垣重盛とかかれた細長い厚紙がはまった病室の前まで来た。どうやら個室らしい。百合谷刑事がドアをノックした。

「百合谷です。加賀屋くんらが来ましたよ」

 と言うと、中から檜垣刑事の声で短く返事が聞こえてきた。

「入ってもいいぞ」

 百合谷刑事がドアの取っ手に手をかけたけど、開く前にひとこと、

「あまり固くならんでもいいんやからな。不愛想やけど優しい刑事やで、檜垣さんは。火嫌井お嬢さんは知らないやろうけど、彼は真面目なだけやから」

 わたしは頷いた。それくらい、最初に会ったときから想像できた。

 百合谷刑事がドアを横に開く。個室だけど、それなりに大きい部屋だった。高さが加賀屋さんの腰ぐらいある棚。その上に薄型テレビ。棚の下半分には冷蔵庫が収まっている空間がある。隅には洗面器などもあった。カーテンが両側に縛られている窓は大きくとられていて、光をたくさん取り入れ、病室の白がさらに眩しく目に映る。その窓のすぐ脇に病室といえばこれ、というような下に移動できるように車輪のついた白いシーツ、白い枕のベッド。そして、そのベッドの上に腰掛けてこちらを見ている檜垣刑事。

 ここに来る途中にした話についてだけど、百合谷刑事がこんなにも落ち着いている様子から予想するに、檜垣刑事は本当に大した怪我ではないのだろう。そう思っていた。しかし、檜垣刑事の頭には包帯が巻かれていて、薄い青の部屋着の左手の長袖からも包帯がちらりと覗いていた。

 わたしは百合谷刑事を振り向き、小さく、

「怪我だらけじゃないですかっ」

「打撲だらけだ、気にするな」

 それはあなたが言う台詞なの?

 わたしはもう一度檜垣刑事のほうを向いて、会釈する。

「こんにちは。改めて――火嫌井椿です。この間一瞬だけお会いした」

 わたしに続いて加賀屋さんも、

「こんにちは。お見舞いに来ました。怪我、大丈夫ですか?」

 檜垣刑事はゆっくりと口を動かす。

「こんな格好ですまない。俺としたことが、ちょっとばかし怪我をしてしまってな。歩けないことはないんだが」

 やることはやったとばかりに、百合谷刑事がわたしと加賀屋さんに目を向けた。

「見舞いに百合はタブーやから、僕は失礼するよ」

 と残して部屋を出て行った。それでうまいことを言ったつもりか。いや、わたしの名前も椿なんだけど。わたしも出て行かなくてはいけないのかしら。

 わたしは加賀屋さんが目で合図をしてきたので、手に持ったクッキーの入った袋を檜垣刑事のベッドの近くにある棚の上に置いた。

「クッキーですけど、いけますか?」

「大丈夫だ、ありがとう」

 クッキーが入った袋を一瞥してから、檜垣刑事はその渋い声を漏らした。

「時間をとるのも君たちに悪いからな、早速本題に入ろう。今日は何の用事で来たんだ」

 加賀屋さんはまたわたしに無言でちらりとアイコンタクトをとってきた。わたしはそれの意味を汲み取る。わたしから話してくれ、ということだろう。

「今日、わたしたちは言いたいことがあってきました。聞いてください」

 檜垣刑事はわたしをじっと見て言葉少なに返した。

「そのつもりだ」

 わたしは少し頭の中で言いたいことを整理しようと思ったのだが、檜垣刑事の無言の視線があまりにもわたしに突き刺さってくるので、間が恐い。思いついたことを喋ることにした。わたしはごほん、と咳払いして切り出す。

「まず確認でひとつ訊きます。警察の方達は、加賀屋さんを放火の容疑者リストに入れているんですか?」

 檜垣刑事は少しの間をおいてから返事をする。

「いや。そんなことはない」

「坂月三中であったぼやではなく、加賀屋さんが通報したアパートの放火ですよ」

 元々重い檜垣刑事の口がさらに動かなくなった。いや、かすかに、む、という音が漏れたか。檜垣刑事はベッドから出した両足に視線を下げ、そしてもう一度加賀屋さん、わたしと見る。

