忘れな神
夏のはじめ、陽菜は祖母の家に預けられた。
弟が生まれたばかりで、家の中はいつも誰かが忙しなく動いていた。父は会社から帰るのが遅く、母は赤ん坊の世話で手いっぱいだった。悪い人たちではない。むしろ、ちゃんと陽菜を愛していた。ただ、手が足りなかった。それだけのことだった。
「ひなはお姉ちゃんだから、いい子にしててね」
母にそう言われるたび陽菜はうなずいた。聞き分けのいい子だった。聞き分けがよすぎる、と言ってもよかった。泣きたいときもかまってほしいときも、陽菜はそれを言葉にしなかった。言ったところでいま誰の手も空いていないことを八歳の陽菜はもう知っていたからだ。
だから、夏のあいだ田舎の祖母のところへ行くと決まったときも、陽菜はただ「うん」と言った。心の隅で、少しだけほっとしたような寂しいような、自分でもうまく名前のつけられない気持ちがしたけれど、それも口には出さなかった。
祖母の家は山あいの小さな村にあった。
駅から一本きりのバスに長いこと揺られ降りた先にはコンビニも信号もなかった。あるのは田んぼと、低い山と錆びかけた自販機が一台とそれからじっとりとした夏の匂いだけだった。祖母はやさしい人だったが、足が悪く昼間はたいてい縁側でうとうとしていた。
することのない陽菜は毎日ひとりで村を歩いた。
あぜ道を歩き、用水路をのぞき、蝉の抜け殻を集めた。誰かが一緒にいるわけではなかったけれど、それには慣れていた。家にいたって陽菜はいつもひとりのようなものだったから。
その祠を見つけたのは村に来て三日目のことだった。
神社の裏手から続く細い道をなんとなく奥へ奥へとたどっていったときだった。道はだんだん夏草に覆われ、人の通った気配が消えていった。引き返そうかと思ったちょうどそのとき突き当たりにそれはあった。
小さな石の祠だった。
夏草に半分埋もれ、屋根瓦は欠け、刻まれていたはずの顔はもうのっぺりと削れて読めなかった。誰がいつ建てたのかもわからない。長いあいだ誰の手も触れていないことだけがひと目でわかった。
だがそのまわりだけ、季節を間違えたように青い小さな花が群れて咲いていた。
陽菜はしゃがみ込んで、花にそっと指先で触れた。夏のさかりだというのにその花は涼やかに露を含んだように青かった。
「だれのおうちなんだろう」
返事はない。降りしきる蝉の声がかえって辺りの静けさを際立たせていた。
陽菜は祠の前で手を合わせた。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。ただなんだかこの小さな祠が、自分とよく似ている気がしたのだ。誰にも見てもらえずこんな草の奥でひとりきりで。
「またくるね」
そう言って立ち上がったとき、ふと青い花がかすかに揺れた。風はなかった。
翌日も陽菜は祠へ行った。
麦茶を入れた水筒と祖母にもらった金平糖を持っていった。祠の前にしゃがんで金平糖を一粒そっと供えてみる。
「おそなえって、こういうのでいいのかな」
ひとりごとのつもりだった。
「……いいと思う」
陽菜は飛び上がった。
声がしたのだ。すぐ後ろから。鈴を転がすような、けれどどこか掠れた、小さな声が。
ふり返るとそこに女の子が座っていた。
陽菜と同じか、少し年上くらいに見えた。色の抜けたような白い髪に頭の上には——獣の耳がふたつ。きつねの耳だった。それがぴくりと動いて陽菜のほうを向いた。着物とも襦袢ともつかないすり切れた白い衣をまとっている。透けるように白い肌は、どこか頼りなく、夏の光の中でうっすらと向こうが見えるようでもあった。
「あなた、だれ」
陽菜が訊くと女の子は困ったように首をかしげた。きつねの耳がしょんぼりと垂れた。
「……わからない」
「わからないって、自分の名前が?」
「うん。わすれちゃった」女の子はうつむいた。「ずうっと昔、知ってたと思う。わたしがなにをするものだったかも。でも、もう、なんにもおぼえてないの。だれもわたしを呼ばなくなって、だれもおまいりに来なくなって……そうしたら、ぜんぶ、すうって消えちゃった」
