三.訪ねる。
濡れ衣を着せられようとしているかもしれない加賀屋蓮の家を伺った椿は、そこでまた例の刑事と会う。
わたしは昼食をとったあと、午前中のうちに調べておいた住所に向かった。ある人に会うためだ。
そこは、チンピラ達が出入りする薄暗い灰色の鉄筋コンクリートの建物……ではなく、普通の住宅街に建つ他となんら変わりない一軒家だった。
『加賀屋』
表札にはそう書かれていた。どうやらここで間違いはないらしい。呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばしたその瞬間、がちゃっと加賀屋家のドアが開いた。わたしに気づいたのだろうか、と思ったけれど、そうではなく――というか、加賀屋家の人でもなかった。出てきたのは二人組の男。一人は片手にスーツの上着をかけ、シミひとつないカッターシャツに身を包んでいる、五十代近くだろうかそれなりに老けた人。白い髭がいくつか混じって表情は堅い。真面目そうな人だと思った。そしてもう一人は数時間前に出会ったばかりの人だった。その彼がわたしに気づき、手を小さく挙げた。
「やあ、お嬢さん。捜査しとるねえ」
関西弁の百合谷刑事だった。二回目なのだ、あまりかしこまる必要はないと思い、どうも、と軽く会釈だけをした。
「誰だ?」
少し老けた刑事が百合谷刑事に耳打ちした。確かに耳打ちをしたのだが、丸見えな口の動きから声量まで、わたしに話しかけているようだった。
「知り合いですよ」
百合谷刑事は短く答えた。それを聞くと、その少し老けた人はわたしに向き直って、警察手帳を開いて見せる。名前は檜垣重盛というらしい。
「県警の檜垣と申します」
どうでもいいけど、この人、すごく声が渋い。顔に似合った声だった。
相手が名乗ったのだからこっちも自己紹介をするべきなのだけど、刑事の前で火嫌井と答えるのもいかなるものか。やっぱり本名を名乗るべきだ。
「火嫌井椿といいます。坂月市立第三中学校二年生です」
はっ! ……しまった! また花川と名乗れなかった! しかし心の中で確信犯でしょ馬鹿か、と毒づくわたしもいた。
しかし檜垣刑事は別段訝しむこともなく、そうか、とだけ。本当に偽名に気づいていないのか、はたまたわたしのことになど全く興味がないのか。百合谷刑事が一歩前に出て、先輩の刑事がすぐ横にいることを意識しているのだろう、さっきは微塵も感じさせなかった、まるで子どもに話しかけるような優しい口調で言う。
「僕たちはさっきのぼやについて、蓮くんにどうしても用があってな。……いや、もうそれは済んだんやけど」
蓮君とは、この家の一人息子、加賀屋蓮さんのことだ。わたしが会おうとしているのもその人だけど、残念ながら一足遅かったか。
「あまり喋るな」
檜垣刑事がピシャリと注意する。そしてわたしに、
「すまない。他言するのはたとえ中学生相手でもあまりよろしいものではないからな。……失礼させてもらう」
と言い、わたしの横を通り過ぎていく。その後ろから、すっかり小さくなった百合谷刑事が続く。
「ほなまたや。お嬢さん。捜査、頑張ってや」
それでも、すれ違いざまにそう小さく口を開いたのだった。
二人が道を進んで角を曲がり見えなくなる。車はどこか別の場所に置いてあるのだろう。さて、とわたしは気を取り直して呼び鈴を鳴らす。しばらくしてノイズと共に男の声が短く聞こえた。
「誰だ」
少し考えたあと、インターホンに少しだけ顔を近づける。
「火嫌井椿といいます。加賀屋蓮さんはいますか?」
ここに来る前にいくらか加賀屋家のことを調べておいた。両親は日曜日以外、共働き、それ以外に兄弟祖父母等の家族はいないそうなので、この声は確認するまでもなく加賀屋蓮本人のものだとわかった。
「火嫌井椿? 蓮はおれだが……誰だ。何の用だ」