「確実に疑うことのできない何かを発見できない限りは全員を疑わなくてはならない。警察だからな」

 そして付け足した。

「……しかし俺はそうは思っていない」

「そうですか」

「それで、言いたいこととは――加賀屋くんの無実の証明か」

「いえ――正確には、証明ではなく主張です」

 わたしは口調を強める。

「さっきは否定しましたけど、本当は坂月三中でおこった放火の犯人としても、加賀屋さんを疑っていますよね」

 檜垣刑事は何も言わなかった。じっと黙ってわたしを見ている。わたしはその沈黙を肯定と読んで話を続ける。

「警察の方達――いえ、いいです。檜垣刑事自身は、あの足跡が本物だと思っているんですか?」

「…………」

 檜垣刑事の小さい目がかすかに見開いたのに気づいた。どこに驚いたのか。さすがに黙りこんだままでは話が終わらないとみたのか、檜垣刑事は口を開いた。

「あの足跡とは――どういう意味だ」

「ぼや現場にありましたよね。松葉杖の跡と一緒についた片足だけの足跡」

 わたしはちらっと加賀屋さんを見て言った。

「……確かにあったかもしれない。だがその質問の意味がわからない。足跡があったのなら、それは本物だろう。間違いなく」

「言い方が間違っていました。足跡は本物です。だけど、それが坂月三中の生徒で唯一松葉杖をついている加賀屋さんのものとは限らないでしょう?」

 加賀屋さんが松葉杖と一緒に一歩前に出た。

「檜垣刑事。確か、百合谷刑事が土曜日、おれに訊いたじゃないですか。本題に入る前、軽く世間話をするように『蓮くん、松葉杖をついて大変だろうけど、放課後は何をしているの? 例えば昨日は?』て。その質問に『家にいました』と答えたあとすぐに檜垣刑事が『それ、本当に昨日か』て念を入れてきたじゃないですか。そんなどうでもいい話に、念を押してきたり、二人で訊いてくるなんておかしい。……おれを疑っていたんですよね」

 わたしは詳しいことは知らなかった。確かに、百合谷刑事の他愛のない話に檜垣刑事が確認をしてくるのはおかしいというか、変だ。

 檜垣刑事はまた黙ったが、やがて諦めたように、少ししわがはいった顔にかすかに笑みを浮かべる。

「……その火嫌井さんは薄々勘づいていたが、加賀屋くんも頭が良いのか。迂闊だったな、それは」

「いや、違います。火嫌井さんが教えてくれたからわかったんです」

 別にわたしとしてはそこを修正してもらわなくてもよかった。その言葉を受けて檜垣刑事はわたしに目を向ける。

「なに。それも君が……。本当に驚いた。驚かされっぱなしだな。将来、君みたいな人材が警察に入ってくれたら、どんなにいいものか」

 そこまで言われると、わたしは曖昧に笑うしかなかった。話を戻そうか、と檜垣刑事が仕切り直す。

「俺は、あの足跡を加賀屋くんがつけたものではなく、誰かがが故意につけたものだと思っている。加賀屋くんがつけたものと思わせるために。その誰かとは――あれだ」

 わたしが答える。

「犯人ですか」

「ああ、そうだ。俺は犯人がわざと残したものだと思っている。だがな、他の大多数の刑事は――百合谷だけは俺の見方に同意してくれたな――だが、そいつ以外はほとんど、加賀屋くんがやったと考えている。加賀屋くんがまだ未成年だから、足跡のことまで配慮が及ばないとの勝手な憶測もその理由のひとつだろうが、本当のところは……加賀屋くんが犯人だったら捜査が楽だ、という怠慢から来ているに違いない。馬鹿なことにな」

 後半、檜垣刑事は怒りを感じたというよりも呆れたというような口調だった。

「さらにな、そんな馬鹿なやつらは、加賀屋くんの家の近くでおきたアパートの放火――あれの犯人も加賀屋くんだと疑っている。自分で火をつけ、自分で通報したと考えているようだ。火が発見されるのが早すぎた、とかなんとかで。もちろん、俺はそう思っていないが。……だってそうだろう? わざわざ二階の真ん中に位置する部屋を狙う必要がない。ましてや加賀屋くんは怪我をしている。もし本当に――そんなことはないと信じているが――仮に、加賀屋くんがやったとしたなら、一階を狙えばいいし、そもそもあのアパートを狙うこともない」

 そして、小さく独り言のように加えた。

「……息子との接点が加賀屋くんにあるとは思えないしな」

 なんと。つまりそれは……。

「檜垣刑事の息子さんが、あのアパートの燃やされた部屋に住んでいた大学生ですか?」

 今、思い出した。そういえば、鉄村さんが『ひ』から始まる名前の人だと言っていた。まさかそれが檜垣だったとは。

「ああ、そうだ。生意気なやつで、大学に入るとすぐに家を出て行った。それからは一週間前――アパートの火災の二日程度前だ――に俺があいつのアパートを訪ねるまであまり会ったりはしなかったな。まあ、住むところがなくなった今は男二人でおれの家に住んで家事をとかを任せているが」

