四.探る。
加賀屋蓮と行動することにした椿。まずは手始めに別の放火があったというアパートを調べることにした。
わたしは火事があったアパートに面した生活道路に並んで立ついくつかの電柱のうちの一本にもたれかかっていた。
ここのところ寒さも衰えてきたし、湿気も少しづつとはいえ、徐々に増えてきた。火が回る速度は下がるだろうが、その代わりに、猫よけ等で一軒家の前に置いてある水が入ったペットボトルのすぐ近くに新聞紙などが積まれていれば、収斂現象――ペットボトルがレンズの役目を果たして新聞紙に熱が集中し、発火すること――を起こしたりして、充分火種になりうる。空気が乾燥した冬以外でも案外、火事は起こるものだ。
持て余した時間をそんなことを考えながら費やす。さっき確認したはずだが、やっぱり手持ち無沙汰でもう一度時間を確認する。現在午後一時ちょっと前。やっぱり少し早かった。まあ、人を待たせるより、自分が待つほうが気はいい。
明日は現場のアパートを見ようと思います――昨日、加賀屋さんにはそう伝えておいた。ということで、アパートの前に一時集合という約束をしていた。やっぱり、加賀屋さんが足を怪我していることを考慮して、加賀谷さん宅を待ち合わせ場所にすればよかったかな。
などと考えてたらまだ集合時間前だというのに加賀屋さんが建物の陰から現れた。車椅子ではなく、松葉杖を両脇に二本ついていた。わたしは一定のリズムでこちらへ歩いてくる(本人は早く歩こうとしているつもりみたいだけど、傍から見ればどう考えても徒歩ペースだ)加賀屋さんに駆け寄る。
「……待たせたか。すまんな」
「いえ。わたしも今来たところですので」
なんだこのやり取りは。デートか。
わたしは加賀屋さんの横に並んでアパートの前までもう一度来た道をひき返す。歩く速度は健康な一般人となんら変わりないが、加賀屋さんは疲れなど見せなかった。こんな雲ひとつない晴天の真下で汗一つかいていないのはさすが体育系、感心する。
「で、火嫌井さん。アパートの前まで来たのはいいが……どうするつもりなんだ。部屋には入れないと思うが……」
まあ、それは当然だ。わたしは、まずは周りを見てみようかと思います、と受け答えをし、視線を前からアパートに向けた。
このアパートは二階建てで、年季が入ったはるか昔は白色だったろう灰色にくすんだ壁と黒色の屋根を持っていた。ドアは全てこちらを並んでいる。出火元の部屋はすぐにわかった。二階、右から三番目の一室のドアと窓周りが黒く焦げていた。その両隣のドアのすぐ近くにも焦げ痕が侵入してきているが、被害はそこまでで両方とも部屋の中までは燃えてなさそうだった。そこだけを切り取って見れば、このアパートは他の物となんら変わらないだろう。まあ、とびきりの古さは無視できないが。
「この火事について詳しいこと、何か知ってます?」
わたしの質問に加賀屋さんはかぶりを振った。
「さあ。放火だということ以外は特に何も……」
言い終わらないうちに加賀屋さんは、あっ、と口にした。
「いや、なくないぞ。火事があった部屋の住人についてなら知っていることが三つだけ」
「本当ですか」
加賀屋さんは二本の松葉杖に体重をかけながら、片腕を上げて指を一本だけ立てた。
「その一。一人暮らしだったらしい」
そして勢い良く中指も立てる。
「その二。大学生だそうだ」
ここまではあまり役に立つ情報ではなさそうだけど、こういう場合は三つ目にとっておきを残しているパターンが多い。期待してそれで三つ目は何ですか? と訊く。
加賀屋さんは親指を横に開く。その顔は自信に満ち溢れていた。
「その三。……おれはそれ以外何も知らない」
その顔は、してやった感で輝いていた。
わたしは呆れたように手をパンパンと叩く。というか呆れた。
「はいはい。面白いです。情報提供、ありがとうございました」
「すまん! 許してくれ! 軽いジョークだ!」
「わたしの気は重いですよ……」
まあ、ここまで悪ふざけができる仲になったということ……別にならなくてもいいんだけれど。悪ふざけをするのは春樹だけで充分だ。
「加賀屋さん、このアパートの反対側って見れるんでしょうか。……あ、知らなかったら別にいいんですよ」
「それなら知っているぞ。アパートの階段と隣家の塀との間に隙間がある。そこを抜ければいい」
見ると確かに人が一人だけ通れそうなスペースがあった。ひとが通れそうといっても松葉杖をついている人には少し難しいか。わたしはそこまで歩いて体を横にして隙間を抜け、そのまま小走りでアパートの裏側まで回った。アパートの裏側はまた表と同じ幅ぐらいの道路になっていた。今のルートを通らなくても裏側に来るのは簡単なことだった。まあ、こっちのほうが早く来れるのだけれど。
