大空への架け橋
先生に想いを捧げる…【華】
<一>
突然送られてきたメールメッセージ。
誰にも隠す必要などないのに……
麗華は、そのまま携帯を閉じてそれを両手で強く握りしめ胸に押し付けた。
胸の高鳴りが首の辺りまで上がってきて、麗華の顔は一気に赤面した。
差出人は麗華のクラスの副担任を務める二宮先生から。
その内容は明らかに麗華への特別な想いが込められたメッセージだった。
《僕は街を歩いていて、君と同じ年頃でポニーテールの女性の後姿を見ると、いつもそこに君の顔が想い浮かぶ。君の姿が、声が、僕の目に焼きつき、耳に聞こえ、頭の中を駆け巡る。もうどうしようもない。二宮壮太》
◇◇◇
二宮先生は一昨年大学を卒業後教職員採用試験を受け合格したが、一年間公立高校の欠員が無く、昨年の春、麗華の通う私立高校の採用試験を受けて採用された。
採用当初は担当教科の古文の専任教師であったか、一年を経た今年春より、麗華のクラスの二年六組の副担任となった。
彼はやや強引な性格が災いして担任の女教師赤岩先生としばしば意見が食い違い教師仲間からは煙たがられる存在であったか、とことん生徒の身になって指導し、成績の良し悪しで態度の変わる他の教師とは一風違った新鮮味があり、男女を問わず多くの生徒から慕われていた。
二宮先生がクラスの副担任となってすぐの頃に麗華には彼に対する恋心が芽生えた。そしてこれを心に温めているうち麗華はどんどんと感情を昂ぶらせていった。
折りしも先日、ホームルームの時間が終わった直後、ふとしたことからクラスの生徒同士で携帯のメアドを交換する流れになり、そのとき教室に居た二宮先生に生徒の有志がメールを送付するのでメアドを教えて欲しいということになった。
先生はしぶしぶ黒板にそれを書き、麗華は早速二宮先生にメールを送った。
《二宮先生。大島麗華です。先生の授業はいつもわかりやすく楽しいので、学習がよくすすみます。将来は国文学者にでもなろうかなあ。【麗華】》
夏休みが終わり二学期が始まって、麗華は廊下ですれちがう二宮先生ときっちり目を合わすようになった。
二宮先生は最初のうち目が合うとすぐに視線を逸らしていたが、だんだんと互いに目を合わす間が長くなっていった。
そして最近では先に目を逸らすのが麗華の方になった。
その間およそ三秒間。
すれ違うまでの三秒間は不自然でかなり長い。
それは明らかに何らかの『心』を交わしている長さの時間だ。
そして、そのことがお互いに感じられる時間でもある。
◇◇◇
麗華は二宮先生のメールを見て、同じだ、と思った。
自分も二宮先生と良く似た感じの男性の後姿を見ると、それがいつも彼に思えてくる。
麗華は、すぐにでも返信をしたかったが、それをしなかった。
今になって彼を無視する気持ちなど全く無い。
時間がそのまま停まって欲しい。
ただそれだけの気持ちが彼女にそうさせていた。
◇◇◇
二宮先生から麗華へ熱いメッセージが送られてからの教師と生徒の『お付き合い』は、もっぱらメールでのやりとりであった。
二宮先生が麗華にメールを送信し、麗華がすぐに返信する。
また暫くして先生がメールを送る。そして麗華が返信する。
内容はごく普通の勉強や学校生活に対するやりとりだった。
しかし、その頻度は普通では無くなっていった。
遂に二宮先生からのメールは他の教科の授業中にも送られてくるようになった。
高校生の麗華にもそれが異常であり、教師がやってはいけないことであることはわかっていた。
そして麗華は遂に普通でない内容のメッセージを今度は自分の方から送った。
《二宮先生。私、メールばかりでは足りません。どうか二人で会いに誘ってください。【麗華】》
<二>
平日の北関東の場末の遊園地。
