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冷血な女と罵られた悪役令嬢の私が、聖女様を顎で使ったら辺境伯に溺愛されました

掲載日:2026/08/14

「コーデリア・ブラックウェル! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」


 王城の大広間。

 召喚の儀で降臨した聖女様の出現を祝う夜会の、その真っ最中。

 私の婚約者だったオズワルド殿下は、実に晴れやかなお顔でそう宣言なさった。


 隣には、真新しい純白のドレスに身を包んだ小柄な少女。

 殿下に腰をがっちりと抱かれ、オロオロと視線を泳がせている。


 なるほど。

 この展開、知っている。


「聞いているのか、コーデリア! 俺は聖女と結婚する! 彼女こそ我が国の光であり、私の——」

「承知いたしました」

「……は?」

「殿下の御心のままに。私は身を引かせていただきます」

「待て、貴様なんだその態度は」

「態度、と申されますと?」

「その澄まし顔だ!」

「澄まし顔、とは?」


 あえてキョトン、とした顔を作って小首を傾げてみる。

 すると私の煽りが正しく伝わったらしく、殿下は聖女の腰から手を離し、ずかずかとこちらへ歩いてきた。

 若干引いた顔で貴族たちが道を開けていく。

 それどころか、国王も王妃も顔を歪め、頭を抱えている。

 ポーカーフェイスが得意な彼らにあんな顔をさせるなんて、ある意味感心してしまう。

 さすが、この国唯一の王子様だ。格が違う。


「オズワルド、いい加減に——」

「貴様はいつもそうだ! 何を言われても顔色一つ変えず、心の中で俺を見下している! 可愛げのない、冷血な女め!」


 国王の制止も聞こえていないのか、殿下はひたすら私を罵倒した。

 こうなったら何を言っても聞かないので、私は殿下の気が済むのを待ってから、口を開いた。


「陛下。一つよろしいでしょうか」

「……申せ」

「我がブラックウェル伯爵家は、代々王家に忠誠を捧げてまいりました。此度の件につきましては、我が家の名誉に傷がつかぬよう、代わりの縁組をご用意いただきたく存じます」

「承知した。望みはあるか」

「そうですね……では、あちらにおられる、辺境伯ジュリアン・アーレンス様との婚姻を望みます」


 私の言葉に、まるで他人事のように——実際それまでは他人事だったのだが——成り行きを眺めていた男へと、その場の視線が集中する。


 眩いばかりのシルバーブロンドに、まるで猫科の猛獣のような金色の瞳。

 服の上からでもはっきりと分かる、がっしりとした体格。

 辺境伯ジュリアン・アーレンスは、私に見られていることに気がつくと、ゆっくりと目を細めて笑った。


 甘い。

 その笑みはどうしようもなく甘くて、それでいて底が見えない。

 夜会のたびに幾多の令嬢がこの笑みに骨抜きになり、玉砕しているのを知っている。


 だが、そんなことはどうでもいい。

 大事なのは面子を守れるだけの地位だ。


「よかろう」


 ジュリアンの意志確認をすっ飛ばした国王の返答は、拍子抜けするほど早かった。


「コーデリア嬢。辺境伯領は知っての通り、魔物の住処と隣り合わせの場所にある。万が一そなたが未亡人となった場合は、王家が責任を持って生涯面倒をみよう。それでよいな」