いくつかの窓といくつものひびが走る壁を見上げる。
「あ、こっちのほうがひどかったんだ」
二階、火事があった部屋の窓は割れ、丸焦げになっていた。両隣の窓も黒くなっていた。消防はこっち側から消火活動をしたのだろう。消防の迅速な対応に感銘する。築十何年も経っているようなアパートなのに火事に耐えることができたアパートにも感心する。あといち早く火災に気づいた加賀屋さんにも。いちおうね。
ケータイで写真を撮っておく。さて戻ろうか、と踵を返したところ目の前に加賀屋さんがいた。あの狭い隙間を通ってきたらしく、半袖から覗く少し焼けた腕に浅い擦り傷があった。
「大丈夫ですか。腕、壁で擦ったんじゃないですか」
加賀屋さんは腕を見ることもなく答える。
「いや、平気だ。気にしないでくれ。戻るのか」
「はい。そうなんですけど。あまり用はなさそうなんで。……加賀屋さんは今の道を通らずに道路を回ってきてください。また傷が増えますから」
迷惑かけてすまんな、と言って加賀屋さんは道路を歩き出した。わたしは今のコースをもう一度通ってアパートの表に出る。
出たところで、さっきまではいなかった人に気づいた。生活道路の脇でなにやら話しこんでいる二人がいた。一人は地味な茶色の服を着た白髪ばかりが目立つおじさんで、もう一人がどこかで見たことがある、背広を着た若い人。見たことがあるもなにも、その若い人は千神刑事に間違いなかった。わたしがそこまで駆け寄ると、二人はわたしに気づいて会話を中断してこちらを向いた。
若い人――千神刑事が片手を挙げた。
「よお。ひぎなんとか」
「ちゃんと呼んでください」
「ひぎなんとかちゃん?」
「ちゃん付けで呼んでくださいと言ったんではないです!」
いい加減に名前を覚えてほしい。といっても偽名なのだけど。
「どうしてここにいるんですか」
「ちょっとあってな。……今、用事が終わって帰ろうとしていたところだ。ひぎなんとかは一人か?」
「一人じゃないです。加賀屋さんもいますし」
「そうかい。今はいないようだが――」
言いながら千神刑事は首を巡らす。
「――最近の学生は放火現場をデート場所にするんだな」
「で、デートじゃ」
だけどわたしが言い切る前に千神刑事が遮る。
「まあ、なんにしても俺はもう行くんでな」
そうやって千神刑事は話を無理矢理に終えると、さっきまで話していたおじさんに一礼し、小走りで去っていった。その方向ならば加賀屋さんとばったり会ってしまうというようなことはないだろう。それはよかったかもしれない。あの二人が一度会ってしまえば、また口喧嘩になるに決まっている。
わたしが昨日思った、千神刑事は刑事ではなく偽物かもしれない、という考えはまだ本人に言うのは早すぎると思った。まだその時ではない。もしあのひとが犯人ならば、警察じゃないことがバレただけで逆上するかもしれない。
千神刑事が見えなくなったところで気づいた。今、この場にはわたしとおじさんの二人だけだった。後ろから視線を感じ、ちらりとおじさんのほうに見る。目が合った。
「おや。やっぱり椿さんじゃないかい」
その人に名前を呼ばれ、わたしは驚いておじさんをもう一度はっきりと見る。おじさんよりもおじいさんが似合うようなしわがくっきりと刻まれた顔。なんと知っている顔だった。
「鉄村さん! 久しぶりですっ」
「そうじゃな。いつ以来じゃろうか」
つぶっているんじゃないかというほど細い目で笑う。
「前回に会ったのはわたしが小学校の下校途中でしたからもう二年は経ちますね」
「そうじゃったそうじゃった。確かあのときにわしの落し物を見つけてくれたんじゃったな」
このおじさんは鉄村竹義さんといって、もうすぐ七十代の仲間入りになるけれど、老いを全く見せない元気なおじいさんだ。昔は――わたしが生まれるよりも前――そのころは、名が通った俳優として活躍していたらしい。つまり元有名人。わたしとは小学校低学年のころに初めて出会った。確かそのときも、彼は何かを失くしてしまってそれをわたしが見つけてあげたんだと思う。本当に懐かしい。
「ここで何をしているんですか?」
鉄村さんはアパートに手を向けた。
「ここの大家をやっておってな。家内や子ども達でなんとかやっとるよ。さっきも、若いモンと数日前にあった火災について話しておったところじゃ」
記憶を探る。
「鉄村さんって子どもいましたっけ?」
首を傾げて、
「……そういえば、いなかったのう。たまにあるんじゃ、こういう錯覚」
うーん。元気だとは思ったけど少しボケてきたのかな。
「でも、元気そうでなによりです」
「ハッハッハッ。相変わらず礼儀正しいの。さらにいい娘になっとるわい」
ふと、ここでひとつ思いついた。
「鉄村さんは大家さんなんですよね」