誰だ、と訊かれてもなんと答えればいいのか。それならとその質問はひとまず置いておくことにして、何の用だ、という質問に答える。
「昨日、第三中でぼやがあったのを知ってます?」
「いいや」
まるで興味がなさそうな声。
「犯人はわかっていません。その近くにあなたのものと思われる足跡が残っていました。それについてです。……意味、わかるでしょう?」
少し挑発気味にそう言った。まるで犯人はお前だ観念しろ、とでも言うように。どうやらそういう意図がわかったようで、加賀屋さんはちょっと待ってくれ、と言ってインターホンの接続を切った。
しばらくのち、ドアが開き、そこから加賀屋蓮だろう人が現れた。
「……どういうことだ」
加賀屋蓮さんはわたしの兄の春樹とは大きく違い、がっちりとした体型で、少し日焼けをしていた。体育系だな、と一目でわかる。調べたところ、実際に彼は陸上部員らしい。三年生で、春樹と同じクラスだそうだ。春樹もそれなりに足が速いが、彼はクラスで一、二番目を争うほどの実力らしい。この人がいればもう数週間後に迫ってきている体育祭はクラスで好成績を収めることができるだろうと期待されていたそうだ。――だが。
彼が家から出てきたとき、わたしは顔よりも彼の足に目がいった。加賀屋さんは左足にギブスを巻き、松葉杖をついていた。加賀屋蓮のことを調べてくれた友人によると、全治三ヶ月程度の骨折。これでは、残念ながら体育祭当日までに走ることができないだろう。
「放火現場と校舎を往復するように足跡がはっきりと残っていました。それも、右足だけの。……いえ、正確には違います。右足とその両脇にひとつずつ直径一、二センチメートル程度の丸い点がありました。まるで松葉杖をついている人の足跡みたいに」
加賀屋さんの表情にみるみる焦りの色が現れる。
「おれは知らんぞ」
加賀屋さんの言葉を無視して続ける。
「わたしが調べたところ、第三中学校に左足を怪我して松葉杖をついている人は加賀屋さん、あなたしかいないんです。これはどういうことでしょうか?」
「だからおれは知らん」
加賀屋さんの表情が今度は怒りで赤くなってきた。わたしが男だったら飛びかかられているかもしれない。女のわたしでもされにくいだけで、されないとは限らない。痛いのは嫌だ。わたしは急いで先を述べる。
「はい。加賀屋さんはぼやについて何も知りません。わたしは信じます。……だって、加賀屋さんは誰か――おそらく犯人――に濡れ衣を着せられようとしているんですから」
「…………」
加賀屋さんは安堵の表情も見せず、何も言わずにわたしを見ている。わたしは人差し指を立てる。これは誰かに何かを説明するときのわたしの癖なのだ。
「いくら間が抜けた人でも、自分の足跡をはっきりと、まるで『自分はぼや現場まで往復しましたよ』と誰にでもわかるような道を選ぶ人はいないでしょう。ましてやよっぽど外せない理由もないかぎり、午前中まで雨が降っていてぬかるんだ土を歩くのはちょっと。しかも松葉杖をついている人なんてほんの少数。これでは疑ってくれと言っているようなものです。足跡が残っている理由はまさにそのとおりでした。犯人が加賀屋さんに疑いの目がいくようにしたんです。……なぜ加賀屋さんを選んだのかはわかりませんけど」
これだけのフォローをしたのだ、殴るのなら殴れ。わたしはじっと加賀屋さんの次の動きを待った。加賀屋さんは腕組をして黙ったままだったが、やがておもむろに口を開いた。
「そうか。ではあんた――失礼、火嫌井さんといったか――はどうしておれのところに来たんだ」
どうやら殴られずに済んだみたいだ。わたしは心の中で胸をなでおろした。
「加賀屋さんを疑って警察の方達が来るかもしれないと思ったからですけど――もう来ましたよね」