 ——ああ、なるほど。


 面倒をみる、というのは優しさではない。

 他家には嫁がせない、という宣言だ。

 鉱山のおかげで王家を凌ぐほどの富を手に入れたブラックウェル伯爵家とのつながりを、意地でも断ちたくないのだろう。

 あっさりこの婚姻が認められたのも、きっとジュリアンが遠くない未来に、戦死すると考えているからかもしれない。

 魔物との戦いが熾烈なことは、この国の常識だから。


「陛下の寛大な御心に感謝いたします」


 本来なら、ここで聖女に掴みかかるべきなのかもしれない。

 でも殿下との婚約に一ミクロンも未練がない私には、そんなことをする理由がない。

 私は自分が損をしないのなら、なんでもいい。


「あ、あの……ごめんなさい……」


 震える声。

 声の主に視線を向けると、聖女が今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。


「私、そんなつもりじゃ……」

「聖女様」

「はい……」

「あなたが謝ることは、何一つございません」

「っコーデリアさん……!」


 高位貴族を“さん”付け。

 腰を折らずに、頭だけを下げる仕草。

 それにあの顔立ち。


 きっと彼女は、前世の私と同じ日本人だろう。


 ——そう、私は転生者だ。


 そしておそらく、聖女をいじめる悪役令嬢の役を与えられたらしい。


 ◇◇◇


 結婚の手続きは、驚くほどあっさりと終わった。


 辺境伯邸へとやってきた私が通されたのは、客間だった。

 妻の私室でも、夫婦の寝室でもなく、客間。


「先に言っておく」


 その日の夕食の席で、ジュリアンは優雅な手つきでカトラリーを扱いながら、そう切り出した。


「俺は君を妻として扱うつもりはない。何も期待しないでくれ」


 その顔は、いつもの甘い笑みを浮かべている。

 けれど瞳だけが、冷たいというより——無だった。


 怒りも、軽蔑も、ひとかけらも入っていない。

 そして、それ以外の感情も何も見当たらない。


「……それは、王命に背くという宣言でしょうか?」

「なんだって?」

「陛下は私の望みを受け入れ、あなたに私との婚姻を命じました」

「いや、それは——」

「そんな私を“妻として扱わない”とおっしゃるのは、王家に対する反逆では」

「そうじゃない」

「では、どういう意味でしょう」


 彼は大きな右手で顔の下半分を覆った。

 表情はほとんど隠れてしまったが、少なくとも笑ってはいないようだ。


「……王命通り、書類上は結婚した。ただそれだけだ」

「と申しますと?」

「俺は世継ぎを作るつもりはない。君を愛するつもりもない」


 手を下ろしたことで見えた顔は、整いすぎた顔立ちのせいか、まるで人形のように温度がない。


「世継ぎに関しては、私に非がないと対外的に認めていただけるのであれば構いません」

「……は?」

「石女と噂されるのは私の名誉に関わりますので。あなたが不能ということにしていただけるのであれば、あとはご随意に」

「不能」

「ええ。それから、私を愛するつもりがないという件ですが」

「……ああ」

「そもそも高貴な者の結婚に、愛など不要でしょう。当然の前提を、いちいち宣言なさる意味がわかりません」


 沈黙が落ちた。


 ジュリアンは、しばらくの間私を凝視していた。

 お得意の甘い微笑みは、すっかりどこかへ行ってしまっている。

 代わりにあるのは、予想していた台本を全部取り上げられた男の、ひどく間の抜けた顔だった。


 異論なし、ということにしておこう。


 ◇◇◇


「ギルバート、先月の戦死者は」

「十一名でございます」

「今月は」

「……現時点で、十六名です」


 たとえ妻ではないと言われようとも、辺境伯夫人としての義務がなくなるわけではない。

 私は老齢の家令ギルバートとともに、実家の財力も存分に発揮しながら、後方支援にあたっていた。


「なんだか、日増しに魔物の攻勢が激化していない?」

「おそらく、聖女様のご降臨が理由かと」

「聖女様の?」


 首を傾げる私に、ギルバートはあくまで憶測ですが、と前置きをしてから言った。


「清らかな力が強くなれば、澱んだ力もまた強くなる。この世の摂理なのでしょう」

「その澱みが、なぜこの地に集中するの?」

「ここが、瘴気の吹き溜まりだからでございます。……昔から、そうでした」


 王都で聖女様が祈りを捧げ、その横で何もしていないオズワルド殿下が偉そうに腕を組んでいる間、ここでは誰かが死んでいる。

