片思いをする彼の瞳に片思いしてしまった私。そう、この恋は実らない。
「どうして私は、あの日、あんな馬鹿げたことを口にしたのかしら……」
身支度を一人しながら、私は姿鏡に映る自分を見て、大きなため息をついた。
ここ数日、このため息はもう何度目だろうか。
後悔しても、ため息をついても何も変わりはしないというのに。
それでもあふれ出る感情を、抑えることなど出来ずにいた。
「本当、馬鹿げているわね」
あんなことを願うだなんて。
分不相応もいいところだわ。
どう考えたって、勝てるわけもないのに。
フッと息を吹けば、鏡の中の私はわずかに笑っていた。
でも、それはほんの少しだけ。
おそらく両親ですら、この些細な表情の変化など分かりはしないだろう。
笑わない氷の令嬢。
そんな風に揶揄されるようになったのは、もう随分と前のこと。
もっとも、その言葉を広めている人間が誰かも分かっているが、咎めたところで事実なのだからどうしようもない。
元武人である父、エルランド公爵と病弱な母の元に生まれた私は、幼い頃からほぼ父に育てられてきた。
私の白銀の髪もアメジストの瞳も父にそっくり。
だけど父のように笑わないところまで似なくともよかったのだけど。
公爵家の一人娘として厳格に育てられすぎたせいか、感情を表に出すのが極端に苦手だった。
それなのに……あの日だけは違った。
顔を両手で覆いながら目を瞑れば、あの日の醜態がまた頭の中を駆け抜けていく。
そう、あれは王女殿下から王宮への招待を受けた日だった。
いつも親友のように扱って下さる殿下から、話をしたいと手紙をもらい、急ぎ登城したのだ。
勝手知ったる私は、侍女から殿下の居場所を確認すると一人中庭へ向かった。
殿下は王宮の回廊の先、色とりどりの花が咲き誇るその庭にあるガゼボで池を眺めていた。
透き通るほど白い肌に、黄金の髪。
日の光で細められたエメラルド色の瞳は、遠くから見ても輝いている。
そして殿下の少し離れた場所に、彼はいた。
王女殿下の護衛騎士であり、侯爵家の次男でもあるルドウィック。
海のように深い藍色の短い髪に、グレーの瞳。
彼の目は、ただ愛おしそうに殿下を見つめていた。
「……」
私はどれくらいこの二人を見ていただろう。
今日だけで、という意味ではない。
王女殿下に片思いをする護衛騎士。
社交界の令嬢たちの間では、もう有名な話だ。
二人には誰も聞いたことはないものの、彼の瞳を見ていると誰もがすぐにこの話は本当なのだと納得してしまうほど。
そんな熱い視線で、彼はいつも殿下を見ていた。
面白くもない日常の中で、馬鹿げたことだとは思いつつも、いつしか私も彼の恋の行方を追いかけるようになってしまった。
もちろんこの恋が、叶わないと知っていてだ。
貴族間の結婚などに、恋愛感情はない。
それは私と私の婚約者においてだけではなく、それは普通のことだった。
貴族の結婚は義務であり、基本的には親たちが家門の利益などを優先して考えた結果でしかないから。
だからだろうか。
恋をする彼を見ているだけで、なぜか自分も満たされているような錯覚に陥ってしまったのは。
でもきっとそれは私だけではないだろう。
いつだって二人が一緒に現れると、令嬢たちは黄色い声を上げていたのだから。
みんな彼の叶わない恋を応援しながらも、二人の恋模様を夢見る時間だけが幸せだったのだ。
「……どうして……彼の瞳に写るのが、私ではないのかしら」
その言葉が零れ落ちた瞬間、自分でも驚くほど自分が醜く思えた。
今私、何を言ったの?
今、何を願ったの?
あり得ない。
そんなことあり得ない。
私、そんな風に思っていたの?
自分でも自分の言った言葉の意味が理解出来なかった。
いや、正確には理解したくもなかった。
だって、それこそ馬鹿げている。
後悔と、どす黒い感情が、どこまでも胸を締め付けた。
不敬罪だと言われても、おかしくはない。
しかも私は彼の恋を応援していたはずなのに……。
なんて酷いことを思ってしまったのかしら。
今すぐ消えてなくなりたい、というのはまさにこのことなのだろう。
あまりの醜態に足を進めずにいると、私の存在に気付いた彼に声をかけられてしまった。
「急に具合が悪くなったと嘘をついて逃げ帰ってしまったけど……」
本当なら、親友だと言って下さる王女殿下にきちんと説明して、謝罪をすべきだった。
だけどあんなことを考えていた自分があまりに恥ずかしすぎて、どうしても打ち明けられなかったのだ。
「はぁ」
私は顔を覆っていた両手をどける。
これだけ悩んで後悔しても、相変わらず私の表情筋は動こうとしない。
こんな顔で謝罪をしても、余計に迷惑かもしれないわね。
だけど、殿下からどうしても話したいことがあると言われている以上、早めに日程を決めて登城しないと。
そのためにもまず、一番面倒くさい用事を終わらせないとね。
急ぎ仕度を終わらせると、短いノックのあと侍女が入室してくる。
「アリスティーネ様、コンラッド様がお見えになりました」
「いつも通り、客間に案内してあげて」
「かしこまりました」
定期的な婚約者との面会は、互いの義務らしい。
コンラッドは父が自分の跡継ぎとして育てている、子爵家の次男だ。
父に言わせれば、領地経営などの才能がとてもあるらしいが、私は自分の婚約者であるコンラッドが誰よりも苦手だった。
だから本来ならば自室で会うべきなのは分かっていても、やや距離のある客間でしか会うことを許していなかった。
「はぁ。なんだか気が重いわね」
ルドウィックに対する自分の気持ちに気付いたその瞬間から、ただでさえ苦手なこの時間はより苦痛に思えるようになってしまった。