「ああ、来たな。……今、思い出したが、あいつら前置きに昨日、放課後にどこでどうしていたかを遠まわしに聞かれた。陸上部にはいけないからずっと家にいたと答えたんだが……アリバイがないことを認めてしまったな」
そう言って悔しそうに顔を歪ませた。
わたしは既に別の言葉が気になっていた。
「前置きとはどういう意味ですか?」
「ん。……ああ、それか。あの二人は別の要件で来ていた。……いや全く、まさかアリバイを聞かれているとは。あまりにもさりげなかったから……」
「でも、やっぱりあなたはやってないんでしょう」
加賀屋さんが犯人でわざと見つかるように足跡を残していたのなら、それはよっぽどの理由がないかぎり、馬鹿だ。加賀屋さんはやっていない、と答えた。
「これは今言った情報と交換ということでいいんですけど……百合谷刑事達は何の話をするという建前だったんですか?」
加賀屋さんは黙ってわたしを観察するように見た。それはそうだろう、今わたしが言ったことは、こちらから無理矢理与えるだけ与えて、その見返りを強制するようなものだ。また騙されるのではないかと思っているのが視線から伝わる。わたしは何も発さずに加賀屋さんの次の言葉を待った。
「いいだろう。そこまで重要な話でもないしな。少し遅かったとはいえ、おれのことを何も知らないのにわざわざここまで来てくれたらしいし。期待には答える」
「ありがとうございます」
おそらく加賀屋さんが聞かれたのは第三中学校のぼやとは直接関係のないこと。でも、ぼやのことをほのめかさずにどういう理由でやって来たのかが気になったのだ。
かいつまんで話すとな、と前置きして加賀屋さんは話し出す。
「火嫌井さんが知っているかどうかはわからないが、水曜日にここから第三中学校に向かう道の途中にあるアパートで火事が起こった。幸運なことに死傷者ともにゼロだったそうだ」
水曜日というのは今日が土曜日だから一昨昨日のことだろう。その話なら噂で聞いたことがあった。
「その火事自体は三室が燃えただけで済んだそうだ。といっても出火元の一番ひどかった部屋は黒焦げに全焼したらしいが。その火事を警察に一番最初に通報したのがおれだ。住人が少なくて暗いアパートのある一室から赤い光が見えてな。その光がちらちらしていたから、あれは部屋の明かりではないな、と思ってとっさに通報した。駄目だとはわかっていたんだが、緊急だったんだから仕方ない」
そうだったんですか、と相槌を打つ。
「中々の行動をしていたなと今でも思う。人生のうちで初めて一一九に電話をしたしな。緊急の時にはどの電話番号が救急車でどの電話番号が警察なのかがわからなくなると聞いたことがあるが、あれは嘘かもしれないな。おれが図太いだけかもしれないが。……ま、刑事らが聞いてきたのはそのことについてだ。放火なのだそうだが、犯人らしき人は見たか、とか。見ていないと答えたのだが」
「そうですか。ところで――」
わたしは唐突に話を変える。
「夜まで学校で何をしていたんですか?」
その途端、加賀屋さんの顔がまた険しくなった。わたしに驚いたというよりも、わたしを疑っているような。そんな表情だ。
「あんた、どういうことだ。おれを学校で見たのか? あんたも第三中学校生なのか。もし根拠もないのにそんなことを言うのなら、例え、気遣いや優しさでここに来てくれたとしても――」
その言葉と急にドスがきいた声に切り替わったところを見ると、やっぱり学校で何かしていたんだろう。人に知られたくないような何かをしているしていないの前に、夜の学校にいなかったのならば、お前は何を言っているんだ、で済む。そういう保険があったからこそ、あまり確実でない証拠だけでそう断定しても構わないと思ったのだ。そして簡単に見透かせるような単純まっすぐな加賀屋さんだからこそ、完璧な証拠を示さなくても、状況証拠だけで、納得してぐうの音も出なくなる……はずだ。わたしは口を開いた。一度下げた腕をもう一度上げ、人差し指を立てて。