 ……殿下に関しては、私のただの予想だが。


 とにかく、何か早急に手を打たなければ、このままでは近い将来魔物に押し切られてしまう。

 ——そんなことを考えていた矢先に、事件は起こった。


「奥様! 旦那様が!」


 ギルバートのただならぬ叫び声に、私は深夜の廊下をなりふり構わず駆け抜けた。

 そうして到着したジュリアンの寝室の扉を開けたところで、思わず立ち尽くしてしまった。


 彼の寝室に初めて入るからでは、もちろんない。

 ベッドに横たわる彼が、まるでこれまで弔ってきた戦死者たちのように見えたからだ。


「奥様、こちらです!」


 ギルバートの呼びかけに我に返った私は、慌ててジュリアンのもとへと駆け寄った。

 見たところ大きな怪我はないようだが、それにしてはやけに血の匂いがする。


「幸い、傷はどれも大したことはありませんでした。……問題は、瘴気の量です」

「っ……!」

「魔物の瘴気が体内に入り込むことで、高熱が出るのですが——」

「返り血を、大量に浴びたのね」


 いくつもの傷がある状態で血液を浴びたことで、体内に大量の瘴気が入り込んだのだろう。


「はい。熱はおそらく五日、あるいは七日。運が悪ければ、そのまま……」

「……治療は、聖水で清めればいいのよね? 先日王都から届いた分が倉庫にあるはずよ。持ってきてちょうだい」

「かしこまりました。奥様、あとは我々が」

「いいえ」


 私は椅子を勝手にベッドサイドまで引きずってくると、勢いよく座った。


「旦那様が倒れた以上、代わりに指示を出すものが必要よ。それは新参者の私ではなく、最古参のあなたの方が適任だわ」


 この領地の中でもっともジュリアンの仕事を理解しているのは、ギルバートだ。

 辺境伯夫人だからと私が現場を掻き回すより、彼に任せるのが一番効率がいい。

 それに私なら、実家に用意させた貴重な聖水を、文字通り湯水の如く使おうが誰も咎めない。


 それから私は、聖水に浸したタオルで、ジュリアンの傷を清める作業を無心で続けた。

 こんなにしょっちゅう肌をこすって大丈夫かという疑問が、頭をかすめなくもない。

 しかし、まあ輿入れ当日の私への態度を見る限り、随分と面の皮が厚そうだからきっと大丈夫だろう。

 私はそう結論づけると、再び冷たい聖水の入った桶にタオルを入れた。


 ◇◇◇


 何度そうしただろう。


 三日目の朝。

 もはや脳死で聖水が入った桶にタオルを入れた時、視界の端で何かが動いた。

 驚いて視線を向けると、そこにいたのは黒い虫ではなく。

 どこかぼんやりとした表情で、上半身を起こしているジュリアンだった。


 金色の瞳と、視線がぶつかる。


「おはようございます。そして二度目まして、旦那様」

「に、どめ……」

「ご気分はいかがですか? 寒気はありませんか?」


 何しろ冷えた聖水で服から出ている部分をこすりまくったのだ。

 さぞ体が冷えたことだろう。


「……問題、ない。それより、今日は何日だ……?」

「十二月十日です。あなたが倒れてから三日経ちました」

「……三日、か」

「何か問題が?」

「いや……」


 随分と歯切れが悪い。寝起きだからだろうか。

 それにしても、なんだか今のジュリアンは、ひどく幼く見える。

 個人的には、社交の場で見せる蠱惑的な笑みよりも、今の顔の方が好感が持てるけど。


 なんて考えていたら、ジュリアンの視線が、私の手に向けられていることに気付くのが遅れてしまった。

 慌てて背中に隠したが、もう遅い。


「その手……」

「なんでもありません」


 三日間、冷たい聖水に浸し続けた指先はあかぎれでひび割れ、所々血が滲んでいる。

 こんな手で看病をしていたなんて不衛生だし、第一これは辺境伯夫人のすべきことじゃない。

 ただでさえ煙たがられているというのに、これ以上夫婦関係を悪化させてどうする。


 叱責を覚悟したが、彼の口から出たのは予想外の言葉だった。


「ギルバート!」

「えっ……私の名前はコーデリアですが……」

「? それがどうした」


 何を言っているんだ、とでも言いたげな顔をしているが、こっちのセリフだ。

 自分以外の人間はすべてギルバート呼びか。

 一体どれだけギルバートが好きなんだ、気持ちはちょっと分かるけど。


「お呼びですか、旦那様」

「っ! ギルバート!?」

「どうされましたか、奥様」


 心臓が止まるかと思った!