陽菜はすぐには言葉が出なかった。
この子は神様なのだ。きっとこの祠の。長いあいだ誰にも忘れられて自分の名前も何の神だったかも、忘れてしまった神様。
不思議とこわくはなかった。むしろ陽菜の胸の奥がきゅっと痛んだ。誰にも呼ばれず、誰にも見てもらえず、ひとりきりで消えていく——それがどんなに寂しいことか陽菜には少しだけわかる気がしたのだ。
「じゃあなまえ、つけてもいい?」
気づいたらそう言っていた。
女の子の耳がぴんと立った。
「……いいの?」
「うん。だって、なまえがないと呼べないもん」陽菜はあたりを見回した。そして、足もとに咲く青い花に目をとめた。「この花、なんていうのかな。きれいだから……うーん。じゃあ、あおちゃん、は?」
あお、と女の子は口の中でくり返した。それから、ふわりと笑った。陽菜が村に来てから、はじめて見た、本当の笑顔だった。
「うん。わたし、あお。あおだよ」
その日から陽菜の夏がすこしだけ変わった。
毎日、陽菜は祠へ通った。あおは祠から遠くへは行けないようだった。「ちからがもうほとんどないから」とあおは言った。それでも陽菜が来るのをあおはいつも待っていた。陽菜が草の道の向こうに姿を見せると、きつねの耳をぴんと立てて、ぱたぱたと駆け寄ってくるのだった。
二人はいろんな話をした。
陽菜は家のことを話した。弟が生まれたこと。お姉ちゃんだからいい子にしていること。本当はときどき、さみしいこと。あおにだけはなぜか言えた。あおは口をはさまず、ただ、うんうんとうなずいて聞いていた。
あおは思い出せるかぎりの昔のことを話した。といっても、ほとんどは霧の向こうのようにぼんやりとしていた。たくさんの人が手を合わせに来てくれたこと。子どもたちの笑い声がしたこと。誰かが、自分に何かを「お願い」していたこと。けれど、それが何の願いだったのか、自分が何の神だったのかは、どうしても思い出せなかった。
「ねえ、あおはなんの神様だったんだろうね」
ある日、陽菜が言った。
「いっしょに思い出してみようよ」
あおは目をまるくした。それからこくりとうなずいた。
二人は手がかりを探した。
祠のまわりの石を調べ、削れた文字をなぞり、あおのおぼろげな記憶をたどった。何かを思い出しかけると、あおの体がほんの少しだけくっきりとした。逆に手がかりが途切れるとまた、夏の光に溶けるように薄くなった。
「あのね」あるとき、あおが言った。「子どもの声がする気がするの。たくさんの子どもの。みんな、わたしのところに来て……それから、どこかへ行くの。わたしが見送ってる」
「見送ってる?」
「うん。ちゃんと、帰れますように、って」
陽菜ははっとした。
神社の入り口の、古い石の道しるべを思い出したのだ。そこには、すり減った字で、こう刻まれていた。
——道、まよわぬよう。
「あお」陽菜はあおの手をとった。透けるように冷たい、けれどたしかにそこにある手だった。「あお、もしかして道の神様なんじゃない? 道にまよった子をおうちまで帰してあげる、神様」
あおの耳がぴくりと震えた。
その瞬間、あおの体の輪郭がすっと濃くなった。今までで、いちばんはっきりと。あおは自分の両手を見つめ、それから泣きそうな顔で笑った。
「……そうだ。そうだった。わたし、みんなを、おうちに帰してたんだ。日が暮れて、道がわからなくなった子を……ちゃんと、手をひいて」
思い出がひとつ戻ってきた。
陽菜は自分のことのように嬉しかった。あおの手を握る指に力がこもった。
けれど——その嬉しさのなかに陽菜はふと、小さな不安をおぼえた。あおが全部思い出して、力を取り戻したら。そうしたら、あおは、どうなるのだろう。神様にもどって、もう、陽菜のことなんか、見えなくなってしまうのだろうか。
その不安を、陽菜は、いつものように、口には出さなかった。
夏が終わりに近づいたある日のことだった。
その日、陽菜はいつもより遅くまで、あおと祠で過ごしていた。話に夢中になっているうちに、空がいつのまにか重く垂れこめていた。
「ひな、雲が」