「加賀屋さんがさっき言った、『ここから第三中学校に向かう道の途中にあるアパート』から、加賀屋さんの登下校にアパートがあるのがわかりました。そして『住人が少なくて暗いアパート』。何が暗いのでしょうか。アパートの雰囲気が暗い? そのような説明はいらないでしょう。日陰ばかり? このあたりは住宅街です。建物はあまり高くありません。それなら、やっぱり日が沈んでいたから、周りが暗かったと考えるべきでしょう。住人が少ないから窓の明かりも少ない。だから暗いアパートです。そのとおりなら加賀屋さんは夜に火事を見た」
加賀屋さんが徐々に今度は苦虫を噛んだような表情に変化する。
「『駄目だとはわかっていたんだが、緊急だったんだから仕方ない』。何が駄目なんでしょう。これはおそらく前文に受けてのこと。細かく区切ると通報の部分。人命を救うかもしれない通報それ自体が駄目だとは考えられない。それならば、場所か。場所でもなさそうです。人の迷惑がかかる場所ではない外ですし。それならば――加賀屋さんはどの電話で通報したのか、です。公衆電話ではなく、ケータイで、ですよね。といってもケータイは未成年が持つのを法律で禁止されているというわけではないので、駄目というわけじゃない。だけど、校則。第三中学校の校則で、学校にケータイを持ってくるのは禁止です。加賀屋さんは駄目だと思いながらも、ケータイを学校に持って行っていたんですよね。だって学校の帰り、ケータイで通報すれば学校にケータイを持参していたことがばれるかもしれませんから。……だから駄目だと思った。……そしてこれまでの推理をまとめると、加賀屋さんが夜まで何かをした帰りに火事を発見したことがわかります。クラブではないでしょう? 加賀屋さんは怪我をしているので陸上部に行かないそうなんで。どこかに寄っていたわけでもないと思います。加賀屋さんは片足を骨折していて松葉杖をつくくらいですから。夜までかかる長すぎる遠回りは考えられません。ここらの病院や整骨院は学校からこちら方向ではなくそのまるっきり反対側ですし」
そしてずっと上げていた腕を下げたあと、問う。
「……で、何をしていたんですか? もちろん、別に答えなくないというのなら、それでもいいんですけど」
この推理、話しているうちにたくさんの穴に気づいた。だけどまあ、こういうのは言いくるめたほうが勝ちだ。
そしてどうやらこの勝負、わたしの勝ち。加賀屋さんは諦めたように松葉杖に両腕を預けたまま、肘だけ上に曲げてお手上げのようなポーズをした。
「観念した。頭良いな、あんた……失礼、火嫌井さん。そうだ。おれは夜、というか、日が落ちたすぐあとぐらいまで学校にいた。なにをしていたのかだが、それは……ガキっぽいことをしていたから」
「ガキっぽいこと?」
加賀屋さんはうつむき、やがて話しだした。
「そう。一言で言うと悪戯だ。クラスのあるやつにな。そいつはおれが怪我をして走れないのをいいことに、体育祭の目玉である四人一組のクラス対抗リレーのおれの枠に入りやがった。だから、そいつをこらしめるために悪戯をしてやった。次の日、あいつは狙い通りに落ち込んでたよ」
わたしは先生ではない。だから人を諭すようなことはあまり上手くない。それでもわたしはこう言うしかないと思った。
「……その人が誰だかは知りませんけど、あなたの怪我が治らない限り、あなたは走ることはできないし、その人が自ら辞退を申し出ても、結局は他の人が選ばれるんです。加賀屋さんはクラスメート全員に悪戯を仕掛けるつもりですか?」
「…………」
加賀屋さんは下を向いたまま、何も言わない。言い訳をすれば、わたしが味方をするとでも思ったのだろうか。
「それに、加賀屋さんが怪我をしたのはその人にせいではないんでしょう?」
