9話
「……あの、ここから引っ越すって話、なんですけど。どこに引っ越すかって決まってますか」
「まだ決めていない。候補はあるが」
「その……。もし良かったらなんですけど、途中までご一緒させてもらえませんか。もちろんレオンさんの目的地は秘密で全然かまいませんので!」
目を瞬かせるレオンさん。私は慌てて言葉を継ぐ。
「私、彩師として色んな色を見たいんです。そのためには自活する必要があって、だから仕事がコンスタントにあるような街に住みたくて。でもずっと地下室にいたものですから、世情のことには疎くて……」
レオンさんが断る前に全部を言い切りたくて、早口になってしまう。
「レオンさんは、何だか色んなことにお詳しそうなので、その……私が住むところについて、ご意見を頂けたら嬉しいな、と」
「なるほど。そういうことなら、助けになれると思う」
「ほ、本当ですか!」
自分から頼んでおいて何だが、断られるとばかり思っていたので、意外な快諾にびっくりしてしまう。
そんな私の姿を見て、レオンさんが苦笑した。
「実は俺も、このままお前を一人で行かせるのは後ろめたかったんだ。しかし俺はこのなりだろう。妙な目玉持ちだし、体もデカいし、魔獣狩りしか芸のない野蛮な男だ。同行者が俺だというのは、妙齢の令嬢にとっては不愉快ではないかと思って」
「地下室に八年もいた女は、妙齢の令嬢なんて呼んでもらえるようなものじゃありません。でも、良かった。断られるかと思ってました」
「はは、俺たち二人とも、意味もなく怯えてしまっていたな」
照れと安堵の混じった、温かな笑いを交わす。
それだけのことが、とてもとても嬉しかった。
「さて、善は急げだ。これから出発する、というのはどうだ?」
「願ってもないことです。でもレオンさんは、身の回りのものをまとめないといけないのでは」
「まとめるものがあると思うか?」
私は家の中を見回す。およそ私物らしい私物のない部屋だった。
人が住んでいること、そしてその人は恐らく男性であることしか分からない。
どんな立場で、どんなことを考え、どんなものを好むのか、そういったことを窺わせるものは何もない。
――つまりこれが、レオンさんの生き方なのだろう。
「天使の目」を狙う人から、いつでも逃げ出せるように。
自分の好きなものやしがらみを、持たないようにしているのだ。
「何にもないですね。私と一緒」
「ああ。身軽さでは俺に勝てる者などいないと思っていたが、お前は俺より一枚上手だ。何しろお前はトランクさえも持っていない。あるのはもやしの根っこだけ」
「リュウゼンです」
「そうだった」
レオンさんは生真面目に頷きながらも、リュックに身の回りの物を詰めていく。
お皿、食事用のナイフ、枕カバー。戸棚に残った僅かなコーヒーとパンと塩、以上。
私は慌ててぬるくなったコーヒーを飲み干す。多分、私が今持っている木のカップも、レオンさんの大事な荷物の一つだ。
恐らく魔導書や、魔獣狩りのための武器は、常に身に帯びているのだろう。
ものの数十秒で準備は終わった。
最後に、雪で軽く洗った木のカップをしまえば、もうどこにだって行ける。
「さあ、行こうか」
レオンさんは笑って、まるで少し散歩に行くみたいな気軽さで、ドアを押し開けた。
天気は、昨日とうって変わって快晴で、太陽が雪に反射して目に突き刺さってくるようだ。
「この家には三か月ほど住んだが、あまり居心地は良くなかったなあ。特にあのベッド。隙間風も酷いし、何度シーツを洗ってもダニやノミが巣食って閉口した」
だからレオンさんは、私をベッドではなく壁にもたれかけさせるしかなかったのだそうだ。
地下室ではいつも石の上に寝ていたから大丈夫ですよ、と返すと、微妙な顔をしていた。石のベッドと比べるなということか。そりゃそうだ。
この辺りの地理に詳しいレオンさんに続いて歩くと、雪の踏み固められた道に出た。
つるつる滑りやすいが、柔らかな雪をこいで歩くよりは数倍楽だ。
この道をずっと行けば、コントロンド山の麓の街に出るのだとレオンさんは言った。
「ああ、そうだ。ここからは敬語は使わなくても良いぞ。お前が落ち着く街を見つけるまでの間、俺たちは兄妹ということにしておきたいから。ちなみに俺は二十四だ。六歳差なら、まあ妥当だろう?」
「そうです……だね。顔は全然似てないけど、いいの」
「腹違いとでも言っておけばいいだろ」
それもそうか。兄妹で旅行なんて、シャウムヴァイン家では絶対あり得なくて面白い。
私の本当の兄は、決して私にコーヒーなど振る舞ってくれないし、そもそも折檻する時以外は目も合わせない。
かりそめの兄妹が本物を上回ることもあるんだな。
そう思いながら私は、大きな背中を追って歩いた。
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