「え、男二人って、檜垣刑事、奥さんは……」

 反射的にそこまで言って、口を閉じた。妻がいない理由なんて、あまり人に言える話ではないと相場が決まっている。馬鹿なことを言ってしまったと後悔した。わたしは何でもないです、と言おうとしたが、一足遅く、檜垣刑事が先に口を開いた。声のトーンがさらに落ちたのがわかった。

「これはな、人に話せる話ではない」

 わたしは今度は、それなら聞きません、と言おうとしたのだが、その前に――いや、わたしが口を開こうとしたのにかぶせて――わたしに喋らせないようにそうして――檜垣刑事はわたしを見て言った。

「――とつい最近まではそう思っていた。心の深くに封印するものだと決めていた。思い出すたびにどうしようもない怒りと悲しみがこみ上げてくる。だがな、つい一週間前に、息子の住むアパートに訪ねたときに唐突に言われた。『親父、もしかしてまだあのことを忘れられずにいるのか』と。俺はそのとき思った。だから言った。『逆に、お前は忘れることができたのか』てな。あいつが答える間も与えずに続けて『お前はできるだろう。とても親孝行するようなやつじゃなかったからな』と浴びせてやった。胸ぐらを掴む勢いだった。息がかかるぐらいまで近寄った」

 だんだんと彼の言葉遣いが勢いを増していく。だが突然、怒りが冷めたように――怒りから覚めたように、またうつむくと、最初のような、不愛想な印象を与える口調に戻った。

「当初の目的など忘れて、あいつの部屋を無言で出ていった。そのときは夜で、涼しかった。その影響もあって、時間が経つと徐々に冷静になってきた。俺は近くの自販機で冷たいコーヒーを買い、それを一気に飲み干したら、頭が冴えたよ。馬鹿だったと。むきになりすぎたなと。このままでは駄目だとも思った。だから、俺は封印していたあのことと、どうにかして向き合おうとした。忘れようにもそうはいかなかったからだ。どうすれば楽になれるか考えた。……そして、気づいた。ただ何も考えずにそれと向き合おうとするから駄目なのだ。それは大きいものだ、かなり。だが、それを俺の中で小さくしてしまえば、そうすれば抵抗も少なくなり、忘れやすくもなるだろう。……自己解決が無理だから――その方法とは、誰かに話すことだと思った。だがこれがまた難題だった。人に話そうとするのは、一度そのことに向き合わなければならないからだ」

 檜垣刑事はわたしと加賀屋さんを交互に見た。

「苦しくても、一度でも話すことができれば楽になるはずだと思う。聞いてくれ。ほとんど何も知らない君らだからこそ話せるのかもしれない。こう言えばあれだが、子どもだから話せるのかもしれない」

 そしてもう一度。

「だから聞いてくれないか。自己中心的だと思っても構わない」

「……はい」

 わたしと加賀屋さんがほとんど同時に頷いた。

「それでわたしたちが檜垣刑事の役に立つのなら、聞きます」

 聞くだけでいいのなら、それだけで済むのなら、お安い御用だ。恩はいくら売っても損しない。

 檜垣刑事は大きく呼吸して、口をゆっくりと開いた。

「……半年前。コンビニ強盗があったのを知っているか? 君たちの住む街でおきたのだが」

「いいえ、知りません」

 加賀屋さんも知らないようだった。

「そうか。それなりに大きな事件だと思っていたが、それは俺に関係していたからそう錯覚していたのかもしれないな。……その強盗犯達は二人組で、コンビニを襲い、店員を脅迫して現金数万円を持って逃走した。あらかじめ計画を念入りに立てていたのだろう。店員を拳銃――本物かどうかはわからないが――で脅して金を受け取るところまでは恐ろしくスムーズに進んだ。そして逃走するために出入口まで向かった。そこで彼らには予想もしていなかっただろうことが起きた。犯行時間は昼時でな、店員だけではなく、客も数人いたんだ。その客の一人が、強盗犯の前に立ちふさがった。何を隠そう、その無謀なのは俺の妻だ。妻は非常に正義感が強くてな、そういうのが許せなかったのだろう。だが、許せなくたって、咎めることができるとは限らない。世の中、そうできないパターンがほとんどだ。そして妻は――あっけなく強盗に刺された。強盗犯は拳銃だけではなく、ナイフも所持していた。刺された妻は流血してそこに倒れた。さらにナイフで刺したほうの強盗犯は、動かなくなった妻の腕に巻かれていた金色の腕時計に目がいったのだろう、信じられないことに、そいつは腕時計をかっさらい、仲間と共にコンビニを飛び出した。……それから半年後の今日まで、その犯人は捕まっていない。防犯カメラは作動していたが、あまりの手際の良さで少なすぎるほど、手がかりがなかった。それに平日の昼の、さらに元々人通りの少ない道路の脇に建つコンビニだったから、目撃証言もほぼ無しに等しかった。声で、男の二人組だとはわかったが、それぐらいだ。犯人達はそれも計算に入れてのことだったに違いない」