それでも断るわけにはいかない。
私は重い胃を抑えながら、ゆっくり客間に向かった。
◇ ◇ ◇
客間では、待ちわびたというようにソファーに深く腰掛けながら、足を組んだコンラッドがお茶を一人飲んでいた。
そして私を見るなり、その細い目をさらに細める。
よく言えば、切れ長の青い瞳。
だけど、ルドウィックの瞳と比べたら本当に細いのよね。
体型だってそう。
ルドウィックが高身長でがっちりしているのに比べ、コンラッドは背こそあまり変わらないものの、筋肉などはまったくない。
でも社交界では、イケメンの部類に入るらしく、しかも甘い言葉を惜しげもなく囁くコンラッドは人気が高かった。
まぁそれも、私を除いてなのだけどね。
「やぁアリスティーネ。それは王宮ご用達のマジョルカのお店のドレスかい? 美しいね」
手に持っていたティーカップをテーブルに置きながら、コンラッドは私を見た。
いや、正確には私のドレスを、か。
下から上まで確認するように見た後、わざわざドレスだけを褒めるという。
彼からしてみれば、他に褒めるところがなかったからなのだろうが、マナー違反でしかない。
「ええ。王女殿下が一緒に作ろうと言って下さったので」
私は表情を変えぬまま、彼の正面のソファーに座った。
「一緒に、ねぇ。せっかくのドレスが台無しだな」
「……」
彼は鼻で私を笑う。
しかも行儀悪く足を組んだままで。
「王女殿下と同じところでドレスを作ってもらっても、そんな顔をしていたらどうしようもないだろう?」
「……」
「殿下のように愛らしくなれとは言わないが、もう少しどうにかならないのか? みんなが氷の令嬢だと馬鹿にしているのは知っているだろう」
「……ええ」
よく知っているわ。
あなたが他の貴族たちに言い回ったせいで、そんな不名誉な二つ名が広まったこともね。
だけど責める権利のない私は、言われるまま放置していた。
「だいたいこうやって毎週婚約者が会いに来ているというのに、もう少し嬉しそうにできないものか?」
蔑むような目で私を睨みつけたあと、彼はブロンドの自分の髪を掻いた。
やや長い髪を後ろで一つ縛りにしているせいか、しっぽのようなそれがせわしなく揺れている。
「善処するわ」
「まったく……本当に可愛げがない。こんなでは、愛することなど不可能だぞ」
「結婚に愛など不要なのではなくて?」
言い返されたのが腹立たしいのか、彼は益々眉間の皺を増やす。
こんな態度を取られても、ため息一つつかない自分をむしろ褒めたいくらいだわ。
表情が動かないことをいいことだと思ったことは一度もないけれど、ある意味今日はいいかもしれないわね。
いつもコンラッドは私を見下していて、失礼な男ではあった。
それは父に認められているからこそなのだろう。
私が彼を嫌がったところで、この婚約が白紙にならないことを彼が一番理解しているのだ。
だからといって、こんな態度は本来許されるべきではない。
無表情な私も悪いが、それ以上に彼の方が悪いと思うのよね。
それにしても、今日はいつにも増して、虫の居所が悪そう。
聞く気はさらさらないけれど、何かあったのかしら。
「そういうところだぞ、可愛げがないというのは!」
コンラッドは両手で強くテーブルを叩いた。
その振動で、ティーカップが倒れ紅茶が零れる。
「……あなたが何をしようと、誰とどういうことになろうと、次期公爵としての振る舞いと身の振り方を分かっているのなら何も言うつもりはありません」
「!」
「今日は体調が悪そうですね。お帰りになられてはいかがですか?」
遠回しにクギを刺すと、彼は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、私を一瞥した。
そして鼻を鳴らし、挨拶もせずに大きな足音をわざとらしく立てつつコンラッドは客間から出て行く。
彼が部屋を出たその瞬間、私は今日一番の大きなため息をついた。
◇ ◇ ◇
コンラッドと面会したその翌々日、私は王女殿下のお茶会に呼ばれた。
今度こそ謝罪をしなければ。
気合を入れて手土産を持って行ったものの、なかなか言い出せぬうちに、殿下から一番に話したかった話というものをされてしまった。
「アリスティーネに、どうしても一番に伝えたかったの」
そう言いながら微笑む殿下の瞳は、女の自分から見てもうっとりするほど愛らしかった。
「この前は申し訳ありません。お急ぎだとは知らずに」
「いいのよ、あたしとあなたの仲じゃない」
「ありがとうございます。それで、一番に伝えたかったこととは?」
もしかしてなど不意に思った私は、視界の端でルドウィックを見る。
だけど彼の瞳は今日も、殿下しか映してはいなかった。
「隣国に輿入れが決まったの」
「いつですか?」
殿下に幼い頃から婚約者がいるのは知っていた。
一度だけ私もお会いしたことがある。
隣国である砂漠の国の第一皇子様だ。
黒い髪に赤い瞳。やや褐色の肌。
ルドウィックとはやや違うものの、引けを取らぬほど強そうな人だった。
婚約している以上、いつかこの日が来るのは知っていた。
だけどまだ少し先だと思っていたのに。
「今は春でしょう? 秋にはもう向こうへ行くわ」
「そんなに早くなのですね……。寂しくなります」
「アリスティーネなら、そう言ってくれると思ったわ」
私の返答がよほど嬉しかったのか、殿下は満面の笑みを返してくれる。
本来ならば「おめでとうございます」と一番に言うべきなのだろう。
だけどルドウィックのいる前で、その言葉は言えなかった。
「輿入れには誰か連れて行けるのですか?」
ルドウィックを、という言葉を私は飲み込む。
馬鹿ね。そんなこと聞いてどうなるというの?