 背後から突然現れたギルバートは、聖水の瓶を持っている。

 どうやら聖水の補充にきたら私たちが会話する声が聞こえたので、扉の外で待機してくれていたのだろう。


「ギルバート、医師を呼んで彼女の手を診せろ」

「かしこまりました」

「それから、今日はもう部屋から出すな。休ませろ」

「あの、旦那様。私はまだ——」

「ギルバート」

「はい。ただちに」


 悪いことは続くもので。

 タイミング良く駆けつけたメイドが、私の手を一目見るなり悲鳴をあげた。


「奥様!? 叫び声が聞こえましたが——なんですかその手は!」

「別に大したことないわ」

「大したことあります! どうして誰にもおっしゃらないんですか!」

「痛くないもの」

「そんなわけないでしょう! ほら、行きますよ!」


 流石ベテランメイド。

 有無を言わさぬ勢いで、引きずられるようにして寝室から連れ出される。


「……随分、打ち解けたんだな」


 ドアが閉まる直前にジュリアンの呟きが聞こえたが、メイドの圧が強すぎて振り返ることはできなかった。


 ◇◇◇


 なんだかんだと軟禁されて、部屋から出られたのはそれから二日も経ってからだった。


 そしてその日の夜、私は夫婦になって三度目ましてのジュリアンと、夕食を共にすることになった。

 前回の夕食では、「君を妻として扱うつもりはない」と宣言されたわけだが。

 今度は何を言われるだろうか。

 清廉潔白な私には心当たりはないけれど。


「戦況を伺ってもよろしいですか?」


 先制攻撃とばかりに、私の方から話題を振ってみた。

 すると私の指先ばかりを見つめていたジュリアンが、ハッとした様子で顔を上げる。


「少しずつ、前線が南下してきている。今はまだ食い止めてはいるが——」

「いつまで持ちますか」

「……年を越す頃までは、なんとか」


 それってかなり瀬戸際なのでは。

 これもある意味聖女パワーなのか。なんて迷惑な。


 ジュリアンが倒れてから、ずっと考えていた。

 この人の体に入り込み、高熱の原因となった瘴気。

 それを消したのは、聖水だった。


 ——そして魔物とは、その瘴気の塊のようなものらしい。


「旦那様。確か、魔物にとって聖水は毒となるのですよね?」

「そうだが、それがどうした」

「では、川の水を聖女様に浄化してもらいましょう」

「何?」

「辺境伯領は上流。魔物の住処は下流です。安全な場所で聖女様に聖別をしていただき、下流に聖水を流すのです」


 一口に川といっても、いくつもの支流がある大きな本流だ。

 おそらくものすごく大変だろうけど、そこは均衡を崩した張本人に頑張っていただこう。


「確かに、人間も魔物も水を飲まねば死んでしまうが……」

「そう、水を飲んでも飲まなくても死ぬ。もし強い個体が生き残ったとしても、同族の死体だらけの場所にいれば、伝染病で多少は弱体化してくれるでしょう。四足歩行の畜生ごときに、公衆衛生なんて概念は存在しないでしょうし」


