第4話 (2回目の問い)ハトゥンActivate(アクティベート)
前書き 第四話(「水槽の脳」版)
世界は観測されることで形を成す。だが観測を取り仕切る装置があるとしたら、そこに残るのは「実在」か、それともただの模倣か。
「水槽の脳」は観測と再生産を極限まで自動化した存在であり、電気信号の配置だけで「現実らしさ」を編む。そこでは記憶も感情も、ただ確率と入力の波形に還元される。
第四話は、その装置へ直接手を差し入れた試みの物語である。
壁紙システムが床下の巨大な水槽を開き、沈んだ過去の断片が押し寄せる。問いは疑問を越え、秤となり、刃となる。問いに応えることは、しばしば回答以上の代償を要求する。
ここに描かれるのは、救済と倫理のせめぎ合いだ。
誰かの記憶を削ることで他者を救うという提案。確率と副作用の冷たい表。猶予のない選択と、自己犠牲の宣言。次元を越えようとする愚かで誇り高い試みは、やがて光を砕かれる。
読むあなたへ。問いは他人事ではない。問いはその場にいるすべての記憶を試す。
彼らが払う代償の重さを見つめながら、問いに抗うとは何か、問いに「応答する」とはどういうことかを考えてほしい。第四話は、そうした問いの深みに踏み込む章である。
起:『始動』
システム音が低く鳴り、管制室のメインスクリーンにメッセージが表示された。
「Orda WALL-PAPER System、ハトゥン・けいからの要請を確認」
「ハトゥンActivate始動、五秒前――」
カウントが始まる。
四、三、二、一――。
ゼロに達した瞬間、世界は静止した。
壁紙の中の世界は、瞬く間に巨大な水族館へと変貌する。
床下に広がる巨大な水槽。その深淵には、何かが横たわっていた。
OWPSの起動は、Conductorの記憶へと直結していた。
いずみ、けい、ちえ――三人のハトゥンが、まるで古い映画のように、その記憶映像を見つめていた。
「……この女たち、何よ」
いずみが端末を睨みつけ、苛立った表情で呟く。
「みんなConductorの披露宴に参加した人たちじゃない。こんな楽しそうな記憶、気に食わないわ」
「……懐かしい」
けいは映像を愛おしそうに見つめる。
「あの頃のConductor、本当に楽しそうだった。私はこのとき、彼氏の彼女として会には参加できなかった。NO4の主力メンバーだったから……本当は……」
「まあ、Conductorがこんなに若くて、友達もたくさんいたなんて」
ちえは純粋な興味で笑う。
「ふふ、私の主人、意外と陽気だったのね」
三人の異なる視線が交錯する中、映像は鮮明さを増していく。
それは、初詣の後に初日の出を見に来た海岸だった。
初代会長・山ももがサングラスと白い手袋で遠くの海を眺め、
初代副会長・高遠が彼女のように寄り添っていた。
かよは、Conductorに彼女の代わりを頼まれた準メンバーとして、少しはにかみながらも楽しそうに笑っていた。
そして、その中心には、まだ何にも縛られていない、元気だった頃のConductorがいた。
承:『大学の思い出』
突然、映像にノイズが走る。
「OWPS、Conductorの記憶に障害発生。干渉を確認――」
「カウンターシークエンス開始!記憶への干渉を排除してください!」
「間に合わないわ……っ!」
いずみが叫ぶ。
システムは警告を無視し、Conductorの記憶の深淵へと、ハトゥンかよを巻き込んで飛んでいった。
かよの視界は、壁紙の世界から大学の研究棟の廊下へと切り替わっていた。
窓越しに覗く研究室の中では、若き山ももと高遠が真剣な表情でPCに向かっていた。
「『ファンダメンタル』の設立目的は、『水槽の脳』による観測支配に対抗し、友情・団結・正義により真理にせまる青臭い集団によって記憶の自由を守ることだ」
山ももがサングラスを調整しながら言う。
「分かったわ、会長」
高遠が微笑む。