どんな返事を私は待っているの?
あの日気づいてしまってから、私、どんどん嫌な女になっていく気がするわ。
「侍女をほんの数名だけね」
「……そうなのですね」
殿下の言葉にホッとしているのか。
それとも残念だと思っているのか。
自分で自分が分からない。
そんな私の気持ちに気付いたのか、殿下は一度ルドウィックを見た。
しかしそれも一瞬のこと。
すぐに私に向き直り、複雑な表情を浮かべる。
「ねぇアリスティーネ。あなたは結婚についてどう思う?」
「どう、とは?」
私は殿下の言葉の意図が分からず、思わず聞き返した。
そんな簡単な質問、返す言葉など一つしかない。
だけど、だからこそ、なぜ殿下がそんなことを尋ねたのかが理解出来なかった。
「あたしはね、少なくともこの結婚を嬉しく思っているのよ」
そう言いながら笑う殿下は、確かに幸せそうだった。
偽りのない笑顔。
「愛はまだ分からないけれど、少なくともあの人のことを尊敬し、大切に思っているの」
「それは……素晴らしいことですね」
鈍い痛みが、胸を走る。
殿下にあって、私にないものはなんだろう。
私も殿下のように微笑むことが出来たなら、愛らしく生きられたら、こんな風に思えたのかしら。
だけどコンラッドとでは、何をどうしたところでそんな関係性を想像することは出来ない。
「確かに王族や貴族間の結婚に愛はないかもしれない。だけど、尊敬も信用も出来ない人とでは、一生は無理よ」
「……」
殿下はきっと私と婚約者の関係を知っているのだろう。
もう自分は嫁いでしまうからこそ、こんなにも気にかけてくれるのね。
そうか。
殿下がいなくなってしまえば、こんな風に息抜きをすることも、ルドウィックの恋模様を追いかけることも、彼を見ることも出来なくなってしまうのね。
そしてそれこそ結婚したら、私は一生――
「あたしは何よりも大切なあなたが傷つく姿を見たくないのよ」
「……ありがとうございます。ですが……」
「公爵が決めたことだから?」
「貴族の娘として生まれた責務です」
私と同じ無表情な父は、私がこの婚約を取りやめたいと言ったら、怒るかしら。
いや、きっと、淡々とお説教を食らうのがオチね。
今まで反抗などしたこともなかったから、一度くらいという気持ちもあるけど。
だけど白紙に戻したところで、不利益になるのは我が公爵家だ。
家のことを一番に考えたら、そんなことをすべきではないだろう。
「後悔しても知らないからね」
殿下はそう言いながら、頬を膨らませた。
「すみません」
「あなただけじゃないわ」
殿下の言葉に私は少し首をかしげる。
私だけじゃないというのは、どういう意味かしら。
父が後悔する姿とか、全く想像できないのだけど。
「まったく……。今日はもういいわ。あとで対策を考えましょう」
「は、はぁ」
「ルドウィック、アリスティーネを馬車まで送って行きなさい」
「いけません殿下。私なら一人で大丈夫ですから」
今まで殿下がこんなことを言い出したことはない。
だってルドウィックは殿下の一番の護衛騎士だから。
彼はいつだって殿下と一緒で離れることなど、許されないはずなのに。
「いいのよ。今日は他の護衛もいるから。ルドウィック、お願いね」
「……承知いたしました」
ルドウィックは真っすぐに殿下を見ながら頭を下げる。
ああ、なんてことなの。
これでは私が二人の残り少ない時間を奪ってしまったみたいじゃない。
どこで対応を間違えたのかしら。
しかしそんな私の後悔などよそに、命令に忠実なコンラッドは私をエスコートして、歩き出した。
そして何を話していいかも分からぬまま、私たちは中庭を歩いた。
エスコートされるために、彼の腕に添えた自分の手から、熱が伝わってくる気がする。
表情なんて動くはずもないのに、自分の手で自分の顔を触りたい衝動に駆られていた。
私今、変な顔していないかしら。
なんだかいつもより、顔が少し熱い気がする。
気のせいだと分かってはいても、とても変な気分だった。
ああ、そんなことよりも何か話さなくちゃ。
でも、何を?
