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バイト初日に「いつものをひとつ」って老紳士に言われた

作者: 夏野恵
掲載日:2026/07/02

「いつものをひとつ」


低く穏やかな声が店内に響く。


視線の先にいるのは六十そこらの老紳士だった。


灰色の髪を綺麗に撫でつけたオールバック、

柔らかく照明を反射する、短く整えられた口ひげ、

かなり長い間着込まれているはずなのにくたびれていないジャケット。


派手さこそないものの、このお店の空気に自然と溶け込んでいる。


彼はゆっくりとグラスを傾けて飲み物を口にした。

グラスをテーブルに丁寧に置き、カランと氷の音が鳴る。


「かしこまりました」


ゆっくりお辞儀をして、他のテーブルのお皿を回収しつつ戻った。

厨房に入ってから指定された場所に食後のお皿を丁寧に置く。


「どうだった?」


遅れて入ってきた先輩に声をかけられた。

溜め息をひとつ吐いてから、私はぽつりと呟く。


「……ファミレスで『いつものをひとつ』って頼むヤベェおっさん来てます」


その嘆きは、すぐに厨房の雑音にかき消された。


私は宮城、普通の大学生一年生だ。


大学生と言ったらバイトでしょ、という安直な考えでファミレスのバイトに応募したらわりとすんなり採用された。


そして今日が最初のバイトデー。

人生初の接客相手があの老紳士だったのだ。


「最初からヤバい客に当たったねー」


先輩は手際よくお皿を指定場所に置く。


この人は原口さん、同じ学部の先輩だ。

高校時代から付き合いのある人で、ザ・女子大生って雰囲気をしている。


「先輩はあの人みたことあります?」

「ないねー」


この曜日にはシフトを入れていないらしい。

今日は私がいるからたまたま入ったみたいだ。


「いつものをひとつ、って頼まれたんですけどどうすればいいですかね」

「宮城さんがいつも頼むので良いんじゃない?」

「いや、あの人絶対常連じゃないですか」


違うの出したらヤバいことなるって。


「まあお客さんが1人いなくなったところで私たちには関係ないしー」

「割り切ってますね」


でもなぁ、うーん……


「いつも食べるのって、鉄板ハンバーグと大盛りペペロンチーノなんですけど……」


あの老紳士ひとりで食べきれるとは到底思えない。


フードロス待ったなしだ。


キッチンからちらっとおっさんを覗いてみる。

店内を眺めながら、グラスをゆったりと揺らしていた。


そういうのはバーでしろよ。


「……マジでどうしたらいいと思います?」

「ほんとに困ってるんだったら、バイトリーダーに聞けばいいんじゃないかな」


「がんばってー」といって先輩は持ち場に戻っていった。


「めんど……」


溜め息を吐く。


そんなに会話しなくても良いって聞いたからここに応募したのに。

でもどうにかしないといけないので、バイトリーダーに尋ねてみることにした。


休憩室の扉を開けて中に入る。


「すいません、平西さん」

「宮城さんどうしたの?」

「ヤベェおっさんの対処法をお尋ねしたいんですけど」

「警察に相談するのが一番だね」

「そういう話じゃなくって……」


簡単に老紳士のことをを彼女に伝えた。


この人は平西さん、バイトリーダーをやっている。

私と原口さんとは別の大学に通っている大学4年生だ。


「問題はどの料理を出せばいいかってことなんですけど……」

「一番高い料理を出せばいいんじゃない?」

「このお店で一番高い料理ってなんでしたっけ?」

「んーと、2つの料理が同率1位だったかな」

「なんですか?」

「鉄板ハンバーグと大盛りのペペロンチーノ」


その二品、さっきも出てきたぞ。


「大丈夫だよ、宮城さん」

「でもっ……」

「宮城さんはこのことわざを聞いたことはあるかな?」


一呼吸おいてから、彼女は口にした。


「泣きっ面に蜂」

「もっと悪くなるじゃないですか」


全然大丈夫じゃないんですけど。


「そもそもなんだけどさ、君が採用された理由知ってる?」

「普通に人手不足だったからじゃないんですか?」


そう応えると、平西さんはゆっくり首を横に振った。


「君はね、顔が良いから採用されたんだよ」

「えっ?」


私って顔採用なの?


「ほら君ってバカみたいに可愛いじゃん」


「バカみたい」って誉め言葉に使わないと思うんですけど。


「ともかく、君が料理を運んでいけば怒られることはないはずだから」

「……わかりました」


とりあえず頭を下げてから休憩室を後にした。



*



「……鉄板ハンバーグと大盛りのペペロンチーノでございます」


老紳士のテーブルに、私がいつも食べている料理を持ってきた。


胃もたれ確定の過剰エネルギーを見て、老紳士は目を細める。

その視線からは、戸惑いや困惑の色は読み取れない。


「ソースが跳ねますので、気を付けてお召し上がりください」


お決まりの言葉を口にしてから、私はその場所を後にした。


死ぬんじゃねぇぞ、おっさん。


その言葉は私の胸の中にしまっておいた。



*



「宮城さーん、レジ入って」

「わかりました」


返事をしてからレジカウンターに行くと、さきほどの老紳士が立っていた。


「合計で1,980円です」

「クレジットカードでいいかな」

「かしこまりました」


手早く処理を済ませてレシートを渡す。

受け取りながら、老紳士は口を開いた。


「君は最近バイトを始めたのかな?」

「……え、あ、はい」


いきなり話しかけられるとは思わなかったので、返事に詰まってしまった。


「いつものをひとつ、と言ってアレを持って来るとは肝が据わってるね」


やっぱり鉄板ハンバーグと大盛りのペペロンチーノは無謀だったかな。

よく見ると、さっきより顔がふっくらしてるような気がする。


「ここに来たのは初めてだけど、いいウェイトレスに出会えたよ」


「また来よう」と柔らかく微笑み、老紳士はファミレスから出て行った。


カランコロンとドアベルが鳴って扉が開く。

すぐに老紳士の姿は見えなくなった。


……ん?


この店に来たのは初めてって言った?


じゃあ「いつものをひとつ」ってなんだ。

ただの悪ノリ老紳士なら出禁にしたほうがいいぞ。


そんなことを考えているうちに、次のお客さんがやってきた。


「いらっしゃいませー」


高校生男子の4人グループだった。

帰宅中に立ち寄ったのだろう。


「……だからね? 流石に闇落ちシェイクスピアはないと思うよ、楠本くん」


男の子のひとりが真面目そうな顔で呟く。


なんだ闇落ちシェイクスピアって。

こいつらは道中何の話をしてたんだ。


「……4名様でしょうか?」


さっきのことは切り替えて、私は接客を始めた。

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