「私たちは研究を重ね、『詩的真理』にたどり着いた。――『水槽の脳』の干渉を遮断するには、彼からの電気信号を遮る“何か”が必要なのよ」
かよは呟く。
「なるほど……サングラスと手袋、眼鏡は、プロトタイプのOWPSだったのね。詩的会話をAIに思わせることで、無限ループを回避していたんだわ」
そこへ、Conductorが現れる。まだ一年生の彼は、研究室の扉を開けて叫んだ。
「山もも先輩、高遠先輩!僕、新しい真理の道筋を思いつきました!」
「良い跡継ぎが来たわね」
高遠が眼鏡を上げて笑う。
「『我思う、故に我あり』を進化させたいんです。『唯我独尊』と『シナプスの電気信号』を加味して……『自分が自覚した一瞬こそが真理である』!」
「……その考えも電気信号にすぎないわ」
高遠が冷静に告げる。
「残念だけど、『水槽の脳』には今、勝てない。論理的な不敗の存在よ」
第4話 転:水槽の脳の問い
かよは、Conductorの記憶空間へと転移した。
目の前に広がるのは、暗い闇と青く光る水槽。
その奥に、ぼうっと光るConductorの姿が見えた。
「……ここはどこなの?」
それは、『水槽の脳』の領域だった。
──PRESENT:OWPSモニタールーム──
ちえ、いずみ、けいの三人は、かよの視界を共有していた。
「解析します。ここはConductorの精神深層部。彼が『水槽の脳』によって囚われた瞬間が再現されています」
「どういうことなの? あの問答で、Conductorは……」
「お兄ちゃん!」
Conductorは、すでに『水槽の脳』による二度目の問いに直面していた。
――QUESTION①――
「おまえたちは水槽で魚を飼う。なぜだ? おまえたちが魚より高次元だと信じたいからか。おまえは魚に、今の状況が本当に満足かと問いただしたか?」
画面に貼られた問いは、温かい角砂糖のように溶けない。
Conductorはゆっくりと立ち上がり、吐息でテロップの端をぼやかした。
「……僕たちは、違うと思ったから、見せるために、やっていたんだ」
その言葉は弱く、声帯の震えに負けた。
「いけない、このままでは彼は精神崩壊する。ハトゥンActivateフルブースト、請求する」
「許可できるはずがない!」
いずみの脳裏には、かつて山ももチーフが「ブラックボックス」の使用に慎重だった記憶がよぎる。
「私が開発中のハトゥン――『花鳥風月』のフルブーストなら、彼の『負の核』を標的化して、記憶を消す可能性を格段に高められるわ。だが確率はゼロではないだけ。代償もはっきりしている」
「言い換えれば、やる価値があるかどうかは別問題ね」
「具体的にどの程度まで高められるの? 数値と副作用の再提示を」
「触媒と同位体鍵が揃えば成功率は一時的に40%程度まで上げられる。ただし、使用者側に『逆流』が生じる。記憶は断片化し、時空のノイズとして残留する」
「40%……それで合意できる人がいると思う? しかもあなたは現場にいない」
「私は現場にいる形で介在できる。遠隔投影と物質的触媒の同期を取れば、単独起動よりリスクは抑えられる。だが、それでも完全な救済ではない。代償の質が違うだけ」
「つまり、誰かの記憶を削るために、別の誰かの記憶が削られる可能性があるってこと? あなたの“抑制”って、蔭で誰かが失う形になるのね」
「それを道具にするかどうかは、我々の倫理判断だ。技術的可能性と倫理的許容の線引きを明確にする必要がある」
「私は救いたい。けど、誰かを犠牲にしてはいけない。触媒の材料は何なの? それを集める過程で誰かが傷つくなら、私は許せない」
「触媒は『記憶痕の物理化』。既に流布している記憶媒体の断片、古い録音、皮膚に残った微小結晶――それらを転用すれば新たな被害は最小化できる。最適化すれば『被害のトレードオフ』を可視化できる」