考えたら私、ルドウィックのことを何も知らないんだわ。
ただ知っているのは、彼がいつも王女殿下を見つめていることだけ。
どんな会話に興味があって、どんな人で何が好きなのか。
そんな簡単なことすら何も知りもしない。
知りもしないまま、この恋は終わるのね。
分かっていたはずなのに……。こんな日が来ることなんて、頭ではいくらでも理解していたはずなのに。
心の奥が重苦しいだけで、体まで動きづらくなるなんて知らなかった。
「ルドウィック様は、王女殿下が輿入れされたらどうなさるのですか?」
ようやく聞けた言葉は、自分が聞きたいこととは少し違うものだった。
だけど今の私には、それが精一杯。
だって彼の思いを聞いてしまえば、もっと心の奥が重くなることなど分かっていたから。
「どう……ですか」
普段からあまり口数の少ないルドウィックは、私の言葉に考え込んでいるようだった。
深い意味はなかったのだけど、もしかしてこれも聞いてはいけない感じだったかしら。
あまりそういうのも分からないから、無難そうな質問をしてしまったのだけど。
「ああ、深い意味ではなくてね。王女殿下が輿入れされてしまえば、護衛対象がいなくなってしまうので。その、所属先が変わるのかと……ふと思っただけですわ」
「一応第二騎士団への配置換えの打診や、他の仕事の打診は来ていますね」
「他、ですか……」
どこかのお屋敷の護衛などってことかしら。
護衛騎士に選ばれるほどの腕があれば、引く手あまたよね。
「公女様のところで雇ってもらえますか?」
急に立ち止まったルドウィックは、そう言いながら私の顔をのぞき込む。
真っすぐな彼の瞳には、私が映っていた。
彼にとってはただのいたずらのようなものだったのかもしれない。
だけどたったそれだけのことで、心臓が止まるかと思うほどだった。
「何もそんなに驚かなくとも」
どう返していいか分からず、声が出ない私を見て、ルドウィックはフッと笑った。
「か、からかったんですの?」
「いえ、そういうわけでは」
こんな風に冗談を言う方だって知っていたら、もう少し冷静に対応できたのに。
不意打ちは酷いわ。
でももし、本当だったら……、
なんて、また馬鹿な考えはやめましょう。
今以上に惨めになるだけじゃない。
「あなたみたいな方でしたら、終身雇用になってしまうのでうちは大変ですわよ?」
貴族らしく、やや裏のある言い方で返せば、彼は何も言わずにただジッと私の真意を読み取るように見つめていた。
しかしそれも一瞬のこと。
再び私をエスコートして歩き出す。
「それもいいですね」
聞き取れるか聞き取れないか、それくらいの小さな彼の声。
だけど確かに私の耳にはそう聞こえた気がした。
数歩歩き出し、再び彼は止まる。
今度は無言のまま、何かを警戒するように辺りを見渡したあと、帯刀する剣に手をかけながら私の前に立つ。
「ルドウィック様?」
彼が応えるよりも先に、中庭の右奥通路から一人の令嬢がこちらに飛び出してくる。
歳は私よりも少し若いだろうか。
亜麻色のふわふわした腰までの髪に、同色の瞳。
大きく、やや潤んだ瞳がこちらを向く。
「アリスティーネ様!」
名前を呼ばれたものの、少なくとも私には彼女との面識はない。
貴族社会において、身分下の者は許可なくその名前を呼ぶことは許されていない。
だけど、この国に公爵家はうちだけ。
若いから常識がないのかもしれないが、それにしても、である。
こんな風にいきなり押し掛けて、しかも名前を呼ぶなんて。
この場で叱ってもいいのだけど、ここは王宮の中庭。
使用人や他の貴族たちも往来する中で激しく叱責してしまえば、彼女だけではなく私にも少なからずダメージがあるだろう。
どうしたものか。
そう考えていると、私が何も言わないのをいいことに子リスのようなその令嬢が話しかけてくる。
「どうか、どうかお話を聞いて下さい」
「……あなたは? 名乗って下さいませんと、私はあなたのことを何も知りませんのよ」
遠回しに嫌味を言ったつもりでも、彼女には何も響いていなさそうだった。
「わたし、わたしはミレットと申します! アルタレス子爵家の」
「アルタレス……」
聞いたことはある。
確か、コンラッドの遠戚の家だったはず。
「で、令嬢はこのようにいきなり押し掛けて、私に何の用がございますの?」
「いきなりなのは謝ります。ですが、ですがどうぞ、コンラッドとの婚約を破棄してください!」
彼女のあまりに大きな声に、その場で固まったのは私だけではなかった。
遠巻きに騒々しさを聞きつけた侍女などが、視界に入る。
なんてことをしてくれたのだろう。
私の婚約者を呼び捨てにした挙句、その要求が婚約破棄だなんて。
何があったのかは知らないが、きっとこの話は明日にでも社交界に一気に広がるだろう。
先ほどまでの胸の痛みを忘れ去るくらい、頭がズキズキと痛むのを感じていた。
「なぜ、今会ったばかりのあなたに婚約破棄を迫られなければならないのです?」
半ば私も、どうにでもなれという感じで彼女に聞き返す。
もうこうなってしまった以上、噂が広がるのは一瞬だ。
どうせ隠せないのなら、今聞かずにどうするというの。
だいたいもう、私のせいでもないのだから。
「わたしのお腹にコンラッドの子がいるのです‼」
きっぱりと彼女は言い放ち、そして確かにややふくよかになっているお腹を擦って見せた。
頭が痛いというのを越えるわね。
あれだけ彼にはクギを刺してきたというのに。
他の女に手を出すだけでは飽き足らず、子まで成していただなんて。
呆れてため息も出ないわ。
「コンラッドはわたしを心から愛しているんです。これは真実の愛なのです! だからどうか、婚約破棄をして下さい。アリスティーネ様はコンラッドを愛してなどいないんですよね?」
「ええそうね」
「だったら!」
「あなたはこの婚約が何の契約を以てなされていたか知っているの?」
確かに愛はいいものなのだろう。
私にはコンラッドへの愛などないし、婚約を破棄するのは簡単だ。
そう私だけの問題ならば。
だけど婚約と言うものはそんな簡単なものではない。
少なくともうちの場合はそうだ。
コンラッドはうちの跡取りとなるべく、父から領地経営やいろんなことを学んできた。
いわば先行投資として、彼にはたくさんのお金を父がかけてきたのだ。
それがこんな形で婚約が破棄になったらどうだろう。
事業で言えば、契約不履行とでもいうべきか。
つまりはコンラッドたちは、それほどのことをしたということだ。
「契約って、そんな難しいことわたしには分からないですし」
「でしょうね」
「馬鹿になさるんですか⁉」
「馬鹿にではなく、呆れているのよ」
