11 誠と記憶の空間(2)
涙が出るわけ度もなく何か感情が浮かんでくるわけでもなく、ただただ呆然と今や闇に染まった地面を眺めていた。今受けた衝撃は受け入れることができる量を大幅に超えていたのだ。
「大丈夫かい、誠」
いつのまにか隣に立っていた狐狗狸さんが誠に話しかける。誠は返事を返すことができなかった。狐狗狸さんは一つ息を吐くと自身の着ていた白衣に見せた白い着物を脱ぎしゃがみ込んで動かない誠にかけ、自身も横にしゃがんだ。
狐狗狸さんがいるところは白く淡い光に包まれていた。
「なんで……? 僕は、なんとも思ってない。あれは過去の僕だ。なんでもない、ただの昔の記憶なんだ……っ!」
「……」
狐狗狸さんはただただ静かに誠を見ていた。
ここに来る者は何かしら問題を抱えている。発狂や混乱するものを見慣れてはいたが、やはり見ていて気持ちの良いものではなかった。人として生きていたことのない狐狗狸さんにとって彼らの気持ちを完璧に理解するのは困難で、長年このようなことをしていてもいまだによく分からないことが沢山あった。
どこまでも深い闇が広がる仮想世界に無数の小さな白い光が落ちる。雪のようにも見えるそれはやがて誠と狐狗狸さんを取り囲むように広がり新たな映像を映そうとしていた。
「……ご覧、誠。新たな記憶が降ってきた」
「……いやだ、みたくない……」
「嫌なら無理してまで見る必要はないよ。ただ今我々が見ているこの景色は誠の心が生み出したものだ。君が心の奥から引き出した記憶。だからこれを乗り越えなければ君は元の世界に帰れない。」
「……じゃあずっとここにいる。帰りたくない。ずっとここにいればもう平気だから……っ」
静寂に掻き消されてしまいそうなくらいの小さな声で俯きながら誠は続ける。狐狗狸さんは姿を映そうとしてはただの光に戻ってをくり返す目の前の光に目映した。おそらく誠の心は揺れている。現実を受け入れようと努力はしているのだろう。どうしたものかと思いながら遠くを見つめる。
……こんな時あの方ならどうしただろう。
もう何千年も昔の事だ。顔を完璧に思い出すことはできない。だがなぜか柔らかな笑みを浮かべる口とそこからあの方の声が聞こえてきた気がした。
……大切なのは相手を理解したいと思う気持ちそのものだよ。
「少し失礼するよ、誠」
そう言いながら狐狗狸さんは誠の背に手を回し深呼吸をする。誠の真の記憶が流れ込んできた。
「常に誠実であって欲しい。僕の名前は僕の父と母がそんな願いを込めてつけてくれました。」
その言葉に誠がぴくりと反応する。それに構わず狐狗狸さんは続けた。
「僕は自分の名前に恥じないように、家族にも、友達にも、そして自分自身にもいつでも誠実でいたいと思います」
「……僕の……なまえ……」
誠は顔をあげた。狐狗狸さんを見つめ、呟く。誠の頬を一筋の涙がこぼれ落ちる。
「すまないね、誠の記憶を少し覗かせてもらった。」
小学4年生の授業参観の時のものだ。自分の名前の由来を調べて保護者の前で発表した。両親が二人とも来てくれて嬉しかったのを覚えている。
「……名は子が両親から貰う最初の贈り物だ。君はそれを大切なものだと言った。そしてその名に恥じぬよう常に誠実でありたい。そう両親の前で語った。これは我からすれば一種の誓いを交えたも同然だよ」
「……」
「我が初めに君とした約束を覚えているか? 何があっても自分で自分を偽らないこと。自分自身には正直であること。これらの約束は君の名前の意味と重なっている。自身の記憶から逃れいつまでも本物の自分自身を見つめないこと。それは我との約束もそうだが、君が1番大切にしている家族への誓いも破ることになる。それで良いのかい?」
「かぞく……」
言葉にすると正確に家族の顔が思い浮かんできた。父と母、そして妹の真矢。皆んな誠の大切な家族だ。この世で……いや、世界で一番大切な。だからあの日起きたことを受け入れてなかった。受け入れられなかった。自分の世界でずっと1人でいた。誠の中の記憶は10歳のあの日を境に時が止まっている。
でもきっと母と妹はそれを望んだわけじゃない。誠が父と2人きりになっても今まで通り笑って、家族の絆を途絶えさせないでいた方が嬉しかったはずだ。
出てきて欲しくないのに勝手に涙が出てきて止まらない。腕で涙を拭きながらふるふると首を横に振った。白い光が一つに固まり、記憶を映し出そうとしている。どこからともなくやってきた虹色の鳥がその周辺を飛び回っていた。
誠の背中をさすりながら狐狗狸さんは言う。
「少し厳しいことを言ったね、よく頑張って受け入れてくれた。……後少しだ。もう少しだけ頑張れるかい、誠」
「……うん」
しゃくり声をあげながらもしっかりと誠はいう。それを聞き届け狐狗狸さんは立ち上がり光の中心部へと進んでいった。狐狗狸さんが手を正面に突き出し静かに手を合わせる。
「日比谷誠にぞ頼み奉る。其方が魂を現世へと返さんために其方の記憶を我に見せ給へ。」