 我ながら名案だと思う。

 ……聖女にすべての負担を押し付ける、という点を除けばだが。


 しかし、なぜかジュリアンは私を賞賛するどころか、なんとも言えない視線を向けてくる。


「……お前は悪魔か?」

「失礼ですね。私はただのか弱いレディです」


 ジュリアンはしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。


「聖女は王都にいる。王家が手放すとは思えないが」

「彼女は必ずきます。それも、聖女様ご本人の強い希望で」

「なぜそう言い切れる」


 ジュリアンは社交界での甘い笑みでも、先日の幼い表情でもない。

 まるで私を見定めようとしているかのような、鋭い視線を向けてくる。

 もしかしたら、これが戦場での顔なのかもしれない。


 次々と見せられる新しい顔に、何やら心臓が落ち着かないが、今はそれどころではない。

 私はこっそり深呼吸を一つすると、あえて悪どい笑みを浮かべて言った。


「自分が婚約者を奪ったせいで、国中で最も危険な場所に行くことになった女が救いを求めているのです。慈悲深い聖女様が、果たして見殺しにするでしょうか?」


 平和な世界からやってきたあの子のことだ。

 自分のせいで私が死ぬかもしれないと言われたら、きっと無視はできない。

 ……念の為、手紙に作戦の詳細は書かないでおこう。


 ◇◇◇


 聖女は手紙を出してから二週間もしないうちに、辺境伯領へとやってきた。

 今日は十二月二十五日。

 この世界では聖女を除いて誰も共感してくれないが、なんとなく吉兆のようなものを感じる日付だ。


「コーデリアさんっ!」


 彼女は相変わらず聖女らしからぬ落ち着きのなさで、馬車から転がり落ちるようにして降りてきた。

 そして領主であるジュリアンをスルーして、私を見るなり泣きそうな顔で縋り付いてくる。


「ごめんなさい、ごめんなさいっ! 私……」

「ようこそお越しくださいました、聖女様。まずは、不躾にもお呼びたてしてしまった無礼を、どうかお許しください」


 憂いを帯びた表情を浮かべながらカーテシーをすれば、人の良い聖女様はあっけなく騙されてくれた。


「そんなっ……謝らないでください! 私、コーデリアさんの力になれるなら、なんだってしますから!」

「……“なんでも?”」

「はい、もちろんっ! ……え?」


 自然と悪役令嬢の笑みが浮かんでしまう私に、ジュリアンがなんとも言えない視線を送ってくる。


「とっても頼もしいお言葉をいただけて嬉しいです! では早速、中で温かい紅茶でも飲みながら、じっくりとお話をしましょう」


 辺境伯邸の使用人たちは落ち着いた者が多いが、流石に噂の聖女様の来訪とあって、どこか浮ついた空気を漂わせている。

 視線がうるさいのでまとめて下がらせ、私とジュリアン、そして聖女の三人となったところでようやく本題に入った。


「聖女様は、聖別はされたことがございますか?」

「はい。一応……」

「よかった……! 実は、聖別していただきたいものがあるのです」


 すると、聖女は露骨にホッと安堵の息を吐いた。

 先程のやり取りで、どんな無茶振りをされるのかと身構えていたのだろう。


「任せてください。司祭様から教わったばかりなので、やり方はバッチリです!」

「まぁ、頼もしいわ!」

「それで、何を聖別するんですか? 十字架ですか? それとも——」

「川です」

「かわ」

「はい。ちょうど窓から見える、あの川の水を聖別して聖水にしていただきます」


 視線を窓の外に向けた聖女の顔が、絶望に染まった。


「……嘘でしょ、あの川の水全部……? マジか……」


 久しぶりに触れた前世の言葉に、思わず体がぴくりと反応してしまう。

 すると、すかさず横からジュリアンの視線が注がれてきたので、黙殺して机の上に地図を広げた。


「旦那様」

「……ここから先が魔物の住処で、現在の前線はここです。聖女様には前線から離れたこの場所で、朝と夕方に一度ずつ聖別をお願いします」


 そう言って地図の上を動くジュリアンの指が、思いの外長くてなぜか視線が奪われる。


「——デリア、コーデリア!」

「はっ、はい!」

「大丈夫か? 最近あまり寝ていないだろう。少し休んだらどうだ?」

「なんでそれを……」


 ジュリアンはその問いには答えず、代わりにギルバートを呼んだ。


「ギルバート、聖女様を客間へご案内しろ。俺は彼女を寝室へ連れていく」

「かしこまりました」

「ちょ、待ってください旦那様! そういえば聖女様の客間って——」


 ギルバートの采配か、一等日当たりがいい客間が私に与えられた部屋だった。

 他にも一応客間はあるが、唯一無二の聖女様をお迎えするには少々物足りなさが感じられる。

 そういえば今朝メイドがやたら念入りに掃除をしていたけど、もしかして私客間を追い出される?

 まさか寝室という名の屋根裏部屋に連れて行かれる?