コンラッドにもこの子にもね。
自分たちが仕出かしたことの重大性が分からないだなんて。
愛があればなんでも許されると思っているのかしら。
「婚約は家と家との結びつき。破棄すれば、うちがコンラッドの家にしている支援だけではなく、今までコンラッドにかけてきたお金も回収することになるのだけど?」
「そんな卑劣な言葉で脅すのですか‼」
どこをどうしたら、卑劣だなんて言葉が出て来るのかしら。
自分たちのしたことが間違っていないと思い込んでいるからだろうけれど、ここまでくるとおめでたすぎてビックリね。
「コンラッドの言っていた通りだわ。どこまでも冷徹な氷の令嬢だって」
「!」
さすがにここまで言われた私が言い返そうとすると、ルドウィックが手で制止した。
私は意味が分からず、彼を見上げる。
その顔が傍から見ても分かるほど、怒りを帯びていた。
「自分たちの愚行を棚に上げ、よく言えたものだ」
「な、愚行ですって⁉ わたしたちは真実の愛を」
「真実だというのなら、初めから破棄した上で愛し合えば良かっただけではないか。こんな風に押し掛けてきた上に、被害者であるアリスティーネ様を非難するなど言語道断」
「で、でも」
きっぱりとルドウィックに言い返されたミレットは押し黙り、下を向く。
「いいわ。父には私からことの経緯を説明し、婚約破棄をしてもらいましょう」
「本当ですか?」
どこまでも彼女は嬉しそうに微笑む。
自分の夢が叶ったと思ったのだろう。
この先に地獄が待っているとも知らず、ある意味若いということはいいことなのかもしれない。
「コンラッドにはあなたから私との婚約破棄になったと伝えなさい」
「もちろんです」
「追って、うちから破棄の証明を送りましょう」
「ありがとうございます。あの、でも破棄の代償などは」
「それは私の与り知らぬところ。そのうち公爵家から話が行くと思いますわ」
その時に後悔しても、もう遅い。
口約束とはいえ、この瞬間から破棄はもう確定してしまったのだから。
あれほどクギを刺しておいたというのに。
だけど子どもが出来たからといって、それを祝福してあげるほど私は寛大ではない。
でも真実の愛だというのならば、彼らがこの先はどうにかすべきことなのだろう。
「ルドウィック様、馬車まで送っていただけますか?」
今はもう、すぐにでも帰ってベッドに横になりたい気分だった。
もしかしたら父から叱責されるかもしれない。
でもそんなことすら、私にはどうでも良いことだった。
「心配ですので、屋敷までお送りいたします」
「ですが」
「このまま王女殿下の元へ戻る方が、怒られてしまうでしょう」
やや沈痛な彼の顔は、私に同情してくれているのだろうか。
一人になりたいと思うと同時に、誰かに優しくされたいと願うやや相反する私は彼の好意に甘える。
馬車に乗りぐったりと疲れた私に気遣った彼が、屋敷に着くと、家令に父への伝言を頼んでいた。
申し訳ないことをしたとは思いつつも、最後まで彼に甘えたまま私は一人部屋に戻りベッドに横になった。
◇ ◇ ◇
口約束での婚約破棄が決定したあの日から、恐ろしい勢いで話は進んでいった。
すぐその日のうちに、事の顛末を知った父がコンラッドの家に抗議に行ったのだ。
彼はどこまでも小さくなりながら、父に土下座をしたらしい。
その日一緒に行った家令が、後から私にいろいろと教えてくれた。
自分の後継者として育ててきた人間の裏切り。
父はその行為に対し、容赦がなかった。
元々相手方に支援してきた金額の請求から、婚約破棄の慰謝料、そして二度と子爵家とうちとの関わりを持たないという念書まで。
公爵家との関係がこじれたと知れ渡った彼らの家門は、この国ではもう没落まっしぐらだろう。
みんながうちを怒らせたくない一心から、誰も庇う者は現れなかったそうだ。
うちとの関係を何としても取り戻したい子爵家は、コンラッドを勘当したらしい。
平民となったコンラッドたちがどうなったか知る由もないけれど、愛があればいいんじゃないかなと勝手に思っている。
社交界では私の婚約破棄の話が持ちきりになるかと思っていたが、王女殿下がコンラッドたちのことを醜悪だと切り捨てたため、これ以上の話が持ち上がることはなかった。
「だけど問題は……次がいないことよね」
そう。今の私には婚約者はいない。
だけどこの先も、きっと難しいだろう。
こちらに非はなくとも、醜聞であることには変わりない。
もしかするとこの国の貴族との結婚は望めないかもしれないわね。
母はただ泣いていたし、父は次はどんな男がいいかとだけ尋ねてくれた。
「次、ね」
考えたくなどなかったけれど、そういうわけにもいかない。
父が隣国からでも誰か連れてくるかもしれないと思いつつも、私は相手に願うことを一つだけ聞いてもらった。
誠実な人がいいと。
その向こう側に、ルドウィックの顔が浮かんだことは一生誰にも言えないわね。
「はぁ」
婚約者から解放され、一人中庭でゆっくりしているとはいえ、侍女たちが用意してくれたお茶もお菓子も、何の味も感じられなかった。
あの日からずっとそうだ。
侍女たちはストレスだと言っていたが、一度医者を呼んだ方がいいかもしれないわね。
こんなにも体が重くて、味も感じられないなんて少し異常だわ。
さすがに心配した母が心配して具合が悪くなるといけないからそのままにしていたけれど。
倒れたら困るものね。
「全てうまく行ったんだもの……喜ぶべきなのよね」
コンラッド自体に未練はないし、婚約にも未練はない。
だけどなんだろう。
そう表現は難しいけれど、ちょっといろいろ疲れてしまったみたい。
「王女殿下の輿入れまでには体調を戻さなくちゃね」
それまではゆっくりしよう。
私はおやつでの気分転換を諦め、部屋に戻ろうとした瞬間、中庭を突っ切る人間に気付く。
よく見た顔だ。
しかしここにはもう現れないはずの人。
自分でも分かるほど、自分が嫌な顔をしている自覚はある。
「コンラッド」
「アリスティーネ!」
手ぶらでいつものように、大股でやってくる彼は、どう見ても謝罪をしに来たという様子ではない。
むしろ謝罪で済むような状況ではもうないのだ。
「何をしにここへ来たのですか?」
「何をって、もう一度婚約を考え直してもらうためだ」
頭を下げるわけでもなく、この横柄な態度。
人としてどうなのだろう。
「なぜ?」
「なぜって、その方があなたのためでもあるからだ」
「どうして私のためだと?」
「おれと婚約破棄すれば、もう君は貰い手などないだろう」
自信満々な態度が、その言葉に凝縮されているようだった。
貰い手がないのだから、自分が貰ってやる?