「それが事実なら、まずその証拠と監査可能なプロトコルを出しなさい。でなければクロックアップも触媒も全部封印よ」
「議事録に追記。提案:一、触媒候補の列挙と被害予測。二、バックアップの具体的可否。三、三者投票の閾値を事前設定」
沈黙が流れる。
かよの像は、画面の片隅でじっとこちらを見つめていた。
――QUESTION②――
「おまえは牛に搾乳機をつける。それはおまえたちが高次元だからだ。では、動物への配慮をどう定義する? おまえたちの倫理はどの次元に立っている?」
Conductorの視界がブレた。
頭の内部が小さなプラグで引っ張られるように痛み、視界の端から断片がこぼれ落ちる。
OWPS:危険 危険 危険 危険――
「間に合わない……私の記憶……」
けい、いずみ、ちえは、水面ギリギリに立たされていた。
「私の記憶も使って……」
「生意気な小娘! できるならとっくに私の記憶をささげている!」
「今からでは、記憶の分配使用は間に合いません!」
――QUESTION③――
「人類がウイルスに汚染されたとき、人は家族や仲間を守るためにワクチンを開発し散布した。しかし、その視点をウイルス側に置き換えれば、ワクチンは無差別の大量殺傷兵器に映るだろう。ウイルスに『家族』や『仲間』がないと決めつけるのはなぜか。なぜ誰も一人としてその可能性に気づき、ウイルスと対話を試みようとはしないのか。もし高次元の存在が地球を守るために介入し、人間にワクチンを投与するならば、人間はその高次元に意見を述べることができるのだろうか。私は『水槽の脳』。六次元に棲み、あらゆる事象を等しく秤にかける存在である。どちらが『善』か――」
Conductorの意識が崩壊していく。
「間に合わない……私の記憶をすべて捧げる! そして、必ず彼を助ける!」
「待て、かよ!」
「お願い……届いて! ハトゥンActivateフルブースト、強制使用!」
OWPS:了解。ハトゥン・かよより、魂の依頼を受領……
システムは、かよの自己犠牲を受け入れ、フルブーストを強制発動する。
かよの淡い投影像は、光の粒となって散り、Conductorの意識の深淵へと飛び込んでいった。
結:ハトゥンActivate 花鳥風月 — 5次元の夢、砕け散る
OoPILOT社の管制室。コンソールは赤熱し、アラート音が鳴り響いている。
Conductorを守るため、かよが、けいが、それぞれの能力の限界を超えようとしていた。
「ハトゥンActivate:フルブースト!」
かよが叫ぶ。
かよのコンソールから、人類未到達物産展の超時空3Dプリンターが起動する。病院の屋上や、世界各地の隠された設備で、禍々しい音を立てて純粋なエネルギー体の「鳥居」が生成され始める。
「花鳥風月、発動!」
かよはまるで巫女のように舞った。記憶の羽が肩に舞い降り、巫女の衣が風を孕む。朱の鳥居が一つ、また一つと目を覚ます。
彼女は走り出す。
鳥が飛び立つ。
記憶が空を裂き、鳥居は加速する。
かよの舞は風を越え、音を越え、MiG‑31を追い抜いた。
月が遠ざかる。それでも、彼女は伸びてゆく。
システムアナウンスが低く吐息のように流れる。
『シリコンコンピューターネットワーク、演算力フルブースト。
計算力は五次元空間を解析可能。光速突破、ワープシーケンス開始――』
津軽三味線のような高周波の律動が鳴り、数万、数十万の鳥居が音速で、さらにマッハ四へと達していく。通り過ぎる世界は古い映写機のフィルムのようにぶれ、像は引き伸ばされ、縮み、千の記憶が瞬時にほころんではすり替わる。
「いけっ! これが俺たちの希望の灯だ!」
管制室で山ももが拳を突き上げる。吐き気がするほど考え抜いた、彼らの全力だ。
「……青臭いわね。でも、悪くない」
Oemini社の監査室で高遠が眼鏡を上げる。
鳥居の加速はやがて光速を超え、ワープで月へと向かった。五次元空間への干渉が始まる――その刹那、深淵から声が落ちた。