 妙な含み笑いをする聖女に見送られた私が連行されたのは、辺境伯夫妻の寝室——別名、ジュリアンの寝室だった。


 ◇◇◇


 その後、すべてが順調に進んだ。

 なし崩し的に夫婦同室となって、プライバシーを侵害されていることを除けば、だが。


 初めの数日は、特に目立った変化は見られなかった。

 しかし、徐々に前線に現れる魔物の数が減り、水辺には死体が転がるようになってきた。

 そして、聖女がやつれるごとに戦況は好転していき、一ヶ月もしないうちに、ジュリアンは残党の掃討に向かった。


 出立の朝。

 厳しい表情で馬装の最終確認をしていたジュリアンが、ふと口を開いた。


「コーデリア」

「はい、なんでしょう」

「輿入れの日に君に無礼な態度をとったこと、本当にすまなかった」

「……え?」

「行ってくる」


 返事をする間もなく、ジュリアンは馬に跨ると兵士たちの元へと行ってしまう。

 遠ざかる背中を見送りながら、私はしばらくの間動くことができなかった。


 一体どれほどそうしていただろうか。


「奥様、お体に障ります。どうかそろそろお戻りください」

「……ギルバート」

「なんでしょう」

「あれは、旦那様の遺言かしら?」


 弱い個体は聖水の影響で、ほぼ死に絶えた。

 ということは、これから掃討しに行く個体は、おそらくかなり強い。

 高熱に倒れたジュリアンの姿が戦死者と重なって見えたあの日を思い出し、私は指先の震えを止めることができなかった。


「いえ、いじっぱりがようやく素直になってきただけでございますよ」

「そうだと、良いのだけれど……」

「旦那様がほんの赤ん坊だった頃から見てきた私がいうのです、間違いございません」


 ギルバートは、いつも通り穏やかな笑みを浮かべている。

 まるで、ジュリアンが無事に帰ってくると確信しているかのように。


 ——そして、六日後の昼過ぎ。

 ギルバートの確信通り、ジュリアンは五体満足で帰ってきた。


 私の目の前で馬から降りたジュリアンは、泥や返り血、それから謎の汚れに塗れていて、お世辞にもキレイとは言い難い。

 しかし、その清々しい表情は、私が見てきた彼の表情の中でも、一等美しいものだった。


「おかえりなさいませ、旦那様」

「コーデリア……!」


 戦場から帰還したばかりで、ハイになっているのか。

 ジュリアンは今までにないテンションで私の名を呼ぶと、腕を引っ張ってきた。


「——っ!?」


 バランスを崩した私を軽々と受け止めたジュリアンは、そのままなぜか私を力いっぱい抱きしめた。

 戦場帰りの、それは頑丈な甲冑姿で。


「痛っ!!」

「君は最高の妻だ!」

「だ、旦那様! お放しください、凱旋中です!」

「すべて君のおかげだ!」


 ダメだ、聞いてない。


「ギ、ギルバート!」


 涙ぐんで眺めていないで、主人の暴走を止めなさい!


 ◇◇◇


 それから程なくして、王都への召還状が届いた。

 ジュリアンと、辺境伯領に居座っていた聖女、そしてなぜか私に宛てて。


「えっ!? もう帰らなきゃいけないんですか? やっと羽を伸ばせると思ったのに……!」


 私はやたらとまとわりついてくる、この世界の文字が読めない聖女のために、手紙の内容を読み上げた。

 すると、聖女はこの世の終わりのような顔を浮かべて、泣き出してしまった。


「コーデリアさん、私……帰りたくないですっ」

「なぜですか? ここよりも王都の方が豊かですし、何よりあちらには婚約者のオズワルド殿下が——」

「だから嫌なんです!!」


 思わず、といった様子で聖女が叫んだ。


「こんなことコーデリアさんに言うべきじゃないって分かってるんですけど、私あの人のことが本当に苦手で! 昭和のおじさんにしか見えないんです……!」

「昭和……」

「でもコーデリアさんと話していると、なぜかすごく安心できて。まるでホームにいるみたいな気持ちになるんです」


 それはおそらく私が同郷出身だからなのだが、あいにくそれを伝える気はない。


 代わりに、無限聖水製造機扱いしたお詫びと言ってはなんだが、この世界を生き抜く知恵を一つ、授けることにした。


 ——そして迎えた、王との謁見の日。


 謁見の間にいるのは、国王とオズワルド殿下。そして、密かに王都入りした、聖女と私たち夫婦だけ。

 つまり、これから始まるのは、人に聞かせたくない話、ということか。


「アーレンス辺境伯、よくぞ成した。まさに建国以来の偉業だ!」

「恐れ入ります」

「この国の英雄に、褒美を取らせよう。——ジュリアン・アーレンス。そなたを我が息子として正式に認め、王太子の位を授ける」


 王の言葉に、空気が固まった。

 ニコニコとご機嫌なのは王だけで、王の両隣に座っている殿下と聖女は驚きに目を見開いている。

 私も、上手く表情を作れているかは、自信がない。


 隣にいるジュリアンの表情を伺おうと、視線を向けようとしたその時。


「……は?」


 最初に声を上げたのは、殿下だった。


「父上、何を仰っているのです。その男はただの辺境伯でしょう」

「いや、ジュリアンはそなたの腹違いの兄だ」


 殿下の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「二十年以上前、当時まだ王太子であった余の子を宿した女がいた」