まったく、自分は何になったつもりなのかしら。
いくら貴族の婚姻が義務だとはいえ、あり得ない。
「この国で貰い手がなくとも、他国という手もありますし。あなたは真実の愛に生きるのではないですか?」
「あ、あれは勝手にあいつが言い出しただけだ」
「そうであったとしても、子がいるのですよね」
「そんなのは関係ないだろう」
「どうして関係ないなど言えるのか。私には理解出来ませんね」
自分の保身のために、彼女もその子も捨てるというのかしら。
ここまで頭が悪いとは思ってもみなかったわ。
謝罪ですらない以上、これ以上この人と会話する意味もない。
もっとも、謝罪すら私には必要はなかったのだけどね。
「ああ、自分が子を成すのを恐れているのなら、あいつから子どもだけ取り上げてもいい。そうだな。少なくとも、あいつとの子なら可愛いだろうからな」
「!」
開いた口がふさがらない。
もう婚約は破棄されたというのに。
まったく公爵家の血が入っていない子を、自分の子としてこの家にまで入れようとするだなんて。
「あなたとはこれ以上何も話すことはありません。どうぞお引き取りを」
「どうしてだ! おれは全部君のためを思って言ってやっているんだぞ」
「私のためを思っていただかなくとも、結構です。もう婚約者でもありませんし、勘当されたあなたはもう貴族ですらないのですよね?」
「だったらなんだというんだ」
激昂し出すコンラッドの目は赤く充血している。
額には青筋が浮かび、いつ暴れ出してもおかしくはない状況だった。
私はゆっくりと視線を逸らさず後ずさりするも、手首を掴まれてしまった。
強く掴まれた手首が痛い。
振りほどこうにも、コンラッドの力は思っていたよりも強かった。
「離して下さい。こんなことをして何になるというのですか」
「お前が婚約を戻すというまで、離さないぞ」
「何度も言いますが、婚約は家と家とのモノ。私だけではどうにもならないことなど分かっているでしょう」
「それでもだ!」
どこまでも自分勝手な人。
本当にムカムカしてくる。
「お前のせいで俺の人生は台無しだ。貴族籍からも外されて、今どれだけ惨めな生活を送っているか」
「自分が蒔いた種でしょう」
「うるさい!」
コンラッドはそう言いながら、大きく手を振り上げた。
殴られる。
そう感じた私は、思わず目を瞑る。
しかしその瞬間は訪れることなく、むしろ何かが倒れ込む大きな音で目を開けた。
目の前にいたのは、コンラッドではなく、なぜかルドウィックだった。
状況が理解できない私は、音がした方を見る。
そこには蹴倒されたように倒れ込むコンラッドが、地面に転がっていた。
「ルドウィック様?」
「大丈夫か?」
彼は倒れ込むコンラッドなど知らぬというふうに、掴まれていた私の手首を擦ってくれる。
一体、何がどうなってしまったというの。
どうしてルドウィックがうちに?
いくつもの疑問だけが浮かんでいく。
私とコンラッドの騒ぎを聞きつけた誰かが人を呼びにいったとしても、この人がここにいるという意味が分からない。
「あの……どうして?」
「いってぇぇぇ、なんだお前は! なんでおれの婚約者の手を握っているんだ!」
砂にまみれながら、頭を押さえコンラッドがのそりと起き上がる。
「もう婚約者ではないだろう。しかもお前はこの公爵家から出入り禁止にされているはずでは?」
見たこともないような冷たい視線で、ルドウィックがコンラッドを見下していた。
しかし怯むことのないコンラッドは、ルドウィックに食ってかかる。
「おれはわざわざアリスティーネの婚約者として戻ってやっただけだ。部外者に何を言われる筋合いもない」
コンラッドの言葉を、ルドウィックは鼻でただ笑った。
「戻って、ね……。悪いが、今はもう彼女は俺の婚約者なんだ」
「は⁉」
今までで一番間の抜けた顔を、コンラッドはしていた。
いやそれよりも、彼の言ったことはどういう意味なの。
今、婚約者だと言ったわよね。
しかも彼女というのは、私のことという意味でしょう。
「ルドウィック様、あの」
「先ほど公爵にお願いして、あなたとの婚約を申し込んできたところなんだ。本当はちゃんと言うつもりだったのだが、こんな馬鹿がいるとは思わず、こんな形になってしまってすまない」
ややシュンとした表情をしながらも、どこまでもルドウィックの顔は優しかった。
まさか彼が私に婚約を申し込むだなんて。
誰がこんな展開を予想できただろう。
ああでも、あの日……中庭でうちに雇用してもらいたいなんて冗談を言っていたっけ。
もしかしたら王女殿下に何か言われたのかしら。
殿下は私のことをとても大切に思ってくれていたし、同情したのかもしれない。
そして殿下のことが好きなルドウィックは、殿下の願いを聞き届けようとしたとか?