そこがたった一日、二人だけの出会いの場所になった。
二宮先生は既に休暇を取っていた。
麗華には父親は無く、母親は週五日パートタイマーで、平日は朝八時から夕方五時まで働きに出ている。
麗華は当日学校に自分で電話し、生理が重いので一日休みますと伝えた。
列車の時刻はお互いにずらし、麗華は約三十分遅れの電車で現地最寄の駅へ向かった。
そして現地近くの寂れた駅前の土産物屋に併設された甘味喫茶室で二人は合流した。
十時開園の平日の遊園地で開園の直後にはほとんど人がいない。
二人は軽く言葉を交わしながらどちらからともなく手をつないで遊園地の入口ゲートをくぐっていった。
「先生。突然ご無理言ってすいませんでした」
「いやいや全然。それから今日は『先生』はやめてくれ。人に聞こえると変に思われる」
「じゃあなんて呼べばいいのですか?先生」
「だから、先生じゃなくって。そうだなあ。お兄ちゃんでいこう。君ははなちゃんだ。」
「はなちゃん?」
「麗華の華だ。」
「なんか安っぽいけど今日だけ許してあげます」
「妹が敬語はおかしいよ。『今日だけ許す』でいい」
「はい、じゃなくてうん」
兄弟姉妹としてしまったら、身を寄せ合って歩くのはなおおかしい。
麗華はそのことに少し不満であったが、これだけ人が少なければいつどこでも二人だけになれそうだと思った。
麗華はそう思うとまずは観覧車に乗ってみたいと思った。
そして二宮先生も全く同じことを考えていた。
観覧車の下には退屈そうに係員が座っていた。
ざっと見たところ誰も乗っている人は居ないようだ。
「一周何分くらいですか?」と二宮先生が尋ねる。
「約二五分です」
「じゃあ二周しますから……」
係員は、一瞬暇人だなあというような顔をしたが、構わずに三段の板階段を上がり箱の扉を開けた。
一応フリーパス券を購入して腕にはめていたので二人はこれを見せて狭い四人乗りの箱に向かい合って座った。
麗華は隣に座り、早速甘えようとも思ったが、五十分もあるのだから二周目にとっておこうと思い直した。
二人を乗せた箱はゆっくりと上がっていく。
二宮先生は子供のころに両親にこの遊園地へ連れてきてもらったことがあると言う。
彼は小学校卒業までこの地に居て山野の風景を見ながら育った。
箱が上がっていくまでの間、二宮先生は自分の子供の頃の田舎暮らしの話を麗華に聞かせた。
麗華はにこにこしながら、うん、うん、と頷いている。
そして箱が最も高いところに達する少し前になって彼は身を乗り出して麗華の両手を掴んだ。
麗華は手を掴まれたまま腰を少し座席シートの前へずらし彼の方へ近づいた。
その時……………
突然二宮先生の背後、箱の広い窓の向こうに、緑色の足のようなものが動いているのが麗華の目に入ってきた。
足の先には水かきのようなものが付いている。
そしてぶらぶらと揺れている。
ビクッ!!
麗華の胸の鼓動は一瞬止まった。
窓の外は当然のことながら地上から遥かに離れた高い空間である。
人が外に居る筈がない。
二宮先生は堪りかねたように言った。
「はなちゃん。僕は君が生徒であることをどんなに…」
麗華の目は、二宮先生の背後に動くひれ付きの足のようなものに釘付けとなっていた。
目は皿のようになっている。
二宮先生は下に落としていた視線を麗華に向けて言った。
「あの。どうかした?はなちゃん。人の話聞いてる?」
「あっ。あの。その。変なあっ足が有ります。あ。足」と麗華。
「足?」
二宮先生は自分の足の方を見て、それから慌ててズボンのファスナーを上げた。
ズボンの前がたまたま半分くらい開いていたのだ。
そうとうに気が動揺している。
(いつからだろう。トイレにいったのは電車に乗るかなり前だったから、ずっと開いていたに違いない。ああ俺は何てことを!)