 ここで檜垣刑事は一息ついた。わたしと加賀屋さんは話を聞いている間、ずっと黙って立って檜垣刑事を見ていた。加賀屋さんは松葉杖だからわたしよりも疲労するだろうに。唐突に、檜垣刑事は収納棚の引き出しに左手を伸ばし、中から金色の腕時計を取り出した。盤面の下に、アルファベットが数文字掘られていた。全ての文字を確認することはできなかったが、文の中にちらりとFとSが見えた。

「妻が盗まれた腕時計とほとんど同じものだ。盗まれた腕時計のほうは俺が妻に送ったものだ。これらは大事な物、思い出の品だ。この世にそんなにたくさんあるわけでもない、オーダー品だ」

 檜垣刑事はそれを引き出しに戻してわたしたちに向き直る。

「人を刺してさらに所持品を奪うなど、俺にはどうしても許せなかった。俺はその事件を担当していなかったのだが、独自で捜査を開始することにした。勤務の合間に聞き込みをし、情報を集めた。だがグンと犯人に近づくような手がかりは挙がらない。それは、いくら強行犯同士でも情報の交流が全くしようとしなかった事件担当のやつらも同様だったらしい。俺とコンビを組んでいると言っても過言ではない百合谷も、手伝ってくれたのだが。というか、手伝ってくれたのは百合谷だけだ。別に事件とは関係がないのにな。ダメ元で息子にも頼んだことはあったが断られた。まあ、刑事ではないのだから、当然だ。そんなこんなで進展しない日々が続いた。しかしだ、ある時、転機があった。今から三週間程度前、俺は犯人に大きく近づくであろう手がかり――証拠を手に入れた。このことに関して細かいことは誰にも話していない。担当にももちろんだし、俺のために動いてくれた百合谷にも手に入れたことは伝えたが、見せてはいない。俺は思った。もうすぐだ。もうすぐで、犯人を挙げることができる」

 檜垣刑事は話し終えたみたいで、大きく息を吐いた。わたしには、その一息で彼のわだかまりなども一緒に吐き出されたように思えた。

 刑事はわたしたちを交互に見て言った。その表情はやはり読み取りにくかったが、マイナスな気持ちではないことが読めた。

「すまなかった。君たちの時間を無駄にしてしまって。だが、ありがとう。ここまで言えたのは初めてだ」

 そして檜垣刑事はベッドに手を置いて身体を支えながら、おもむろに立ち上がった。

「火嫌井さん。加賀屋くん。君たちには本当に感謝している。俺からは何も情報が提供できないのは残念なことだが、できる限り加賀屋くんを捜査線上がら外せるように努力する。土曜日か日曜日あたりには退院できるはずだし、退院したらすぐに動こう」

 そしてわたしを見て付け足した。

「火嫌井さん。もし君が困ったときは俺に頼んでくれ。俺にできることなら、何でもする。俺の連絡先も教えよう」

「じゃあ、今、ひとついいですか?」

 わたしはこう言った。

「息子さんに会わせてくれませんか? 話を伺いたいんです。放火について」

 加賀屋さんの無実証明は檜垣刑事がしてくれる。だが、ここまで来たのなら、どうせならば、事件のことをあと少しだけ、調べたかった。もちろん、危険だと察知すれば手をそこで引く。これは、誰かの役に立ちたいという気持ちがどうというのではなく、わたしが最初にこの事件に興味を持ったのと同じ、キュリオシティーのせいだ。


 未来的に絶対ではない物事は観測、予想できない。理屈に頼ったところで、失敗するものは失敗する。絶対に湾曲することのない物なんて存在しない。ましてや勘や予感なんて論外だ。失敗したくないのなら、背を向け逃げなければいけないのだ。

 つまり何が言いたいのかって。……わたしはここで手を引けばよかった。いや、まだ時間的余裕はたっぷりあるのだけれど、勢いがついたわたしを(自分で言うのもなんだけど)止めることはできない。そう、ここでこんな質問しなければ、わたしや加賀屋さんが危険に陥ることもなかったはずなのだ。

 ……それとも、未来の観測がどうのこうのは関係なく、これは運命に定められたことなのだろうか。わたしが事件を捜査することを避けるタイミングは、春樹がぼやを消火したということを聞こうとしたあの時だけだったのだろうか。

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