なんだかそう考えると、どこかしっくりくるものがあった。
だけどそれ以上に、また胸が重苦しい。
前以上に嫌な感情が、自分の中を支配していくのが分かった。
「とにかく今すぐここから立ち去り、二度と顔を見せるな。さもなくば、貴族への傷害事件として突き出すぞ」
「おれは、おれはただアリスティーネのために」
「そういう考えは結構です。どうぞお引き取りを」
きっぱりと言い放てば、コンラッドは下唇を噛みしめながら元来た道を走り出して行った。
「気づくのが遅くなってすみません」
「どうしてあなたが謝るのですか?」
事前にコンラッドが乗り込んでくるなど、誰も分かってなどいなかったはず。
だから謝罪を受ける意味はない。
いや、素直な女性だったなら、ここで怖かったと泣きつくべきなのかもしれない。
ずっと言われていたっけ。
可愛げがないと。
同情でもなんでも、彼はこの国内で貴重な存在だ。
コンラッドの言葉ではないが、今や私の婚約者になどなりたい者はいないのだから。
「危険は予測すべきものです。しかもあなたは婚約者なのですから」
なぜだろう。
彼が婚約者という度に苦しくなるのは。
アリスティーネ、あなたの願いがかなったんじゃない。
あのあさましく醜悪な願いが。
同情だって、いつかは変わるかもしれない。
それに何であっても、今ルドウィックの瞳に映っているのは私なのよ?
それなのに、何を聞こうとするの?
今聞いたら、全部がダメになってしまうじゃない。
冷静にならなくてはと思うのに、動き出した感情を止めることは出来なかった。
「どうして私に婚約を申し込んだのですか? 同情ですか? それとも王女殿下からの願いですか?」
「いや、そういうわけでは」
「ではどういうわけなのです。私と婚約するメリットなど、何もないでしょう」
「メリットって。そういう問題では。どうされたのですか、アリスティーネ様」
どうされたと聞かれたって、自分でも分からない。
こんなのは自分でも初めてだから。
「うちに雇用されたいとおっしゃっていましたものね。流行の契約婚とか、白い結婚などという感じでしょうか。さもなくば」
「落ち着いて下さい。本当にどうされたのです」
彼は下を向く私の両手を掴んだ。
そして真っ直ぐにただ私を見ている。
その瞳に映る私。
願ったことなのに、それだけでどこまでも惨めさを感じた。
彼への思いと共に、ぼろぼろと涙がこぼれ出す。
「嫌です」
「え?」
「あなただけは嫌なんです」
そう嫌だ。
ルドウィックとの婚約だけは、嫌だった。
父には誠実で一途な人がいいと、わざと言った。
その時はその裏で確かにルドウィックを思っていた。
だからこそ、嫌なんだ。
「俺と婚約することがそんなにお嫌でしたか?」
「ええそうよ。あなただけは、嫌よ……。だって、私はあなたが好きだから」
こんな醜態を人前で晒すことは初めてかもしれない。
いや、人前だけではない。
最後に泣いたのは、もういつ以来だろう。
「え、は? あの、好きだからって」
「好きだから嫌なのよ。同情や誰かの言いなりになって、婚約者になられても苦しいだけなの。私は、私は……」
取り留めもなく泣きわめく私を、ルドウィックは優しく抱きしめた。
彼の匂いが鼻をくすぐる。
しっかりとした彼に抱きしめられると、もう離れることなど出来ないと感じてしまった。
それからどれくらい泣いていただろう。
落ち着く頃には、やや日が傾きかけていた。
だけど彼の胸の中は温かく、自分でも驚くほど安心しきって動けなくなってしまっていたらしい。
「少しは落ち着きましたか?」
「すみません。あり得ないほどの醜態をお見せしてしまって」
「泣くのは初めてですか?」
「どうでしょう。子どもの頃はあったかもしれませんが、人前ではないと思います」
「では、俺はその初めてということですね」
申し訳なさでいっぱいだというのに、なぜかルドウィックは満面の笑みだった。
どこをどうしたらその表情になるのか分からず、私は尋ねる。
「なぜそんなに嬉しそうなのですか」
「それはそうでしょう。自分が好きで仕方ない女性が、自分を思って泣いてくれるだなんて。これほど幸せなことはないでしょう?」
「今……なんと言いましたか?」
意味が分からず聞き返すと、それ以上に嬉し気に言葉を返して来る。
「そうやって、口を開けて驚くあなたも可愛いですね」
「な、何を言っているのですか⁉」
私は自分の口が開いたままだとは気づかず、思わず左手で口元を押さえた。
こんな風に普通の会話をするのは初めてだが、なんだか印象ががらりと変わる。
初めからルドウィックのことをよく知らないまま好きになったのだから仕方ないのだけれど。
なんだかちょっと意地悪な人だわ。
「いや、いつ見ても表情豊かで可愛いですね」
「私のどこが表情豊かだというのです! コンラッドや他の貴族たちにさえ、氷の令嬢と揶揄されていたのですよ」
「ああ、あれは一部のアホどもが言っていましたね。奴らはあなたのことをよく知らないからですよ」
「よく知らないって……」
確かにそれはそうだ。
揶揄していた人たちと交流があったわけでもない。
でも感情を表現することも、表情に出すことも苦手なことには変わりはない。
父を見ていればよく分かる。
だって、そっくりなのだもの。
「でも父と同じで、感情を表現するのが苦手なのは本当のことですわ」
「そうでしょうか? 嬉しい時はほんの少し口角が上がりますし、テンションが高い時はちょっと体が揺れていたりもします。怒った時は吹雪が吹き荒れているようですし、ちゃんと見ていれば分かりますよ?」
「見て……いたのですか?」
それはそれで、恥ずかしい。
自分ではまったく気づいていなかったけれど、見る人が見たら分かっていたということでしょう?