 王はなんの感情も浮かべず、淡々と続けた。


「しかし、余はすでに王妃と婚約していた。だから辺境伯に嫁がせたのだ。腹の子ごとな」


 ——ああ。


 前辺境伯夫人は、心を病んで亡くなったと聞くが。

 その原因が、分かった気がする。


 私は今度こそ、ジュリアンに視線を向けた。


 その顔に浮かんでいたのは、いつも社交の場で浮かべている、底が見えない甘い笑みだった。

 まるで他人の身の上話でも聞いているかのような、感情のなさ。


 そこでふと、背筋に冷たいものが走った。


 感情が、ない。

 完璧に殺してしまって、残っていないのだ。

 きっと、誰かが——おそらくギルバートが、後から微笑み方を教えたのだろう。


 社交の場で令嬢たちが骨抜きになっていた、あの蠱惑的な笑み。

 そこに感情が入っていないから異質で、目が離せなくなってしまうのだと、今になってようやく理解した。


「ジュリアン」


 王の声で、慌てて視線を正面へと戻す。


「王太子となった暁には、聖女と婚姻を結べ。コーデリア嬢は、当初の予定通りオズワルドに戻す。何も問題はあるまい」


 問題しかない。


 私は視線だけを動かして、聖女に合図を送った。


 ——断れ。絶対に断れよ。


 幸いやつれた顔の聖女には無事伝わったようで、青ざめながらも小刻みに頷いてくれた。


「お断りします」


 聖女ではない。

 ジュリアンの迷いのない声が、謁見の間に響いた。


「ジュリアン。そなた、意味が分かって——」

「魔物は消えましたが、世界の均衡は崩れたままです」


 ジュリアンは静かに言った。


「清らかな力が強まれば、澱んだ力もまた強まる。新たなる脅威が生まれない保証は、どこにもありません」

「……」

「その時、辺境に領主がいない事態だけは避けねばなりません」

「代わりの者を立てればよかろう」

「あの地で生まれ育ち、戦い続けた私以上の適任者など、おりません」


 王は黙った。

 反論できなかったのだろう。

 実績をもってそれを証明したのが、目の前の男なのだから。


「それに」


 ジュリアンはそこで、初めて私を見た。


「私の妻は生涯コーデリアただ一人です。他の誰かと婚姻を結ぶくらいなら、この場で爵位を返上します」

「なっ……!」

「陛下、全ては彼女のおかげなのです。辺境伯夫人として懸命に働き、妻として扱わないと宣言した私の看病を献身的におこない、さらには私などには到底思い付かなかった大胆な作戦で、魔物の殲滅を成し遂げた」


 待って。

 なんかだいぶ美化されているし、これ以上ジュリアンをしゃべらせてはまずい気がする。


「お待ちくださ——」

「私はコーデリアを愛しています。高貴な者の結婚に愛など不要と言われましたが、私は彼女がいないと生きていくことができません」


 顔から火が出そうとは、まさに今の私のためにある表現だ。


「だ、旦那様……!」

「なんだ」

「どうしてあなたは、ところ構わずそんなことを仰るのですかっ!」

「? 俺には君以外考えられないからだ」


 ギルバート!

 素直になってきたどころか、完全に暴走し始めてるじゃない!