「……それは、そうだ」
「それなら、その人に謝るべきです」
加賀屋さんは顔を上げる。
「わかった。火嫌井さんの言う通りだ。できるだけ早くその人に謝る」
「はい。それでいいです」
わたしは自分でも表情が和らぐのがわかった。
物分りのいい人で良かった。こんな人が春樹の友人だったらどんなに春樹にとって頼りになるだろう。確かこの人は春樹と同じクラスだったような。
『ピンポーン』
どこかの家のチャイムが鳴った。わたしが振り向こうとしたその時、『ピンポーン』ともう一度チャイムが聞こえ、それに続いて加賀屋さんのまたか、という声。振り向くとわかった。チャイムが鳴ったのは他でもないこの加賀屋家のものだ。そしてインターホンの前には、いつからそこにいたのか、一人の男が立っていた。年齢はどんなに多く見積もっても二十代前半といったところ。紺色のスーツを着た中肉中背。金色に彩られた腕時計を巻いた右手はドアチャイム用押しボタンに伸びている。彼が呼び鈴を鳴らしたのか。
加賀屋さんはその男に向かってため息とともに言う。
「……はあ。おい、千神刑事。おれがここにいるのがわかっているんだろ? なんで二回も鳴らすんだよ」
「二人の会話に割り込むのもどうかと思ってな。俺なりの配慮だ、感謝しろ」
千神刑事と呼ばれた男はわずかに口の端を上げてそう答えた。
「うるせえよ。本当はそう思ってもないくせに」
どうやらこの二人、顔見知りらしいのだけれど。
「誰ですか、彼」
わたしは加賀屋さんに耳語をした(先の檜垣刑事と違い、しっかりと声量は下げた)のだが、聞こえていたらしく千神刑事が名乗った。
「千神刑事。さっきの二人と同じ警察の者だ。蓮は俺にやけに馴れ馴れしくしているが、これでも一昨日に初めて会ったばかりなんだぜ」
「あんたが馴れ馴れしいからだろ。というか下の名前で呼ぶなよ。……恥ずかしいから」
「でも、その娘に蓮と呼ばれたら嬉しいんだろ?」
「そ、そんなわけないだろ! 馬鹿言うな!」
からかう彼の顔は少しも笑っていなかった。どんだけ表情を固定しているんだ、この千神刑事とやらは。どうでもいいが、わたしもこの場にいることを忘れているんじゃないだろうか。
まあ、聞こえていたのなら仕方ない。わたしは刑事を向いて軽く頭を下げた。
「こんにちは。火嫌井椿といいます」
とわたしも自己紹介をする。そこから間をあけることなく加賀屋さんがぶっきらぼうに言う。
「千神刑事はなんだ、また聞き込みか? それならさっさと聞いてくれよ」
ははは、わかってるじゃないか、と千神刑事。しかしやっぱり顔は笑っていない。あんたはロボットか、とツッコミを入れてやりたい。
「では単刀直入に。昨日午後五時頃何してた?」
この言葉に加賀屋さんは隠すこともなく、声のトーンを低くした。
「あんたもおれを疑っているのか」
「何のことかわかっているんだな」
「ああ。さっきの檜垣刑事と百合谷刑事にも答えたが、その時間は家に一人でいた。両親は働いているし、他に家族もいないからアリバイはない。聞きたいのはそれだけか? 聞くこと聞いたらさっさと帰れ」
言いながらしっしっと手を振った。
「まだひとつしか聞いてないのにな。そんなにそのひぎなんとかさんと喋りたいのか」
「うるせえよっ」
加賀屋さんも言い返さなければいいのに。というか千神刑事は火嫌井ぐらい覚えてください。
「まあ実際、俺が聞きたいのはそれぐらいだしな。長居はあまり好かれないし」
「あんたなんか最初に出会ったときから嫌っている」
「しかし京都の『上がっていってください』は『帰れ』の裏返しらしいから、もしかするとその『嫌い』は『大好き』だという……」
「もう帰れ!」
千神刑事はスーツのポケットからケータイを取り出し、サブディスプレイを見て、ポケットに戻す。