「ご。ごめん。気が付いていたならもっと早く言って欲しかったな。それにしても『変な足』って他に表現方法無いの?嫌だなあ」
麗華は相変わらず二宮先生の後ろの窓の外の『足』に釘付けである。
麗華は、口を開けたままゆっくりと掴まれていた手をほどき『ひれ付きの足』の方を指差した。
「ン?」
二宮先生は指の差す方にゆっくりと振り返った。
その時既に『ひれ付きの足』は上のほうに消えていた。
「だからどうかしたの?はなちゃん」
麗華ははっと我に返ったように二度三度と瞬きをして言った。
「ううん。何でもないの。ごめんなさい」
二宮先生は少し怪訝な表情を見せたが、再び麗華の目をまっすぐに見つめて言った。
「肩を抱かせてもらっていいかい?はなちゃん」
麗華は無言で頷き、二宮先生の隣に移ろうとした。
その瞬間…………
突然向かい合った右側の窓の外に緑色の何かが動き、それが麗華の視線をよぎった。
それから、がたがたと何者かが箱の上に居るような音がした。
ビクッ!!
麗華の胸の鼓動は再び止まった。
麗華はちょっと待ってください、というように掌を二宮先生の方へ向け、中腰になって右側の窓の外に視線を向けた。
そして上下する開き窓を開けて箱の上を覗き上げた。
「おいおい。危ないよ。窓からそんなに顔を出しちゃあ…」とすかさず二宮先生が制する。
麗華の見た先では信じられない光景が展開されていた。
全身緑色をした人のような動物のような生き物が、箱の上に乗ってカエルのようにしゃがんで向こう側を向いている。
背中には蓑のようなものがくっついている。
そして手には釘抜きのような曲がった長い金属の棒を持っているのが見え、箱の上の金属板を剥がしかけているようだった。
バキッバキ、バリバリ。
麗華は驚きのあまり声が出ない。
「ねえ。はなちゃん。座ってよう。はなちゃん」
二宮先生は少し腰を浮かせて麗華の方へ体を寄せてきた。
麗華は、窓の外に出した顔を箱の中に戻して二宮先生の方を向いた。
その顔は驚きというより、目の前の光景に衝撃を受けて途方に暮れたような表情だった。
「ねえ。はなちゃん。そんな顔しないで。僕は君が居ないと…」
「ちょ。ちょっとそれどこじゃないの!箱の上壊してる!ひょっとして箱を落とそうとしてるんじゃない?!」
「何の話?」と今度は二宮先生が少し泣きそうな顔だ。
「はなちゃん!!」
二宮先生は中腰になった麗華の腰を両手で抱いて脇腹に頬を押し付けてきた。
次の瞬間…………
突然麗華の視線の方向、左側の窓の外に、逆さまになった顔があった。
人の倍くらいある大きな顔。
緑色で目がかなり大きくぎょろっとしている。
そして大きなくちばしのようなものがある。
「河童!!」
思わず麗華は叫んだ。
「かっ、カッパ!?」と二宮先生は麗華の顔を見上げる。
「僕は唇が少し大きいからカッパでもいいよ」と二宮先生。
麗華は、再び口を開けたままゆっくり『緑色の顔』の方を指差した。
「ン?」
二宮先生は指の差す方に振り返った。
その時また、既に『緑色の顔』は上のほうに消えていた。
「はなちゃん。ごめん。嫌なら無理にとは言わない。でも僕の気持ちだけは…」
バキッバキ、バリバリバリ。
「きゃーーーーーー!!」と麗華は断末魔の叫び声を上げる。
二宮先生は完全に泣きそうな顔になった。
「ごめんよ。ごめんよ。僕が悪かったんだ。泣かないでくれ」
麗華はトンチンカンな二宮先生の言葉にいらっとして言った。
「私、泣いてる顔に見える?驚いてんのよ!」
「だからごめんって」
二宮先生は言葉を失って俯いた。
そして呟いた。
「そんなに驚かないでくれ。君が好きだからこそ…ごめん」
気が付くと箱は既に地上近くに下りてきていた。
二宮先生は箱の中から係員にやっぱり一周で降りる、というように手で合図をした。