 私が言葉に詰まっていると、呆然とした声が聞こえてきた。


「……なぜだ」


 オズワルド殿下だ。


「なぜその顔を、俺には一度も見せなかった! 見せてくれていたら、俺だって……あんなふうに婚約破棄なんてしなかった!」


 顔中に集まっていた熱が、一気に引いていくのが分かる。

 私はゆっくりと視線を殿下へと向けた。


「殿下」

「な、なんだ」

「私は長年、婚約者としてあなたの隣におりました」

「……」

「その間、一度でも、私の言葉に耳を傾けたことがございましたか?」


 殿下は、何も答えられなかった。


「あ、あの!」


 そのとき、場違いな調子の声が上がった。

 聖女だ。


「そもそも私、結婚できません!」

「何?」

「神は、私が生涯この身を神にのみ捧げることをお望みなのです!」


 謁見の間が、再び静まり返った。


 王はこめかみを押さえながら口を開きかけて、そのまま閉じた。

 神託の真偽を確かめる方法は、この世に存在しない。

 聖女の力が本物である以上、その聖女が告げた神託もまた、本物として扱われる。

 彼女が白であると言ったら、黒いものも白くなるのだ。


「……好きにせよ」


 王は、絞り出すような声で言った。


 ◇◇◇


 領地に戻ってからのジュリアンは、いよいよ手がつけられなくなった。


 用もないのに名前を呼んでくるし、やたらと褒めてくるし、何より視線で今にも私の顔に穴が空いてしまいそうだ。


「——それと近々、聖女様が()()()を希望しているそうです」

「……ギルバート」

「なんでしょう、奥様」


 業務連絡のついでとばかりに、しれっと報告された聖女の来訪予定。

 ギルバートは私の恨みがましい視線にも、涼しい顔をしている。


「聖女様は本格的にここを実家にする気なのかしら? ついにメイドたちまで、聖女様の客室を“子供部屋”と呼び始めたのだけど」

「それだけ奥様のことを慕っていらっしゃるのでしょう」

「それは光栄だけども、聖女様がこうも頻繁にいらっしゃると、旦那様が——」

「コーデリア!」


 嬉しそうな声が聞こえたと思ったら、いつものように私の体が拘束される。

 顔を上げると、そこには相変わらず甘い微笑みを浮かべたジュリアンがいた。

 しかしその笑みは、かつて社交界で浮かべていた底の見えないものではなく。

 直視するのも難しいほど、私への感情で満ちあふれたもので。


 私は思わずギルバートへと視線を逃した。

 ギルバートは、いつもの穏やかな笑みの中に、隠しきれない喜びを浮かべている。


「では、私はこれで失礼いたします。どうぞごゆっくり」


 この裏切り者!


「あの、旦那様」

「なんだ」

「近々、また聖女様がこちらにいらっしゃるようです」

「……またか。最近来すぎではないか? 聖女様ともあろうものが、頻繁に神殿を留守にするのはどうかと思うが」


 金色の瞳が、じっとこちらを見つめてくる。

 しかしその顔に先ほどまでの笑みはなかった。

 今は不機嫌そうに眉を寄せて、どこか拗ねた子供のような顔をしている。


 ——また、新しい顔だ。


 以前は、いくら心臓が騒ごうが自制することができた。

 魔物の討伐が第一だったから。


 けれど、今はもう。


「コーデリア」

「は、はいっ」

「君は聖女様のことは“聖女様”と呼び、俺のことは“旦那様”と呼ぶ」

「そう、ですね……?」


 何が言いたいのか分からず、首を傾げながら肯定する。

 するとジュリアンは、額が触れ合いそうなほど顔を近づけて、祈るように言った。


「どうか俺のことは、名前で呼んでくれないか? 君にとっての特別が欲しいんだ」

「っ……!」


 今まで、この人の美醜について関心なんてなかったのに。

 この完璧な美貌で、それは反則じゃないだろうか。


「……ジュ」

「ん」

「ジュ、ジュリアン……様」


 たかが名前呼び。

 それなのに、まるで全力疾走をした後のように、脈も呼吸も乱れきっていた。

 そんな私を、ジュリアンは宝物を見るような目で見つめてくる。


「コーデリア」

「……はい」

「君の輿入れ当日に言ったこと。あれはすべて撤回させてほしい」

「輿入れ当日に、言ったこと……?」


 ——俺は世継ぎを作るつもりはない。君を愛するつもりもない。


「っ!?」

「……やはり、都合が良すぎるだろうか」


 言葉に詰まる私に追い打ちをかけるかのように、ジュリアンが捨てられた子犬のような瞳で見つめてくる。


「ギっ……」

「ギ?」

「……ギルバートっ!!」


 思わず出た私の一言に、ジュリアンはきょとんとしてから、子供のような顔で笑った。


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