わたしはアパートの二階、黒い壁に囲まれたドアを指差した。
「あの部屋、少しだけでもいいですから見ることはできませんか?」
ちょうどその質問に対する当たり前な返事を鉄村さんからもらったときに、加賀屋さんがそこまで来ていることに気づいた。
「加賀屋さん、こちらは鉄村竹義さん。このアパートの大家をやってます」
鉄村さんを加賀屋さんに手で示し紹介する。加賀屋さんは妙にへりくだった態度で、こんにちは。加賀屋蓮といいます、と頭を深く下げた。春樹と同じように、年上の方が苦手なのだろうか。
わたしはもう一度鉄村さんに向き直る。
「本当に駄目ですか」
「駄目じゃの。こっちもいろいろあっての。でもわしが知っていることならなんでも答えるぞ」
うーむ。やっぱり部屋を見せてもらうことはできないか。まあ、どのみち中を見たところで黒いすすで覆われているだけだろうけど。
それならば、恩を売る作戦だ。
「いろいろって困っているんですか? わたしにできることならしますよ」
「困っていることはないんじゃが。刑事さん達からの聞き込みもほとんどないし、例の火災も保険金などがあるから大きな損害もないしの。まあ、前回、これと同規模の火災があったから慣れておるし」
「前回……?」
「いや、今回の事件とは関係がなさそうじゃけどの」
そうとは限らない。どんな情報でも必要だ。
「それについて詳しいことを教えてください」
「別に構わんよ。…………そうあれは、曇天の冬の日じゃった――」
と顎を撫でながら語りだした。
「星が瞬き、月が不気味な程明るく夜道を照らす夜。コンビニから歩いて帰る途中じゃった。夜の散歩はいいものじゃな。同じ道でも昼とは違う景色を楽しむことができる。昼間は色鮮やかな赤をした鳳仙花もただの黒いシルエットになる。……まあ、そんなことはどうでもいいのう。とにかくそんなことを思いながらバイクを飛ばしてこのアパートについたんじゃ。顔をあげるとな、アパートが激しく燃えとった。わしは驚いた。こんなに大きな火を見たのはバブルが崩壊してから何年ぶりじゃろう、と思った。それでわ」
「ちょっと待ってくださいっ 今の話の間に即興でどれだけ矛盾を詰め込むんですかっ」
曇天なのに星が輝いているところとか! 歩いているはずなのにバイクを飛ばしているところとか! 月が夜道を照らしているはずなのに鳳仙花がただの黒いシルエットになっているところとか! 冬なのに鳳仙花が咲いているところとか!
「というかそれいつの話ですか」
「三十数年前」
「バブル崩壊は二十年前です」
なんと約五十五歳差のボケとツッコミだった。まあ、それだけ前の話ならば、
「やっぱり関係ないでしょうね、今回のこととは」
「俺もそう思う」
と加賀屋さんが久しぶりに口を開いた。
わたしは気を取り直して鉄村さんに訊く。
「では、火事があった部屋に住んでいた人について知っていることを教えてくれませんか」
「そうは言っても、知っていることはそんなに多くないんじゃけどのう」
鉄村さんは視線を上にして考える。
「一人暮らしの大学生じゃから、平日は朝と夜以外に会わないし、休日は休日で何をしてるんか知らんが滅多に会わない。部屋は丸焦げでとても住める状態じゃないから、今はどこに住まわしてもらっておるんかのう。聞き逃したわい」
どうやら大家さんであっても知っている情報は加賀屋さんとそんなに変わらないみたいだ。
「ところで、名前はなんとおっしゃるんですか?」
「名前…………」
「はい。名前です」
「名前……」
「はい」
「忘れたの」
「はい?」
鉄村さんは苦笑いで、こんなはずはなかったんじゃがの。昔はもっと記憶力がよかったんじゃが、とかなんとか弁解している。
「ひ……なんとかじゃ、確か。契約書もすぐには確認できる場所にないし……表札も燃えてしまっているからの」
確かに、ここから見える黒焦げのドアのすぐ脇にある表札は字がほとんど見えなかった。むしろ、わたしぐらいの視力がなければ、表札も見えないんじゃなかろうか。
「……そうですか」
「椿さんが知っておると思ったんじゃが」
どうしてわたしが知っているのだ。
わたしは少し考えてから訊く。
「火事って放火だったんですよね、犯人は捕まってないんでしょう? 警察の人は犯人について何か言ってました?」
鉄村さんは顎に触れながら言う。
「そうじゃの。お金目当てとか言ってたのを耳に挟んだのう。何でも部屋が荒らされたあとにテーブルの上に紙の束を置いてそれに火をつけたとか。それ以外は……」
「それ以外は?」
どこか憎めない笑顔で、
「忘れたのう」
「…………」
もう手に入る情報はなさそうだった。だが、かなり重要な情報が手に入った。老化はとても恐いということだ。気を付けよう。