「時間を確認したんですか?」
「ああ、そうだ。悪いか?」
何だろう、この時に見せるぶっきらぼうな言い方は。無表情な千神刑事も気安さ全開の百合谷刑事もあまり好印象じゃない。
「悪くはないですけど。どうして腕時計があるのにそちらを見ないんですか」
わたしは千神刑事の袖からちらりと覗く金色の腕時計に指を差す。千神刑事は腕時計を見ながら返事をした。
「これは動いてない。止まっているだろ?」
腕をねじってわたしたちに腕時計を見せる。確かに時計は全く動いてなかった。今、はっきりとその腕時計が観察できた。金色なのは確かだが主な装飾は特になく、高級かどうかを訊かれると怪しい。装飾というわけではないが、盤面の下方に『for S from M』とアルファベットが掘られている。メーカー名ではなさそうだが。
「止まっている腕時計をつけているなんて物好きだな」
ははは、と千神刑事が言葉だけで笑う。言葉と顔のアンバランスさが実に奇怪だ。
「価値観なんて人それぞれ。だから貴重な物も人それぞれなんだぜ」
まあ、高級品とかならたとえ動かなくてもつけたくなる気持ちはわかる。
「加賀屋さんと千神刑事ってどういう関係なんですか」
千神刑事が去ったあと、加賀屋さんにそう訊いた。加賀屋さんは千神刑事が去ったほうを見たまま答えた。
「ただ聞き込みに来た刑事と訊かれる学生ってだけだ」
「その割にはかなりタメ口だったみたいですけど」
加賀屋さんは千神刑事が去ったあともむすっとした面構えをしていた。
「あいつが鬱陶しいからだ。三日連続でここに来やがってな。会ったのも三回目だ」
「前回、前々回は何を訊いてきたんですか?」
未だにまっすぐ前を見つめながら加賀屋さんは話す。
「さっきの檜垣刑事達と同じようなことだ。おれが通報したアパートの火事についてだ。わざわざ二回に分けてな」
どうして千神刑事は檜垣刑事達と同じようなことを訊きに来たのだろうか。そして頭の中にふっとある可能性を思いついた。わたしはその思いつきが合っているかを確かめるために加賀屋さんに質問する。なるべく加賀屋さんに悟られないように。
「前の二回も一人で来たんですか?」
そうだ、と加賀屋さんは何も訝しむことなく返事をしてくれた。
刑事はの聞き込みは二人組だというのをよく聞く。それなのに三回とも一人での聞き込みで、別の刑事が一度聞いたことを訊きに来る……もしかすると。
「千神刑事って一回でも警察手帳を見せたことあります?」
「ん。……そういや、ないな。さっきみたいに千神刑事だ、てな」
うーん。ますます怪しい。千神刑事は刑事ではなく、偽物だという可能性。このことを頭の端に置いておいてもいいかもしれない。
加賀屋さんはずっとむこうを向いていたが、やっとわたしに向き合った。だが、目はそっぽを向いている。
「なあ、火嫌井さん」
「何ですか」
「……椿さんと呼んでいいか?」
まさかそういうことを訊かれるとは思ってなかったが、わたしは迷わずに作り笑顔で即答する。
「やめてください」
下手な馴れ合いは不要だ。と、ハードボイルド風に考えたりもする。
その夜。細い月が細いながらも輝く綺麗な星空だった。わたしは自室の窓から夜空を眺めながら、何百もの連絡先が保存されたケータイの電話帳から、やっとのことでお目当ての人物を見つける。わたしはその番号に電話をかけた。数コールのあと、電話口から男のような低い声が聞こえてきた。
『おう。誰だ、貴様』
「こんばんは。知らない人からかかってきた電話なのに『おう』と答えるのはどうかと思うよ」
そう言った途端、むこうから、ふふふ、と笑い声が聞こえ、さっきのような低い声から明るく高い声に変わった。
『こんばんは。やっぱり椿ちゃんには効かないか。……で、どうだった?』
「ありがとう。みさぎに頼んで正解だったよ。今、敬意を表して頭下げてるもん」