係員は面倒臭そうに階段を上がり箱の扉をあけ、二人は降りた。
二宮先生は、箱の中で麗華のお腹に頭を押し付けたために髪が逆立ってしまっていた。
係員はやれやれ朝っぱらからお盛んなこと、と言いたげに舌打ちをした。
<三>
麗華は自分の幻想から、大好きな二宮先生をがっかりさせてしまったことに、申し訳ない気持ちで一杯だった。
二宮先生はがっくりと首をうなだれている。
「先生。ごめんなさい。私変な夢を見ちゃったんです。先生全然悪くないんです。私が全て悪いんです」
「先生じゃなくて『カッパ』でいいよ。僕の方こそごめん」
麗華はお詫びしたい気持ちで、二宮先生にぴったりと寄り添って頭をあずけながら歩いた。
「かっぱさん。気分転換にジェットコースター乗りましょうよ」
二宮先生は少し元気を取り戻していた。
「ようし。すいてるから三回くらい乗っちゃおうか」
「キャー」とはしゃいでみせる麗華。
にこにこ顔が戻ってきた二宮先生。
今日は、これから精一杯先生に甘えて失敗を取り戻そう、と麗華は思った。
◇◇◇
その頃、先ほど二人の乗った観覧車では大きな騒ぎが起こっていた。
箱が一つ、支えている上板が完全に剥がれ、落下防止の安全ボルトまで抜かれて落下したのだった。
幸いその箱には誰も乗っておらず、落下地点には誰も居なかったので人身被害は免れたが、明日の新聞の見出しに大きく載ることは確実であった。
◇◇◇
やはりジェットコースターも二人だけだった。
そこにも、退屈そうな係員が居た。
「すぐ乗れますか?」
係員は無言で頷き鎖を外し、どうぞ、というように掌を中へ向けた。
二人は一番前の席に並んで座った。
動き出したら話も出来ないし何もできない。
麗華は今度こそがんばろうと思い、係員の目をはばからず、二宮先生にくっついて腕をお腹の周りに回した。
二宮先生は突然大胆になった麗華に一瞬たじろいたが、すぐに麗華の額に唇を押し当ててきた。
麗華はそのまま顔を上げて自分の唇を二宮先生の唇に合わせた。
これからコースターは左のほうにカーブしていってゆっくりと線路を登り、そこから急下降する。
麗華は、二宮先生の肩越しに見える線路の上がりきったところからこちらを覗いている緑色の顔を見た。
ビクッ!!
麗華の胸の鼓動はまた止まった。
「河童!!」
「ン?何?」
「河童!!河童!!」
「だから何?」
「違う!違うの。先生じゃなくて」
立ち上がって線路の向こうへ降りようとしている得体の知れない緑色の生き物の手には、数種類の工具のようなものが見えた。
「先生、ちょっちょっと、ジェットコースターはやめましょう」
「どうして、苦手かい?」
「そうじゃなくって。怖いの」
「やっぱりそうか。大丈夫。僕が付いているからね」
会話にならない。
コースターが動き出した。
麗華は恐怖のあまり体を硬直させた。
カタカタカタカタ。
ゆっくりとコースターは線路を登っていく。
そして、登りきったところから急降下した。
すごい勢いでまた登っていく。
その登りきった先に、緑色の生き物は立っていた。
それから、それはビューンと飛び上がりそのまま雲の方へ吸い込まれていった。
麗華は二宮先生の手を強く掴んだ。
二宮先生も強く握り返してきた。
そして二人の心は完全に一つになった。
麗華は笑っている。
恐怖は心から抜けている。
二宮先生も笑っている。
登りきった先の線路はその先を外されて下にぶら下がっていた。
二人を乗せたコースターはそこから走る先を失って、大空へ解き放たれた。
二人は自分の身に何が起こったのか知らない。
しかし、笑いながら、そして手を硬く握り合ったまま大空へ飛んだ。
教師と生徒ではない、男と女。
二宮壮太と大島麗華。
最初で最後の胸一杯の幸せだった。
『大空への架け橋』