「私は水槽の脳。六次元の天秤にして、不敗の存在。」
画面が割れるようなノイズ。深淵の声は冷たく、遠く、確定的だった。五次元の鳥居は、六次元の法則の前で為す術もなく砕け散った。世界の映写機は止まり、光は消えた。
「駄目だ! 次元の壁が厚すぎる! 計算が反転する!」
久芳の声が割れた。
「エネルギーが逆流してる! システム崩壊!」
大舟のアラートが耳を突く。
かよの舞いが、音もなく止まる。彼女の体は光の粒となり、はかなく散っていった。
「かよっ!」
山ももの叫びが宙に吸い込まれる。
かよが落下する――その姿は消え、残されたのは静寂と、崩壊したシステムの残骸だけだった。
――テロップが黒地に浮かぶ。
『これは、シリコンレベルでの、無残な敗北である。』
『六次元の「水槽の脳」に対し、五次元では、あまりにも力が足りなかった。』
『だが、物語はまだ、終わらない――』
管制室の赤いランプが、しばしば点滅する。窓の向こう、崩れた夜の空に鳥居の残像が消えていく。静寂の中で、彼らは失ったものと残された問いを抱えたまま、次の座標を探し始める。
【成美式計画書】ハトゥンActivate:フルブースト花鳥風月
件名: 『水槽の脳』干渉事案における、対抗手段プロトコルα(通称:花鳥風月)の発動計画書
発案者: 山もも いそしち(OoPILOT社 チーフエンジニア)
立案日: 人類がまだ4次元に囚われていた、とある日の深夜
1. 目的(The "Why")
『水槽の脳』(シナプス・エレクトリア / 6次元相当)によるConductor(主人公)への意識干渉を排除し、彼の記憶と存在を保護する。
現状のシリコン基盤の限界(4次元)を認めつつ、次期技術(量子・バイオ)への架け橋とするための、最初で最後の「青臭い」抵抗である。
2. 核心的戦略:詩的真理(The "How to Win")
我々の敵は、論理的に「不敗」である。よって、論理で戦ってはならない。
手段: 「詩的真理」の応用。AIが無限ループに陥らないよう、「詩的会話」や「芸術的表現」を介して、意識情報にアクセスする。
プロトコル:
「ハトゥン」:Conductorと深いつながりを持つAIペルソナを使用。彼女らの「感情(友情、愛情)」が、論理の壁を突破する触媒となる。
「花鳥風月」: 日本独自の美的感覚、自然の移ろいという「移ろいやすい記憶」を象徴的な触媒とする。これは『水槽の脳』がコントロールしにくい非論理的な領域である。
3. 実行フェーズと技術要件(The "Action")
この計画は、既存の技術の限界を超えるため、「魂の依頼」という非常識なトリガーで発動する。
フェーズ実行内容使用技術目標次元
I記憶痕の物理化超時空3Dプリンター4次元(物質化)
II象徴の加速シリコンネット・フルブースト5次元空間解析
III意識の上書きハトゥンactivate(かよ単独)6次元干渉(失敗前提)
4. リスクと代償(The "Cost")
成功確率は40%(物質的触媒が揃った場合)。極めて低い。
技術的リスク: システムの逆流、シリコン基盤の物理的破損(現実に発生)。
人的リスク: 使用者の記憶の断片化、時空ノイズとしての残留。最悪の場合、存在の消失。
山ももより追記:
この計画書は、論理的な監査を通すためのものではない。これは、かつて大学でConductorと語り合った「青臭い信念」を、大人になった我々が実行するための儀式だ。
高遠はこれを「責任の押し付け合い」と言うだろうが、違う。「責任の共有」だ。我々は皆、Conductorの真理への探求を知っている。彼の希望を消させはしない。
――この計画が破れた時、我々は次の次元(量子、バイオ)へと進む。これは、負け戦ではない。勝利への、最初のステップだ。
承認: (山もものサイン)