『どういたしまして。また言ってね。椿ちゃんのためなら、うち、なんでもするから』
彼女の名前は明日みさぎという。わたしの同級生で友人。わたしに恩を感じてくれているらしく、今日みさぎにした頼み事――坂月三中に左足を骨折ないしギブスを巻いている人は何人いるか、いるとしたらその人の情報も――をすんなり聞いてくれて、すぐに行動してくれた。色々と無茶なお願いだったかもしれないけど、そのみさぎの働きっぷりには驚いた。本当は人海戦術で他の交友関係が広そうな数人にも頼もうと思っていたぐらいの仕事なのに。
『で、椿ちゃんはその放火事件の捜査をするの?』
わたしは少し考えてから答える。
「というか、加賀屋さん――あ、今日みさぎに調べてもらった人――のね、容疑がまだ晴れていないみたいだから、しなくちゃいけないと思って」
『そうなんだ。……でも、椿ちゃんの方針にうちが口出しするのも生意気だけど、どうして椿ちゃんは捜査をしようと思ったの?』
いきなりの唐突な質問だけど、すぐに頭に浮かんだ。ただ、それを言うのは少し恥ずかしくて、すぐには口にできなかった。
「それは……、それは……昔、わたしがとある人に憧れていたからだと思う」
返事が返ってこない。みさぎはわたしの次の言葉を待っているようだ。しかしこのことを話すのはわたしの心の内を話すようでどこか照れくさい。
「他人の役に立つためならなんだってするっていうものすごく他愛主義の人がいてね。すごいなって思ったの。この人みたいになりたいなって」
『椿ちゃんをそう思わせるその人ってすごいんだろうね』
みさぎはわたしを過大評価しすぎなんじゃなかろうか。
「でも、誰か忘れちゃって」
『あ、そうなんだ……』
わたしもこんな肝心なところを忘れるなんて……と思った。というかこの人のことは久しぶりに思い出した。今日は一度もこの人のことを意識して行動したことなんてない。とっさに思いついたのが、この人についてだった。それなら意識したのはなんだと言うと。
「でも、もうひとつあるなー、理由」
『何?』
詳しく話すとさっきのことよりも恥ずかしいので、わざとわかりづらいように話す。
「わたし、火が嫌いだから」
『火? どうしたの。火にまつわるトラウマでも?』
わたしは首を振る。しかし振ったところで相手には見えないと気づいたので声に出す。
「ううん。トラウマなんてないよ、本当にしょうもない理由でね。あまり話したくないなあ」
それは言おうとは思わない。今まで誰にも話したことがないから。みさぎもそれを汲み取ったのか、詳しくは聞いてこなかった。代わりに、
「そう。……でも、椿ちゃんは賢いからわかっていると思うけど、危ないことはしないでね。椿ちゃんが死んだら、うち、泣くかも』
「そのときはお線香の一本ぐらい頂戴ね」
と冗談をひとつ。
『ふふふ。……本当に危ないことはしないでね。椿ちゃんは、少しでも先に進むことができたらためらいなく突き進むから』
「うん。気をつける」
改めて考えるとわたしがみさぎにしたことよりも、みさぎがしてくれたことのほうがおつりがくるくらい上回っているはずなのだ。だけど、わたしはそんな優秀なみさぎにさらに頼み事をしてしまう。これはみさぎが一番の適任だと思ったからだ。むしろみさぎ以外に頼めない。心底、信用している人にだけにしか頼めないから。
「もうひとつだけ、頼んでもらってもいいかな」
断られても食い下がらない覚悟で聞いたが、すぐに返事が返ってくる。
『もちろん! どんなことでもするよ』
やっぱり、みさぎにして正解だったと思った。
「わたしに兄がいるんだけど、知ってる?」
頼み事は――放火事件とは全く関係ない。わたしの兄に関係することだ。
わたしはみさぎとそこから数十分相談した。
『でも、椿ちゃん、スポーツ用具って何? どんなやつ?』