あおが空を見上げて言った、その途端だった。
ぽつ、と大粒の雨が落ちてきたかと思うと、次の瞬間には、滝のような夕立になった。村の夏の激しい通り雨だった。あたりは一気に薄暗くなり、雨と霧で数歩先も見えなくなった。
「おうちに、帰らなきゃ」
陽菜は走り出した。けれど——いつも歩き慣れたはずの道が、雨と霧の中でまるで知らない場所のように見えた。どっちが神社で、どっちが祖母の家なのか、わからない。あぜ道は雨で川のようになり、足をとられる。何度も曲がるうちに陽菜は完全に帰り道を見失った。
「どうしよう……」
心細さが、喉の奥からせり上がってきた。誰も、いない。こんなとき、いつだって、誰もいなかった。陽菜は、その場にしゃがみ込みそうになった。
そのときだった。
「ひな!」
声がした。あおだった。
けれど、あおの姿はいつもの祠のところから動けないはずだった。陽菜がふり返ると、雨の向こうに、あおの白い姿が、にじむように立っていた。祠から、離れたところに。
「あお、だめ、あおは祠から——」
「いいの」あおは、雨に打たれながら、まっすぐに陽菜を見ていた。その体は、もう半分、雨に溶けかけていた。「思い出したから。わたしが、なんの神様だったか。——わたしは、迷子になった子を、おうちに帰す神様。それが、わたしの、するべきこと」
あおが両手をそっと前に差し出した。
すると雨の中、足もとにぽつぽつと、青い光が灯りはじめた。あの、祠のまわりに咲いていた、勿忘草の青だった。それは点々と、霧の向こうへと続く一本の道をつくっていった。家へと帰る、道しるべだった。
「これをたどっていけば、おばあちゃんのおうちに帰れるよ」
「あおは!? あおも、いっしょに——」
あおは、首を横にふった。やさしく、けれど、きっぱりと。
「わたしは、ここでいいの。ちゃんと、見送るのが、わたしのお役目だから」
陽菜の目から、涙があふれた。雨と区別がつかなかった。
「いやだ。あおと、ずっと、いっしょにいたい。あおは、わたしのこと、見てくれた、たったひとりの——」
「ひな」
あおは、笑った。今にも消えそうなのに、それは、世界でいちばんあたたかい笑顔だった。
「ありがとう。わたしに、なまえをくれて。わたしを、おぼえてくれて。あのね、ひな。神様は、ひとに忘れられたら、消えちゃうの。でも、ひとりでも、おぼえててくれる子がいたら……消えないの。ずっと、いられるの」
あおの体が青い光の粒になってほどけはじめた。
「だから、わたしは消えない。ひなが、おぼえててくれるかぎり。わたしは、いつだってひなの帰る道を照らしてる」
あおは最後にそっと、自分の名を口にした。
「————」
陽菜には、聞き取れなかった。雨の音にかき消されたのかそれとも、はじめから人の耳には届かない響きだったのか。けれど、それが世界でいちばん綺麗な花の名前だということだけは、なぜだかわかった。
青い光が、ふわりと舞い上がり雨の空へと溶けていった。
夕立は嘘のようにやんでいた。
陽菜は、青く灯る花の道をたどって祖母の家まで帰った。縁側では祖母が心配そうに待っていた。「まあまあ、こんなにぬれて」と祖母は陽菜をくるんでくれた。その腕の中は、あたたかかった。
夏が終わった。
陽菜は家へ帰り、またいつもの日々がはじまった。弟は少しずつ大きくなり、家の中は相変わらず忙しかった。けれど、陽菜は前ほど寂しくはなかった。
さみしくなったとき、陽菜はあおのことを思い出す。きつねの耳の、白い髪の、やさしく笑う女の子のことを。そうすると、胸の奥に青い花が一輪ぽっと灯るような気がするのだ。
覚えていてくれるかぎり消えない。
だから陽菜はずっと覚えている。あおの笑顔を。青い道しるべを。そして聞こえなかったけれど確かにそこにあった、あの、世界でいちばん綺麗な花の名前を。
翌年の夏。
ふたたび村を訪れた陽菜が、あの細い道の奥へ行ってみると苔むした小さな祠はまだそこにあった。
そしてそのまわりには季節を忘れたように青い花がいっぱいに咲いていた。
まるで、おかえり、と言うように。