「ええ」
「もしかして王女殿下も?」
「もちろん気づいていましたよ。あなたのことが大好きでしたからね」
あああああ。
この感情はなんと表現したらいいのだろう。
そうね。
簡単に言ってしまえば、穴があったら入りたい。
私は恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆うことしか出来なかった。
「ルドウィック様は、ずっと王女殿下を見ていたのではないですか?」
「見ていましたよ。護衛対象ですし」
「そうではなく……その……。片思いをしていたのではないですか?」
「どうして俺が、殿下を?」
それこそあり得ないという顔を、彼はしている。
どういうことなの?
だって、ずっと見ていたし。
みんなだって、彼は殿下に思いを寄せていると……。
確かに護衛対象から目を離すわけにはいかないのは理解しているけれど、あの瞳はもっと切実だった気がするのよね。
だから他の令嬢たちだってあんなに盛り上がっていたんじゃない。
「ずっとその瞳が熱を帯びていたようで……。他の令嬢たちも、ルドウィック様は殿下のことがお好きなのだと」
「え、いや。それこそお断りしたい」
うんざりしたように、眉を下げながらルドウィックは答えた。
その顔を見ていると、確かに恋愛感情などどこにもなさそうに思える。
全然勘違いだったというのかしら。
「まさかそんな勘違いをされているとは思ってもみませんでしたよ」
「そうなのですね。なんだか、申し訳ありません」
「熱を帯びていたのは、たぶん違う意味です」
「違う意味とは?」
「殿下は目を離すと危険なんです。あの方、見た目とはだいぶ違った性格をしておりまして、それこそ池の魚を素手で掴んでみたり、木に上ったり、バルコニーから勝手に飛び降りてみたり」
「……え?」
ある意味斜め上を行くルドウィックの言葉に私は固まってしまった。
ルドウィックはいかに護衛騎士として苦労してきたか、つらつらと言葉を重ねていく。
私たちが想像していたお淑やかで可憐な王女殿下像というものは、いかにして作られたものだったのかと思い知ったほどだ。
まさか殿下がそんなに自由奔放でお転婆な方だとは、思いもしなかったわ。
「王女像を崩さないって、本当に大変なんですよ」
「……それは大変そうですね」
「だいたい初めに婚約が決まった時だって、相手とつかみ合いの喧嘩をしたぐらいですし」
えええええ。
もう全く想像が追い付かないわ。
だって、殿下はこの前輿入れは嬉しいと言っていたわよね。
相手を尊敬できるし、上手くやっていく自信があるって。
なのに初対面で喧嘩って……。もう何がどうなっているの。
「それは輿入れしても大丈夫なのですか?」
「あー、ある意味大丈夫だと思いますよ。あの国では、もう自分を作らなくてもいいから。お相手の前では、本当の自分を出せるのだと喜んでいましたから」
知らなかった。
親友だと言われ、ずっと長い間傍にいさせてもらったのに。
私は何一つ、殿下のことを知らなかったのね。
「知らなかったことが残念ですか?」
見透かされたように、ルドウィックが尋ねてくる。
そうね。
残念で少し寂しい。
きっとそんな気持ちだ。
「そうですね。文句を言いたい気分です」
「いいと思いますよ。輿入れまでまだまだ時間はあります。目いっぱい言ったらいいんですよ」
「不敬罪になりませんか?」
「王女殿下はその塊のような方なので、大丈夫です」
そう微笑むルドウィックにつられ、私も微笑む。
自然と感情が出て来る。
少し変な気分だが、もう胸の奥の苦しさはない。
「どうして私と婚約を?」
「言ったでしょう。俺はあなたをずっと見て来た。あなたが好きなんです」
「信じてもいいのですか?」
「もちろん」
嘘みたいだ。
貴族間の結婚なんて、愛のないものと諦めてきたのに……。
手を伸ばすと、ルドウィックはもう一度私を抱きしめてくれた。
離したくない。
たとえこの独占欲が、醜いと思われたって。
「でも一つ」
急にそう言いかけたルドウィックの顔を、私は見上げる。
まだ何かあるというの?
「あのミレットという令嬢を覚えていますか?」
「ああ、コンラッドの」
「そうです。彼女をあなたの元へ行くようたきつけたのは、王女殿下の息がかかった令嬢たちですよ」
その言葉に、またぽかんと開いた口がふさがらなかった。
「殿下はこうなることを見越して?」
「たぶんそうじゃないですかね。俺の煮え切らない態度にも、あなたが不幸の道に進むことにも怒っていましたから」
ある意味殿下には大きな借りが出来た感じなのだろう。
だけど、だけど。
「今すぐ文句を言いたい気分です」
「いいんじゃないですか? 明日、一緒に乗り込みましょう」
ルドウィックはそう言って笑ってくれた。
まだまだ殿下の輿入れまでには時間がたっぷりある。
たくさん話そう。
そしてそれ以上に、文句を言ってやろう。
だって親友なのだから。
ルドウィックの瞳には、私が映っている。
その顔は自分でも驚くほど、幸せそうに笑っていた。