「わからない。春樹は何も言わなかったし。適当に話を合わせておいて。お金も大丈夫だし。ぱぱっと抜き取っておくから」
『……今、犯罪宣言が聞こえたような……』
「何も言ってないよ」
『そう? ……わかった。とにかく任せておいて!』
どん、という小さい音が聞こえた。胸でも叩いたのだろうか。
わたしは改めて礼を述べる。
「本当にありがとう。今度何かおごるね」
『いいって。わたしは椿ちゃんの頼み事なら何でも聞くんだから! でも、最近食べていないとん平焼きが食べたいかなあ』
「普通に奢られる気まんまんだね。ところでその、とんなんとか焼きってなに?』
『関西発祥の料理。美味しいよ』
「そっか、確かみさぎって関西出身だったんだっけ?」
『うん。大阪にいたときに食べた』
しかし、ここらでは聞いた事のない食べ物だなあ。ということは関西まで行かないといけないのだろうか。
ひとまず感謝の意を。
「ありがとう。……じゃあね、みさぎ」
『うん。バイバイ!』
「……ありがとう」
わたしはさらにもう一度礼を言ってから、電話を切る。空を見上げる。さきと同じように月が細い光をまとっている。月の模様で思うものは国や地域によって違ったりするらしい。日本ではうさぎが餅をついている模様。他の国では、カニやら、ワニやら、男の人、女性の横顔――。見えているのは同じなのに、感じ方は全然違う。――人によって物の感じ方、見え方はまるで違う。例えば、動かない腕時計に対して。例えば、わたしが事件を見るのと、春樹が事件を見るのと。なぜかそんなことを思いついた。なぜだろう。
だけどそんなことはすぐに頭から離れた。手に持ったケータイにメールの着信が来たのだ。相手は加賀屋さん。そういえば今日連絡先を交換したな、と思いながら画面を見る。
『こんばんは。夜分遅くにすまない。火嫌井さんは、これからもこの放火について捜査するのか?』
加賀屋さんらしい、質素な内容だった。
結局、加賀屋さんには『花川椿』ではなく、どこか別の学校に通う『火嫌井椿』で通すことにした。いや、加賀屋さんだけではない。他の刑事さんたちにもだ。
「これじゃあ、ちょっとダメだよね……」
わたしはいつもそうするように絵文字顔文字がたくさんのカラフルな本文を送りつけようとしたがやめた。相手は加賀屋さんだし、シリアスな内容だし。わたしは『ええ、します。少しこの事件に興味を持ちましたので』とだけ書いて返信する。ものの数分で返事が返ってきた。
『それだったら、おれも捜査に加われないのか?』
「…………」
わたしはどうするか迷った。加賀屋さんは片足が使えなくて松葉杖をついているし、もしそうじゃないとしても、一人のほうが活動しやすいに決まっている。しかし加賀屋さんがいれば何かと心強い。安全面でとか、情報面でとか。わたしは今の証拠だけでは加賀屋さんは火をつけてはいないということを証明するには少し弱いと分かっていた。だから証拠を集めるために、これからいろんなところに首を突っ込むかもしれない。みさぎも言っていたけれど、危ない場所に知らず知らずのうちに来てしまっていた、なんてこともありうる。そのときに誰かがいるとそれだけでわたしにストッパーがかかるんじゃないだろうか。それに加賀屋さんはわたしに情報を躊躇することなく提供してくれる……と思う。たとえ片足が使えなくても、役には立つかもしれない。……さらに。どういうことか、ここで加賀屋さんに捜査に加わってもらうと、遠い未来で、一緒に捜査をした甲斐があったと思うはずだと感じた。これは何の予感なんだろうか。
わたしはケータイのテンキーを打つ。
『はい。ありがとうございます。では、早速、明日行けますか?』
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